ホクロ
夫は、濡れた髪をタオルでゴシゴシやりながら冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「グラス、すぐ出すから」
私はコンロの火を小さくすると、急いでグラスをダイニングテーブルの上に置いた。夫はどっかりと椅子に腰を下ろすと、小気味いい音を立てながらビールを注ぐ。
「もう少し待ってね。すぐにできるから」
夫は「うん」とも「はあ」ともつかないような低い唸り声を上げると、グラスを持ち上げ、のどにビールを流し込んで、ふぅと大きく息を吐いた。外では、春の強い風が、時折息継ぎしている。
「忙しくて、帰るのが遅くなっちゃったから、出来合いのものでごめんね」
近くの惣菜屋で買ってきた豚肉のしょうが焼きを温め直し、刻んだキャベツとトマトを皿にのせて手際よくテーブルに出す。すでに午後十一時を回っているだけあって、夫は勢いよく食べ始めた。
「年度末だもんな。なっちゃんはもう寝た?」
「だってもう十一時よ」
エプロンを外して夫の正面に座ると、自分のグラスを出してビールを三分の一ほど注いだ。少しくたびれた青いテーブルクロスを、電球の橙色の光がやわらかく照らしている。夫の背後には、ベランダへ出るガラス戸があり、その向こうには春の夜が広がっている。それは、純粋な黒というよりも、すべての色を飲み込んでできた、ぬるくて濁った闇だ。
「仕事忙しそうね」
「うん。今まで売り込んでいたところの契約がここにきてバタバタ決まりそうでさ」
「へぇ、よかったじゃない」
夫の馨は、大学の二年先輩で三十九歳。私が大学を卒業するとすぐに結婚した。今では、六歳になる娘のよき父だ。在学中からパソコンや周辺機器などに関するフリーランスのライターだったのだけれども、ITバブルが崩壊すると、不景気のあおりを食らって取引先を失い、二年前からIT系企業の営業をしている。身長は少し低く、眼鏡をかけているせいでやせて見える。どちらかといえば気が弱く、お世辞にも営業向きとは言えないが、打たれ強くコツコツと真面目に仕事をこなすタイプだ。
「でも、まだ油断はできないんだよ。中国やらロシアやらアメリカやら、海の向こうでいろいろ起こってるだろ? その経過によっちゃ話そのものがなくなってしまうかもしれないんだよ」
グラスを片手に持ち、遠くを見ながら話す夫は、ひどく疲れているように見えた。
「経済危機だとか内戦だとか、危なっかしい情勢だものね。でも、きっと大丈夫よ。毎日、まじめに頑張ってるじゃない」
思いやりのつもりで、わざとそっけない感じで無責任なことを言ってみる。
「そうだといいんだけど」
風が、時折ガラス戸の正面から強く吹き付け、ガラス戸をカタカタと揺らすのだが、今日はその音が耳に付いてしょうがない。夫は、残ったビールを一気に飲みほした後、汗ばんだ顔をタオルで撫でまわした。
「あのさ、頭頂眼って知ってる?」
そういって夫は、イスに深く腰掛け直し、しっかりとこちらを見ながら唐突に質問した。
「何? トウチョウガン? 知らない」
「ああ、そか。えーっと、じゃ、ムカシトカゲは知ってるでしょ?」
「ええ。理科の教科書に載ってた気がする。生きている化石とか」
目玉をぐるりんと回転させ、脳の皺の間に隠れていたムカシトカゲを引っ張り出す。全身が褪せた鶯色の細かい鱗で覆われていて、首から尾の先までのこぎりの刃のようなギザギザがあり、頭部が異様に大きい。そんな古めかしいフォルムのトカゲをまぶたに描き出した。
「そうそう。そのムカシトカゲには、頭のてっぺんにもう一つ目があるんだよ」
「へぇ。三つ目のトカゲなんているんだ」
「その第三の目が頭頂眼といわれている器官で、ムカシトカゲ以外でも、カマキリとかカエルとかカナヘビとか、意外と身近な動物にもあるんだよ」
「へぇ。そうなの?」
夫は、サイドテーブルの上にあったタブレット端末を手に取ると、慣れた手つきで操作して、カマキリの顔の写真をこちらに向かって指し示す。
「うわ、やだ。ちょっと気持ち悪いよ」
「そういうなよ。ほら、触覚と触覚の間にしずくみたいな小さな突起があるよね。これなんだけどさ……」
「ねぇ、馨君、早く食べちゃいなよ。冷めちゃうよ」
私は、思わずさえぎるように声を上げた。ムカシトカゲや頭頂眼なんて、どうでもよかったし、そんなことを言い聞かせるように話し続ける夫が少し気味悪い。それに、一週間以上も残業が続いていたので、片付けものを早く終わらせて、ほっとしたい気持ちもあった。夫は、話の腰を折られ、少しムッとしながら料理を口に運んでいる。
「会社で何かあった?」
「うん? いや特に何もないよ。どうして?」
「いつもよりよくしゃべるし、急に三つ目のトカゲの話なんてするし……」
「いや、実はさっきの話、君にも少し関係があるんだ」
「どういうこと?」
夫は、箸をおき、ティッシュで口の周りをぬぐうと、恐らく怪訝そうな表情を浮かべている私を一瞥し、軽く深呼吸した。そして、天井に視線を送ってから、ゆっくりと話し始める。
「簡単にいうと、僕には頭頂眼があるんだよ」
「え? 何?」
「だから、僕には頭頂眼があるんだよ」
私は見慣れた夫の顔に一応視線を這わせ、大げさに呆れたような口調で続けた。
「ないわよね? ふざけてる?」
「いや、本当なんだ」
まったく知らない場所に、何も持たずに放置されたような、そんな不安定さへの畏怖が悪寒となって背中を走り抜ける。猛烈な風が不協和音を奏でながら一気に吹き渡り、ガラス戸を大きく揺らした。
「どこにあるのよ? ねぇ、ちょっと、やめて」
「ここ」
夫は、右手で自分の後頭部を撫でまわして、指先で探り当てると、促すように私を見つめた。私、おずおずと立ち上がり、夫の背後に回って、髪の隙間を覗き込む。まだ、少し湿った頭皮からシャンプーの香料が鼻の奥をくすぐった。
「ちょっと大きめのホクロがあるだろ?」
夫が指で押さえた辺りの髪を掻き分けると、小指の先ほどのホクロがあった。よく見ると黒というよりはこげ茶色をしている。縦に長いきれいな楕円形で、ほんの少しぷっくりと浮き出ているが、その他には特に変わった様子はない。
「ホクロはあるよ」
「それなんだけど」
夫は冗談を言うが、人をからかうような人間ではない。それに、年度末の忙しいこの時期に、しかも深夜に、馬鹿げた話をわざわざ始めるなんて。普段の夫なら、こんなことはしない。だからこそ、気味が悪いのだ。肋骨の隙間あたりから黒々とした感情が湧き起こり、私の中に広がり始めた。
「少し大きいかもしれないけれども、どう見たってホクロだよ。これが目だとかおかしいよ」
夫が頭頂眼だと言い切るホクロを怖々指先で叩いてみるが、動きもしないし、色が変わることもない。これが目であるはずがない。
「センサーみたいなもので、見えるわけじゃないんだよ」
「ちょっと、本当にやめて。お願い。もしかして、オカルトに目覚めた? 変な宗教団体に勧誘されたとか……」
じっと見つめていると、何の変哲もないホクロが目玉に見えてくる。ついにはその目玉が、私をじっとりと睨み返しているようにさえ感じて思わず視線を外した。
「君が理解できないのもわかるよ。ちゃんと説明するから、少しだけ聞いていてくれないか」
夫は、立ち尽くす私を尻目に、すっと立ち上がり、夕食の皿を下げて、マグカップを二組用意した。
「お茶でも飲もう。僕はコーヒーにするけど、何がいい?」
私は自分自身を落ち着かせるために席に着き、大きく深呼吸した。
「わかった。じゃ、紅茶にする」
暴風が、息継ぎをしながら小刻みに方向を変える。そのたびに自分の世界が闇に飲み込まれていくような気がする。
夫は、コーヒーを淹れ終わると、私の正面に座り、クリームと砂糖を入れて、ティースプーンでくるくるとかき混ぜる。ちらりと時計に目をやると、五分前に日付が変わったところだ。私は手のひらで目をおさえ、「早く終わらせてほしい」と無言の圧力をかけてみる。
「何から話そうか? とりあえず、今までのところで質問ある?」
「最初に言っておくけど、怪しい宗教とか、念力だとか、そういうオカルトは一切信じないからね」
知り合って十八年、結婚して十五年になるけれども、夫に対して不信感を抱いたことはない。むしろ安心し切っていた。仕事熱心で、家族思いで、すべてのことにおいて常識範囲内。髪型も、ファッションセンスも、生活習慣も、決してスマートではないけれども、許容範囲内。一緒にいて辛いなと思うのは、どうでもいいことに頑固なことと、プロ野球のシーズンが始まると好きなテレビ番組を見られないことくらいだ。普通を絵にかいたような夫が、自らを三つ目小僧だと主張する。突然降ってわいたファンタジーをそう簡単に受け入れられるはずもない。
「わかってる、わかってる。そんなんじゃないよ」
「あなたはムカシトカゲの生まれ変わりだとか、あなたには超能力が秘められていますとか……。そんな風にそそのかされたんじゃないの?」
「からかうなよ」
「からかってるのは、どっちよ?」
「天地神明に誓って、嘘じゃないよ。とにかく最後まで聞いてほしい。頼むよ」
夫は、大声になりそうなのを抑えながら、ゆっくりと丁寧に言葉を口にした。
雨が降り始めた。風で雨粒がガラス戸に叩き付けられ、バチバチと音を立ててはじけている。
「そんなこと急に言われても……。そもそも、あのホクロが、えーっと、なんだっけ」
「頭頂眼」
「そう、それだって、どうやってわかったの?」
「医者がそう言ったから。まぁ、正確には、医者にそう言われたと、かあさんから聞いたんだけれども」
「それ、本当? 検査した結果がそうだったってこと?」
夫は、複雑な表情を浮かべながら、テーブルに両肘をついて体を前に乗り出した。夫の主張が本当だとすれば、オカルトや物の怪の類ではなく、科学的な根拠に基づいて頭頂眼の存在が確認されたことになる。ほっとしたと同時に、それを事実として受け止めなければならないという思いにイライラさせられた。気持ちが追い付かない。大きく息を吐いて紅茶を一口含む。
「以前、僕が子供のころ、ワンパクだったって話、したよね」
「それは、おかあさんからも聞いたことがある」
「ワンパクといえば聞こえがいいけれども、つまり多動児だったんだよ。とにかく、落ち着きなく、常に動き回っていたらしく、それを不安に思ったかあさんが僕を病院に連れて行ったのがきっかけだった。幼稚園の年長組のときだったかな」
学生の頃、夫の実家でお母さんから、いくつかやんちゃ武勇伝を聞かされたことを思い出した。そして、夫からも、同じ口調で同じストーリーが語られたことが何度かある。幼少期の記憶とは、親から伝え聞いたエピソードとアルバムの写真、そして断片的な記憶を材料に創作されたストーリーだと思う。
「月に何度も病院へ行って、脳波を取ったり、言動を観察されたりした。その時のことは、今でもたまに思い出すよ。体中をコードでつなげられたり、強い光を当てられたりね。何をされているかわからないっていうのは、本当に怖いものだよ」
吹き荒れる風の不協和音と打ち付ける大粒の雨音が、冷静であろうとする私の気持ちを逆なでする。
「自分では意識はないのだけれど、動くものと天候に人の何倍も敏感なんだそうだ。周囲に気配があると、それを確認するために動きまわる。動けなければ、しゃべり続ける。晴れの日には、行動が活発に、雨の日にはおとなしかった……そんな感じらしい」
「でも、それだけじゃ、頭頂眼があるということにはならなくない?」
落ち着きのない子供はいくらでもいるし、雨の日にテンションが下がるのも普通のことだ。病気や家庭環境などの外部要因のために、不安定になる子供もたくさんいるではないか。そうやって自分の周りに一生懸命バリヤーを張り巡らせていないと、話に飲み込まれて、すべてを鵜呑みにしてしまいそうになる。
「脳波のパターンが異常で、その原因がまったくわからなかったんだ。病院をたらいまわしにされ、いろんな検査や実験をした。薬もたくさん飲んだよ」
夫は、検査の様子を時折身振り手振りを加えながら饒舌に語り始めた。その内容は、検査という名で行われる実験だった。触覚、視覚、嗅覚、聴覚、味覚など、あらゆる刺激を与え、薬を与えて、脳波を計測しその変化を確認した。また、それらの検査は、時間や場所、状況、刺激の強弱を変えても行われた。中には拷問に近いものもあったようだ。
「で、MRIの結果から、このホクロが神経で直接脳とつながっていることがわかったんだ。それで、これは頭頂眼なんじゃないかという結論が出たんだよ」
繰り返される検査や実験は、幼い夫を追い込み、どうすることもできないことへの絶望と恐怖を刷り込んだ。このことがわずかな束縛にも息苦しさを感じ、自由を求める性格を形成したのだという。
私は、触れられることすら拒んでいた領域に立ち入ることが許されたようで、それが純粋に嬉しく、愛おしいとさえ思えた。そして、頭頂眼という単語に拒絶反応を示さなくなっていた。あのホクロが目だとはやはり思えなかったが、人とは違う何かであるということは、受け入れることができた。
「まだ、ちょっと整理できてないけど、わかったよ。いろいろと大変だったんだね」
「わかってくれて助かるよ。いつか言わなきゃいけないとは思ってたんだけどね。ビビっちゃって」
「ちゃんと説明してくれたから、もう怖くないよ」
目の前でずり落ちた眼鏡を直しながら、ほっとした表情を浮かべている夫は、いつもと変わらない夫だ。墓場からやってきた三つ目小僧でも、不思議な力を信じるオカルト狂でもない。そのことを自然と受け止めることができる自分自身に安堵した。そして、これからも今までと何ら変わらない毎日がやってくることを心から喜んだ。
「お茶、いれるよ」
私は、立ち上がってマグカップを片付けて、湯を沸かす。こんな時は、玄米茶に限る。急須に湯を注ぐとき、ふわっと香る茶の匂いが何とも心地よいからだ。
「でもさ、昔は激しい性格だったんでしょ? 今は落ち着いてるよね。むしろ、おとなしいくらい」
「他の生き物のもそうなんだけど、頭頂眼って成長するにつれて退化していくんだ」
「へぇ」
時計の針は、午前二時を指している。外では、雨が小降りになり、時折突風でガラス戸が揺れる程度だ。
「小学校高学年の頃には、異常な脳波は出なくなったよ。引っ越しで環境が変わったせいもあって、おとなしくなった。今では、少し他の人よりも体内時計が正確なくらい」
「じゃ、今はただのホクロ?」
「うーん、どうだろう。僕が明け方トイレに行くの、知ってる? 毎日、日の出の時刻きっかりに目が覚めるんだ」
「なんか納得。早く起きる人だなぁと思ってはいたんだけど。あんまり役に立たないね」
「おかげで遅刻はしないけどね」
お互いの顔に、ようやくやわらかい笑顔が浮かぶ。
湯呑みに茶を注ぎ足し、頭を上げるとカレンダーが目に入った。
「明日は?」
「そうだったよ。明日から新年度だ。七年ぶりに新入社員が入ってくるよ」
夫は、しゃべり疲れたのか、首をほぐすように回しては、茶をすすっている。
「あらそう。うちは今年もゼロだな」
「新入社員、ゼロの方が楽だよ。質問ばっかりだし、叱られるのは僕らだし。飲みに連れて行ったりもしなきゃいけないし」
「そうやって人の上に立つことを覚えていくんでしょ」
「うわ! もう二時過ぎてるよ。話に付き合わせちゃったね」
「本当よ。明日は休めないのに。こんな話なら、休みの日にしてくれればいいのに」
急に夫が体を起こし、眉間にしわを寄せて一点を見つめながら低い声でつぶやいた。
「そうだった。今じゃなきゃ話せないんだった。忘れるところだった」
「え? 何?」
夫の顔から見る見るうちに、正気が失せていく。ガラス戸の外では、弱い風が不協和音を奏でながら通り過ぎていく。
「……そうだった」
「告白して終わりじゃないの?」
「それもひとつの目的なんだけれども……」
夫は唾を飲み、咳払いをひとつしてから、言葉をつづけた。
「一週間前から、明け方トイレでなっちゃんと鉢合わせるんだよ」
自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
ガラス戸の外で、猛烈な風が吹いたかと思うと、大切なものが粉々になり、ぬるくて濁った闇に吸い込まれていくのを感じた。




