2-27 『天使時間の歯車』
結局、やるべきことは一つだけしかない。どれだけ整理したところでそれが変わることはないので、僕と天音さんは一緒に歯車の方へと歩き出している。
上空の遠くまで反発した光の玉は、魔法という規模では収まらないほどに、周囲の世界を照らしている。そのなかで見える、いろんな人が固着している世界と、その世界で唯一動くことを示す、巨大な天体物の歯車。
僕と彼女は、あの歯車の方まで行かなければいけない。でも。
「あの歯車、どうやって止めればいいんだろうね」
あの大きさの歯車を止めるのは、人力というには難しい。歯車というからには、何か物体を噛ませるにしても、その大きさに見合う物体は、それこそ人力で動かすには難しい。そもそも距離については突き詰めることができたとしても、はるか天上にあるそれを僕はどうすればいいのかはわからない。
あれは、確実に空にあるものだ。だからこそ、空を飛ぶ方法を確立していない僕らはあそこに手を届かせることなどできやしない。
「──できるよ」
「え?」
天音さんがそう呟く。
そう呟いて、彼女がどんな言葉を続けるのか待ったけれど……、答えが呟かれることはない。
──あの歯車は、精神を代償に行われる黒魔法。そうであるのならば、発動者を殺すことでしか何も解決はしないと思うのだけれども。
「殺しても無駄だと思うよ、たまきくん」
そんな考えを見透かすように、彼女は答えた。
「なんで?」
「……だって、時間、止まっているんだから、殺すなんて、できないよ」
「……まあ、そりゃあ確かにそうだけれど」
言われてみなくても、考えればわかること。すべてが停滞をしている世界だからこそ、たとえどれだけの傷をその魔法使いに描いたとしても、死という結果が訪れることはない。
「……それなら、どうすればいいのさ。天音さんは何かわかっているみたいだけど」
「……わかっている、というか、なんとかなるってそう思っているから」
「……もしかして、それだけ?」
「うん」
……期待するだけ無駄だったかもしれない。こうして歯車に対して歩き出してはいるけれど、そんな行動でさえも無駄なのではないか。そんな気持ちが生まれてくる。
でも、ここで立ち止まる理由にはならないし、そしてここで立ち止まってしまえば、僕はいつまでも自分という答えを見つけ出すことはできないだろう。
だから、無理でもやらなければいけないし、僕は僕でやれることを……。
まあ、それにしたって、途方もなさすぎるのだけれど。
どれくらいの距離を歩いたかはわからない。だが、その距離が一向に縮まる気配は存在しない。どうにか僕が転移の魔法を使うことができたのならば何とかなったのかもしれないけれど、今のところ魔法に関してはどうしようもない。
「こうなるなら、最初に黒魔法について先生から聞けばよかったのかも」
世界を変えるほどの変革性を持つ黒魔法。天使の時間という、世界すべての時を止める規模で発動する魔法。そんな魔法に対抗するなら、さらに大きな規模の魔法を発動してしまえば、今目の前にある歯車の事象については解決することができたのかもしれない。けれど。
「無駄だよ」
そう天音さんは呟いた。
「たまきくんは、魔法を使えない」
──劣等感を加速させる一言を、ずっと呟いている。
◇
天使という存在は、昔にはありふれていた。神を願うよりも先に存在していた天使というものは、世界を浄化する意志をもって、そうして世界にはびこったとされている。その伝承については数知れず、それが信じるものに値するのかはわからないものの、天使の象徴というものは各国で確実に存在するものだ、と天音さんは言った。
「天使の時間は、もともとは悪魔の時間って言われてたらしいんだ」
天音さんは語る。
「悪魔の時間?」
「うん。だって、時間が止まっている世界で何をやっても許される。だから、悪魔が世界を止めて、そうして世界を破壊したんだって、お姉ちゃんが言ってた」
……メルヘンな話だと思う。
以前、立花先生にファンタジーに関連するものがあるかを聞いたことがある。でも、この世界にはそんなものなんて存在するわけがない、と笑われた記憶。
「──でもね、そんな悪魔を倒す天使がいたんだよ」
「……」
「悪魔の時間に対応することができたのが、唯一天使という存在でね、天使が世界を救うために頑張って悪魔を倒したんだって」
「……お姉さんが言ってたの?」
「うん。いつも寝るときに聞かせてくれた。
だから、最初は悪魔の時間だったけれど、それでも天使という存在が世界を救ったおかげで今のこの平和な世界があるの。だから、敬いを込めて『天使の時間』って、そういう風に言われたんだって」
「……そうなんだ」
昔話のように、語る彼女の口調は、どこか楽しそうだ。
「大好きなんだね、お姉さんのこと」
「……うん。今は、いないけど」
儚げな顔で彼女は答える。その言葉で、魔法使いの家族関係はだいたいろくでもないことを思い出した。
僕には父親がいないし、葵にも母親がいない。明楽については聞くのが憚られて知らないけれど、雪冬は両親ともにいない、ということを以前に聞いた。立花先生もそんなものだって、なんとなく言っていた気がする。
だから、深く掘り下げない。それ以上に会話をする気力もわかない。さすがに疲れてきたような気もする。
「……ここだね」
天音さんは、そうして立ち止まる。
──耳をすませば、金属が軋みを生むように、物体が不和を世界に示すように、ぎい、ぎいと音を立てる存在が天上にある。聞く気にならなければ聞こえないほどに呆気ない存在。でも、その存在を意識してしまえば、嫌に耳にはりついてどうしようもない。
「それじゃあ、たまきくん。──靴を脱いでもらってもいい?」
「──え」
◇
「今からやるべきことを聞いてね」と天音さんはまじまじと僕の目を見つめる。赤い瞳が心を刺すように感じるのは、なぜなのだろう。
適当に返事をするわけもいかず、肯定の意を静かに示すように頷く。それから彼女は言葉を紡いだ。
「今からたまきくんには空を飛んでもらおうと思います」
「……」
どうやって、と喋ろうとした瞬間に彼女は続ける。
「たまきくんにはまほうを反発することができる。いつもは小さい球体を反発しているけれど、今回反発するのはまほうではなくて、たまきくん自身を反発するの」
「……はい?」
「反発は応用できるの。魔法を反発するんだから、魔法から身体を反発することができるの」
「……まあ、はい」
魔法に触れるたびに反発する感覚はあるから、言いたいことはわかる。いつも自分の体のバランスを取るために、魔法をよそに反発しているから、彼女はそれを利用しろと言うのだ。
「今から私がまほうで床を作る。それを、たまきくんは素足で思い切り蹴り上げれば、空を飛べるはず」
「……そうは言ってもですね」
──天上にある天使時間の歯車までの距離は掴めない。いつも感じている反発の勢いを加味しても、あそこまでいけるかどうか自信はない。というか、そもそも上手くいったとして、僕はどうすればいいのか。
「それを何度も繰り返して、たまきくんがバウンドするの。トランポリンみたいに」
「……なんか、楽しそうだね」
「まじめな話です」
「……それが一番怖いです」
……高いところは苦手だ。その後の光景を想像するから。
「……まあ、それで歯車のほうに行けたとして、どうすればいいのさ。歯車に触れればいいの?」
「ええと、歯車を反発しても、意味ないの。その反発は歯車を巻き戻すと思うから」
「巻き戻す?」
「うん。天使の時間が逆再生すると思う。手に触れるだけじゃ、非現実的事象の否定にはならないから」
「……」
それなら、尚更どうすればいいのかわからない。その方法で歯車に近づいて、そうして乗り上げることができたとしても、そこから歯車を反発しても逆再生みたいになるのなら、なんの意味もない。
「……というか、天音さんならなんとか出来そうなものだけれど」
「わたしにはできない。たまきくんにしかできないの」
天音さんは話を続ける。
「わたしには浄化作用がない。あらゆる対極が見えても、その対極に見合うほどの非現実的事象なんてわたしには起こせない」
「……」
「でも、たまきくんにはそれができる。ここまで言えば、わかるよね」
──何にもわかりませんけども。
そう言いたかったけれど、ふざけた調子で返す訳にもいかないから無言のままでいる。
「たまきくんが歯車に乗ったら、それだけで天使の時間が反発して、逆の方に時間が流れる。わたしは巻き戻されると思う。だから、これだけはおぼえていて」
天音さんは、最後に伝えた言葉。
「たまきくんの血を、歯車に浴びせるの」
◇
「Enos Dies, Dhicht」
描かれた赤い線から垂れる雫は、彼女の詠唱とともに魔法へと還元されていく。その魔法は、床一面に氷を張り巡らせて、一つの膜のように。
「それじゃあ、たまきくん。頑張ってね」
「……うん」
何が何だかわからないけれど、とりあえず言うとおりにするしかない。といっても、素足で氷に触れることは少しばかり恐怖を覚えるのだけれど。
──そんなことは後だ。先ほど言われた天音さんの指示に従って、僕は素足で氷の一面を──叩くように蹴る。
──反発する感覚。
反発する感覚は、そのまま身体を宙へと浮かび上がらせ、そうして夢で見る世界みたいに、もしくはロケットの打ち上げた後のように真上へと飛んでいく。
──すぐに落下する感覚がする。
「Enos Dies……」
詠唱が聞こえて、そうして下に意識を向けたくはないが意識を向けると、先ほど見たような氷の一面。
それを──反発する。さらに勢いは増していく。床を見ていたから、砕け散る氷の面が目に見える。いや、それに対して意識を集中するべきではない。天上に存在する歯車を視界に入れる。
まだ、届きそうもない。そして来る落下の感覚。
──反発する感覚。
彼女の声を認識することもできないままに、僕は床を反発する。
──反発する感覚。反発する感覚。反発する感覚。
そうして、辿り着いた世界は──。




