第1話「つまんねぇ世界」
──東京湾を一望する高層ホテルの最上階。
豪華なシャンデリアが輝き、磨き抜かれたグラスが並ぶ。
西来路グループ創立六十周年を祝うパーティーは、政財界・芸能界の名士たちで溢れ返っていた。
壇上に立つのは、西来路グループの現総帥・西来路剛。
堂々たる体躯に深い声で、ゆっくりと語り始める。
「本日はお忙しい中、我が西来路グループのためにお集まりいただき、誠にありがとうございます——」
拍手が起きる。
誰もがグラスを掲げ、完璧な笑みを浮かべていた。
その一角で、ひとりの青年の姿が見えないことに気づく者がいた。
弟の**西来路彰人**だ。
「……あれ? 兄さん、どこいったんだ?」
周囲を見回し、すぐにため息をつく。
「またか……」
——その頃。
ホテルの屋上。
夜風がワインの香りを運び、煌びやかな都会の灯りが遠くに瞬いていた。
パーティーの喧騒から逃げ出した青年が、手すりにもたれながらグラスを傾けている。
西来路優雅。
西来路グループの長男にして、将来を嘱望された跡取り。
完璧なスーツに整った顔立ち、だがその目には一片の興味も宿っていない。
「……つまんねぇ」
傍らに立つ執事が、控えめに声をかける。
「若様、もうすぐご挨拶のお時間です」
「でねぇよ。あんな茶番」
「……かしこまりました」
執事が一礼して下がる。
優雅はワイングラスをくるくる回しながら、空を見上げた。
「はぁ〜……暇だなぁ」
そこへ、ドアが開く音。
軽やかな足音とともに、弟・彰人が現れる。
「いたいた。兄さん、もうすぐスピーチだよ?
西来路グループの跡継ぎとして、ちゃんと挨拶しないと」
優雅は笑いもせず、肩をすくめた。
「彰人……お前がやれよ」
「は? 何言ってるんだよ」
「別に俺がやっても、お前がやっても同じだろ?」
彰人は困惑の表情で兄を見つめる。
彼にとって、兄は何でもこなす“完璧な人間”だった。
だからこそ、今の投げやりな態度が理解できない。
「確かに僕も兄さんと同じ教育を受けてきたけど……兄さんが継ぐべきでしょ」
「いいんだよ、こんなの」
「どうして? 何が不満なの?」
優雅は、グラスを置いてゆっくりと立ち上がった。
夜景を背に、目を細める。
「なぁ彰人。お前は家を出たいと思ったこと、あるか?」
「え? いや、ないよ」
「……それはな、“つまんねぇ”って証拠だ」
彰人は言葉を失う。
優雅はネクタイをゆるめ、笑うでも泣くでもない顔でつぶやいた。
「この世界、全部決まってんだよ。
生まれたときからレールの上。息苦しいくらいにな」
「兄さんはこれからどうするの?」
「さぁな。だけど……ワクワクしてきた。
なぁ彰人、俺たちの人生に“家出”なんて選択肢、あったか?」
彰人の瞳がわずかに揺れる。
「……本気なの?」
「あぁ。本気だ。
またな、彰人。お前はお前で、しっかりやれよ」
優雅はそう言って笑い、屋上を後にした。
風が吹き抜け、グラスの中のワインがゆらめいた。
——その頃、パーティー会場では。
執事・渡辺が、剛のもとに静かに歩み寄る。
「……旦那様。優雅様が」
「どうした?」
「ご自身の代わりに、彰人様を跡継ぎにと。
それと……“出る”と」
剛は眉をひそめ、短く息を吐いた。
「……あの馬鹿め」
「いかがなさいますか?」
剛は少し考え、グラスを置いた。
「好きにさせろ」
その言葉のあとに、静かに続ける。
「……渡辺。優雅について行ってやれ。
あの世間知らずが、まともに生きていけるわけがなかろう」
「かしこまりました」
パーティー会場に、再び拍手が響く。
その中に、優雅の姿はもうなかった。
──“西来路優雅”の人生が、本当の意味で動き出したのは、この夜だった。




