駄菓子屋のピンク電話
駄菓子屋「かねこや」
東京の下町、細い路地に小さな駄菓子屋「かねこや」がある。商品台や棚にはラムネ瓶、ベビースターラーメン、赤い酢イカを入れたボトルなどが並び、奥には店主の房子ばあちゃんが座っている。その隅にピンク色の公衆電話が置かれているが、これは使えない。なぜなら、どこにも繋がっていないからだ。
電話機上の壁には、「遊び方」が貼られている。それによると、受話器を取って1円でも500円でも、硬貨を1枚入れるとトーンが聞こえるので、過去でも未来でも聴きたい日付を西暦で8桁の数字をダイヤルする。すると、その日に起きた(または起こる)ことが10秒間聞こえるという。
「仕掛けなんて、ばあちゃんには分からないよ。ただ、みんな面白がってくれるから置いてるだけさ」
房子ばあちゃんは、笑って言う。
たとえば、小学生の真くんは、20150614とダイヤルして、母さんが赤ん坊の自分を抱いて笑う声を聞いた。大学生のリサは20560222とダイヤルして、「地球周回軌道上、第3コロニー完成式典を開始します」というアナウンスを聞いた。子供も大人も面白がり、駄菓子屋は賑わっていた。
姉の誕生日
ある日、常連の中学生、修がやってきた。彼は最近、病気で入院している姉のことが心配で仕方なかった。
「…姉ちゃんが治ってる未来、聞けるかな」
そうつぶやきながら、修は10円玉を入れ、ダイヤルを回した。数字は20260815。姉の誕生日だ。受話器から、少し雑音まじりの音がした。
「…ありがとう、修。あの日あなたがあの手紙を置いてくれたから、私は…」
そこでぷつりと切れた。10秒経ったのだ。修は首をかしげた。
「あの日の手紙…? なんだそれ」
その夜、家に帰ってからも気になって仕方ない。翌日、彼はまた「かねこや」へ行き、今度は20250814をダイヤルしてみた。
「…明日は誕生日だけど、もし誰も覚えてなかったら…」
声は沈んでいて、受話器の向こうの姉が泣きそうになっているのが分かった。修はハッとした。
(未来の8月15日に姉ちゃんが言ってた“あの日の手紙”って、このことか?)
そして修は、次の日の早朝、便箋にこう書いた。
「姉ちゃん、誕生日おめでとう。来年も、再来年もずっと祝うからな」
枕元にそっと置いたその手紙は、姉に届いたのだった。
しかしそれから数日後、町に小さな異変が起こり始めた。駄菓子屋で遊ぶ子供たちが「昨日ダイヤルした未来と、今日見た現実が違う」と言い出したのだ。天気が変わったり、予定が消えたり、人間関係が変わっていたりするという。電話で聞いた情報をもとに、ある行動をすると、それに合わせて現実が少しずつ変わってしまうのだろうか?
駄菓子屋のピンク電話は今日も隅に置かれ、誰かが硬貨を落としては、見えない時間の糸をそっと震わせている。
あの日の音
ある夕方、くたびれた作業着を着た男が「かねこや」に入ってきた。歳は40代半ばくらい、作業着と同じように疲れた顔色をしている。
「これが…その、変な電話か」
店主の房子ばあちゃんが笑う。
「好きな日にかけられるよ。お金は1円でもいい」
男は黙って100円玉を入れ、ダイヤルを回した。数字は20060312。彼が20代の頃の日付だった。
受話器の向こうから、周囲の音と人の声が聞こえる。
「おい!危ない!」
ガシャーンとガラスの割れる音、その後、短い悲鳴。そして、ぷつりと切れた。男は受話器を握りしめたまま、顔色を変えた。その日、彼の恋人は歩道で事故に遭って亡くなったのだ。彼は、約束の時刻に遅れたせいで、彼女が立っていた場所にいなかった。
(今の声…俺じゃないか?)
翌日、男はもう一度店を訪れた。100円玉を入れて、今度は20060311、事故の前日をダイヤルした。
「…明日は早く来てよ。待ってるから」
恋人の笑い声が聞こえた。男の胸に、何かがこみあげた。
(もし、あの日に戻れるなら…)
そして三度目の挑戦。男は再び20060312をダイヤルし、今度は受話器に向かって叫んだ。
「そこから動くな!角の店で待ってろ!」
受話器の奥で、一瞬だけ息を呑むような間があり、そして雑音。10秒が過ぎ、回線は切れた。
その瞬間、男は奇妙な感覚に襲われた。駄菓子屋の壁が変色し、外の路地の照明も変わった。ポケットからスマホを取り出すと、そこには見知らぬ番号が登録されていた。名前は「美咲」。20年前亡くなった彼女の名前だ。
震える指で電話をかけると、明るい声が返ってきた。
「もしもし?今日仕事早く終わるの? ごはん一緒に食べよう」
男は、目の前のピンク電話をぼんやり見つめた。
美咲の声を聞いたあの日から、隆の毎日は一変した。20年前に事故で失った恋人は、現実の中で生きている。部屋には二人の写真、冷蔵庫には二人分の食材、机の引き出しには結婚指輪のケースがある。しかし隆は、この世界の出来事を知らない。たとえば、二人がいつ結婚したのか、去年どこに旅行したのか。美咲が楽しそうに話す思い出に、隆はただ笑って合わせるしかなかった。
ある夜、ふとした拍子に美咲がこう言った。
「そういえば…あの日、隆が急に電話くれたじゃない? 『そこから動くな』って。あれ、どういう意味だったの?」
隆は一瞬、息をのんだ。しかし「覚えてないな」とごまかすしかなかった。美咲は不思議そうに首をかしげたが、それ以上は追及しなかった。
それから数日後、美咲は仕事で外出したまま帰ってこなかった。スマホに着信履歴はなく、連絡もつかない。不安に駆られた隆は美咲の会社や知人に問い合わせたが、手掛かりはなかった。途方に暮れた彼の目に、あの駄菓子屋のピンク電話が浮かんだ。
(…また聞けば、どこにいるか分かるかもしれない)
隆は夜の路地を駆け抜け、「かねこや」に飛び込んだ。房子ばあちゃんは不安げに見ていたが、何も言わない。隆は500円玉を入れ、20250808――今日の日付をダイヤルした。
「…あれ? なんであなたがここに?」
美咲の声。その直後、低い男の声が混ざる。
「動くな」
受話器の奥で、カツン、と硬い金属音が響いた。そして回線は切れた。隆は震えながらもう一度ダイヤルしようとしたが、ダイヤル周りの数字が見慣れない記号に変わっていた。円や線が入り組んだ幾何学模様になっている。
「…なんだこれ…」
房子ばあちゃんが背後で呟く。
「時間はね、一度いじると、声が反響するんだよ。誰の声だか…分からなくなる」
隆は振り返った。しかし、奥にいたはずの房子ばあちゃんは、どこにもいなかった。
未来からの声
ピンク電話のダイヤルは、数字の代わりに奇妙な記号に変わっている。円、三角、波線、十字…、どれも意味が分からない。だが、指先が勝手に動き、その記号をダイヤルしていた。
受話器から、ノイズの奥に低い声が聞こえた。
「…聞こえるか、隆」
思わず息をのむ。それは間違いなく、自分の声だ。だが少し枯れていて、年齢を重ねた響きがある。
「お前…誰だ」
「十年後のお前だ。…いや、お前だったというべきか」
声は、淡々と告げた。
「今日の夜8時までに晴海ふ頭客船ターミナルへ行けば、美咲は助かる。だが、それを選べば代わりに別の人間が死ぬ。選ばなければ、美咲は二度と戻らない」
「なぜ俺にそんなことを…」
「俺が失敗したからだ」
隆は必死に問い質したが、返事はなかった。代わりに、未来の自分は奇妙な数字列を告げた。
「13、27、04、08… これは、リセットする番号だ」
回線は切れた。
隆は「かねこや」を飛び出し、暗い路地を走った。だが、脳裏には未来の自分の声がこびりついて離れない。
(十年後の俺が失敗した…?一体どういう意味なのだ…?)
晴海ふ頭へ急ぐ途中、スマホに知らない番号からの着信があった。
「…隆さんですね? あなたへの未来からの伝言を預かっています」
機械のように冷たい声だ。
「お前は…誰だ」
「未来のあなたを監視するために作られた存在です。ピンク電話に、これ以上触れてはいけません」
ノイズ混じりの音声は、最後にこう付け加えた。
「…あなたはもう、一人ではありません」
晴海ふ頭客船ターミナルに近づいた時、時計は午後7時52分を指していた。あと8分で未来は変わる。隆はピンク電話を思い出し、未来の自分と監視者の声が頭の中で交錯した。
──助けるか、見捨てるか。
──未来を信じて決断するか、運命に従うか。
そして、その選択を下す瞬間、隆の視界は白く塞がれた。
時間の外側
白い閃光のあと、隆は自分が立っていたはずのふ頭から消えていた。足元には地面がない。かわりに、透明な水面のようなものがどこまでも広がり、その下には膨大な数の場面が流れていくのが見える。学校の廊下で笑う子供たち。夕焼けの駅で別れを告げる二人。雪の中を走る救急車。…それは、現実の断片のようでいて、すべてが水底の魚のように揺らいでいた。
耳元で、複数の声が同時にささやく。
「13…27…04…08…」
「港へ行け…港へ行くな…」
「これ以上、繰り返すな」
隆は水面に手を伸ばす。触れた瞬間、冷たさと同時に重さを感じた。それは時間の重みだった。何度も繰り返された選択、やり直された瞬間、そのすべてが層をなし、彼の指を押し返してくる。遠くに、ピンク色の電話がぽつんと立っている。だが、それは駄菓子屋の片隅のものとは違い、受話器が無数に垂れ下がっており、それぞれが違う時間へと通じているようだった。一本の受話器が勝手に揺れ、隆の方を向いた。
「やっと来たな」
それは未来の隆の声だった。しかし、以前聞いた十年後の声よりもさらに老いて、疲弊している。
「ここは…どこなんだ」
「時間の外だ。お前が選ぶたびに、その結果がここに蓄積される」
隆の足元の水面に、何百という港の夜が映る。美咲が助かって笑う夜もあれば、息絶えている夜もある。だが、なぜか助かった未来のほとんどで、隆自身が別の形で命を落としていた。
「俺たちは何度も選び直してきた。だが、どの選択も代償を払わなきゃ成立しなかった」
「じゃあ…正しい選択はないのか?」
「ない。ただ…一つだけ、外から全部を変える方法がある」
未来の隆は、遠くにある巨大な円環を見るよう促した。それは光と影が交互に回転し、空間そのものを削るようにゆっくりと回っている。
「あれを通れば、時間そのものを初期化できる。ただし――」
その言葉の続きを聞く前に、別の声が割り込んだ。
「やめろ、隆」
振り返ると、あの監視者の声の主がいた。黒いスーツを着た、識別不能な顔立ちの人影。
「外から全部変えたら、お前も、美咲も、この町もなかったことになる。存在ごと消えるぞ」
未来の自分と監視者、二人の声が隆の頭の中でぶつかり合う。足元の水面では、美咲が助かる未来と失われる未来が交互に映し出されている。隆は、ゆっくりと手を――円環の方へ伸ばした。
初期化
隆は未来の自分と監視者の声を同時に聞きながら、透明な水面を滑るように歩き、ゆっくりと円環へ向かって進んだ。
「行け、隆。ここで選べば終わる」
「やめろ、すべてが消える」
二つの声は、だんだんと意味を失い、ただの振動のように耳の奥で混ざりあった。隆の心臓は、まるで時間そのものと同期するかのように、重く打ち続けた。円環の中心は眩しい光と、深い闇が交互に明滅していた。一歩踏み込むと、足元の水面が割れ、全ての場面が砕け散った。笑う美咲も、泣く美咲も、見知らぬ街も、血に染まる港も、すべてが光に飲み込まれた。
次に目を開けたとき、隆は小さな路地の真ん中に立っていた。頭の中は空っぽで、何をしていたのか思い出せない。目の前には、古びた駄菓子屋がある。だが、奥にあったはずのピンク電話はない。店内を覗くと、房子ばあちゃんが帳簿をつけている。
「おや、あんた初めてだね」
「…ああ。初めて、だと思います」
隆は奥の棚を見回す。駄菓子が並ぶ中に、ラムネ瓶があった。その瓶の中のビー玉が、かすかにピンと鳴った気がした。
店を出た隆は、歩道を行き交う人々の中に、ふと美咲を見つけた。知らない服装、知らない髪型、知らない笑顔。そして、彼女は隆のことをまったく知らない様子で、軽く会釈をして通り過ぎた。隆は胸が締め付けられた。そして、どこかで小さなベルが鳴るのを聞いた。見回すと、路地の奥の影の中に、あのピンク色の公衆電話が置いてある。垂れ下がった受話器は揺れ、ゆっくりと隆の方を向いた。
「聞こえるか、隆。…また始まるぞ」
その瞬間、頭の奥に微かな既視感が走った。彼は知らず知らずのうちに、電話へ向かって歩き出していた。「13…27…04…08…」をダイヤルするために...。
<終わり>