楼園千種
翌日、目を覚ますと一緒のベットに寝ていたはずのユメリの姿がなかった。
リビングに行くと、クッションに座ってぼーっとしている。
クラリスが持ってきたパジャマから、昨日と同じまた熱そうな服に着替えていた。
テーブルの上には空になったリンゴジュースの瓶が一本。
「もう全部飲んだのかよ。好きなんだなリンゴジュース」
見ればユメリの傍らに、栓を開けてないリンゴジュースの瓶が一本置かれている。
「あけて」
それを両手で持って差し出してくる。
栓抜きを使わないと開けられないフタで、どうやらユメリは栓抜きを使えないようだ。
栓を開けてコップに注いでやると、小さな喉を鳴らして飲み始めた。
「俺も何か食うか」
先に顔を洗ってキッチンに立つ。
が、何かを作る意欲がない。
普段ならハムエッグでも作ってるところなのに、昨日の疲れからか、フライパンを持つのすら億劫だ。
「パンだけでいいや」
昨日買ってきた食パンをさっそく二枚トースターに入れてほんのり焼き上げる。
俺はカリカリに焼くよりも、少し焦げ目がついた程度に焼く方が好みだ。
「ほら、お前のぶん」
「いらない」
パンを置く前に断られた。
昨日もそうだったけど、ワガママな奴だな。
「お前ね、ジュースばっかり飲んでないで少しは食えよ。人ん家で飯を用意してもらって断るなんて礼儀知らずだぞ」
「レイギなんてしらない」
……どんだけワガママに育てられてんだ。
「いいから食え。次からお前のリクエスト聞くから、今は我慢しろ」
「いらない」
頑として食べようとしない。
トーストを見ようともしないあたり中々手強い。
「あのな、昨日から何も食べてないじゃないか。具合悪いわけじゃないだろうし、何か食わないと体に悪いぞ」
人間じゃないとしても、こんな小さい子が何も食べてないとこっちが気になるじゃないか。
「わるくない」
こいつ、人が心配してやってんのに。
「じゃあ何が食べたいんだ? いま作れるものなら作ってやるから言ってみろ」
「なにもたべない」
「なにも食べないってお前、それじゃあ今までなにを……」
ここにきて俺の勘違いかもと気づく。
「……本当に何も食べないのか?」
人間じゃないのなら、俺たちの常識は通用しない。
なら食生活そのものが違っていたらどうなのか。
「うん」
ユメリは当たり前のように頷いた。
「じゃあお前、今までどうやって生きてきたんだよ?」
何を摂ってこいつはここまで成長したんだ?
ユメリは首を傾げて答えない。
答えが複雑だからか、質問の意味が分からないのか。
「えっと、そうだな、例えば腹が減ったりしないのか?」
「おなかへる」
まあ、それは昨日の時点でわかってたことだ。
「そういうときは、どうやって腹を満たしてたんだ?」
ユメリの視線がリンゴジュースに移る。
「これ」
と指さした。
「ジュース?」
「ちがう。『りんご』じゅーす」
そこは強調するとこなんだ。
「リンゴジュースだけで腹いっぱいになるのかよ?」
ユメリは即答でうんと頷いた。
仮に腹いっぱいにはなるかもしれないけど、ジュースだけじゃどうやっても生きていけないだろ。
でも本人がそう言ってるし、こいつ人間じゃないし……マジなのか?
「食い物は食べたことないの? 食い物ってのは、そうだな、固形物で……このパンとかラーメンとか、ケーキでもいいぞ」
「たべない」
『食べたことがない』ではなく『食べない』という食の否定。
ユメリには俺たちのような食事は必要ないようだ。
「……そうか、食べないのか。まあ、それなら無理に食べさせたりはしないけど、さすがにそれだけじゃ飽きるだろ? 他のジュースだってあるんだぞ?」
「これだけでいい」
本人がそう言うなら強制はしないけど。
ジュースだけで生きられるなんて信じられないけど、こいつらに驚かされるのは今に始まったことじゃない。
いちいち驚いて説明を求めてたらそれこそキリがないので追及は避けるが……いやほんと、マジかよ。
■ ■ ■ ■ ■
そして午前十時。
せっかくの休日なのに、開店したばかりのデパートで買い物をしていた。
手に持つビニール袋の中にはリンゴジュースの瓶が二本。
それを両手に一袋ずつ、計四本のジュースを持って歩いていた。
言うまでもない、ユメリの『食料』である。
ユメリがコレしか飲まないと言うので、早急に買いに来たわけだ。
クラリスの忠告もあり、あいつは家で待たせてある。
ちなみにクラリスも何も食わないのかとユメリに訊いたら、あいつは俺たちと同じように食事をするそうだ。
ただそれは味覚を楽しんでいるだけで、本来はクラリス自身も食事は必要ないらしい。
それに広義的とは言ってたものの、人間を食事に見立てていることを忘れてはいけない。
どうしてるのかなんてわからないが、もしかしたら今もどこかで誰かが犠牲になってるんだろうか?
それを考えただけで気分が重くなる。
ユメリはジュースしか飲まないし、まったく非常識な奴らだ。
「おーい、水衛くーん」
特に用事もないし、さっさと帰ろうと思ってたところに声を掛けられた。
聞き覚えのある声に即座に振り返る。
「南雲じゃん」
胸元に小さなハートがプリントされた白シャツに、短めのデニムスカート。
私服姿の南雲を見て、不覚にも少しドキッとした。
もちろん表情には出さない。
「昨日学校サボってた人が何してるのかな?」
南雲の視線は、俺の持つビニール袋に注がれていた。
「ちょっとジュースを買いに」
袋を持ち上げて中身を見せる。
「あー、ユメリちゃんの飲み物か」
その言葉に心臓が跳ね上がった。
……落ち着け。
南雲がユメリを知ってるのは昨日の時点で承知済みじゃないか。
彼女は『以前からユメリを知ってる』んだ。
ここで動揺したら変な目で見られてしまう。
「そ、そうなんだよ。あいつ、ジュース飲むのが早くてさ、すぐ無くなっちゃうんだ」
はははと笑う自分が虚しい。
「ユメリちゃん、リンゴジュース大好きだもんね」
南雲の笑顔は本物だ。
それが余計に俺の心を絞めつけた。
誰もがあいつらの都合のいいように操作されてる。
そう思うと苦しくてたまらない。
「水衛君?」
「あ、ごめん……ちょっとこれ重くてさ。ところで、その、南雲ってユメリと仲良かったっけ?」
南雲にとってはおかしな質問だろうが、俺にとっては二人がどの程度の関係なのか知っておく必要がある。
一瞬の沈黙の後、彼女は笑って答えてくれた。
「この前ユメリちゃんと一緒に遊んだばっかりじゃない。あたしは仲良しだって思ってるんだけどな」
敦もユメリと遊んだことがあると言っていた。
俺がユメリと暮らしているという設定は、同時に俺と関わりのある人たちに『ユメリと会った事がある』という追加設定も施してくれているわけだ。
こりゃいちいちユメリのことを説明しなくていいわけだねちくしょう!
「あれ? あそこにいるのユメリちゃんじゃない?」
「えっ!?」
南雲の視線を追うと、近くの歩道をユメリが一人で歩いていた。
青い髪に大きなリボン。
三十度を超える気温の中、冬の装いで平気な顔をしている。
「あいつ! なんでこんなところに!」
自転車で二十分以上掛かるのに歩いてきたってのか!?
デパートから飛び出し、慌ててユメリに駆け寄る。
袋の中に入ってる瓶がカチャカチャ鳴ってうるさいし重い。
俺が駆け寄るよりも早く、ユメリが先にこっちに気づいて立ち止まった。
「お前なにしてんだよ!? 家で待ってろって言っただろ!」
首を傾げて、なんで怒られてるのか分かりませんという顔。
「そんな顔してもダメだぞ。どうして出てきたんだ?」
「でたかったから」
ああそうでしょうよ。
出たくもないのに出てこねーだろうよ!
「俺が聞きたいのはそういうことじゃ――」
――っ!
瞬間、言いようのない寒気が全身を走った。
まるで鋭利な刃物を喉元に突き付けられているような緊張感。
突然のことに思考がついていかない。
体は危険を察知しているのに、頭の中は混乱している。
偶然だった。
偶然向けた視線の先に、その女がいた。
シンプルなホワイトピンクのシャツとジーンズにスニーカー。
茶髪の長髪を後ろで束ね、気の強そうな顔立ち。
歳は俺と同じくらいに見える。
その視線はまっすぐ俺を捉え、なぜか険しい表情で睨んでいる。
――あいつだ。
なぜ特定できたのか自分でもわからないが、体に刺さるような敵意はあいつのものだ。
「水衛君、足はやいよ……」
「え?」
追いかけてきた南雲に気を取られ、一瞬目を離した隙に女の姿が消えた。
「そんなに……はぁ……急いで走らなくても、いいじゃない」
息も切れ切れに、南雲はユメリに「おはよう」と笑顔を向いけている。
二人のやり取りを見ている余裕なんてなかった。
今の女……もしかしてクラリスが言ってた『彼女』じゃないだろうな?
嫌な予感がする。
今は姿が見えないが、あんな睨み方をされたんだ、それだけで済むとは思えない。
勘違いならそれでいい。
もしそうじゃないとしたら、俺とユメリは早くも命の危険に晒されていることになる。
ユメリは南雲に話しかけられていて、さっきの女に気づいてる様子はない。
そもそも、ユメリに危機感というものがあるのか不安だ。
「悪い、ちょっと急ぎの用事があって俺たちもう行くよ」
せっかく南雲に会ってもう少し話をしたい気持ちを殺し、とっさに嘘を吐いた。
荷物を片手に持ち替え、ユメリの腕を引っ張る。
「え? あ、そうなの? それじゃユメリちゃんまたね」
ばいばいと手を振る南雲にユメリも無言で手を振り返していた。
「お前さっきの奴に気づいたか?」
自転車置き場まで移動したところで確認をする。
ユメリは訊かないと何も言わないから、もしかしたらさっきの女に気づいていたかもしれない。
「?」
しかし首を傾げるだけ。
「お前ってさ、敵が近くに来たら感知するようなことってできないの?」
「てき?」
「クラリスが言ってた『彼女』ってやつだよ」
「ヴィオラのこと?」
クラリスよ。
教えると危険だからと、あえて言わなかった奴の名前をお前の妹はあっさり漏らしたぞ。
まあ顔は知らないし、名前を聞いたくらいじゃそこまで心配することはないか。
「そうだな、たぶんそのヴィオラって奴だ。そいつが近くに来たらわかるのか?」
それがわかるかどうかでだいぶ違う。
「わかる」
「おお! わかるのかよ!」
驚き半分、嬉しさ半分。
「じゃあさっきはそいつの気配はなかったんだな?」
「うん」
「そっか、じゃあさっきの奴は何をあんなに睨んでたんだろうな」
一安心してリンゴジュースを自転車のカゴにいれようとした時――
「わたしのこと?」
「うわあぁ!」
その女が突然隣に立って話しかけてきた。
「さっきは失礼。つい感情が先に走っちゃって」
女は俺に声を掛けながら、キツイ視線はユメリに向けている。
思わず間に入ってユメリを隠すと、それが気に入らなかったのか今度は俺を睨んできた。
「面倒な話はしたくないから簡潔に言うわ。そいつを渡して」
女がユメリを指す言葉はとても冷たかった。
まるで物を扱うかのように。
「いきなり現れて、お前誰だよ?」
俺の言葉に目を細める。
「別に誰だっていいでしょ? いいからそいつ渡して」
声に強みが帯びる。
こいつがどんな理由でユメリを渡せと言ってるのかはわからない。
けどそんな態度で、わかりましたと素直に応じれるほど俺は心が広くない。
「あんたさ、そいつにとり憑かれてるんでしょ? 自覚が無いなら無理やり引き離すけど、自覚してるんなら大人しくわたしの言うこと聞いてたほうが身のためよ」
……なに?
「とり憑かれてるって、ユメリのこと知ってるのか?」
「ふーん、そいつユメリって名前なんだ」
女はさも興味なさそうに呟いて、耳を疑うようなことを言った。
「わたしの両親さ、そいつに殺されたのよ。十年前にね」
「!?」
突拍子の無いことに思わず振り返った。
ユメリは大きな瞳で見返してくるだけで、女の言葉を否定も肯定もしない。
いや待て。
ユメリはまだ四歳だ。
十年前に彼女の両親を殺せるはずがない。
「こいつはまだ四歳なんだぞ。十年前なんて産まれてない」
「何を吹き込まれてるのか知らないけど、そんなの嘘。だいたい子供の姿をしてるだけで、本当はもっと長く生きてるかもしれないじゃない。あんたを騙そうとして都合のいい話なんていくらでも作れるわ」
ギリッと女の目つきが凄む。
話なんてしてないで、さっさとユメリと連れて行きたいという感情が剥き出しだ。
こいつはユメリが人間ではないということを理解している。
それに言ってることはもっともで、クラリスがユメリは四歳だと言ってるだけでそれを確かめる方法はない。
いや、あるか。
「少しユメリと話をさせてくれ」
「どうして?」
「お前が言ったことが本当か確かめる」
女がフッと表情を緩めた。
それを許諾の表れと捉えて、ユメリに視線を送ろうとした瞬間――
「うわ!!!」
気が付いたら女の顔が目の前に迫ってきていた。
怒ってる……と言うか、殺気立ってる。
ガシャン!
「あっ」
驚いた拍子に腕が自転車にあたり、カゴにリンゴジュースの瓶を入れたまま派手に倒れてしまった。
そのうち一本の瓶が割れて、ジュースが流れてしまっている。
「まったくわたしの話を理解してないのね。嘘を吐いてる奴に確かめてどうすんのよ?」
確かにその通りなのだが。
「そんなの言われなくても分かってる! だけどこいつは嘘を吐かないんだ!」
確証も根拠もない。
けど昨日からユメリといて、それだけは信用できた。
「もういい。最初から力づくで連れて行けばよかった」
女の雰囲気が一変。
冷たかった印象が、更に冷えた感じ。
「力づくって!?」
嫌な予感がしてユメリを庇おうと――
「っ!!」
行動に移す前に、強烈な衝撃がわき腹に走った。
重い痛みになんとか倒れず踏ん張る。
何をされたのか見えもしなかったけど、シャレにならないくらい痛い。
視認できなくても、この状況でこんなことする奴はあの女しかいない。
「っのヤロウ!」
痛みを我慢して女を睨み返す。
「え?」
見れば女も頭を抱えて苦痛の表情を浮かべていた。
その殺気立った視線の先には、瞳を血色に変色させたユメリが立っている。
あいつ、もしかして俺がやられて怒ってくれてんのか?
「リンゴジュース、こぼれた」
あ、そっちね。
「……十年間探したんだ……こんなことでお前を逃がしたりしない!!」
苦しみながらも女は威勢を放っている。
誤解があるようにしか思えないが、それを証明することができない。
「ユメリ!」
俺は咄嗟にユメリを抱える。
「逃げるぞ!」
そのまま猛ダッシュで走った。
「あ! 待て逃げるな!!」
後ろから聞こえる声を無視して一目散に走った。
きっとあの女は嘘を言っていない。
十年前に両親がユメリに殺されたと言った。
ユメリの名前は知らなかったようだけど、こんな特徴のありすぎる子供の姿を見間違えるはずもないし、ユメリが人間じゃないことも知っていた。
だから嘘ではないんだろうけど、それが真実だとも思えない。
「ハル」
クラリスに訊けば何かわかるかもしれないけど、極力あいつには会いたくない。
「ハル」
「なんだよ!? いま考え事してんだ、話なら後にしてくれ」
しかもユメリを抱っこしたまま走ってるもんだから走りづらくてしょうがない。
「リンゴジュースおいてきた」
「んなもんほっとけ! どんな状況かわかってんのか!?」
「もうじゅーすない」
「まだ家に一本あっただろ」
確か開けたばかりの瓶があったはずだ。
「のんだ」
「……まさか、それが無くなったから出てきたとか言わないよな?」
「なくなったからでた」
危うく足をもつれさせそうになった。
もう怒る気にもなれない。
後ろを確認すると、女が迫ってくる様子はなかった。
しつこく追ってくるもんだと思ってたから、少し意外だ。
角を曲がって様子をうかがう。
まだそんなに走ったわけじゃないのに、本当に追ってこない。
こっちとしては助かるけど、気迫のわりに諦めの早い奴だ。
気を抜いた瞬間、夏の暑さを感じ、自分が汗だくになっていることに気づいた。
「今日はもう帰ろう」
ユメリをおろす。
「リンゴジュースは?」
「んなもんあとでいいだろ。帰ったら色々聞かせてもらうからな」
周りの人たちは俺たちに見向きもせず歩いている。
あの女と言い合ってるときもそうだった。
あれだけ騒いで自転車が倒れても、誰も気にした様子もなく過ぎ去っていった。
ユメリを抱っこして走ってる時も同様。
下手に関心を持たれるよりは楽なんだが、ハッキリ言ってこれはこれで気味が悪い。
「行くぞ」
俺が歩き始めると、ユメリも黙ってトコトコ後ろについてくる。
たぶん、というか絶対にそうなんだろうけど、この『誰も俺たちを気にしない』って状況はユメリの能力か何かなんだろう。
きっと俺がここで大声を上げても誰も気にしないはずだ、やらないけど。
自転車がある場所にはまだあの女がいるかもしれないから戻れない。
ここから歩いて帰ると一時間以上かかってしまう。
「バスしかないな」
普段自転車で移動しているからか、バス代がもったいなく感じてしまう。
若干不満顔のユメリを連れて、俺たちはマンションに戻った。