王太子妃教育の予算を妹に回すそうです。では、王宮舞踏会の支払いもそちらでお願いいたします
「エレナ。来月から、君の王太子妃教育に充てていた予算の一部を、リリアに回すことにした」
王太子アレクシス殿下は、春の午後の日差しが差し込む王宮の小広間で、まるで茶菓子の種類を変える程度の気軽さでそう告げた。
向かいの長椅子には、男爵令嬢リリア・ベルナールが座っている。淡い桃色のドレスに、真珠を散らした髪飾り。大きな瞳を申し訳なさそうに伏せているが、その指先は期待に弾むように膝の上で組まれていた。
私は、手元の茶器を静かに置いた。
「私の教育予算を、リリア様に、でございますか」
「ああ。リリアも社交を学ぶ必要がある。彼女は純粋で、人の悪意に慣れていない。王宮で生きていくには、最低限の教育が必要だ」
「王宮で生きていく、でございますか」
「君はもう十分に学んだだろう。礼法も、舞踏も、外交儀礼も、会計も。君はしっかりしているから、予算がなくても何とかできるだろう」
しっかりしているから、予算がなくても何とかできる。
私は、その言葉を胸の中で一度だけ繰り返した。
私、エレナ・ヴァレンティナ侯爵令嬢は、十六歳で王太子アレクシス殿下の婚約者となった。それから四年、王太子妃教育を受けてきた。
舞踏、語学、礼法、歴史、外交、慈善事業、王族としての振る舞い。
そして、王宮行事の予算管理。
王太子妃教育と聞けば、多くの者は美しい所作や微笑み方を思い浮かべる。けれど王宮の行事は、微笑みだけでは成り立たない。
料理人に支払う食材費。花商に依頼する装花代。楽団への出演料。警備隊の増員費。遠方から来る貴族の馬車手配。各国大使館への招待状の印刷と封蝋。大広間を照らす燭台と蝋燭。絨毯の補修。食器の洗浄。臨時の給仕。庭園の整備。
それらはすべて、誰かが金額を確かめ、期限を切り、優先順位をつけ、足りない分を調整し、余った分を次の行事へ回している。
私はそれを、王妃陛下の補佐として三年続けてきた。
「リリア様は、どの範囲をお学びになるご予定でしょうか」
私が尋ねると、リリアはぱっと顔を上げた。
「エレナ様が今まで受けていらしたものを、少しずつ……。わたくし、殿下のおそばにいて恥ずかしくない令嬢になりたいのです」
「それはよいお心がけでございます」
「ですから、先生方も、ドレスも、舞踏の練習も、お花の選び方も……。王太子妃教育の予算を使えば、きっときちんとできますわよね?」
リリアの声は、悪意に満ちてはいなかった。
ただ、知らないのだ。
予算とは、宝箱ではない。誰かが開ければ好きなだけ金貨が湧いてくる箱ではない。
配分が変われば、責任も変わる。使う者が増えれば、削られるものがある。支払い先が変われば、信用もまた移る。
「エレナ、君もリリアを助けてやってくれ。君ならできる」
アレクシス殿下は、当然のように言った。
私は微笑んだ。
「承知いたしました。殿下のお考えはよく分かりました」
「分かってくれたか」
「はい。では、来月から王太子妃教育予算の配分を変更し、リリア様を主たる受益者として扱うよう、王宮会計局へ届け出ておきます」
「主たる……何だ?」
「予算を使う方のお名前でございます。今後、王太子妃教育費の支出判断は、殿下とリリア様のご意向を中心に進むことになります」
リリアが嬉しそうに息を弾ませた。
「まあ。わたくしの名前で、ですの?」
「はい。もちろん、予算を使う以上、費目の確認や支払いの承認も必要になります」
「承認……?」
「難しいことではございません。どの費用を認め、どの費用を削るかを決めるだけです」
アレクシス殿下は軽く手を振った。
「そのあたりは、今まで通り君が見てくれればよい。名目だけ変えればいいだろう」
私は首を横に振らなかった。
けれど、頷きもしなかった。
「殿下。予算責任者が変わる場合、私が勝手に支出を調整することはできません」
「なぜだ?」
「責任の所在が不明確になります。私が判断して、殿下とリリア様のお名前で支払うことはできません。逆も同じです」
アレクシス殿下は、少し面倒そうに眉を寄せた。
「細かいな。だが、まあよい。リリアの勉強にもなる」
「はい。きっとよい学びになります」
私は静かに頭を下げた。
その日の夕刻、私は王宮会計局へ向かった。
王宮の北棟にある会計局は、華やかな大広間とは違い、いつも紙とインクと蝋の匂いがする場所だった。壁際には費目ごとに帳簿が並び、机の上には請求書、見積書、支払い予定表が整然と積まれている。
「エレナ様。今日は舞踏会予算の確認でしょうか」
声をかけてきたのは、若い財務官のクラウス・フェルディナントだった。公爵家の次男でありながら、華やかな近衛騎士ではなく財務官の道を選んだ変わり者だと社交界では噂されている。
けれど私は、彼を変わり者だと思ったことはない。
彼は数字に誠実だった。誰が相手でも同じ規則で接し、無理な支出には必ず理由を尋ねる。王宮でそれができる人は、案外少ない。
「本日は、王太子妃教育予算と次回王宮舞踏会準備費の責任区分について、変更を届けに参りました」
クラウスは一瞬だけ目を細めた。
「責任区分の変更、ですか」
「はい。来月より、王太子妃教育費の主たる配分先がリリア・ベルナール男爵令嬢に変更されます。殿下のご意向です」
クラウスは何も言わず、机の上の書類をこちらへ向けた。
「では、変更届にご記入ください。王宮舞踏会準備費についても、エレナ様の補佐権限を外すという理解でよろしいでしょうか」
「はい。殿下とリリア様のご判断で支出されるとのことですので、私は助言者の立場も辞退いたします」
「本当に、よろしいのですか」
その問いには、わずかな私情が混じっていた。
私は羽根ペンを取った。
「責任を持てない支出に、私の名前を残すわけにはまいりません」
「ごもっともです」
クラウスは、余計な慰めを言わなかった。
それがありがたかった。
私は必要事項を記入し、最後に署名した。
クラウスはそれを受け取り、内容を確かめる。
「これで、次回王宮舞踏会に関わる支出判断、追加予算申請、業者への支払い遅延連絡、費目間の振替調整は、王太子殿下およびリリア嬢の側に移ります」
「ええ」
「念のため申し上げます。今後、舞踏会関係者から問い合わせがあっても、エレナ様は直接の対応をなさらないでください」
「もちろんです」
「あなたは手を出してしまう方ですから」
思わず、私はクラウスを見た。
彼は淡々と帳簿を閉じていたが、耳の先がほんの少し赤い。
「失礼しました。ですが、事実です」
「否定はいたしません」
「では今回は、どうか手を出さないでください。あなたが支えると、誰も倒れません。倒れない者は、自分の足元が崩れていることに気づかない」
その言葉は、私の胸に静かに落ちた。
私は小さく頷いた。
「心得ました」
混乱は、三日後から始まった。
まず、王宮料理長から問い合わせが入った。
「エレナ様。次の舞踏会の晩餐ですが、殿下より『リリアの好きな甘い料理を増やすように』とご指示がありました。魚料理を一皿減らして菓子を増やすとのことですが、隣国の大使ご夫妻は肉と乳製品を召し上がらない日でして……」
私は手にしていた茶杯を置いた。
「料理長、その件の責任者は私ではございません」
電話用の魔導具の向こうで、料理長が息を飲む気配がした。
「ですが、いつもはエレナ様が各国の食事制限表を……」
「今回は、殿下とリリア様にご確認ください。私は予算責任者ではなくなりました」
「……承知いたしました」
次は花商だった。
「大広間の装花を桃色の薔薇で統一したいと、リリア様からご依頼がございました。しかし、春の終わりの桃色薔薇は大変高く、当初見積もりの三倍になります。例年でしたら、エレナ様が庭園の白百合と温室の青花を組み合わせてくださって……」
「今回は、私からは指示できません」
「では、追加分の請求はどちらへ?」
「王太子殿下とリリア様のご側近へお願いいたします」
花商は沈黙した。
続いて、楽団の団長。
「リリア様が、舞踏曲を六曲追加したいとおっしゃっています。新曲の譜面代、練習料、当日の延長料が発生しますが」
「殿下側へご確認ください」
警備隊長。
「招待客名簿の確定が遅れております。大使館関係者の護衛動線が組めません」
「殿下側へ」
馬車管理官。
「遠方貴族の到着時刻表が届きません。迎えの馬車台数が定まりません」
「殿下側へ」
招待状を扱う宮廷印刷師。
「リリア様が招待状の縁飾りを金箔にしたいとおっしゃっています。予算内では銀箔です」
「殿下側へ」
燭台を管理する備品係。
「大広間の燭台をすべて新しいものに替えたいとのお話が……」
「殿下側へ」
何度も同じ返事をするうちに、私の胸は少しだけ痛んだ。
手を出せば、きっと直せる。
料理は各国大使館の食事制限表に合わせて組み替えられる。花は王宮庭園の在庫を確認すれば、費用を抑えながら美しく整えられる。楽団は新曲を減らし、既存曲の編曲で華やかにできる。警備と馬車は招待客の到着順を見直せば、混乱を防げる。招待状の金箔など不要だ。燭台もすべて替える必要はない。
けれど、それを私がしてしまえば、何も変わらない。
私はまた、便利な尻拭い役に戻るだけだ。
舞踏会の一週間前、王宮の廊下でアレクシス殿下に呼び止められた。
「エレナ。料理長が融通を利かせない。花商も楽団も金の話ばかりだ。君から少し言ってやってくれ」
隣にはリリアがいた。彼女は不安そうに扇を握っている。
「エレナ様、わたくし、ただ皆様に喜んでいただきたくて……。桃色の薔薇でいっぱいにしたら、きっと素敵だと思ったのです。甘いお菓子も、若い令嬢方はお好きでしょう?」
「素敵でしょうね」
「でしたら……」
「ですが、王宮舞踏会は令嬢方だけの集まりではございません。大使閣下、老侯爵夫妻、騎士団長、司教猊下、遠方よりいらっしゃる辺境伯家の方々もお越しになります。皆様にとって不都合がないよう調整する必要がございます」
リリアは唇を尖らせた。
「でも、少しくらい華やかにしたいだけですわ」
「華やかにすること自体は悪くありません。問題は、そのための費用と手配と優先順位です」
アレクシス殿下が苛立ったように言った。
「だから、君がそれを整えればいいだろう」
「殿下。私は今回の予算責任者ではございません」
「そんなことは分かっている。だが、少し助けるくらい」
「少し、とはどこまででしょうか。料理の再見積もりでしょうか。花の仕入れ交渉でしょうか。楽団の曲目変更でしょうか。警備隊の配置調整でしょうか。馬車の時刻表作成でしょうか。招待状の再印刷費の削減でしょうか。燭台の修繕と貸し出しの振り分けでしょうか」
私は、ひとつひとつ数えるように告げた。
アレクシス殿下の表情が固まる。
「それは……今まで君がやっていたことだろう」
「はい。今までは、私が責任者でしたので」
「君は意地悪をしているのか」
その言葉に、リリアがびくりと肩を揺らした。
私は静かに殿下を見つめた。
「いいえ。責任の所在を明確にしているだけでございます」
「エレナ」
「殿下がリリア様に予算を回すとお決めになりました。私はそれを尊重し、予算責任者の変更を行いました。ですから、支出の承認も、追加費用の判断も、関係者への説明も、殿下とリリア様の責任でなさってください」
アレクシス殿下は何か言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
リリアが小さな声で言った。
「わたくし、そんなに難しいことだとは思いませんでした」
「学ぶ機会でございます」
私は礼をして、その場を離れた。
舞踏会前日、王宮会計局の廊下は混乱していた。
料理長が追加食材費の請求書を持ち、花商が仕入れ代金の前払いを求め、楽団が延長料の確認をし、警備隊が招待客名簿の不備を訴え、馬車管理官が到着順の未確定に頭を抱えていた。
その中心に、アレクシス殿下の侍従とリリアの侍女が立ち尽くしている。
「これは殿下のご承認が必要です」
「リリア様は、華やかにしてほしいとおっしゃっただけで……」
「華やかにするには金が要ります」
「では、王宮費から」
「費目が違います。舞踏会準備費の追加支出です」
「では、王太子妃教育費から」
「教育費で大広間の薔薇三千本は支払えません」
声が重なり、誰も答えを出せない。
私は別件で会計局を訪れていた。王妃陛下から依頼された慈善病院への冬季予算配分について、昨年度の支出状況を確認するためである。
私を見るなり、花商が縋るような目を向けた。
「エレナ様……」
私は足を止めた。
助けを求められることには慣れている。
けれど、今回は助けてはいけない。
「皆様。今回の舞踏会について、私は責任者ではございません。お困りの件は、殿下側へお願いいたします」
そう告げると、廊下の空気が沈んだ。
その時、会計局の奥からクラウスが出てきた。
「皆様、順番にお並びください。請求書は費目ごとに受け付けます。ただし、承認権限者の署名がないものは支払い処理に進めません」
「フェルディナント財務官、殿下が今お忙しくて……」
「では、支払いは保留です」
「花は明日使うのです!」
「承認がなければ発注できません」
「楽団も困ります!」
「契約内容の変更には、追加支出の承認が必要です」
クラウスの声は冷静だった。けれど冷たくはなかった。規則を守ることで、全員を同じ土台に立たせている。
リリアの侍女が涙目になった。
「リリア様は、こんな細かいことはお分かりになりません」
「でしたら、分かる方が責任者になるべきでした」
クラウスの言葉に、廊下は静まり返った。
私はその横を通り過ぎようとした。
「エレナ様」
クラウスが私を呼び止める。
「慈善病院の冬季予算表でしたら、こちらに用意してあります」
「ありがとうございます」
「それと、王妃陛下がお呼びです。舞踏会関連ではありません。王宮支出全体の見直しについて、あなたの意見を伺いたいとのことです」
私は一瞬だけ驚いた。
「私に、でございますか」
「はい。陛下は以前から、あなたの費目整理を高く評価しておられました」
胸の奥が、静かに温かくなった。
誰かに評価されたいと思っていたわけではない。
ただ、必要なことをしてきた。
けれど、それを見ていた人がいたのだ。
舞踏会当日。
大広間は、一見すると華やかだった。
桃色の薔薇は確かに美しかった。けれど香りが強すぎて、年配の伯爵夫人が早々に控え室へ下がった。菓子は豪華だったが、温料理が遅れ、大使夫人のための特別食が手違いで別卓へ運ばれた。楽団は追加曲の譜面に慣れておらず、一曲目の出だしでわずかに乱れた。招待状の到着が遅れた家があり、馬車の列は宮門で詰まった。警備隊は急な客席変更に追われ、各国大使館の随員が不満を漏らした。
決定的だったのは、隣国大使の一言だった。
「アレクシス殿下。本日の晩餐は、我が国の禁忌食材が二皿続きました。事前にお伝えしていたはずですが」
大広間の空気が凍った。
アレクシス殿下は青ざめた。
「そ、それは手違いで……」
リリアは隣で震えていた。
「わたくし、甘いものを増やしただけで……そんなつもりでは……」
隣国大使は、彼女を責めなかった。
ただ静かに言った。
「王宮舞踏会とは、美しさを競う場ではありません。招いた客を尊重する場です」
その言葉は、薔薇の香りよりも強く、大広間に残った。
舞踏会の翌朝、王妃陛下の執務室に、アレクシス殿下、リリア、財務卿、クラウス、そして私が呼ばれた。
王妃陛下は、銀灰色の瞳で息子を見据えていた。
「アレクシス。今回の舞踏会の追加請求額を読み上げなさい」
殿下は震える手で紙を持った。
「料理費、当初予定より二百八十金貨増。花代、六百四十金貨増。楽団延長料と譜面代、百九十金貨増。警備隊追加配置費、百二十金貨増。馬車待機料、九十五金貨増。招待状再印刷費、七十金貨増。燭台交換および修繕費、百三十金貨増……」
王妃陛下は目を閉じた。
「それだけではありません」
財務卿が低い声で続けた。
「隣国大使館への謝罪使節に伴う費用。料理人への再発注補償。花商への緊急仕入れ割増。楽団との契約違反寸前の調整費。さらに、王宮の信用低下という、金額に換算しにくい損失があります」
アレクシス殿下は俯いた。
「申し訳ございません」
王妃陛下は厳しく言った。
「謝罪すべき相手は私だけではありません。業者、警備隊、大使館、招待客。そして何より、あなたが軽んじたエレナです」
殿下が私を見た。
その表情には、初めて困惑ではなく理解があった。
「エレナ……私は、君がしていたことを分かっていなかった」
「はい」
私は短く答えた。
その事実を慰める必要はない。
リリアが泣きそうな声で言った。
「わたくし、王太子妃教育の予算があれば、立派に振る舞えると思っていました。綺麗な花や、素敵な音楽や、可愛い招待状があれば、皆様に喜んでいただけると……」
「リリア嬢」
王妃陛下の声は静かだった。
「あなたの望みは悪ではありません。けれど、王宮の仕事は望むだけでは務まりません。ひとつの花を飾るにも、誰が育て、誰が運び、誰が支払い、誰が片づけるのかを考えなければならないのです」
リリアは泣きながら頷いた。
「はい……」
財務卿が書類を机に置いた。
「今回の追加費用は、王太子府の裁量費から支払われます。リリア嬢への教育費配分は凍結。王太子殿下には、半年間、王宮会計局で基礎実務を学んでいただきます」
アレクシス殿下が顔を上げた。
「会計局で、私が?」
「はい。請求書を読み、見積もりを比べ、支払い期限を守るところからです」
クラウスが淡々と告げた。
「殿下の机はご用意いたします」
私は思わず視線を下げた。
少しだけ、笑いそうになったからだ。
王妃陛下は私へ向き直った。
「エレナ。あなたには苦労をかけました」
「いいえ。王妃陛下より学ぶ機会をいただき、感謝しております」
「あなたの能力を、王太子妃という立場に縛ったまま埋もれさせるのは惜しいと、私は以前から思っていました」
胸が跳ねた。
王妃陛下は続ける。
「アレクシスとの婚約については、白紙に戻します。これは王家からヴァレンティナ侯爵家へ正式に申し入れます」
アレクシス殿下が息を飲んだ。
「母上!」
「あなたは婚約者を便利な補佐役と勘違いした。その結果を受け取りなさい」
殿下は唇を噛んだ。
しばらくして、かすれた声で言った。
「……エレナ、すまなかった」
「謝罪をお受けいたします」
「もう一度、やり直すことは」
私は、最後まで聞かなかった。
「殿下。私は、私を軽んじない場所で働きたいのです」
部屋の中が静まり返った。
自分で口にして、ようやく分かった。
私はもう、戻りたくなかった。
王太子妃になる未来を惜しんでいるのではない。私が惜しんでいたのは、四年間積み上げた努力を、誰かの都合で軽く扱われたことだった。
王妃陛下は満足そうに頷いた。
「では、エレナ。あなたに新しい役目を与えます。王宮財務顧問補佐として、行事費と慈善予算の見直しを担当なさい。財務卿のもとで働き、必要に応じて各部署と交渉する権限を与えます」
私は驚き、思わず財務卿を見た。
財務卿は重々しく頷く。
「歓迎いたします。あなたのように、数字の向こうに人の動きを見られる者は貴重です」
クラウスが静かに微笑んだ。
「会計局にも、ようやく話の通じる方が増えます」
「フェルディナント財務官、それは褒め言葉として受け取ってよろしいのですか」
「もちろんです」
その穏やかな返事に、私は小さく笑った。
婚約解消の手続きは、驚くほど静かに進んだ。
社交界はしばらく騒がしかったが、王宮舞踏会の失敗があまりに明らかだったため、私を責める声は少なかった。
リリアは男爵家へ戻され、王宮礼法の基礎から学び直すことになったという。彼女は最後に私へ短い手紙を送ってきた。
――エレナ様。わたくしは、綺麗なものだけを見ていました。その裏で、誰かが働いていることを知りませんでした。いつか、ひとつでも自分で考えられるようになりたいです。
私は返事を書いた。
――知った後にどうするかが、人を育てるのだと思います。どうか、よい学びを。
アレクシス殿下は、王宮会計局で本当に基礎実務を始めた。
最初の一週間は請求書の費目分けだけで疲れ果てたらしい。二週間目には、支払い期限を過ぎるとどれほど相手に迷惑をかけるかを知り、三週間目には、業者が王宮を信じて先に動いてくれていたことを理解したという。
人は、知ろうとしなければ知らないままだ。
けれど、知らなかったことは免罪にはならない。
私は王宮財務顧問補佐として、新しい執務机を得た。
会計局の窓際の机で、朝は東庭の噴水が見える。積まれる書類は相変わらず多い。慈善病院の暖房費、孤児院への穀物配分、晩餐会の食材費、宮廷楽師の契約更新、王宮庭園の維持費。
華やかではない。
けれど、必要な仕事だ。
「エレナ様」
ある夕方、クラウスが二つの茶杯を持って私の机へ来た。
「休憩をなさってください。三時間、数字を見続けています」
「まだ二時間四十五分です」
「四捨五入すれば三時間です」
「財務官がそのような大雑把な計算をなさってよろしいのですか」
「休憩を取らせるためなら、多少の概算は認められるべきです」
私は笑って、茶杯を受け取った。
窓の外では、夕暮れの光が王宮の屋根を淡く染めている。
「フェルディナント様」
「クラウスで構いません。ここでは同僚ですから」
「では、クラウス様。私は以前、自分の仕事は誰かのために整えるものだと思っていました」
「今は違うのですか」
「今も、誰かのためであることに変わりはありません。けれど、自分の名前で責任を持つ仕事は、こんなにも息がしやすいのですね」
クラウスは少しだけ表情を和らげた。
「あなたが息をしやすい場所なら、きっと王宮にとってもよい場所になります」
「ずいぶん大きな信頼ですこと」
「あなたの見積もりは外れませんから」
それが、彼なりの最大級の賛辞だと分かって、私はまた笑った。
王宮舞踏会は、来季から新しい方式で運営されることになった。
料理、花、楽団、警備、馬車、招待状、燭台。
それぞれの費用は、事前に見える形で整理され、担当者ごとに責任が分けられた。無理な華やかさではなく、招かれた人が安心して過ごせる場を作るために。
私はもう、誰かの尻拭い役ではない。
誰かに軽く扱われながら、黙って支えるだけの婚約者でもない。
数字を読み、人と話し、必要な場所へ必要なものを届ける。
それが私の仕事であり、私の誇りだ。
夕暮れの会計局で、私は新しい予算表の一行目に羽根ペンを置いた。
次の舞踏会は、きっと美しいものになる。
桃色の薔薇だけに頼らなくても。
誰かひとりの我慢に支えられなくても。
支える人たちの仕事が、きちんと見える場所で。
お読みいただきありがとうございました。
華やかな舞踏会の裏側にある、見えにくい仕事と責任を書いてみました。
エレナがこれからは自分の名前で、自分の力を生かして歩いていけますように。
面白かった、また別の物語も読んでみたいと思っていただけましたら、下の評価欄から応援していただけると大変励みになります。
ブックマークもお待ちしております。
現在、別作品として婚約式を題材にした異世界恋愛の連載も投稿中です。
そちらでは、婚約者に何度も後回しにされてきた令嬢が、婚約式をきっかけに自分の人生を取り戻していくお話になっています。
本作の雰囲気がお好きでしたら、ぜひそちらも覗いていただけますと嬉しいです。




