西の水妖、石狐
始まりはいつで、何処だったのだろうか。
終わりがいつで、とこだったのかももうわからない。
花を捧げられた。
眉を顰め恐れられた。
敬虔な祈りで満たされた。
忌み嫌われ唾棄された。
敬虔な祈りもやがて恐れられ敬われ、その魂は歪められ、荒御霊を鎮めるための単なる依り代とみなされた。
花を手向けられ、薫香を捧げられ、祟りを恐れられ、御霊を敬われ、魂は貶められ、幾重にも幾重にも鎮魂の祈りが絡みつき、がんじがらめに鎮められた。
私はただ、あらゆる嘆きを祓い清めんと黄泉へ流しただけだ。
私はただ……あの人を、誰にも渡したくなかっただけだ。
***
始まりはいつも祈りがあった。高く低く歌うように声が聞こえた。
『筑紫の日向の橘の』
祈りは波のようにくりかえされた。謡うように、祈るように、乞うように。
『小戸の阿波岐原に御禊祓え給ひし祓戸の大神』
でもいつのころからか、祈りの色が変わり始めた。
『禍事 罪穢れあらむことを 祓たまひ清めたまへとかしこみかしこみ まをもうす』
恐れも穢れも禍も、この世のありとあらゆる禍をすべて飲み込んできた。
でももう誰もわたくしの名を呼んではくれない。
ああ、また意識が黒く染められていく。
……失いたくない。たった一人のあの人を、ずっと抱きしめて離したくない。
憎い。悔しい。妬ましい。
努力をしても、到底たどり着けない。
あの人の望むような者になれない、どうにもできないほどの無力感に襲われる。
心を縛って離さないあの人への羨望を、どうやっても断ち切れない。
――――悔しや、悔しや、口惜しや。
いつものように、すべて飲み込んでしまおう。
もろもろの、禍事も罪も。この世を侵す穢れすべてを飲み込んで、この身をもって祓い清めるのだ。
――――悔しや、悔しや、口惜しや。
飲み込んで、清めて、押し流す。
澱みを穢れを、恨みを怨念を、呑み込んで清めて、呑み込んで清めて、呑み込んで、呑み込んで、呑み込んで――――――。
この澱みは、いつ清められるの。
この苦しみは、いつ昇華されるの。
いつまで、こうして――――――――。
ああ、悔しや、悔しや、妬ましや。
何という無力感だろう。
この無念、思い知れ。
あの人の心を、お前になど分けてやらない。やるものか。
あの人は私だけのものだ。
情念で縛り付け、決してわたくしの元から逃がさないように……。
『……来るなっ、来るなっ……私に触れるなっ!』
もう、わたくしの声を聴いてくれるものは、ひとりもいない。
*****
「よう、真人。なんだ、今日もぎりぎりか?」
「はよ、清秋。ちょっと野暮用でな」
眠い眼をしょぼしょぼさせながら、級友の声に返した。
ぎりぎりまでとーさんの収めている領域を探索する許しを、京都各所の神社仏閣に陳情して回ってたからなぁ。
……そしたらコマの顔が狛犬界ではけっこう広い事が分かったんだ。
わらしさまと時雨と鳴雪さんが一致団結して、危うく京都に殴りこみそうになったあの時。
わらしさまを抱き上げたまま、まよいがを抜けると、うっそうと茂る鎮守の森だった。
湿り気を帯びた土の感触も、身体を押し包むしっとりとした水の香りも、取り巻く冷気も肌を粟立たせた。
これは、そう。
神域だ。
時雨を救い出したあとの、鎮守の森のようだった。
なのに、抱き上げたままのわらしさまが、眉を顰めたんだ。
(ここには、おりませぬな。しかも、混められた神気が薄れている)
「わらしさま?」
(ぬしさまのご尊父様はここにおりませぬ。しかも……いけません。一刻も早く手を打たねば)
それから、まよいがに取って返すと、わらしさまはおもむろにあねさんかぶりをし、着物をたすきがけにすると大豆の入った藁苞を持ち出して宣言した。
(神饌の用意をせねばなりませぬ。明朝、もう一度まよいがを抜け、京へ参ります)
そして迎えた夜も明けやらぬ、午前三時。
たたき起こされ古井戸の水を頭から被らされ、手ぬぐいでぐいぐいと水滴をぬぐわれ、わらしさまのいうがままに動いた。
目を白黒させながら、神饌を準備し、用意されてた白い裃に身を包み、口元には和紙、目線は決して上げぬよう、因果を含まれて向かった古く広大な鎮守の森で。
<<ケーン!(コマ!)(コマよ!)>>
<きゅーん、きゅー!>
お稲荷の神域に入った途端、顕現した二匹の(?)お狐さまに度肝を抜かれた。
和紙くわえてて本当に良かった!
俺の足元をささっとすり抜けたコマが、石造りのその鼻先をお狐様に押し当てて、紫雲背負ったお狐さまと再会をよろこびあっていた。じゃれ合う石造りの三体が、きゅんきゅん言うと、二重音声でお狐さまの言葉が頭の中で反響する。
<きゅーん、きゅー、くーん、きゅー>
<ケン、ケン、コーン((その節は助太刀できんですまんかったのう))>
<きゅーん、きゅ!>
わんわんと響く声にコマが照れたように前足をふるう。
<ケーン、ケン、ケン、ココン?(壮健のようで安心したぞ? して東の童神に仕えていると聞いておったが、なにゆえ京へ? おや? コマ、童神の従士にはなってないな? まさか……なんと、人に憑いておったのか!)(狛犬が社ではのうて人に憑くとは珍しいのう、なんとまあ酔狂な……おお、なるほど京の水妖の縁者なのか、なるほど人臭さが薄い男だと思うたがのう。ほうほう男気もあるのか、それでか。そういや、賀茂の姿を最近見ておらんの)>
<きゅー、きゅんきゅん>
<ケーンケン、ココン!(ほほう、父恋しさにわっぱが京を訊ねたか。よいよい)(宇治川の辺りが五月蠅くなって来たので、そろそろ天狗に相談しようかと思っておったところよ)>
ちまい狛犬が一所懸命、何事かを訴えると、紫雲背負った霊験あらたかなお狐さまが、鷹揚に頷く。
辺りにただよう大物感。
でもね、ちょっと待って。父恋しいって、顔も名前も知らないんだけど。
<きゅーんきゅー>
呆気に取られてみていると、コマに背中を押された。
おっと、仕事だ。
「(お納めください)」
用意していた三方に飾られた油揚げを捧げ上げながら念じると、お狐さまは大きく頷き、どろんと煙に巻かれて消えた。三方に乗っていた大判の油揚げも一緒に消えていた。
<ケーン、ケーン、ケーン!(わっぱ。よい心がけじゃ! コマの顔に免じて境界を越えることを許そう!)(許そう! なにより賀茂の縁者となれば、お前もわれらの仲間ぞ! その手で父御を助けるがよい!)>
ほっとしたのもつかの間。
<ケーンケーンケーン!(おおおー! 三角揚げじゃあああ!この無骨さ、田舎臭さ!)(さすが奥州みちのくよのう、童神殿! ほっほっ、分厚いのぅ、分厚いのぅ)>
(お気に召していただけたようで、なによりでございます)
<ケーン!(たまに食べるとうまいのー!)(この洗練されてないところが、たまに愛しくなるんじゃのー!)>
……なあ、これ、褒めて、る、のか?
ちらりと横を見ると、満足げに頷くわらしさまに、ようやく吐息を吐いた。
「……まさか、大豆から油揚げ作るとは思わなかった……」
(昔より、天の神々への橋渡しを願う時は、早朝より精進潔斎ののち、穢れを祓った者が神への供物を調理したものでございます。そしてこの度は京へのかかわりが多うございますゆえ、ぬしさま自らが神饌を作り上げた方が、色よい返事をもらえるというもの。これは、京の妖共への顔つなぎ。東の妖といたしましても、気を抜けませぬ)
早朝といっていい時間じゃなかった。どっちかといえば夜中だ。明け方三時は朝じゃないと大きな声で言いたい。
布団を奪われ、追い立てられるように禊と称して、朝から井戸水を浴びせられ、裃を着つけられての、大豆仕事だった。
(天狐は、人の穢れを徹底的に嫌いますゆえ、ぬしさまの吐息さえ漏らすことはできませぬ。神饌が出来上がるまでは、これを銜えて、けっしておとしてはなりませぬ)
わらしさまが俺と睫毛が触れる距離で、真剣な面持ちで言うので、和紙を銜えたまま、がくがくと頷いたっけ。
なんにしても、間違いなくわらしさまがいなかったら作れなかった代物だ。
水につけて戻しておいた大豆を潰して豆乳を作るところから始めるんだぜ?
火にかけた呉汁がもこもこと膨らんで、量を増やしていくのには驚いた。それをさらしで濾して絞ったのが豆乳と、おからだってことも、豆乳ににがりを入れると豆腐になるってことも、聞いてはいたけど作るのは初めてだった。
だいたい、素手で触れる事すら許されないんだ。豆乳を濾すのにも、長い菜箸を使って行うんだぜ。
すっげー苦戦した。菜箸持ってる指がプルプルして涙出そうになった。
重石を乗せて、豆腐の水を切るときも、素手じゃなくて菜切り包丁みたいな道具でやるんだ。
しかも口を閉じてると鼻息が荒くなって、意識が遠くなる。でも、辛くて仕方ない時に、そっとわらしさまが背中に手を添えてくれるんだ。
あねさんかぶりのわらしさまの横顔と、笑顔が無かったら、やり遂げる事なんかできなかったよ。
ここ数日の寝不足もあってか、そのあとはもう無我夢中。
よく水を切った豆腐を菜箸で抑えながら、菜切り包丁で三角に切り分け、熱した油の中にそっと落とし込む。二度揚げして、ようやく三角油揚げが出来上がった。
揚げたてのほかほかを三方にのせて、恭しく捧げ持つ。
(ぬしさま、吐息がかからないように、鼻よりも上に捧げ持つのです。よいですか)
言われた通りに捧げ持ち、わらしさまを見れば、肯かれた。
白い裃すがたのまま、霧が立つ大社をわらしさまとコマの後に付いてしずしずと進んだのさ。
赤い鳥居をくぐり―――――そこが異世界だと、身をもって味わう。
温度が急に下がるのだ。何度味わっても、界を渡る瞬間は、内臓からぎゅっとすべてが縮み上がる。
そして迎えた西の大社のお狐さまは、揚げたての三角揚げをわっふわっふと食べていた。
<ケーン、ケーン!(うまいのう、うまいのう!)(大豆の味が濃いのう! 田舎臭くも滋味深い!)>
なんか、すこし貶されてるような……ま、まあ、いいか。
ちょっとひっかかりを覚えている俺の隣で、相変わらず涼し気なわらしさまが、尋ねてくれた。
(さて、西の大狐様、お尋ねしたき議がございます)
*****
そして聞き出したのは、京の古妖の話だった。
<ケーン、コン、コン(あれも哀れな古き神よ)(まことまこと)>
大狐さまがいうには、そもそも京の妖は、京の都を外敵の侵入から守る、守護神として産まれた古き神々なのだという。
中でも京の都が造営されたその時に、生れた古き神々の中でも異彩を放った水の神の一柱が、とーさんである賀茂であり、今回の異変を招いた水妖だという。
<ケーン、ケン、ケン(賀茂は京の水妖の中でも、最古参でのう。でも出不精でなあ。妖の集いにも滅多に顔を見せん、薄情な奴での)(あほう。あやつが出ると、川の氾濫が起きるじゃろ。あやつは、ああして年中ぼーっとしてるにかぎる)>
ははは。散歩で川の氾濫を引き起こすって、どういうことかな!
<ケーンケーン、コーン(それがここんとこ何度も東へ出向くから、何かと思っておったが、まさか嫁を貰って、子供の顔を見に行っていたとは!)(じゃからかのう、対神である橋姫の奴が嫉妬に狂いおったのじゃろ。わしらの言葉さえ理解せんようになってしまった)>
「(橋姫?)」
ちょっと、とーさん。女の影があるのかよ?
(……なるほど、此度の誘拐騒動は宇治の橋姫の仕業でしたか)
<ケーンケン、ケーン(東の。厳密に言うと、あれは橋姫ではないぞ? 水の妖とは似ても似つかん)(さよう、人の情念に穢されて、京の守護神であること……千年の都の守り神であることを忘れてしもうた、哀れな古き水神。しかも人の情念に染まりきり、鬼としての自我に目覚めてしまった)>
「(水神が、鬼になったというの?)」
(ぬしさま、心配なさらずとも結構です。ぬしさまのご尊父様は一途な方。おそらくは橋姫の横恋慕。幸せそうなご尊父の姿に焦がれただけでしょう)
<ケーン、ケーン、ケン!(人も罪づくりよの! 千年以上前の恋歌では愛らしい女性としてうたわれていたのに、ほんの数年後の物語で嫉妬の鬼と称されるや否や、それが定説となってしまった。われら妖、人の心情に左右されし形なき者ゆえ、哀れなり、哀れなり)>
(心根までは染まりませぬ)
さらさらと黒絹の髪を揺らして、わらしさまが真っすぐにお狐さまを射抜いた。
お狐さまは紫雲に飛び乗ると、嬉しそうに身を捩った。
<ケーン!(それは善神として土着している童神ゆえ!)>
<ケーン!(人の心ひとつで、われらは善にもなり、悪にもなる!)>
<ケーン!(人は忘れる! 人は驕る! それでも橋姫を祓えるか、童神よ)>
<ケーン!(滅するか、童神よ)>
古い妖の威嚇するような声。神気が稲妻のようにあたりにとどろき、響き渡る。
グラグラと地面まで揺れ出した。
でも引かない。絶対に引いてやるもんか!
ぐっと腹に力を入れて、俺は思わず顔を上げた。
「――――鬼となっても大事なこの国の妖だろう! とーさんも大事だけど、そいつだって大事な妖だ! だから俺達はここに来たんだ!」
思わず腹から声を出したら、口にくわえていた和紙がはらりと落ちた。
慌てて口元を抑える。
「げ!」
やべえ! わらしさまのいいつけだったのに!
(ぬしさまのおこころのままに)
「……へ?」
『あいわかった! 東の童神殿!』
ばさりっと黒いカラスの羽が、天から落ちてきた。
白い修験道の姿をした、大柄な男が、大空を背に立っている。
空中に、だ。
「……と、飛んで……」
(天狗ですから。まったく昔から悪趣味で、もったいぶったやり方を好む、面倒な輩で困ります)
うんうんと頷きながら、わらしさまは何でもない事のように、微笑んだ。
『ではゆるりと行かれるがいいぞ。我ら、京の妖、東の童神殿の主の出陣を祝おうて参ろう!』
<ケーン!ケーン!(祝おうて参ろう!)>
<ケーン!ケーン!(祝おうて参ろう!)>
『それにしても賀茂は良い子をつくったのう。これは後千年はこの国も安泰じゃ』
(それは違いますね、かーさんさまの育て方がよろしかったからですよ、西の天狗殿)
水妖殿は脅かして泣かせてばかりだったようですから。そしてわたくしのぬしさまですから、西の妖になんぞぬしさまは渡しませんぞ。




