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監視マンション302号室

作者: 妙原奇天

第1章 赤い通知音


 冷蔵庫のモーターが沈んだ唸りをやめ、部屋全体が一瞬だけ真空になったように静まる。その切れ目を縫うように、枕元のスマホが赤い点滅とともに甲高い音を吐き出した。二時ちょうど。目蓋は重く、夢の粉がまつ毛に残っていたが、音は脳の奥だけを狙い撃ちにする。柏木怜はシーツの擦れる肌触りを嫌いながら、習慣の通りに親指で画面を起こした。


 〈みまもりネット〉。管理会社が導入した防犯アプリで、住民は各フロアの共用部カメラを自室から閲覧できる。通報もアプリ内で完結し、履歴は「安心のための透明性」として共有される。怜は半年前の導入説明会で「これでもう夜の足音に怯えなくて済む」と思った。画面の上部には、赤地に白字の通知がひとつ。〈廊下カメラが異常を検知しました。自動通報準備中〉。その下には小さなサムネイルが揺れている。ノイズが砂嵐のように走り、ときどき画面のどこかが歪む。


 再生を押す。ぬめるような暗さに、細長い影が滲み出た。誰かが、黒い袋を引きずっている。袋はゴミ集積所に出る粗大ごみ用の丈夫なポリエチレンで、表面に薄く灯りが反射している。引きずる音はカメラには乗らないが、怜は耳のどこかで勝手に想像した擦過音を聞いた。ずる、ずり、ずる。袋の口が解け、白いものがひとつ、ころりと転がる。最初は発泡スチロールかなにかに見えた。すぐに、それが丸い骨の構造でできていると気づく。額のカーブ、頬骨の影、空洞になった眼窩。人の頭部。髪が濡れて、床に細い線を描いた。


 その瞬間、映像は縦に裂けるように波打ち、異常終了の灰色が広がった。アプリは自動的に「記録保存中」を示す青い円を回しはじめる。怜は画面を握る手に力を込めすぎて、親指の骨が痛んだ。寝室のドアの隙間からはリビングの暗さが続き、カーテンの奥では風がないのにベランダの物干し竿がわずかに鳴った。布団から出ると足裏が冷え、廊下のフローリングの板目の繰り返しがやけに目につく。ドアスコープから外を覗くと、三〇二号室の前、誰もいない。魚眼レンズに歪んだ廊下の直線は、視線を吸い込んでいくように遠ざかる。突き当たりの非常口ランプが緑色の目のようにこちらを見ている。異常はない、と自分に言い聞かせ、しかし異常がないことこそ異常に思われて、ほんの一瞬、足元がわからなくなる。


 翌朝、インターホンが鳴った音より先に、下の道路を走る救急車のサイレンが聞こえた。エレベーターのドアが開く金属音、階段を駆け上がる靴底のリズム、管理人の短い声。それらがベランダの隙間から糸のように入り込んでくる。怜がベランダのカーテンを少しだけ開けると、マンションの玄関前に黄色いテープが張られ、白い手袋の男たちが出たり入ったりしていた。アプリには新しい投稿が上がっている。〈お知らせ:301号室に関するお報せ〉。本文は淡々として、事務の言葉で整っている。「当マンション三〇一号室の居住者が、昨夜遅く、室内でお亡くなりになっているのが発見されました。死因は事故による転倒と推定されております。住民の皆様におかれましては、過度の憶測や拡散をお控えください」。「事故」。頭部、袋、廊下、ノイズ。夜の映像は、どこにも言及されていない。


 怜は夫に電話をかけた。昨夕から帰っていない。「ただいま、電話に出ることができません」という女の声は機械的で、しかし抑揚だけが妙に優しかった。夫は営業で出張中、帰宅は未定。連絡がつかないのは珍しくはないが、身体のどこかに小さな棘が刺さったまま、呼吸を深くすると棘の先が肺に触れる気がした。キッチンの蛇口からコップに水を注ぐと、モーターか配管の振動が重なって、音が膨らむ。ごくりと飲む喉の動きすら、誰かに見られているような気配がまとわりつく。


 午前十時、掲示板の通知がまたひとつ増えた。〈注意喚起:通報の乱用について〉。「昨今、軽微な物音や人影に対する過度の通報が繰り返され、住民の安心が損なわれています。通報の前に一呼吸を」。下には匿名のコメント欄。「三〇二の人、また?」「夜中に警備が来て眠れない」「怖いなら引っ越せば」。怜はスクロールを止めようとしたが、指は勝手に動く。自分の部屋番号が画面に並ぶのを見るのは、軽い吐き気に似ていた。一度も「また」などしていない、と心の中で反論する声は、画面の向こうでは無力だ。「見たのは私だけじゃないはず」と言い出したい衝動は、厚いガラスの向こうで口だけ動かす金魚のように、音にならない。


 昼過ぎ、郵便受けを見に行ったついでに、三〇一号室の前を通った。ドアは閉まり、鍵穴の周りに新しい擦り傷が出来ている。夜に響いたであろう救急隊員の慌ただしさの痕跡。ドアの下の隙間からは冷たい空気が薄く漏れ、怜の足首を撫でた。彼女は深呼吸をして、三〇二号室へ戻る。戻る途中で、エレベーターの前に立つ男と目が合った。黒いスーツ、名札。管理会社の人間だ。目礼をすると、相手は一拍遅れて会釈を返した。口元の笑みは礼儀の形だが、目の奥には俯瞰の冷たさがあった。怜の視線がわずかにその名札に落ちる。「防犯担当」。胸が少し縮こまる。「なにかございましたら、アプリからお願いします」と彼は言った。怜は「はい」と短く言って済ませた。声が自分のものではないように響いた。


 夕方近く、曇りの空は濁った灰で、ベランダに吊るした洗濯物は湿り気を失わない。キッチンの時計は秒針が滑るタイプで、音はないのに、時間が丸ごとぬるりと進む感覚だけがある。夫からの返信はこない。既読すらつかない。怜はアプリの設定を確認した。「自動通報オン」「共有設定:匿名」「プッシュ通知:重要のみ」。各項目の右に小さな緑のトグルボタン。夜に備えて、通知音を一段階下げた。下げる瞬間、画面の色合いが微妙に変わった気がして、怜は指を引っ込めた。ほんの少し、赤みが濃くなる。光の加減か、目の錯覚か。確かめようともう一度設定画面を開いたとき、玄関の方から軽い足音のようなものがした。怜は息を止め、耳をそっと前に差し出す。音は消える。自分の鼓動だけが、キッチンのシンクに響いて返ってくる。


 夜になる。外のざわめきは一枚の布となって薄くなり、マンションという箱の内側は逆に音が立つ。上階のどこかでいびきが始まり、斜め向かいの部屋のテレビの笑い声がフィルターを通したようにくぐもる。怜は寝る前に、玄関のチェーンをかけた。チェーンが受け金と絡む金属音は、妙に人間の喉の音に似ている。ベッドに横たわり、カーテンの隙間をわざと作って、街の光の一本が天井に掛かるようにしてから、目を閉じた。いったん眠りはじめると、意識は浅い水の上を滑る。水面の下から冷たい指が上がってくる気配がするたびに、怜は意識だけを現実に戻した。


 また、赤い通知音。二時、ほぼぴったり。スマホの画面に灯る赤は、昨夜よりも鮮やかだ。〈玄関カメラが異常を検知しました〉。緑の再生ボタンが点滅している。怜は上半身だけを起こし、布団の端をぎゅっと掴んだまま、再生を押す。玄関の前に、影が立っている。顔は見えない。ビデオドアホンの魚眼が人物を歪め、肩幅は広く、頭はやや前に傾く。ドアノブに手は伸びない。ただ、立っている。怜は無意識に口の中で数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。影は動かない。ノイズが一度だけ画面を横切り、次の瞬間、映像が切り替わった。アプリが自動的に「直前の三〇秒を巻き戻し再生」する機能だ。だが、映っていたのは——怜の顔だった。玄関の前で、黒い袋を抱えるようにして立ち、頬の筋肉が静かに持ち上がる。笑っている。目尻に細い皺が寄り、口元は歯が見えない程度に閉じた笑い。怜は画面を持つ手を震わせた。体はベッドにある。指は冷たい。画面の中の「自分」は、首の右側にほくろがあり、髪はねじれて耳にかかる。鏡で何度も見た、自分の輪郭。服は見覚えのない黒のパーカー。袋の口からは白いものがわずかに覗く。怜は思考のどこかが音を立てて割れるのを感じた。叫び声は喉の奥で絡まり、音にならず、次の瞬間には指が勝手に動いて「消去」を押していた。


 アプリは淡々と問いかける。「本当に削除しますか?」。「はい」を押す前に一瞬だけ、画面の隅に小さな灰色の文字が出た。〈同期中〉。怜は考えるより早くスマホの電源を切った。その動作は昔からの護符のように身についたもので、電源が落ちると、世界が一段階だけ現実に戻る気がした。暗い寝室の空気が重く沈み、喉がひゅっと鳴った。ベッドサイドの水を飲もうとしたが、手はグラスに届かないまま宙で止まる。自分の手が自分の命令に従わないような違和感。ようやく掴んだグラスは掌に汗を吸い、冷たさが皮膚に吸い込まれる。水は喉に落ちず、どこかに溜まった。


 朝。スマホを起動する。ホーム画面に戻るまでの数秒がやけに長い。〈みまもりネット〉のアイコンに、赤い丸が数字の「1」を抱えている。怜はためらいが喉元で膨らむのを押し下げるようにして、アプリを開いた。トップページ。いつもの「みんなでつくる安心」のキャッチコピーの下に、最新投稿が大きく表示される。小さな丸いプロフィールが並び、「匿名」の言葉が跋扈するフィードの最上段。そこに、昨夜、自分が削除したはずの映像が貼られていた。〈自動投稿:証拠映像〉。「システムにより重要度が高いと判断された映像は、住民の安全確保のためトップに表示されます」。文言は冷たく、善意の顔をしている。再生マークの下には短い説明。「撮影:302号室前/人物:同一推定」。


 怜は指先で画面を押し、動画は音もなく流れ始める。玄関の前の「自分」が、袋を抱えて静かに笑う。コメント欄にはもういくつかの言葉が付いている。「なんなのこれ」「怖すぎ」「302の人でしょ」「前からおかしかった」。心臓は外から圧迫されているように重く、口の中には薄い血の味が混じった。否定の言葉を探す間もなく、アプリの上部に小さな青い枠が現れ、管理会社のアカウントが「本映像は編集されていないことを確認しました」と書き込む。確認、という言葉の重さが、怜の背骨に冷たいものを通す。喉の奥で一瞬だけ笑いが泡立ったが、それは怜の意思ではなく、体が自分を守るために勝手に作り出した奇妙な反射のようだった。


 「違う」と呟いても、アプリに声は届かない。怜は急に、玄関のチェーンをかけたことを思い出した。チェーンは掛かっているか。自分は昨夜、寝ていた。外に出ていない。出ていないはずだ。冷蔵庫のモーターがまた動き出し、その振動が床を通して足裏に伝わる。足裏の感覚は現実に繋がる最後の糸のように頼りなく、怜はそれを踏みしめることで、自分を留めようとした。だが視線は画面に吸い寄せられ続ける。コメント欄に新しい書き込み。「連絡取れないなら警察」「幻覚?」「薬?」。匿名の語尾は軽い笑いを含み、しかしその笑いは決して怜に向けられたものではなく、怜の背後に貼り付く何かに向けられているみたいに感じられた。


 玄関に向かう。チェーンは掛かっていた。金属が触れ合う部分にわずかに黒い汚れがついている。新しい汚れ。昨夜、手で触れたのだろうか。怜はチェーンを外さず、ドアスコープから外を覗いた。廊下は朝の白い光で、夜よりも狭く見える。光が壁に跳ね返って、微細な埃が旋回しているのが見える。三〇一号室のドア前には小さな花束がひとつ、置かれていた。リボンの赤が、通知音の赤と同じ色に見えて、怜は思わず視線を逸らす。


 部屋に戻ると、テーブルの上に置いてあったはずの郵便物が微妙にずれているのに気づいた。数ミリ、角度が違う。そんなことはどうでもいいはずなのに、怜の脳はそこに過剰な意味を探そうとしてしまう。自分が忘れている動作。眠っているはずの間に動くもの。リビングのカーテンの裾が、風もないのに少しだけ揺れた。ベランダの物干し竿の金具が軽く鳴る。音は金属同士が触れ合う乾いた音で、しかしその中に、人の歯が奥歯を噛みしめる密かな音が混じっているように聞こえた。


 スマホが再び震えた。〈管理会社からのお知らせ〉。「本件に関する聞き取りのため、三〇二号室の方は本日一四時に一階ロビーまでお越しください」。怜は画面を持つ手の汗を拭き、顔を上げる。鏡台の鏡には、怜の顔が映っている。昨夜の映像の中の笑顔とは違い、目の下に浅い影が走り、口元は固く結ばれている。頬に触れると、皮膚は冷たい。自分の輪郭を手のひらでたどり、首筋のほくろを探す。そこに、いつもの場所に、いつもの形である。鏡は正直だ。鏡は、まだこちら側にある。


 それでも、〈みまもりネット〉は違う事実を提示し続ける。トップの映像には「通報する」「共有する」のボタンが明るく並び、指で触れる距離に怜の否定できない「証拠」が置かれている。誰かがそれに触れるたび、通知の赤は増殖する。「安全のための透明性」は、怜の生活の細部をも透明にしていく。冷蔵庫の中身、洗濯物の色、ゴミ袋の縛り方。見せたくないところまで透かして、そこにも「異常」を見出す。そういう視線が、マンションという箱の中に充満している。


 怜は思った。自分はあの映像の「自分」を否定することで、なにを守ろうとしているのか。自分の睡眠、自分の記憶、自分が「まとも」であるという感覚。どれも、目で見て確かめられない。証拠にならない。証拠になるのは、映像、履歴、タイムスタンプ。アプリの右上には小さく「02:00:12」と刻まれている。秒数まで正確だという顔で、数字は怜に迫る。怜はその正確さが一番怖かった。怖いのは、異常な出来事ではなく、異常が正確に記録されること。記録され、共有され、固定され、自分よりも先に、他人の頭の中で「怜とはこういう人間だ」という輪郭が描かれていくこと。


 夫にもう一度電話を掛ける。今度は呼び出し音が続いたあと、かすれた声が出た。「悪い、会議に入るところ。どうした?」。怜は一息に言葉を吐き出した。「映像が、出たの。私が、映ってて」。夫は短く笑った。驚きではない、会話の流れを整えるための軽い笑い。「なにそれ。疲れてるんじゃない?」。怜は言葉を探しなおす。「違うの。アプリのトップに、自動で。消したのに」。夫の沈黙が、薄い壁紙の柄を浮かび上がらせる。数秒後、「管理会社に言っとくよ」と事務的な声。続けて、「今日は帰れない。明日には」。怜は「うん」とだけ答え、通話を切った。切ったあと、スマホの画面に自分の顔が一瞬映る。前面カメラの黒い点が、生き物の目のように見える。怜はそこに映った自分の口元がわずかに持ち上がるのを見た気がして、慌てて画面を伏せた。


 午後一四時、ロビー。管理会社の男は、午前と同じ笑みを口に貼りつけたまま、怜に椅子を勧める。テーブルの上には印刷された紙が三枚。「確認事項」「承諾書」「個人情報の取り扱い」。言葉は柔らかく、内容は固い。男は映像をタブレットで再生し、怜に見せる。「編集されていないことは確認済みです。夜間に眠っているつもりで、無意識に出歩く方もいます。病院にご相談を」。怜は首を横に振る。「違います」。男はほんの少しだけ笑みを深め、「ご自身ではそうお感じでも、客観的には」。客観的。怜はその言葉の冷たさを、体の芯で理解した。男の声の後ろで、宅配の受け取りに来た誰かが、サインの音を立てる。ペン先が紙を擦る軽い音。背中のほうの自動ドアが開き、外の湿った空気が流れ込み、すぐに閉じる。「ひとまず、通報の頻度については……」。男の説明は続く。怜はその言葉に相槌を打たなければならない立場にありながら、脳内では別の音が鳴っていた。昨夜の映像の中の笑い。あれは、どの感情からつながって出た笑いなのか。恐怖でも喜びでもない、空白を埋めるための筋肉の動き。


 部屋に戻ると、スマホが机の上で赤く光っていた。怜はもう、手順を意識する間もなくアプリを開く。トップに新しいバッジ。〈拡散中〉。再生数がカウントされていく。「共有されました:14」。数字は呼吸のように増え続け、怜の胸の内側を擦って焼く。コメント欄の下に、見慣れないアイコンが表示されている。〈あなたの映像は、みんなの安心に役立っています〉。その言葉の横に、赤いハート。怜はその赤が、冒頭の通知音の赤と同じ色だとまた思った。意味を変えながら、同じ色が、怜の周囲を占拠していく。


 窓の外、曇り空の裂け目からわずかな光が差して、ベランダの手すりに鈍い反射が走る。その細い光が、まっすぐ怜の頬に当たり、彼女の影だけが床に濃く落ちた。影は形を保てず、わずかに揺れ続ける。彼女が息を吐くたび、影の輪郭が膨らみ、縮む。怜は自分の影に向かって、心の中でひとつの問いを投げた。——昨夜、私の代わりに誰が笑っていたの。


 返事はなかった。ただ、テーブルの上のスマホが、また短く震えた。赤い点滅。〈重要:システムによる自動投稿〉。怜は再生ボタンに触れた。映像の中、廊下の光はさらに冷たく、玄関の前の「彼女」は、昨夜よりも確信を持って笑っていた。袋の口から転がる白いものは、今度ははっきりとこちらを向いて、空洞の目で怜を見上げた。映像はそこまでで切れ、画面は冷たい灰色に戻る。怜は指先を画面から離せなかった。痺れたように、固まったまま。


 朝に見た花束の赤いリボンが頭の片隅でほどけ、長い糸になって足元に伸びる。糸は見えないが、確かに肌を撫でる。それは怜の足首に絡み、歩くたびに引き戻そうとする。どこにも行かせない、と囁く声が、糸の擦れる音から滲む。怜はその場で小さく足を動かし、糸を断とうとする。が、切れない。アプリの画面の赤は、糸の色と同じで、怜の視界の端でちらちらと光る。


 インターホンが鳴った。怜は肩を跳ねさせる。誰かが、ドアの向こうに立っている。チェーンは掛かっている。覗くか、出るか、無視するか。指は震えて、足は床に貼り付いたように動かない。インターホンのモニターを押すと、画面には玄関前の映像が映る。そこには、誰もいない。廊下は空っぽで、ただ遠くに緑の非常口の光が見える。もう一度、ベルが鳴る。画面の中に、誰もいないのに、音だけが確かに鳴っている。怜はゆっくりと顔を上げ、壁の時計を見る。秒針は滑る。アプリの上部に表示される時刻は、また二時を指す準備をしている。昼なのに、二時の影が部屋に落ち始めている。


 怜は、もう一度だけ、深く息を吸った。肺が広がる感覚は、まだ自分のものだ。息を吐きながら、彼女はスマホの「設定」に指を伸ばした。「自動投稿」のトグルは薄い灰色になっていて、触れない。「管理者により固定」。その下には、小さく、ほんの小さく、灰色の文字が見えた。〈あなたが安心できますように〉。祈りの言葉の形をとった、拘束。怜は笑っていないのに、唇の端がわずかに上がるのを感じた。自分の顔が、映像の中の笑いに追いついていく。逃げ道は塞がれ、選択肢は整えられ、怜の指は画面の上に置かれたまま、どこにも進めない。


 その夜の二時、通知音はこれまででいちばん明るく鳴った。赤い点滅は、部屋の壁にまで滲んで見えた。怜は起き上がらない。布団の中で目を開けたまま、音がなにを告げるかを知っている人間の呼吸で、その音をやり過ごそうとする。けれど通知は鳴りやまず、むしろ律動を持って部屋の空気を震わせ続ける。怜はゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、手を伸ばした。画面は彼女の指を待っている。待たれていることほど、人を追い詰めるものはない。再生。映像。玄関の前の「彼女」は、今度は袋を抱えていない。空の手を、ドアに添える。冷たい鉄の感触がこちらにまで伝わる錯覚。ドアの向こう、怜のいるこの部屋の中に向けて、画面の中の「彼女」は目を細める。笑うでも、怒るでもない。なにかを確かめる目。——そこにいるのは、怜自身だと確かめる目。


 映像は、そこで途切れた。灰色。そして、トップに戻る。〈自動投稿:302号室住人の安全確保のため〉。怜ははっきりと理解した。これは、まだ始まりに過ぎない。映像は、怜が否定し続ける限り、形を変えて、夜ごとに現れる。赤い通知音は、怜が眠ろうとするたびに、目蓋の裏に小さな傷を刻む。傷はやがて文字になる。〈みんなの安心のために〉。その文字が、怜の睡眠の底に沈み、朝には浮き上がって、トップページの一番上に並ぶ。消せない。消したはずでも、自動で戻る。戻って、拡がる。怜は布団の中、握りしめたスマホの熱を掌に感じながら、静かに目を閉じた。閉じたまま、赤い光の明滅が、瞼の薄い皮膚を透かして見える。


 耳の奥で、花束の赤いリボンがほどける音がした。細い音。長く続く音。怜はその音を聞きながら、自分の名前を心の中で呼んだ。どこにも届かない呼びかけ。届かないことだけが、確かな夜の手触りだった。


第2章 監視の連鎖


 その週、マンションの廊下に新しい黒い目が増えた。角という角、曲がり角、非常口、エレベーター前、ゴミ置き場の奥、消火器の上。小さなドームの中で無色のレンズがじっと光を吸っている。黒い目は、これまで「共用部」という名前で曖昧だった境界を、はっきりこちら側のものに引き寄せた。通るとき、誰もが一瞬顎を引き、肩甲骨の間がこわばる。視線を落とし、足早になる。その姿が、別の黒い目に記録されていく。記録は、すぐさま〈みまもりネット〉の時系列に吸い込まれ、匿名の感想と心得違いの忠告で縁取りされ、どこにでも飛ぶ軽い言葉で埋め尽くされる。


 共有チャットの「匿名アカウント」たちは、名前の代わりに色を着ていた。青、黄、灰、桃。色と語気だけが人格の代わりで、宛名のない怒りと嘲りでスレッドは膨らむ。「また鳴った」「寝れない」「管理費で遊ぶな」「302は病院行け」「子持ちの身にもなれ」。画面をスクロールする指が止まるたび、怜の視界の端に赤い点滅がよぎる錯覚がした。誰かの通知が、誰かの恐怖が、誰かの生活音が、同じ赤い光で平らにされる。平らにされるのに、見つめられるほど輪郭は濃くなる。矛盾は、怜の胸の奥にひとつの温度を作った。高熱ではない。体温よりすこし温かい。ぬるい湯に手首だけを浸したときのような、ぼうっと浮かぶ快感。「みんな、私を見ている」。その文が、脳の裏側で静かに点灯する。見られることが、謝罪と正当化と解毒のぜんぶを同時に満たす。見られている間だけ、怜は「こちら側」に固定され、無名の誰かの「そちら側」から遠ざかる。そう思うと、赤い点滅は少しだけ甘く見えた。


 夜ごと、通知。二時前後、正確に、あるいは正確さを装って鳴る赤。再生すると、ベッドに横たわる自分の寝顔。頬に薄い影、閉じた目蓋の合間でわずかに動く眼球。口は少しだけ開いて、喉の奥の湿り気が規則正しく行き来する。撮影時刻のタイムスタンプは「02:01」「01:57」「02:03」。どれも「数分前」。鍵は掛かっている。夜に掛けたチェーンは朝まで外れていない。窓のクレセント錠も動かない。ドアスコープに映る廊下は空っぽで、なのに画面に映る自分の寝顔は今この瞬間のものだと主張し、その「今」を誰かが触った形跡が残らない。触れずに触る指。開けずに入る目。怜ははじめ、布団から飛び起きて玄関を確認し、窓、バルコニー、クローゼット、洗面所の棚の中、ベッドの下まで見た。自分が見えるところを全部見て、見えないところを見なかった。三晩もすると、確認は簡略化された。チェーンとクレセント錠だけ。頬に手を当て、画面の中の同じ頬に触れる。指に触れるはずのない自分の皮膚が、ほんとうに触れた気がした。ぬるい温度。見られる喜びは、恐怖の表面を薄く糖衣にして、舌にくっついた。


 四日目の朝、下階の住人が見当たらなくなった。三〇一号室のポストには牛乳のチラシがささりっぱなしで、朝刊は廊下に滑り出たまま。昼頃、管理人が合鍵で入ったという話がチャットに漏れた。夕方には、パトカーの青い光がマンションの壁に横縞を描き、夜には警察官の靴が廊下の床に乾いた音を置いていった。階段室の踊り場の鏡——子どもの背丈の練習用にと管理組合が設置した安い鏡——には、人差し指で曇りに書いた跡が残っていた。「次は見ないで」。指の跡は乾いて白く縁取り、最後の「で」の曲がりが途中で止まっている。指がいきなり引き戻されたみたいに。三〇一は久保田直子。昨年の春に引っ越してきた、猫背で眼鏡の細い主婦。目を合わせない癖がある人。スーパーの袋を持つ手がいつも早足。チャットの誰かは「旦那さん単身赴任」「ひとり」「日中に宅配多い」と平然と書き、それはどこから調べてきたのか誰も問わない。怜は踊り場の鏡を遠巻きに見てから、ふっと息を吐いた。吹いた息で曇るのが怖く、曇りにまたなにか書かれ、書いたのが自分だと映るのが怖かった。


 恐怖は、やがて手順になった。怜はスマホのアルバムに新しいフォルダを作った。名前は「記録」。さらにその中に日付ごとのサブフォルダ。そこに血のようなものの斑点、階段の踊り場の鏡の白い跡、三〇一の前に置かれたままの植物の鉢が乾いていく過程、廊下のタイル目地の埃、非常口ランプの明るさの変化、ゴミ置き場の袋の縛り方の違い、エレベーターの監視カメラの角度のメモ。写真に〈みまもりネット〉のスクショと自分のメモを重ねて保存する。——「二時の通知は一分単位でずれる」「コメント欄の『灰』と『桃』は同一時刻に書き、誤字の癖が共通」「新設カメラ、角度下がる(主任者の手癖?)」「映像の鮮明度、週末に上がる」「私の寝顔、天井角の反射が写る」。箇条書きは、怜の恐怖を薄片に砕く道具になった。砕かれた恐怖は、舌で動かせるほど小さくなる。小さくなったものは、飲み込める。飲み込めば体の中にあるので、外から襲ってこない。


 その日の夕方、インターホンが鳴った。画面には「警視庁」。胸の裏が跳ねる。ドアを開けると、背の高い男が立っていた。黒いスーツに、濃紺のネクタイ。名刺を差し出し、名乗る。「間宮です」。声は低く、湿ったものを含まず、言葉が喉で一度もつまずかないタイプの人間の声だ。怜は一瞬、〈みまもりネット〉で見慣れた事務的文章の音声版を聞いているような気がした。男は玄関に上がる前に、靴の先でそっと玄関マットの埃を払う癖を見せた。細かい、けれど抜けない手順の癖。怜はその所作を見ているうちに、少しだけ心拍が落ちた。誰かの癖が見えると、相手が人間に戻る。


 リビングに通すと、間宮はまず部屋全体を一度だけ見渡した。視線の軌跡がベランダ、キッチン、棚の上、ソファの隙間、壁の時計、そして怜の手元のスマホへと移動する。視線は物を撫でるように触れ、物の表面に目の跡を残さない。彼はテーブルに封筒を置き、切り出した。「三〇一号室の件で、いくつか確認を。あなたは最近、夜中に何度か通報されていますね」。怜は頷く。胸の内側で、ふたつの感情の針が交互に振れた。ひとつは「信じられたい」という熱。もうひとつは「疑われたい」という冷たさ。疑われることで、見られることが正当化される。そんな逆流の言い訳。


 間宮は封筒から書類を出して、テーブルに広げた。「あなたのスマホの通報ログ。管理会社から任意提出を受けました。で——」と指で示す。「複数、書き換えられています」。怜の喉の奥に、わずかな塩味が湧いた。「書き換え……?」。間宮は淡々と続ける。「通報時刻、映像の保存先、共有範囲。すべて表面上は整合しますが、メタデータに不自然な差分がある。端末側で編集された形跡。あなたがやったとは限らない。アプリそのものか、管理者か、あるいは……」。言葉は続かなかった。続けないのは、言えないからではなく、今言わないほうがこちらの反応が見えるからだ、と怜は直感した。彼の視線は書類から怜の顔に移り、まとわりつくような同情の粘り気をまったく含まない。「念のため、端末をお預かりしてもよろしいですか」。怜は迷い、そして首を横に振った。警察の手に渡った瞬間、〈みまもりネット〉の赤い点滅から切り離される気がした。見られることの鎖が途中で切れる。切れた鎖は、自由ではなく、落下の感覚だけを残すはずだ。「すみません、今は」。間宮はそれ以上強く言わず、名刺の裏に携帯番号を書いて置いていった。「なにかあれば、すぐに」


 扉が閉まる音は、いつもより乾いていた。玄関に立ったまま、怜はチェーンの金属を指でひっかいた。爪に伝わる振動が、耳の奥の骨を軽く震わせる。彼が「書き換え」と言った。その言葉は、怜がこれまで水に溶かしてきた恐怖の粒子を、再び固体に戻そうとした。固体は喉を通らない。喉の奥にとどまり、時間をかけて内側から刺す。怜はその刺す感覚に耐えながら、机の上のスマホを見る。赤い点滅はない。ただそこに在るだけの形。——夜になれば、鳴る。


 鳴いた。二時を数分過ぎて、赤い点滅はほとんど小さな心臓の拍動のように規則的に光り、怜は起き上がる前から、なにが映るのかを知っていた。再生。画面の中、寝室の前に人が立っている。ゆっくりピントが合う。——間宮だった。日中に見たままのスーツ、同じ濃紺のネクタイ、ただしシャツの袖は肘までまくり上げられている。右手に包丁。キッチンで使う家庭用の、刃渡り二十センチほどのもの。左手はドアノブに触れず、空中で、そこに薄い膜でもあるかのように宙を探っている。顔は、日中と違っていた。目の焦点が、カメラを通り越し、ベッドのこちら側——怜の目の中のどこか——を見ている。唇は閉じていて、しかし歯の並びがうっすら透けて見える。笑ってはいない。確かめている。標本のラベルの字を読むような目。怜は無意識に息を止めた。映像の端に、タイムスタンプ。「02:04」。部屋の鍵は掛かっている。チェーンも。映像は、ドアに手を添えたまま動かない間宮を三十秒映し続け、突然、灰色に切れた。


 喉が痛い。喉の内側の皮膚に、映像の端の灰色が貼り付いたみたいに。怜はベッドから転がり落ちるように起き上がり、玄関へ向かった。電気をつけると、廊下の白さが目に刺さる。チェーンは掛かっている。手を伸ばし、金属を持ち上げ、外す。金具が鳴った音が妙に短い。ドアノブを回す。——扉の向こうは、空っぽだった。廊下には何もいない。いつもの直線、突き当たりの緑の光、左側のエレベーターの閉じたドア。耳が詰まり、心臓の音だけが内側から聞こえる。ドアを閉める。閉めかけて、足元が冷たいのに気づいた。玄関のタイルに、靴跡。黒っぽい水の跡が、扉の外から内へと続いている。濃いかたちから薄いかたちへ。つま先がわずかに外に開いた歩き方。左の靴の踵に欠けたような歪み。玄関マットで途切れ、その先は、廊下へ。廊下の白木に、水の楕円がいくつも並ぶ。怜は足を動かせなかった。靴跡は、廊下の途中でふいに途切れていた。途切れた先に、水滴だけが飛んでいる。飛沫は壁の低い位置、腰より少し下。そこから、何もない。


 怜は膝をつき、靴跡に手をかざした。水ではない。正確には、水だけではない。匂いがある。鉄の薄い味。血の匂いに似た、しかし血ほど濃くない。包丁の刃を湯で流したあとのシンクの匂い。掌に、ひやりとした冷たさが移る。移ると同時に、胸の中の温い快感が、波を打って大きくなった。——「見られている」。見られているから、残される。残されるから、証明される。証明されるから、私はここにいる。靴跡は、怜に向かって「あなたは見られている」と言う。彼女はスマホを取りに戻り、写真を撮った。連続で、角度を変えて、足跡の大きさと方向と、壁に飛んだ飛沫の形と高さと、廊下の継ぎ目との位置関係を、ひとつずつ記録した。シャッター音は切り替えて無音にしているのに、耳の奥では確かに音が鳴る。機械の小さな駆動音。〈記録〉フォルダは膨らみ、サムネイルは小さな暗い楕円の群れになった。群れは、画面の中で秩序を持たず、しかし怜の脳には秩序が描かれる。これは「証拠」だ。「証拠」があれば、間宮に見せられる。見せることで、彼の目は本物になる。彼の目は、今日の午後に怜の顔を観察したときの目ではなく、映像の中でベッドに向けられた目と同じになる。怜は、その断絶を橋渡しする手段として、足跡を撮った。恐怖は手順に、手順は喜びに、喜びは言い訳に。


 朝になっても、足跡は薄まらなかった。乾いた靴底の縁の刻みが、廊下の木目の上にはっきり残り続ける。怜は、間宮に電話をしようとした。名刺の裏側、数字に指が触れる。発信。呼び出し音の二回目の途中で、画面がふっと暗転した。驚いて指を離す。すぐにホーム画面に戻り、通知の丸が赤く増える。「自動投稿:302号室内の安全確保のため共有」。怜の喉は、水のない場所で溺れたみたいになった。通知をタップ。〈みまもりネット〉が開く。トップに、足跡の写真が並んでいる。怜の「記録」フォルダの内部のはずの画像が、日付と時刻の浸し液を吸って、公共の棚に上げられている。キャプション。「302号室の方が記録してくれました。みんなで見守りましょう」。ハートのアイコンに数字が灯り、コメントに軽い笑いが挟まり、誰かが「逃げて」と打つ。怜は、指先の汗が画面に残す軌跡を見た。自分の手の油が、公共の「安心」の飾りに混ぜられていく。混ぜられた「私」は、匿名の舌で舐められる。舐められるのに、なぜか嫌悪だけではない。快感がある。見せたから。見られたから。見せられたから。見せられることを求めていたから。


 午後、間宮から折り返しの電話があった。怜は足跡のこと、映像のこと、鏡の文字のこと、共有の自動化のことを、一気に話した。間宮は途中で遮らず、時折短い「ああ」を挟んだ。「今晩、もう一度伺います。端末のバックアップの許可を」。通話を切ったあと、怜は冷蔵庫から水を取り、テーブルに置いた。そのとき、窓の外で、物干し竿の金具が鳴った。風はない。音だけが鳴る。音に振り向くと同時に、スマホが震えた——二時には遠い、午後の明るい時間に。〈重要:あなたへの提案〉。「寝室カメラの『自動アップロード(みんなで安心)』をオンにしませんか」。灰色のトグルが揺らぎ、ほんの一瞬、緑に見えた。怜は指を引っ込める。指を引き込む動作が、まるでどこかからの指示のように素早かった。


 日が落ち、夜。怜はベッドの上で横向きになり、スマホの画面を胸元に置いた。眠気は来ない。血管を流れるものが、すこし冷たすぎる。外の廊下で、誰かの足音。上の階の、若い男の帰宅だろう。エレベーターのケーブルが大気の目に見えない部分を擦る低い音。遠くの救急車。音の層のいちばん浅いところに、赤い通知が浮き上がる。怜は腹の奥に溜まったものを押し上げるように息を吸い、再生を押した。


 映像の中、寝室のドアの前で、間宮は前夜と同じ姿勢で立っていた。違うのは刃物がないこと。彼は今度、空の両手を胸の前に持ち上げ、指を開く——「見せるために」。指の間の影が梁のように床に落ち、怜の足首のあたりで切れる。彼は唇を開き、なにか言った。音はないが、口の形は「ミ」。その次は「ナ」。三文字目は「イ」。ミ・ナ・イ。見ない。口がほんの少し笑った。笑いの形は、怜がかつて鏡で練習した社交の笑いと似ていた。次に、間宮の右手が胸ポケットに触れ、名刺をつまみ出す仕草をし、また戻す。今日の午後の彼の所作を、映像の中の彼がなぞる。次の瞬間、画面は揺れ、廊下の足元に切り替わる。足跡。内へ、内へ。今、怜の足元にある足跡と同じ形。同じ欠け。同じ距離。映像は廊下を進み、テーブルの脚の脇で止まる。止まった位置から、微かな音。息の音。怜は画面に顔を近づけ、耳を寄せる。聞こえないはずの音が、鼓膜の手前で生まれた。誰かが、怜と同じ間隔で呼吸している。「見ないで」。誰の声でもない声が、文字のまま、怜の脳の表面をなぞった。


 怜は、ゆっくりと顔を上げた。部屋にある影の、形が変わっている気がした。天井の角に、いつもはない濃い部分。そこに目を凝らすと、視界の端で、スマホが短く震えた。「自動投稿:301号室に関して、新しい情報」。トップの映像が更新され、階段室の鏡が映る。指の跡で書かれた新しい文。「次は、見ない‘ふり’を」。ふり、のあとに、右上に跳ね上がる濁点のような汚れ。怜は画面を握りしめ、指の骨が痛むのも構わずにスクロールした。コメント欄の「灰」と「桃」が同時刻に書き込んでいる。「ふりってなに」「見ないでってこと」「302は見すぎ」。ハートの数字が増える。見ないふり、を誰かが「ミーム化」し、軽いおどけた顔文字がつく。怖さが、軽いものに加工される音がした。加工は屠殺に似て、血の匂いは消え、光沢だけが残る。


 間宮からメッセージ。「今から伺います」。怜は返事を書こうとして、やめた。書くことは、もう彼女の意思だけでは決められない。「見せる」ことは自分の手を離れ、「見られる」ことに吸収されている。吸収されたものは、栄養と同じ速度で毒になる。毒は早く回り、手の震えは細かくなる。怜はスマホをテーブルに置き、玄関へ向かった。チェーンを確かめ、ドアノブに触れる。金属は冷たく、だが指の腹はじんわりと汗ばむ。覗き穴から外を見る。誰もいない。視界が狭い。視界の狭さが、穴の周りの壁紙のざらざらした質感を強調する。穴から目を離す。二歩下がる。背中に壁。そのとき、床が鳴った。靴の底が、木に当たる音。怜は恐る恐る足元を見た。新しい足跡が、古い足跡の上に重なっている。重なり方がわずかにずれて、二重の楕円ができる。二重の楕円は、あたかも影が影を踏んでいるみたいだ。台所から風のないはずの音がして、包丁の刃が引き出される金属音が、薄く、遠くから届く。怜は、鼓動の数を数え始めた。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えることは祈りの代わり。祈りは、天井角の濃い影にぶつかって落ち、床の二重の楕円の間で砕け、砕けた欠片が、鞘のない刃のように足の裏の皮膚に刺さった。


 その夜の二時、赤い点滅は壁に滲み、天井の角の影をさらに濃くした。怜は再生を押す手を止め、代わりにカメラアプリを起動した。自分の部屋の天井角へ、静止画ではなく動画を向ける。赤い録画の丸が小さく脈打ち、〈00:01〉〈00:02〉と数字が増える。録画の画面の中で、影は影のままで、しかしその輪郭が、ごくわずかに息をする。息は、怜の息と拍子を合わせるように膨らみ、縮む。怜はそのまま、レンズをわずかに下げ、廊下に向けた。二重の楕円は、まだそこにあり、乾き、暗さと明るさの境界だけが床に貼り付いて残る。その境目のひとつが、レンズ越しに見ると、ほんのわずかに濡れて見えた。濡れていないのに濡れて見えるのは、カメラが「見たがっている」からだ、と怜はふと思った。カメラは見ることに飢え、飢えは見えないものを見たい形に歪める。歪められたものに、名前が与えられる。名前が、〈記録〉になる。


 通知が重なった。〈重要:自動投稿〉〈安全のための共有〉〈間宮より:到着しました〉。怜は玄関へ向かい、チェーンを外し、ドアを開く——廊下には、やはり誰もいない。静止した空気に、遅れて音が追いついてくる。エレベーターの停止音、階段の手すりがわずかに軋む音、遠くの部屋で洗濯機が脱水に入る音。足元の二重の楕円が、怜に「ここまで」と言う場所で止まっている。そこから先は、ない。ないまま、怜の背後から、スマホが赤く光った。玄関に置いたままの画面に、最新のトップ映像。「来訪者:間宮」。玄関の外から撮られた自室の扉。ドアの前に、誰もいないドア。扉のすぐ手前に、ふたつの暗い楕円。——彼は「いない」まま「来ている」。怜は振り返らない。振り返らないのが正解かどうかは、知らない。正解を知るための目は、赤い光のむこうにある。赤い光は、怜の頬に薄い影を作り、影は笑ったような形になった。笑っていないのに、笑いの形。


 「次は見ないで」。鏡の白い跡の文字は、怜の眼の裏で逆さに読み返された。「見ないふり」をしたとき、人はもっとよく見える。怜はドアをそっと閉め、チェーンをかけた。金属が触れ合う音が、今夜はやけに長く尾を引いた。尾の先には、見えない誰かの手がぶら下がっている気がした。手は、怜の肩に届かない距離で止まり、しかし届く予告をする。予告は通知に似て、通知は祈りを装う。祈りの言葉に、鍵が付いている。鍵は、こちら側からは外せない。


 寝室に戻り、怜はベッドの端に腰を下ろした。スマホの画面は黙って光り、「共有しました:27」の数字が、呼吸と合わない速度で増える。息を吸うたび、数字は吐く。息を吐くたび、数字は吸う。リズムは噛み合わず、噛み合わないことが、怜の体の節々に砂を詰めた。重い。目を閉じると、天井角の濃い影が、瞼の裏に薄く印刷された。印刷のインクは湿り、乾き、また湿る。湿ったところに、誰かの指が文字を書く。〈次〉。〈は〉。〈見〉。〈な〉。〈い〉。指はそこで止まり、最後の点を置かずに宙に消えた。消えた指の跡が、怜の頬を一筋なぞった。自分の指より、少し冷たかった。


第3章 鏡の中の目


 朝のニュースは、冷蔵庫のモーター音と同じ高さで部屋を震わせた。女子アナの滑らかな日本語が、突如とがったところもなく「目を奪う連続殺人」というラベルを口にする。その語の端に、細い鉤爪がある。引っかかれば、皮膚より内側の柔らかいところまで持っていかれる鉤爪だ。テロップが流れ、〈401号室男性死亡〉〈104号室高齢者死亡〉と、数字だけが淡々と区別する。場所は同じマンション、同じ廊下、同じ空気。違うのは階と名前。共通しているのは「両眼球欠損」。その言葉は、医学的語彙の仮面をつけているのに、聞く者の脳内では、ぬらりとした指の温度で具体化された。


 ネットの速度はそれより速かった。〈みまもりネット〉のトップに、テレビ局が使ったソースよりも早く、匿名のアカウントが“裏情報”を提供する。サムネイルの小さな映像に、ピクセルの角度で加工された人影。赤いハートと怒りマークが互いに喰い合い、共有数は呼吸の早い小動物のように跳ね上がる。ひとつのスレッドに、怜の本名が載る。「302号室、柏木怜」「通報魔」「カメラ狂い」「自分でやって通報してるタイプ」。あっという間に、別の掲示板にコピーされる。そのコピーを、また別の誰かがタイトルだけ変えて拡散する。怜の指はスマホを握り締める力を知らずに増し、手のひらの湿気とガラスの面の間で、小さな音がきしむ。胸の奥では、あのぬるい温度が、いったん冷え、再び熱を持つ。見られている。見られることが毒と薬になりはじめた瞬間、舌で確かめるような渇きが喉を走った。


 廊下に出ると、空気の質が前夜から変わっていた。乾いた埃の粒が軽く増え、消毒薬の匂いが薄く長く残る。エレベーター前のカメラは角度を下げ、レンズの黒い眼はより広く床面を捕らえる。遠くから、階段の踊り場の鏡に新しい指跡が生まれては消えるのが見えた。若い母親がベビーカーを押して出てくる。怜がすれ違う刹那、母親は視線を床に向け、ベビーカーの幌をぐっと深く下ろした。幌の布の皺が、子どもの顔に影を落とす。その影の中で、黒い眼が一瞬こちらを見た気がして、怜は足の裏から冷えたものがせり上がるのを感じる。怒りは、足首の高さで湧いた。小さな怒り。体温と同じ温度で、最初は自分でも気づかない。


 踊り場の角に、スマホを胸の前で構えた男が立っていた。細い顎、無精髭、パーカーのフード。見たことのある顔だが、名前は浮かばない。近所にいる「だれか」。レンズは怜のほうを向いている。男は一歩引き、画面越しの目をしている。生身の目に見せるための顔ではなく、画面の中に映る「目線の位置」を意識した顔。怜は、喉の奥が鳴るのを抑えられなかった。


「やめてください」


 声は低かったつもりが、階段室のコンクリートに跳ね返って自分で驚くほど高くなった。男はその高い音に興味を持った顔をした。親指で画面を安定させる仕草さえ、練習済みのものに見える。怜は踏み込んだ。手が、勝手に男の手首に伸びる。骨の凸凹が手のひらに当たり、皮膚の乾きが伝わる。スマホをひったくる。力が自分のものではない。画面には録画の赤い丸。再生に切り替える。怜は、つばを飲み込み、表示された映像の音量を上げる準備をした——音は出ていなかった。出ていないのに、耳の奥では、自分の声が反響する音が生まれていた。


 画面の中で、怒鳴っているのは怜ではなかった。レンズに向かって口を大きく開き、青筋を立てるのは、撮影者の男のほう。怜は一歩下がり、映像の中の自分の姿を探した。階段の壁際、少し肩をすくめ、視線を落とし、片手で胸元を抑えている——静かすぎる。怜は、自分の喉を通り過ぎた声の断片が、画面の男の口を通って出ていくのを、確かに見た。男の口が「やめてください」と動く。怜の唇は閉じたまま。周波数の合わない二種類の現実が、画面のガラス越しに擦れ、短い静電気が指先で弾ける。男が声を上げる。「返せよ!」。現実の男は怒鳴る。その怒鳴り声は現実の空気を震わせ、画面の中の男の声と同じ高さだった。怜は、スマホを男に渡した。渡す瞬間、男の目がほんの短く泳ぎ、怜の指と画面の間に狭い空気の層が挟まった。


 現実の輪郭は、夕方になるほど柔らかく崩れた。光が斜めから入ると、廊下の隅に薄い青の層ができる。青の中に粒が漂い、粒が視線に当たると、そこから像が生まれる。冷蔵庫の横の壁に、貼ったはずのないメモが一瞬だけ現れて消えた。内容は拾えない。ただ、縦に三行の行間が見えた。「要」「確」「認」のような骨格の強い字の骨だけが目に残る。怜は、指で空をなぞる。指先に紙の感触はない。感触がないのに、爪の間に紙粉が入るようなざらりとした違和感が残った。


 インターホンが鳴る。名乗りはない。覗き穴から見る。廊下は空。チェーンをかけたまま開ける。空気が薄く触る。誰もいない。だが、足元に黒い床面の暗さが二度重なる。昨夜の足跡と、今夜の足跡。重なり方がずれて、楕円の厚みが違って見える。鼻が、薄い金属の匂いを拾った。眼球の膜に触れたときのような冷たさを想像の指が拾ってしまい、怜は目の奥を強く閉じた。閉じるとすぐ、赤い点滅が瞼の内側に印刷される。


 怒りが形になってゆく。昼間の男のスマホの映像。〈みまもりネット〉の匿名の暴言。テレビのテロップ。夫からの、相変わらずの短いメッセージ——「今日は帰れない」。全部が怜に「見るな」と言い、「見ろ」とも言う。この矛盾のひもを、どちらの方向に強く引けばいいのか。怜は、結び目の手前で指を離すことにした。違う方向から入る。


 〈みまもりネット〉の「防犯マップ」には、住民が任意に危険情報を投稿できる欄がある。地図のピンは増え、色分けされ、ピン同士の距離は警報の閾値に影響する。怜は、そこから「裏」を辿った。地図の裏側の、地図が参照するファイルの柱。住民の誰もが見ているはずのない設定画面のさらに奥。押してはいけないはずの薄い灰色のボタンは、押せば押せた。怜は押した。そこは「監視データ共有室」と名付けられていた。ひどく明るい部屋の名前。扉は開いていた。入ると、目に痛い白の背景に、日付の羅列と部屋番号の配列、時刻の帯が並ぶ。検索窓に「柏木怜」と打つ前に、怜は一瞬だけためらった。打ち終えると、予測候補が現れる。候補は、怜の指より速い。Enter。


 映像が、出た。最初のファイル名は、一年前の春の日付から始まる。サムネイルには、見知った廊下の床。タップすると、401号室の前を掃除する自分の姿。白い布巾でドアの下の金属の隙間を拭い、目を近付け、汚れを見つけるように目を細める。記録の左上には、小さな文字。「記録者:柏木怜」。タブを閉じる。次の映像。夜のゴミ置き場。分別の間違った袋を開け、中身を確認している自分。映像の端に、ゆっくり進む影が映る。104号室の老人が通り過ぎ、影が壁に重なる。怜は自分の動きの丁寧さに見覚えがなかった。動きはまるで、別の自分の仕草をあとから自分の体に流し込まれるように、滑らかで、無駄がない。「記録者:柏木怜」。次。夜中のエレベーター前。自分が壁のもたれた姿勢で、眠っている若者の首筋を見ている。髪の生え際と肌の境目の汗の粒の数まで数えられるほど近い目線。「記録者:柏木怜」。次。洗濯室で、どこかの家のシーツからピンを抜く手。「記録者:柏木怜」。次。三〇一のドアに耳を当てる自分。次々。次々。自分が出入りしている。出入りしていないはずの場所へ。時刻の帯は二時前後に集中している。まるで、赤い通知が鳴ると同時に「私」が動いていたように。出入りした扉の密閉感が、目の皮膚に戻る。鼓膜が、わずかに内側から撫でられた気がする。


 怜は、椅子の背にもたれ、スマホを胸に押し付けた。心臓の拍動がガラス越しに波紋となって見える気がした。指は、拒絶の言葉を打とうとする。「違う」「捏造」「誰かが」。だが、打たない。画面に触れた指に、映像の中の指の温度が移っている。温度はぬるい。懐かしい。気づくのが遅すぎたが、この温度は、最初から怜の皮膚の温度と一致していた。「私」は、監視者。のぞき見の目。記録を整理する目。保存する目。再生する目。評価する目。そして、同時に、見られるほう。見られ、編集され、共有され、軽い言葉の縁取りを施されるほう。二つの目が、正面と背面に生まれた。目と目が互いに映し合う鏡面は、像を増殖させてやまない。怜は、喉の奥から小さく笑いが泡立つのを感じた。笑いは勝手に生まれ、怜の意思の外側で形を取る。鏡の前に立つときに練習した笑いと同じ品の良さで、しかし鏡の向こうのものにしか向けられない種類の笑い。


 「柏木さん」


 インターホンが鳴る前に、間宮の声が脳内に先行して到着したみたいに、音は自分の頭の内側に先に響いた。ドアを開けると、彼はきちんと立っていた。昼間と同じ調子で挨拶をし、リビングに通される前に玄関マットの埃を靴先で払う癖を、ぶれなく繰り返す。怜は、その正確さに救われるほうを選んだ。救いは、形があるから手に取れる。間宮は椅子に座り、封筒を開ける。「報道が先行して混乱しているが、401、104の件は関連ありと見ています。どちらの現場にも——」彼は言いよどみ、言葉を選んだ。「みまもりネットのログ編集の痕跡が残っています」


 怜は、呼吸の仕方を一度忘れ、すぐに思い出した。「私じゃない」と言うと、間宮の目が怜から一瞬だけ壁の時計へ移り、また戻る。その短い往復の間に、彼の眼球がわずかに乾き、まばたきが増える。彼にも、目がある。彼にも、剥き出しの角膜があり、硬い空気にさらされる時間が長ければ、表面がきしみはじめる。彼の眼が、怜の指の動きより早く記録の蓄積へ滑っていく。「あなたの端末、バックアップさせてください」。怜は、スマホをテーブルに置く。ふと気づくと、背中に冷たいものがあたる気がした。視線の気配。振り向くと、鏡台の鏡が、いつもより大きく映っている。鏡の中の怜は、今の怜より、口角が半ミリだけ上がっていた。


「終わったら、お返しします。時間はかからない」


 間宮の声の下で、スマホの画面が薄く灯り、すぐ消えた。バックアップの進捗バーは表示されない。表示されないのに、作業は進む。〈監視データ共有室〉のログは、間宮にも届くだろうか。届いたとき、彼はなにを見るのか。怜は、知りたいと思った。彼の目に映る怜。彼の目が持ち帰る怜。彼の指が今持っている封筒の紙の角が、指の腹に小さな白い線を引いたのを見た。皮膚の僅かな断裂。そこから、恋人のように血は出ない。乾いた空気が入り込み、内と外の境目だけが敏感になっていく。


 その夜、赤い通知は二時より早く鳴いた。〈重要:新しい映像を共有〉。怜はベッドの上で上体を起こし、再生を押す。画面には、鏡台の鏡が映っている。撮影者は怜の寝室の隅から、鏡だけを捕らえている。鏡の中には、寝室が映る。ベッドの縁、壁の時計、薄いカーテン、そして、怜。怜は画面の外で画面を見ており、鏡の中の怜は画面の中の鏡を見ている。多重の視線が重なり、薄い紙を何枚も重ねたみたいに、輪郭があいまいになる。「目を奪う」という言葉が、脳の裏側で反転した。見続けることは、見る能力を鈍らせる。鈍らせるために見る。画面の中の鏡の中の怜は、ゆっくりと顔を上げた。目が、まっすぐこちらを見る。瞳孔は暗い部屋の明るさに合わせて大きく、黒が広がる。広がった黒は、画面の黒より深い。鏡は、怜の目の表面に薄い光の膜を乗せる。膜はぬめり、そこに触れる指を想像すると、眼球の丸みが指の腹にしっかり乗る。——次の瞬間、画面は微かに揺れ、鏡の表面が指で押される。押した指は、映像には映らない。指が触れたところだけ、鏡の表面が歪む。鏡の歪みの形は、眼球の歪みと似ている。怜の胃のあたりが、空洞のように軽くなり、重く落ちた。


 コメント欄が流れる。「こわ」「302だろ」「鏡やば」「目が……」誰かが言及した瞬間、カメラはぎくりと寄る。鏡の中の怜の顔へ。距離が詰まり、画素が粗くなる。粗さの隙間に、別の像が差し込まれ、像が像に重なる。鏡の中の怜は、笑った。静かな笑い。音がないのに歯の乾く音が聞こえた。画面の奥のどこかで小さなカチリという音——安全装置の外れる音、蓋のロックの外れる音、鍵の二段階目が回る音——がし、同時に、怜の背中の皮膚が鳥肌を立てる。鏡の中の怜が口を開く。唇はゆっくりと、文字の形を作る。——やっと。み。え。た。ね。わ。た。し。


 その声は、画面からではなく、鏡の表面のごく浅いところから出た。浅すぎて、音は空気の振動になる前に、瞼の裏側に直接書き込まれた。怜は、ベッドから立ち上がった。足の裏が床を掴む。その感覚が、今夜はやけに細かい。木目の一本一本に名前が付けられる。鏡台の前に立つ。鏡の中の怜は、半ミリだけ早く動く。先行する自分は、肩の角度を丁寧に整え、顎を引き、目線をわずかに上げ、すべての「見る/見られる」に最適化された顔を作る。怜の喉は、乾いた音を立てる。鏡の縁の木が、薄く軋む。鏡の中の怜が手を上げる。現実の怜も手を上げる。手と手が、鏡越しに合う。掌の温度が伝わる錯覚。ぬるい。最初から知っていた温度だ。鏡の中の怜が、指先で自分の右の目の縁に触れる。現実の怜は、胸の前で指を止める。鏡の中の怜は、触れた指で瞼の薄い皮膚を上に持ち上げ、白目に触れ、黒目の縁にそっと爪を当てる——その瞬間、怜の腹の奥に、軽い笑いが形になる。「やっと見えたね、私」。鏡の中の声と、怜の体の内側の笑いが重なる。重なったところが、心臓の左斜め上にぴたりと貼り付く。


 背後から、スマホが震えた。通知は短く、しかし明るかった。〈自動投稿:記録者の確認〉。画面を取る余裕はない。鏡の中の怜は、指先を目から離し、今度は鏡の表面に触れる。指が触れたところに、白い輪が一瞬だけ生まれ、すぐに消える。輪が消える瞬間、鏡が、まるで膜であるかのように、わずかに吸い込む動きを見せる。怜は、首筋のほくろにひやりとした空気が触れるのを感じた。寝る前の部屋の温度とは違う。共有廊下の夜気の温度。エレベーターシャフトの鉄の冷え、非常口のあの緑の光の冷気。鏡が、こちらとそちらを接続する管になった。管の口の向こうに、誰かの呼吸がある。怜はそっと目を落とす。床に落ちた自分の影が、二重になっている。足元の楕円ではない。影の黒。その黒が薄い重なりを持ち、片方の影が微かに遅れて揺れる。遅れて揺れるほうが、鏡の向こうの光に合わせて呼吸をしている。


 〈監視データ共有室〉では、今この瞬間にも、映像が記録されているだろう。ファイル名は日付、時刻、場所。記録者の欄には、また「柏木怜」と記されるだろう。怜は、その未来形を想像して、目を細めた。想像は、甘い。甘さの中心に、硬い種がある。種には小さなひびがあり、そのひびから白い根が出て、眼球の裏側の血管に絡みつく。絡みついた根は、栄養の方向を決める。栄養は、視線の生える方向を決める。「見る」目と「見られる」目の間で、生き延びる方向を。怜は、鏡の中の怜に頷いた。頷きは、半ミリのズレもなく重なった。鏡の中の怜は、唇だけで笑い、「やっと見えたね、私」ともう一度言った。今度は、音になった。音は室内の空気を震わせ、壁にぶつかって返った。返った音は、怜の耳介の内側で小さくしぼみ、消えた。その消えぎわの薄い振動の中に、階段室の鏡の白い指跡が新しく書かれる音が交じっているのを、怜は確かに聞いた。


 〈みまもりネット〉のトップが更新された。自動更新のわずかな遅延。画面の最上段に、新しい縮小画像。「監視データ共有室/新規アクセス:柏木怜」。その下に、丸いアイコン。匿名のハート。匿名の怒り。匿名の笑い。匿名の助言。匿名の告発。匿名の祈り。すべてが、怜という名前の上で、目を持たない顔のように増殖する。怜は、鏡から目を離さない。離さないことが、唯一の「こちら側」に留まる方法のように思えた。鏡の中の目は、怜の目よりも静かで、暗く、深く、よく見える。よく見えるようになることと、目を失うことが、いつ入れ替わるのか。入れ替わる瞬間を、〈記録〉するのは、誰か。鏡は答えない。ただ、笑う。怜が笑うより、半テンポ早く、正しく。笑いの形は、映像の中の笑いと、ニュースの中の笑いと、匿名の軽い笑いの、どれとも違っていた。鏡の中の笑いは、怜にしか見えない種類の笑い。怜の目にしか映らない種類の、目。


 「やっと見えたね、私」


 呟きは、今度こそ、怜自身の喉から出た。鏡の中の怜が、満足そうに、目の表面の薄い膜をひとつだけ瞬かせる。瞬きの音が、部屋のどこにも響かず、しかし怜の心臓の中にだけ、はっきりと落ちた。外では、誰かの足音が通り過ぎる。足音は、鏡の奥の足音と、ぴたりと重なった。赤い通知音は、鳴らなかった。鳴らないほうが、今夜はずっと怖い。怜は、鏡の縁に指をかけ、一歩、踏み出す覚悟だけを、静かに、記録した。


第4章 覗き部屋

 停電は、音のない落雷だった。蛍光灯の白が一斉に吸い取られ、廊下の奥へ向かって暗さが波のように走る。直前まで点灯していた非常口の緑だけが、水の底で揺れる藻のように残り、すぐにそれも呼吸を止める。エレベーターのケーブルが、最後のため息をつくみたいに低く鳴いて止まり、階段室のコンクリートは湿った背中を剥き出しにした。

 「中にいてください」

 間宮は短く言い、懐中電灯を差し出した。冷えた金属筒が掌にのしかかる。彼は別の一本を自分のポケットから取り出す。光は細く、まっすぐ。切り取られた白だけが世界に残り、他は一枚の黒い布で覆い尽くされた。

 「地下にメンテナンスがある。配電盤を見よう」

 怜は頷いた。頷くという動作が、暗闇の中では自分にしか見えない身振りだと気づく。見えない頷きは、独り言に似ている。足元の二重の楕円は、停電の闇の中で消えた。だが、消えたからといって存在しないわけではない。濡れた足跡は、目で見ないときほど肌の内側で濃くなる。

 階段を降りる。コンクリートの冷たさが、靴底を通り越して足首を締める。手すりの鉄は、魚の腹みたいに冷たい。懐中電灯の円を一段ごとに落としていくと、埃が舞い上がる気配だけが光の中に粒立つ。音は少ないのに、音の予告が多い。どこかで水が一滴落ちる、落ちる前の丸まった形の音。遠くの床を誰かが爪で掻く、掻く前の肩甲骨の動きの音。耳は、現実の音と、これから鳴る音の設計図を同時に読むように忙しい。

 地下の扉は、厚く、重い。管理会社のシールが二度貼り直された跡が白く残り、その上から「関係者以外立入禁止」の赤が、停電でも読める濁った艶を持っている。間宮が鍵束を揺らすと、金属どうしが触れ合う高い音が一瞬だけ闇を裂いた。鍵穴に入る鍵の背骨を、懐中電灯が細く縁取り、ゆっくりと回す動作に合わせて扉は重さをため、そして吐き出すように開く。冷気。地下の空気には、地表の空気と違う匂いがある。土と鉄と、古い木材の呼気。それに、なにか薄い薬品の線。鼻の奥の粘膜が、少し痺れる。

 メンテナンスルームは狭く、四方が同じ灰色で塗られている。配電盤のカバーは開いていた。誰かが見たあと、閉め忘れたのか。それとも、閉められないようになっているのか。間宮がブレーカーを確認する。懐中電灯の光が番号を走り、全てのスイッチが「入」の位置にあることを示す。「停電は外の問題かもしれない」と彼は言い、同時に部屋の右手の壁を照らした。そこにあるのは、設計図にないはずのもの——壁の継ぎ目。ほんの一ミリの段差。塗装の重ねが途切れる細い縦線。怜は近づき、指先でなぞった。ざらり。ペンキの重なりの年輪が、爪の腹に引っかかる。

 「ここ、空間がある」

 間宮は耳を壁につけた。音は吸い込まれ、すぐには返ってこない。「叩いてみて」。指の関節で軽く叩くと、低く、鈍い空洞の音が腹に返った。そこに、金属のレバーがある。配管の陰に隠れて、灰色に塗り潰された「禁止」の文字の下。掴むと、嫌なほど素直に動いた。薄い風が出て、扉は内側にめくれる。闇の奥に、細い通路。人ひとりが横向きで通れるほど。壁はコールタールのように黒く、光を飲む。床は固い木の板が渡され、板と板の隙間から、下の空洞が冷たい息を吐く。

 「……行くの?」

 怜の声は、地下の空気で濡れて重くなった。間宮は頷き、先に懐中電灯の円を投げ込んだ。光は通路に吸われ、数歩先で途切れ、途切れた先から吸い込まれる音がした。二人は横向きで進む。肩が壁に触れる。壁のタールは乾いているが、触れたところだけ音もなく冷たい。蛇行する通路の壁は時折、規則のない波打ちの膨らみを見せる。波のひとつひとつが、誰かの背中の影の型取りに思えた。

 やがて、壁の表情が変わった。黒い平滑の面に、掌より少し小さな丸い穴が並ぶ。縦横の間隔は一定ではないのに、全体としては秩序がある。穴は覗き穴より大きく、通気孔より控えめに口を開く。怜は本能的に視線を逸らした。穴は見るために開けられ、見る者を選ばない。穴の内側は暗く、しかし黒の質が違う。深さの黒。向こう側の部屋の空気の黒だ。

 間宮がひとつ、近い穴の縁に光を当て、そっと覗いた。頬に冷たい縁が当たり、光の輪が向こうの壁に跳ねる。怜も別の穴に顔を寄せた。反対側の頬に、別の冷たさ。とても薄い皮膚が剥がされるような、細い寒気が目の周りを撫でる。

 向こうには部屋がある。——と思ったが、それは「部屋」と呼ぶにはあまりに用途がはっきりしていた。白いタイル張りの壁。天井から伸びる金具。金具から垂れ下がる、白い帯。最初は配線かと思った。が、帯は時折、重みに引かれて微かに揺れ、その先端に色の濃いものがくくりつけられているのが見えた。揺れの周期に合わせて、たわむ。人の胴。皮膚の色は、夕方の台所の肉の色に似ていた。ところどころにテープの銀が光る。テープは口を横一文字に塞ぎ、そこに油性のマーカーで字が書かれている。「見たものを、見返した」。字は太く、書き慣れた手の速さで、ためらいがない。眼窩のあたりは、空が落ちたみたいに暗い。暗さの縁が乾いて、薄くつや消しの膜を作る。怜の胃は、底面ごと静かにずれた。音はしない。けれど、ずれた場所から立ち上る匂いが、鼻の中のどこか古い場所を直撃した。甘く、冷たく、鉄の粉を混ぜて軽く撹拌したみたいな、舌の根を痺れさせる匂い。

 「……生きてる」

 間宮の声は、穴の向こうの空気に吸い込まれ、輪郭を持たない。「胸が動いてる」。怜は別の穴へ滑るように移動した。そこにも、吊るされた別の体。肩から下は布で覆われ、露わになった顔はテープの銀と、黒い穴。穴の縁に小さな引っ掻き傷が放射状にあり、爪の屑が乾いて貼り付いている。テープに書かれた文字は部屋ごとに微妙に違う。筆圧、傾き、終筆の跳ね。だが文言は同じ。見たものを、見返した。見返す——目がないのに、見返した。

 通路の反対側の穴に顔を寄せると、今度は別の部屋がのぞく。壁に「401」と数字がある。見覚えのあるラグ。隅の観葉植物。天井から垂れる白い帯。揺れ。テープの銀。黒い穴。怜は視線を穴から剥がせなかった。黒の中心に、いっときだけ、光がさした気がした。光は光ではなく、意識のちらつきかもしれない。だが、そのちらつきは「こちら」を見返した。「見返し」の瞬間、怜の背筋のなかで、棒のように硬いものが一本、挿し込まれる感覚があった。棒は外からではなく、内側から生えた。尾てい骨の奥から、首の根に向かって、音もなく。

 「こんなの……誰が……」

 怜は、自分の声がどこから出ているのかわからなくなった。声は穴の中へ落ちていく最中に形を失くし、空気の粒に分解され、向こうの部屋のタイルの目地の中に吸い込まれる。隣で間宮が、懐中電灯の光をいくつかの穴の縁へ順に滑らせる。光は、吊られた人の皮膚の上で跳ね、跳ねた破片が間宮の頬に薄く貼り付く。「あんたじゃないのか?」彼は言った。言葉は、脅迫ではなかった。事実を一つ置いて反応を見る、医者のような声。いちばん正確な問い方。「違う」と言おうとして、怜の喉は空気を飲んだ。喉の内側に何かの断片が引っかかる。〈監視データ共有室〉の画面。そこに並んだ「記録者:柏木怜」の列。自分が自分の目で撮っている自分。

 「違う、わたしは——」

 言葉は穴の縁で割れ、粉になった。粉になった言葉のなかで、足音が生まれた。通路の奥。細い板の床を、裸足より少し重いものが踏む音。間宮が顔を上げる。懐中電灯の円が揺れ、奥へ向く。暗闇の中に、細い白が浮かんだ。白は、人の頬。手。布の皺。女性の顔。髪の分け目。肩のライン。服の縫い目のほつれ。光が吸い込まれていく黒い目の穴——ではない。目はある。目が、こちらを見ている。怜は息を止めた。息を止めた瞬間、鼻腔の奥に、自分の匂いが濃く広がる。寝具の綿の匂い、髪に残ったシャンプーの果実の匂い、手のひらの微かな金属の匂い。——自分。

 「……私?」

 通路の奥の影は、怜と同じ服を着ていた。昨日から脱いでいない黒のパーカー、灰色のスウェット。首の右側の小さなほくろ。髪の毛先の折れ。爪の形。足の運び。どれも、怜が鏡で確認してきた「自分」の一部と一致する。影は笑わない。笑わないことだけが、鏡の中の自分と違った。笑わないで、ただ、見る。間宮が半歩前へ出た。「止まれ!」声が通路にぶつかり、粉になる。影は止まらない。足音は規則的で、心臓の速さより少しだけ遅い。怜の心臓はその遅れを埋めようとして、余計に早く叩いた。

 怜の手は、自分の意思より早く動いた。通路の入口に備え付けられていた工具箱の中に、銀の刃が混じっていた。換気ダクトの補修用の刃。柄に短いビスが刺さって、刃渡りは二十センチに満たないが、光だけはどんな刃物より鋭い。掌に冷たさが食い込み、刃の重心が手の中の空気をわずかに歪める。間宮が肩越しに振り向き、目で制した。「待て」。怜の耳は、その「待て」を聞きながらも、奥から近づいてくる足音の数を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。同じ速さ。同じ重さ。通路の幅は変わらない。すれ違えない。逃げ場は、穴の向こうか後ろか。しかし穴の向こうは、目のない人たちが吊られている。後ろは、扉。扉は重い。重いものは現実で、現実は遅い。

 「お前が犯人なんだろ!!」

 叫びは怜自身のものだった。声は、刃を押し出すための膨張剤みたいに胸を膨らませ、刃は前へ滑った。通路の光が一瞬、白く爆ぜて、空気が薄く泣いた。刃が触れたのは、布を裂く手応え。その下の柔らかさ。骨に当たる前に、深く。深さのなかで温度が変わる。冷たい皮膚の下から、体温が、刃の背へ上がってくる。指が震え、柄が汗ですべる感触が遅れて到着する。怜はその瞬間、目の前の「自分」の顔を見た。顔は驚かなかった。驚かないまま、ゆっくり、後ろへ倒れた。

 音はなかった。倒れる体の重さが床板に移る振動だけが、板を通じて靴底から脛へ、膝へ、腰へ、背中へ、首の根へ、と順に上がってきた。懐中電灯の円が、倒れたものを照らす。見たのは、怜よりも早く間宮だった。光の中に浮かんだ顔。——間宮。彼の顔が、そこにあった。怜が知っている角度ではなく、床に貼り付けられた角度で、力の抜けた口元がわずかに開き、喉の奥に溜まった空気がひゅうと出る。その音は声ではなかった。刃の刺さった布は濡れ、濡れはすぐに冷え、鉄の匂いが二人を囲う。怜の喉が「嘘」と言った。脳は「現実」と言った。現実と言い切る言葉の温度に、怜はひどい吐き気を覚えた。

 間宮の体から懐中電灯が転がり、円は通路の壁に跳ね、穴の中を照らした。向こうの部屋の白いタイルに、二人の影が長く伸びる。影の間に、第三の影が滑り出た。滑らかで、薄く、輪郭が遅れて追いつく。怜は顔を上げた。通路の奥——さっきまで「自分」がいた場所。そこに、誰かが立っている。懐中電灯の白は届かない。届かないのに、輪郭だけは鮮明だ。肩の線、腰の細さ、足の長さ。笑ったかどうかは、わからない。わからないのに、笑いの音だけが、穴の向こうから聞こえた。

 壁の向こうの笑い声。笑い声はタイルに跳ね返り、通路の穴という穴から滲み出た。狭い空間に音が増える。重なり方が違う笑いが、わずかにずれた時間差で二重、三重に響く。低い笑い。高い笑い。喉の奥で潰した笑い。息を吸うときに漏れる笑い。笑いの種類だけが、人の数を教える。怜は穴に顔を寄せた。穴の向こう、吊られた人の口元。テープの銀が震える。震えの下から、音が出るはずはない。ないはずなのに、テープの文字が震えに合わせて細かく揺れ、「見返した」の「返」の払いが息を吸うみたいに微かに上がり下がりする。笑っているのは、穴。穴そのものが、笑う。

 怜は手を離した。刃が床に落ち、鈍い音を発して止まる。間宮の体は動かない。動かないものが世界の中心に据えられ、動くもの——笑い、風、埃の粒、遠くの水滴——は、それを巡る衛星になった。怜は膝をつき、床板の冷たさを膝の骨に刻みつける。骨の内側に冷たさが浸み、膝が床に溶ける。目を閉じようとして、目の裏側に赤い点滅が残っていることに気づいてやめた。目を閉じないほうが、まだ現実は整う。目を閉じた途端、鏡の中の「私」が半ミリだけ早く笑う。

 「私じゃない」

 今度は、怜の声が穴の向こうへ届いた。届いた瞬間、笑い声の一つが止まった。止まったところに、別の音が差し込む。靴底がタイルを擦る音。金具が天井で軋む音。吊られた体がほんのわずか角度を変え、テープの銀が光を拾う音。怜は穴から離れ、通路の奥を見た。奥の影は、まだそこにいる。距離は縮まらない。縮まらない距離が、通路そのものの長さを変える。間宮の体を跨いで進むことはできない。戻るにも、扉は重い。扉の向こうでは、停電が続いているだろう。非常口の緑は、まだ呼吸を止めたまま。上の階では、誰かが薄いスマホの光で自分の顔を照らし、顔の血色の悪さに驚き、また鏡を見ているだろう。

 「柏木怜」

 名を呼ぶ声が、通路の奥から落ちてきた。自分の名前は、体の中の一番柔らかい場所にいきなり硬い石を落とされる感覚に似ている。声は、女。怜自身の声に、半音の歪みを加えたような高さ。「やっと、ここまで来たね」。懐中電灯の円がその方向へ滑ると、光は壁で途切れ、照らされるのは空気の埃だけ。声は続ける。「見えた? 見返した? 記録した?」。言葉は〈監視データ共有室〉の見出しの活字に似て、無機質な整いを持つ。「あなたの目は、よく働く。外にも、内にも。だから、みんな安心よ」

 怜は、喉の奥で笑いそうになった。笑い、は別の方向に逃げた。涙の筋は出ない。代わりに、胃の奥から酸の匂いが上がり、唾液と混じる。舌の両脇が痺れ、奥歯の一本一本に冷たい空気が触れる。間宮のポケットから、無線の小さな音がする。呼び出し。返答はない。無線は、それでも職務の癖で同じ言葉を一定間隔で吐き出し続ける。「間宮、応答願います」。その規則正しさが、ここに生きている人間の呼吸の不規則さを逆に際立たせた。

 穴の向こうで、また笑い声。今度の笑いは一つではない。複数が合わさって、ひとつの音楽みたいに広がる。怜は、ゆっくりと立ち上がった。膝から離れた床の冷たさが名残として皮膚に残る。懐中電灯を持つ手の汗が、金属に膜を作る。金属の膜に自分の指紋の渦が短く浮き、すぐに消える。通路の奥へ、一歩。影は動かない。二歩。影はまだ、動かない。三歩。床板が一枚、悲鳴をこらえるように鳴り、その音に重なるように、穴の向こうのテープの銀が、いっせいに震えた。

 「覗くのは、あなた。覗かれるのも、あなた」

 声は、穴から、壁から、床から、怜の胸骨から、同時に響いた。「どっちが好き?」。好き、という言葉は、この地下室では異物だった。異物は、侵入した瞬間に形を失い、意味だけを残して拡がる。意味が拡がる速度が、怜の内臓の速度に追いつく。怜は、通路の壁に手をついた。壁のタールは冷たく、ついた手の形に沿ってわずかに湿りが浮く。湿りの輪郭が、指の長さを正確に縁取る。指は、誰の指にも似ていない。怜の指だ。怜の指で、怜が壁に触れている。〈記録者:柏木怜〉。活字が、壁の黒に浮かぶ。浮かんだまま、吸い込まれる。

 間宮の顔は、動かない。だが、その目——目はまだ、奪われていない——が、かすかにこちらを見ている気がした。光の角度が変わり、角膜の表面に懐中電灯の白い線が走る。怜は、その線にそっと指先を重ねた。触れない。触れないけれど、触れた感覚だけが指の腹に残る。指を離すと、線はもうそこにはない。あるのは、黒い穴と、白いタイルと、銀のテープと、文字。見たものを、見返した。穴は、怜を見返す。

 壁の向こうで、笑い声がまた一段と近づいた。今度は、穴の縁にかすかな呼気が当たるのを感じた。温度のある息。生きている者の息。息が、怜の頬の小さな産毛を撫で、耳の縁の薄い皮膚をくすぐる。「ほら」と、その声が言った。「あなたの番」。懐中電灯の光が、不意に弱くなった。電池の残量が、今、この瞬間を選んで告げる。怜は光が狭まるのを見た。狭まる中で、穴の黒は逆に濃くなり、濃さは形を持ち、形は目に変わる。目は、覗き穴から覗き返す目。覗かれることを選ぶ目。怜の喉は、乾いたまま声を作った。

 「——見てるよ」

 言った瞬間、笑い声が止んだ。止んだ闇の中で、小さな音がした。極細の針で、ガラスの表面に傷をつける音。耳のすぐそば。懐中電灯の光の端で、鏡の破片のようなものが細く光った気がした。光はすぐに消える。闇が戻る。戻った闇は、さっきより少しだけ、重い。怜は息を吸い、吐き、刃の落ちた位置を探す。指先が冷たい金属に触れ、重みが掌に戻る。刃は、さっきよりも軽くなった気がした。軽い刃は、余計に深く刺さる。

 背後で、何かが動いた。間宮の体ではない。扉でもない。通路の入口を、風が撫でた。誰かが、そこに立ったのだ。怜は振り返らない。振り返らないのは、選択ではなく、動作の欠落だった。振り返るための筋肉が、誰かに貸し出されたみたいに働かない。前を見る。穴を見る。穴の向こうで、銀のテープが、ゆっくりと、笑った。文字は変わらない。なのに、笑った。

 「やっと見えたね、私」

 耳のすぐ隣、皮膚のすぐ上、血管の薄い膜の裏で、その声は囁いた。怜は、刃を握り直した。刃の背で、自分の脈が小さく跳ねる。跳ねた脈は、通路の奥の足音と、壁の向こうの笑いと、地上の遠い救急車の音と、全部ひとつの輪になり、怜の胸の中で静かに回り始めた。輪は、止まらない。止める術は、まだ、ここにはない。


第5章 記録


 警察突入の翌朝、三〇二号室は静かに開いていた。バールでこじ開けた痕の周囲だけが新しい銀色を覗かせ、それ以外のすべてが夜の湿りをまだ含んでいる。玄関マットの埃は踏み荒らされ、靴底の痕がいくつも重なって、誰がどこから入ってどこで立ち止まったのかを語る。空気は冷たい。冷たいのに、鼻腔のいちばん奥にはかすかな甘さが残り、舌で触ると鉄の味が遅れて上がってくる。


 第一発見者でもある機動隊員は、廊下から一歩入ったところで立ち止まった。立ち止まらざるをえなかった。正面の壁——玄関からリビングへ抜ける短い廊下の右手の壁面いっぱいに、ポラロイド写真が幾何学にも似た配列で貼られていた。数百枚。百均の糊の薄い艶が、朝の白い光にだけ反応して、ところどころだけ濡れて見える。写真はどれも同じ大きさで、白い縁の下辺には細いペンで日付と時刻が書かれている。秒まで。息が詰まるのは、その正確さのためだった。


 写真は、住民の生活だった。買い物袋から乳製品を取り出す手。窓辺の観葉植物の葉の埃を指で撫で落とす老人の手つき。幼児の髪を結う母親の、利き手ではないほうの指のぎこちなさ。エレベーターの鏡の前でネクタイを締め直す男。洗濯室でタオルを乾燥機に入れる女学生。キッチンで包丁を研ぐ角度。ベランダで干したシーツの端をつまむ爪。全部に、時刻。全部に、距離。距離は近い。覗き穴の丸い縁が画面の端で半月の影になり、覗かれている側の呼吸の波まで読めるほどの近さがある。


 別の列には、死体があった。目を失くした顔。テープで封じられた口。銀の上に「見たものを、見返した」と記された文字。写真の白い余白に乾いた血の指紋が薄く触れているものがあり、指紋の渦が不自然なほど美しく写っている。撮影の手は、手が震えることを許されていないかのように、構図を保ち、水平を保ち、距離を保っている。プロの犯罪写真より正確で、ただ一点、情がない。情がない写真ほど、見た者の内側のどこかを切り取る。


 そして、怜自身がいた。玄関のドア前で俯く怜。ベッドで眠る怜。鏡の前で口角を半ミリ上げる怜。廊下の角で片手を胸元に当てる怜。穴を覗く怜。穴の向こうから覗き返す怜。写真によっては四隅に薄く黒い影があり、誰かがカメラの周囲を覆って撮ったことがわかる。そこに写る怜は、いつでも「見られるための怜」だった。見られることに最適化された顎の角度、肩の落とし方、瞳孔の大きさ。匿名の視線のために整えた「顔」を、匿名で自分が撮っている。


 室内は質素だった。ソファの座面にはうっすらと埃。テーブルの上にグラスの輪染み。薄いカーテンの裾は一箇所だけ不自然に焦げ、灰の粉が窓際に集まって小さな砂丘を作る。冷蔵庫の扉には管理会社の連絡先と、〈みまもりネット〉の初期設定手順がラミネートで貼られている。そこに、細い赤のボールペンで「自動投稿の規約はどこにある?」と書き足しがあり、その上から透明なテープが貼られていた。守るための保存。保存のための封印。封印のための透明。


 机の上には、分厚いノートが一冊。黒いビニールの表紙。端は角が削れて白い芯が見えている。ゴムバンドで留められていたが、バンドは伸び切って弾力を失い、ただの輪になって机の端に転がっている。表紙の中央に白いラベルが貼られており、整った字で〈みまもりネット 管理ノート〉とある。その字は怜のものだった。〈監視データ共有室〉で見た撮影記録の欄に並んでいた字と、筆圧も傾斜も同じだ。


 捜査員の手袋がノートを開く。最初のページに、導入直後のメモが貼られている。「住民説明会/記録は安心」「匿名での共有」「通報は善」。その下に怜の小さな付箋。「善の顔をした記録は、悪の速さで拡がる」。ページをめくるごとに、図表や間取りの簡易スケッチ、カメラの角度と死角、通知タイミングの波形、匿名アカウントの誤字の癖の一覧、その書き込み時間帯のヒストグラム、足音の高低のグラフ、インターホンのベルの余韻の秒数、電気の落ちる前触れの音に関する仮説、鏡の位置の推移、ベビーカーの音とスーツケースの音のスペクトル比較——怜は見えるものを全部数字に置き換え、見えないものを矢印に置き換え、矢印の行き先に仮の名前を置いた。仮の名前のなかには〈私〉もある。〈私〉から〈私〉へ跳ね返る矢印の多さに、ページの赤い付箋が密集している。付箋には「要注意」とある。注意して、止められたかどうかは書いていない。


 最後のページ。そこだけ紙の質が違う。薄く光る繊維が混ざっていて、指で触れると指紋の脂がすぐに残るタイプの紙だ。そこに、乾きかけの暗い赤で大きく文字が書かれている。「観察完了 記録者:柏木怜」。勢いよく書かれた「観」の左払いに指の腹が引っかかった痕があり、薄い線になって紙の下の机まで走っている。「完」の点は丸い。血は丸く落ちる。落ちる直前に空気を抱き込み、点の縁はふくらんでいる。捜査員はその丸さに目を留め、何秒か遅れて、喉の奥に水を上げ飲み込んだ。


 同時刻、全国のSNSに謎の動画が自動投稿された。投稿先はプラットフォームを問わず、短尺動画、写真投稿、長文、匿名掲示板のスレッド、個人ブログ、企業の広報アカウント、死んだはずのアカウント、削除済みのユーザーのタイムラインにさえ、秒差でほぼ同じものが出現した。タイトルは統一されている。〈監視マンション302号室〉。サムネイルは暗い廊下の一点。緑の非常口の光が遠くで滲み、手前の床に二重の楕円が薄く浮かぶ。再生は自動だ。音は小さく、最初は無音に近い。画面の左端から、怜が現れる。黒いパーカー、灰色のスウェット。歩幅は正確で、踵から着地する癖は変わらない。怜は廊下を歩き、突き当たりの白い壁に近づく。壁の黒い点——覗き穴の外側に開けられた穴——がこちらを向き、怜はそこにゆっくりと顔を寄せる。寄せる過程で、画面のフレームがほんの少しだけ膨らみ、そして縮む。まるで、画面そのものが呼吸しているみたいな動き。怜の左頬に薄い影が落ち、右目が、穴の暗さに吸いこまれる。


 動画はそこで切れず、そのまま穴の反対側へ切り替わる。切り替えにトランジションはない。位置が反転する。穴の中からこちら側を覗く視線。そこに映るのは、もう一人の怜。穴の向こうの怜がこちらをまっすぐ見ている。目は笑っていない。口元はほとんど動かない。赤い点が目の奥で微かに明滅する。カメラの録画ランプだ。赤は小さすぎるのに、画面全体の明暗を決める。赤の点の明滅は、視聴者の脈と知らぬうちに同期する。見ている人間の心臓が、画面の中の赤い点と一緒に跳ね始める。跳ねるのに、誰も痛みを感じない。痛みがないほうが深く同期する。


 コメント欄はすぐに満ちた。「本物の映像?」「事件記録?」「釣り」「やば」「通報した」「302」「こわ」。自動投稿は瞬時に通報され、削除のリクエストが重なり、同時に別の場所で複製が生まれる。切っても結節点は増える。消せないものは、消せないこと自体が価値になる。価値はハートと怒りの形を借りて数字になり、数字は画面の左下で早送りの時間みたいに増え続ける。誰かが「夢見そう」と書いた。「もう見た」と続く。嘘だと思った者も、今夜には理解する。夜の二時、誰もが同じ夢を見ることを。


 ——暗い部屋。覗き穴。自分の寝顔。


 夢は個人の記憶を乱雑に混ぜ合わせることをやめた。統一された脚本が配られ、配役は毎晩抽選される。最初は廊下。緑の非常口の光。床の二重の楕円。視線はたしかに自分のものだ。次に、穴。薄い冷気が瞼の周囲の皮膚だけを冷やす。穴の縁が頬骨の上に硬く当たり、耳の内側で血が折れるような音が微かにする。穴の向こう、寝室。自分が眠っている。寝顔は他人よりも他人だ。目は閉じて、口は半開き、喉の奥の湿りが規則正しく動く。白いシーツの縁。壁の時計。薄いカーテン。どこにでもある部屋。どこにもない部屋。見られている側の自分は動かない。動かないことが、見る側の自分にとって都合がいい。見る側の自分は息を殺し、しかし呼吸が穴の縁で揺れて、見られる側の自分の睫毛がその揺れにわずかに反応する。それを見た瞬間、目が合う。——目は閉じているのに、目が合う。合ったという事実だけが脳に焼き付いて、目覚める。


 目覚めると、天井の角にいつもより濃い影がある。影は深い。深いせいで、音が吸い込まれる。冷蔵庫のモーター音の高さが一段下がり、時計の秒針の滑りに細い段差ができ、遠くの救急車のサイレンが一瞬だけ尾を長くひく。スマホは手の届く位置に置いてあり、画面は伏せられている。表にしても通知は来ない。来ないほうが、喉が渇く。「見たものを、見返した」。夢のなかで銀のテープの文字が揺れ、その揺れを思い出す舌が乾く。水を飲みに台所へ向かい、蛇口をひねると、水の最初のひと筋が鉄の味を運ぶ。蛇口を閉めると、背中で誰かの息の音がする。振り返ると、誰もいない。いないのに、その「誰もいない」が、一晩で全員に共有される。


 警察は動画の発信源を探した。IPは偽装され、タイムスタンプは統一され、メタデータは改竄と自然の境界にうまく足をかけている。〈監視データ共有室〉のログは見つからない。見つからないが、存在は否定できない。否定ができないものは、生活の細部を侵食する。ベランダに出てシーツを干すとき、向かいの棟のガラスに自分が映る。映った自分は半ミリだけ口角を上げる。郵便受けの前に立ち、カタログを取り出す。手の甲を覗くように、どこかから丸い視線が差し込む。あるいは、反対に、自分の内側から壁に穴を開けて外を覗く感覚が生まれる。誰かの足音。小走り。スリッパ。革靴。運動靴。ベビーカー。スーツケース。音は聞き分けられる。聞き分けられること自体が眠りを浅くし、浅い眠りには夢がすぐに入る。夢のなかで穴の縁が頬に当たり、目は閉じたまま合う。


 302号室の机の脇、床にはポータブルのポラロイドが置かれていた。ラベルに「8×10」とある。フィルムの残量を示す窓は白い。空だ。空なのに、機械の内部でまだ熱が眠っている。撮影の直後だけ生じる、微かな樹脂の匂い。光を焼き付けたばかりの化学の残り香が、朝の冷たい空気にわずかな粘りを加える。ポラロイドの前の床に、スクラップの切れ端。記事の見出し。「目を奪う連続殺人」「カメラ狂いの主婦」「監視マンション」。見出しの周囲に赤いペンで丸がつけられ、矢印でつながれ、矢印の先に「拡散速度」「信頼度」「同情/嫌悪」と書かれている。文字は怜のものだ。怜は記録した。記録したうえで、記録を見ていた。見る自分を見られる自分で上書きし、上書きされた自分をもう一度見る手つきは、写真の白い縁よりも正確だ。


 警察官のひとりが、最後のページに書かれた赤い字をカメラで撮る。フラッシュは焚かれない。自然光のもとで、血の赤は褪せ、褪せているのに、黒より強い。撮影者は、レンズの奥で目を細める。まぶしいからではない。目の表面に、ごく薄い膜が張る感覚がしたからだ。膜は涙ではない。涙なら熱いはずだ。膜は、冷たい。鏡に指を置いたときの、あの膜。指を離すとすぐに元に戻るはずの、薄い、しかし確かな抵抗。抵抗は目の表面だけにあり、内側にはない。内側には、赤い点がひとつ生まれた。極小の、しかし明滅をやめない点。点はカメラの録画ランプに似て、似ているが、場所は瞳孔の奥だ。撮影者はシャッターを切る。音はわずか。現場の空気はその音を吸い込み、膨らませ、どこかへ持っていく。そのどこかで、誰かが二時に目を開ける。


 動画は一週間で「怪談」に分類され、二週間で「ミーム」に分類され、三週間で「都市伝説」に分類された。分類のラベルが変わるたび、再生数は一度落ち、そして別の層で増える。解説動画が生まれ、検証動画が生まれ、再現ドラマが生まれ、フェイクを暴くというフェイクが生まれ、証拠画像を集約するサイトが生まれ、ポラロイド写真のレイアウトを模したポスターが売られる。売り切れが出る。出たあとで、警察はそれらを証拠として押収しようとする。押収の通知が届く頃には、別の場所で同じものが刷られている。刷られた紙の白い余白に、子どもが赤いペンで丸をつける。丸の中心に点を置き、「これ、目」と言う。笑い声。笑い声の奥で、誰かが二時に目を開ける。


 「観察完了」。その完了は、終了ではなかった。完了は、起点だった。記録は終わらない。記録が終わらない理由は単純だ。見る者がいる限り、見られる者はゼロにはならない。見られる者がゼロにならない限り、見る者は増える。増える者は、記録者に変わる。記録者は、やがて被記録者になる。輪は閉じない。閉じない輪は、冷蔵庫のモーターのように、壊れない限り続く。壊れたあとさえ、余熱は残る。余熱は夢になる。夢は再生になる。再生は通知になる。通知は、赤い点で表される。赤い点は、瞳の奥で瞬き続ける。


 最後の夜、誰かが見た夢では、怜が血まみれの鏡の前で笑っていた。鏡の枠は木目の細い茶色で、縁に指の跡が走り、そこだけ赤が乾いて黒に近い。怜の髪は濡れて肩に貼りつき、黒いパーカーの胸元は濡れて重く沈んでいる。顔には飛沫の点が散り、飛沫のひとつひとつが反射する白い点を持っている。その白い点の群れが、怜の笑いを星座のように取り囲む。怜はゆっくりと顔を上げ、鏡のこちらを見る。目は深い。深さの底で、赤い点が瞬いた。カメラの赤い点だ。点は一度だけ強く光り、すぐに弱くなり、また強くなる。呼吸のように。見る者が息を吸い、吐くたびに、点はそれに合わせて光る。合わせるのは、点のほうではない。見る者のほうだ。見る者が、合わせにいく。合わせたいのだと、はじめて気づく。


 その翌朝、三〇二号室の写真は、剥がれ始めた。剥がれた写真の角は反り、床に落ち、白い余白が見せる空虚は、逆に現実をぎゅっと凝縮して見せた。捜査員はそれらを袋に入れ、ラベルを貼り、封をした。封の上から透明のテープを貼り、テープの端を折り返し、あとで剥がしやすいようにする。その折り返しは、奇妙に人間的な配慮に見えた。配慮は、ひととき、記録の冷たさを和らげる。和らげられた記録は、しかし夜になればまた冷たさを取り戻す。取り戻した冷たさは、扉の隙間から床に薄い風を吹きつけ、誰かの足の甲の産毛を逆立てる。逆立った毛は感覚を研ぎ、研がれた感覚は穴の縁を求める。穴の縁に頬を当てると、そこにはもう、誰の息もない。


 〈観察完了〉。ページは閉じられた。閉じられたのに、どこかで同じページが開かれる。開かれたページの白い余白に、細い赤のボールペンの点がひとつ置かれ、その点から細い線が伸び、線は言葉になり、言葉は規約になり、規約は透明に貼られ、透明は光を通す。光は、目を通す。目は、見返す。


 その瞳の奥で、カメラの赤い点が、またひとつ——確かに——瞬いた。


〈了〉

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