みずのおんな
「もっとロマンチックな部屋だとばかり思っていたわ……」
磨き終えたばかりの窓にべったりと頬を寄せて佑里絵がつぶやいた
ため息が露気となって板ガラスに白いもやを描く
荷ほどきのため段ボール箱へカッターを入れていたおれは苦笑しながら尋ねた
「へえ どうしてそう思ったんだい?」
「あなたから送られてきたメールよ リバーサイド・マンションだなんて書いてあるんですもの」
「こういう安アパートにかぎって大仰な名まえをつけるものさ」
「川なんてどこにも流れてないのにね」
「いや あることはあるらしいよ ただ 今は暗渠になっていて地上からは見えないんだ」
「ふうん……」
春の人事異動で隣町にある小さな営業所へ転属になった
慣例で入社して三年目には異動があると聞かされていたが もっと遠いところへ飛ばされることを覚悟していたおれは正直ホッとした
ここも辺鄙な土地であることに変わりないが 近くには役場もあるし病院や商業施設だってある
やっと借りられたのがこのボロアパートであることを除けば 意外と住み心地は良さそうだった
衣類を詰め込んだ箱を開く
掃除にも飽きたらしい佑里絵は さっきから窓のそとばかりながめていた
「ねえ 小型船舶の免許って取るの難しいかしら」
「どうして?」
「パパのヨットを借りるのよ そうすれば海から会いに来られるでしょう」
南むきの窓からは四車線の国道とその両がわに軒をつらねる商店街が見わたせた
色あせたアーケード街の向こうを少しくだった先には おそらく海岸線がひらけているはずだった
さっき車から降りたときにも かすかに汐の香りがしていた
「ヨットハーバーがあるのはここから三キロも先だよ どのみち車が必要になる だったら最初から国道を運転してきたほうが早いと思うがね」
佑里絵はガラスにおでこをくっつけたまま唇をとがらせた
「シンちゃんはロマンがないなあ」
おれは備えつけの洋服ダンスに衣類を移しかえながら冬物のセーターを圧縮袋へ入れたままにすべきかで迷っていた
四月といっても北海道のことだ
夜になればまだけっこう冷え込む
「ねえ ちょっとあれ見てよ」
佑里絵が窓のほうを向いたままでおれを手招いた
仕方なく積みあがった荷物をまたいで彼女のとなりへ移動する
埃っぽい部屋のなかでそこだけ石鹸のように甘やかな香りがしていた
「ほら あそこ……」
佑里絵が指さす先には十階建ての分譲マンションがあった
マンションはわずかな緑地帯をはさんでこのアパートと背中合わせに建っている
「五階の……右から四番目の部屋よ」
おれは一階から順番に窓を数えあげ やがて佑里絵の指し示す部屋を探しあてた
「うん? ベランダに子どもがいるな」
「小さな子どもが どうしてあんなところにいるのかしら」
佑里絵は先月大学を卒業して念願の教員免許を取得したばかりだった
「なんだか悲しそうな顔をしているわね」
「そうかな ここからじゃ表情まではわからないと思うけど」
急に彼女はおれの目を見つめて言った
「虐待じゃないかしら 母親に締め出されたのよ きっとそうに違いないわ」
「まさか 考え過ぎだよ」
「児童相談所へ通報しなくちゃ――」
佑里絵がわきへ置いてあったスマートフォンをつかんだのでおれはあわてて止めに入った
「待てよ まだ虐待と決まったわけじゃないだろう」
「シンちゃんみたいな無関心な大人が児童への虐待を助長させているのよ」
「どうしてきみはいつもそう考えが飛躍するんだい さあ電話をこっちへ寄越しなさい」
「いやよ 離してっ」
スマートフォンを奪い合ううちおれはいつの間にか佑里絵の体を畳のうえに組み敷いていた
ちょうど自分の右ひざがミニスカートからのぞく彼女の太ももを割るかたちとなっている
「なにするの やめてよ……」
荒い息をつきながら見つめる佑里絵の瞳がしだいに潤みをおびてゆくのがわかった
女は発情すると体臭が変わる
その変化が伝播するのかおれもすっかり欲情していた
「ゆ 佑里絵……」
まず布団から荷ほどきしておくべきだったことを後悔しつつ おれは佑里絵の肩を抱いた
ほっそりした腕がおれの首へ絡みついてくる
目をとじた彼女の唇に自分のそれを重ね合わせようとした――その瞬間
強烈な視線を感じて二人同時に窓のほうを振り返った
「やだ あの子ったらこっち見てるわよ」
ベランダの子どもが手すりから身を乗り出し双眼鏡でこちらをのぞいていた
右手には小さくガッツポーズ
「なんだよ かぶりつきじゃないか」
「やらしいわねっ」
おれたちはあわてて身を離した
佑里絵が乱れたスカートのすそを直す
おれは立ちあがろうとして股間に痛みをおぼえ とてもじゃないが立ちあがれる状態ではないことに気づいた
仕方なく部屋のすみまで這って逃げる
「こりゃ早く片づけちまったほうがいいな」
「わたしおトイレの掃除してくるっ」
おれたちは いそいそと引越しのあと片づけを再開した
洋服ダンスを閉じて段ボール箱をたたみ終えたとき もう一度窓のほうを振り返ってみた
ベランダの子どもはもういなくなっていた
かわりに板ガラスへ押しつけられていた佑里絵の口紅のあとが 午後の陽ざしにくっきりと浮かびあがって見えた