ユメリ 2
三十五度近くある炎天下。
蝉の声が響く道を自転車で移動すること約十五分。
ようやく自分のマンションへと帰ってこれた。
あの後しばらく公園に留まっていたものの、ユメリは戻ってこなかった。
クラリスも見つけることができず、とりあえずスーパーに寄って食料を買ってきた。
自転車を駐輪場に止めて、籠に入ってるスーパーの袋を手に取る。
俺の家はマンションの三階。
エレベーターを降り、家のドアの前まで行くと――
「ハル、おかえり」
「うわあああ!」
直前まで何もなかったのに、突然ユメリが目の前に現れた。
「おっ、おま! お前なんだよいきなり!」
「ずっとここにいた」
「うそつけ!」
いきなりパッと現れて何を言ってるのかこいつは!
「で、今度はなんだよ?」
どうして俺の家がわかるのかなんて無粋なことは訊かない。
こいつらは誰がどこに住んでいるか探すのなんて朝飯前なんだろう。
「いれて」
小さく細い指が家のドアを指さす。
俺の家に入りたいらしい。
「……入ってなにするつもりだ?」
「なにもしない」
「なにもしないのに入りたいわけねーだろ? 正直に言え。なにが目的だ?」
ユメリは俺の問いには答えず、しばらく睨み合いが続いた。
正確には睨んでいるのは俺だけで、ユメリはずっと無表情。
「ハル」
ユメリが俺の名前を口にした瞬間――
キィィィィィィィィィィィィィィィ
黒板を爪でひっかいてる時のような不快音が響く。
頭の中を何かが侵入しようとしている。
感触ではなく感覚。
こいつはダメだ。
コレに侵入されたら俺の思考が侵される。
ユメリを見れば、蒼かった瞳を鮮血のように赤くし、ジッと俺を見ていた。
その表情に背筋が凍る。
「ハル」
ユメリの声。
「なにもきにしなくていい」
キィィイイィイィイィィィィイィィィィイ
「ぐぁっ」
声を合図に、不快音が大きくなり、侵入しようとしている何かが急速に進行を早めた。
ジリジリジリジリ
理性の壁を食い破ろうとしている。
嫌悪と快感が混ざったような侵食は気が狂いそう。
「やめろ……」
声をあげてもユメリは無表情のまま微動だにしない。
それが気に入らなかった。
このまま自分の思い通りになるようなその瞳が癪にさわった。
「だから――やめろって言ってんだろ!」
――――――ィン
侵入しようとしていたソレを押し返す。
音は消え、不快感もなくなった。
ユメリは驚きもせず俺を見ている。
「どうして、そんなことができるの?」
いや、実際驚いてるようだ。
ただ表情に出ないだけか。
「こっちが先だ。俺に何をした?」
ユメリの瞳は血色いまま。
油断せずに構える。
「ハルが『なにもきにしない』ようにしようとしただけ」
相変わらず素直に答えてくれる。
それだけにこいつは善悪無く、自分のやりたい事ならすぐに行動に移しそうで怖い。
「なにも気にしないようにだって?」
それはつまりどの程度のものなのか?
なにも気にしないってのは、とどのつまり何も感じなくなるのと同義なんじゃないだろうか。
そんなのは生きた人形だ。
ユメリは俺を自分の思い通りになる人形にしようとしたんだ。
「大声出して、どうしたの?」
俺が詰め寄る寸前、タイミング悪くお隣の真夜さんがドアを開けて出てきてしまった。
髪はダークブラウンのボブで身長は百六十程。
白シャツにデニムのハーフパンツとかなりラフな格好だ。
真夜さんは幼稚園に入ったばかりの娘のカナちゃんと二人暮らし。
旦那さんは俺がここに入居する前に、事故で亡くされたと聞いている。
姉ちゃんと一緒に引っ越しの挨拶をし、歳が近いせいかすぐに姉ちゃんと仲良くなっていた。
それ以降、俺が一人で住んでることから真夜さんは何かと気にかけてくれる、優しくて恩を感じてる人だ。
出かける様子でもないし、俺の大声が聞こえたのか様子を見にきてくれたんだろう。
真夜さんの視線は俺からユメリに向けられている。
彼女を巻き込むわけにはいかない。
ユメリが何かする前に、引きずってでもここから離れようとユメリの腕をつかもうとした時――
「ユメリちゃんもこんにちは。二人でお買い物の帰りかな?」
おかしな言葉が真夜さんの口から飛び出した。
ユメリを見て微笑んでいる。
まるで以前から知ってるかのように馴れ馴れしい。
「ユメリはここでハルをまってただけ」
大きな瞳は蒼色に戻っている。
「そうなんだ……ハル君、どうしたの?」
「いえ、なんつーか……真夜さんはこいつのこと知ってるんですか?」
動揺が隠せない。
真夜さんは俺の問いに困った顔をする。
「喧嘩でもしたの? そんな言い方はないと思うよ?」
子供に注意するように真夜さんは言う。
「一緒に住んでるんだから、仲良くしないとダメでしょ」
俺はこの時ほど、自分の耳を疑ったことはなかった。
■ ■ ■ ■ ■
俺の家は三部屋の個室と広めのリビングキッチン。
リビングの中央にガラス板のテーブルと三人掛けの白いソファ。
テーブルの左右に白黒模様のクッションが一組ずつ。
壁や天井は明るすぎない抑えめの白。
フローリングやキッチンの壁は木目調でデザインされていて、内見したときは俺には不釣り合いなお洒落な物件だと思った。
棚や冷蔵庫も一人暮らしには不釣り合いに大きいが、全て姉ちゃんが買ってしまっていたので、俺が口を挟む隙はなかった。
「…………」
そしてユメリは今、テーブル横のクッションに座っている。
成り行き上、仕方なく家へ上げてしまったものの、こいつは座ってるだけで何もしようとしない。
状況を整理しよう。
まず、真夜さんがユメリを知っていたのは、ユメリが何かをしたらしいということ。
それはどういうものなのか、細工を仕掛けたユメリ本人が上手く説明できないと言うから話にならない。
いくつかの質問をして俺なりに得た答えは『ユメリが俺の傍にいても誰も疑問に思わない』ということである。
つまり、ユメリと面識がなくても『水衛ハルとユメリという女の子は一緒に住んでいる』という虚偽が周知となり、事実として成り立っているということだ。
言ってしまえば記憶の改ざんだ。
ユメリ曰く、
「ハルにもおなじことをしようとしたけどダメだった」
とのこと。
俺の頭に入ってこようとしたのはそれと同じことをしようとしたようだ。
ハッキリ言って冗談じゃない。
どうしてこんな怪しい奴と同居しなければならないのか。
「ハルといっしょにいなきゃダメだから」
ユメリの答えは常に簡潔で、それでいて肝心なところが抜けている。
「一緒に居なきゃダメな理由を教えてもらおうか?」
なので一つの答えを聞き出すのに、必ず二回以上は訊き返さなければならなかった。
「ハルといっしょにいないと、ハルのゆめがかなえられない」
「……俺の夢ってなんだよ?」
見当はつくが、本当にこいつはソレをやろうとしてるのか?
「おねえちゃんのチカラをハルからとる」
戸惑うことなく言った。
感情の無い顔からは本気で言ってるのか分かりかねる。
けどどうだろう?
こいつと会ってまだ間もないが、嘘が吐けるほど器用な奴じゃない……と思う。
信用はできない。
けどもし本当にユメリが俺の能力を取り払ってくれるというなら、それに越したことはないんじゃないか。
「そんな上手いこと言って、力を取る代わりに誰かを身代わりにするとか言うんじゃないだろうな?」
こんな上手い話があってたまるか。
絶対になにか見返りを求めてくるはずだ。
「そんなこといわない」
まるで、どうしてそんなに疑われているのか理解できないという感じで俺を見てくる。
「それじゃあ何の見返りが欲しいんだよ?」
「なにもいらない」
「そんなわけあるかよ!」
思わず声を大きくしてしまった。
ユメリに驚いてる様子はない。
見返りを求めないとか、それこそ信じられるわけがない。
「なら何しに近寄ってきた? まさかお姉ちゃんが迷惑をかけてごめんなさいとでも言いに来たのかよ?」
「ちがう」
「じゃあ本当の理由を言ってみろよ。元々信用してないんだ、さっきと意見を変えたっていいんだぜ」
ユメリは一瞬困ったように間を置き――
「ハルのゆめがかなえばそれでいい」
大きな瞳で、まっすぐ俺を見てそう言った。
■ ■ ■ ■ ■
時計を見ると二十時を指そうとしていた。
ユメリと話していてもまったくらちが明かない。
俺自身も熱くなりすぎて冷静な判断ができなさそうだったから、あいつをリビングに残して俺は自分の部屋のベットで寝転がっていた。
確かにクラリスの能力を消したいとユメリに言った。
あいつは『夢』という単語にこだわってるようだが、それは即物的な願いでもいいようだ。
だから俺の願いを聞いて、それを叶えようとするのは筋が通っている。
けど動機が曖昧過ぎる。
慈善活動じゃあるまいし、見返りを求めないなんて考えられない。
寿命を半分もらうとか言ってくれた方がまだ納得できるってもんだ。
第一、あいつはクラリスに言われて俺のところへ来たんじゃなかったか?
ユメリがどう言おうと、クラリスが関わってる以上必ずなにか裏があるはずだ。
だとすると一体何を狙ってるのか。
考えるまでもない。
俺に力を使わせようとしている。
あの時のあいつの顔は今でも脳裏に張り付いている。
他人の不幸が至上の悦びとでも言うような嗤いは俺を苛立たせた。
勢いよくベットから体を起こす。
苛立ったせいか、腹が減ってきた。
今から凝ったものを作るのは面倒だし、夕飯は簡単なものですませよう。
動く気配も物音一つしなかったけど、ユメリのやつはどうしてるんだろう?
廊下に出たら真っ暗だった。
リビングを見ても明かりは点いていない。
「……帰ったのかな?」
あいつがいたところで事態は解決しないだろうし、いなかったらそれはそれで構わない。
リビングまで移動し、電気を点けてあいつが座っていた場所を確認すると――
「…………」
じっとそこで座っていた。
どこを見ていたのかわからない視線が俺へと移動し、ピタリと止まる。
「…………」
「…………」
そしてお互い沈黙。
俺の額に汗が浮かびはじめているのは緊張からではない。
窓は締め切っていて、部屋全体が非常に暑いのだ。
「おまえ、ずっとそこにいたのか?」
ユメリは無言で頷いた。
俺を見る視線に耐えられなくなり、窓を開けてこもった空気を外に出し、エアコンのスイッチを入れる。
「コートなんて着て厚くないのかよ?」
夏だというのにユメリはコートを着ている。
部屋に入っても脱ごうとはせず放っておいたものの、さすがに見てるこっちが暑くなる。
「あつくない」
とのこと。
こんな部屋にいて汗一つも流してないところを見ると、本当に暑くないのかもしれない。
空気が入れ替わったところで窓を閉め、俺は厨房に移動。
チラッとユメリを見ると、相変わらずの無表情。
たまにキョロキョロと視線を動かさなければ、よくできた蝋人形と間違えてしまいそうだ。
もし表情が豊かなら可愛い女の子なんだろうけど。
「よし、できた」
今日の夕飯はナポリタンスパゲティと、インスタントのワカメスープ。
それを二人分の皿に盛ってテーブルへと移動する。
「こっちこい」
おいでと手招きすると、ユメリは素直に移動してきた。
「ほら、お前の分だ」
ユメリの前に皿を置くと、不思議そうに俺を見て目をパチクリさせている。
子供の前で一人で食うのはさすがに気が引けたので、こいつの分も用意した。
ナポリタンスパゲティなら大抵の子供は好きだろうと思ってこのメニューにしたのだ。
「いらない」
「……え?」
一瞬の沈黙。
「もしかして、腹減ってなかったか?」
「おなかすいた」
腹は減ってるようだ。
「じゃあ別のものが食いたかったとか? お前、人に作ってもらっておいて好き嫌いはなしだぜ」
「ちがう。ハルといっしょにするな」
「ばかやろう。俺は大抵なんでも食うぞ」
ライチだけは食えないけど。
「ちがう」
どうやら会話がかみ合ってない。
「何が言いたいんだよ? まさか……人間がいいとか?」
自分で言っといて背筋が寒くなる。
忘れてたわけじゃないが、目の前のこいつはヒトじゃない。
じゃあヒトではない者が食う物ってなんだ?
以前観たホラー映画のワンシーンが蘇る。
それは人間の血や肉を怪物が貪るものだった。
「ニンゲンはたべられる?」
「んなわけねーだろ! 人間なんて食ったって美味くねーぞ! つか、猛毒なんだぞ!」
ユメリの口が頬まで裂けて、口内には骨を砕くのに最適な牙が生えているのを想像したら、いつの間にか俺は壁際まで後ずさっていた。
「ニンゲンたべないからどうでもいい」
ユメリはキッチンへと視線を移し、何かを探すようにそこまで歩いて行った。
「これがいい」
冷蔵庫の横に置いてある段ボールを指差している。
近寄ってみると、それは実家から送られてきたジュースの箱だった。
中身は果汁百パーセントのフルーツジュース。
俺はあまり好きじゃないので、お隣のカナちゃんにあげようかと封を開けずにそのままにしておいたものだ。
「ジュースだけど、こんなんでいいのか?」
「これがいい」
まあ、飲みたいなら飲ませてやるけど。
段ボールを開けると、ブドウとリンゴとミカンの三種類のジュースが二本ずつ、一リットルの瓶に入っていた。
くわしくはないけど、瓶入りのジュースって結構いい値段がするんじゃないだろうか?
ユメリは迷うことなくリンゴジュースの瓶を胸に抱えて、テーブルまで持っていってしまった。
俺も栓抜きとコップを持ってテーブルへと移動する。
相変わらず無表情なやつだが、その瞳はどこかワクワクして輝いてるようにも見える。
「ほれ」
コップに注いで手渡すと、コクコクと喉を鳴らせて飲み始めた。
おお! 目を細めて美味そうに飲んでる!
初めてユメリが俺の前で感情を顔に出した瞬間だった。
よほど喉が渇いていたのか、一気に飲み干すと静かにコップをテーブルに置きジーっと俺の顔を見る。
「おかわりか?」
言いながらジュースを注いでやると、また幸せそうにジュースを飲み始めるのだった。
一時間後、部屋にはテレビの音だけが流れている。
結局ユメリはジュースを飲んだだけで何も食べなかった。
とりあえずラップをかけて冷蔵庫にしまい、食べたくなったらいつでも温められるようにはしてある。
なんとなく感じていたが、ユメリは自分から話をするということがない。
こっちが黙ってればずーっと黙りっぱなしで、しかも座ったところからほとんど動かないのだ。
「テレビ面白いか?」
「おもしろくない」
話しかければ必ず応えてくれるので、愛想が無いわけでもない。
「お前といるだけでクラリスの能力は消えるのかよ?」
「なくなる」
「へえ、じゃあこうしてる間に能力を消してくれてんのか?」
「けしてない」
「ならどうやって消してくれるんだ?」
「わからない」
……いや、もう慣れたけどね。
ユメリを追い出さないのは、こいつ自体に危険性を感じないからだ。
それに下手に追い出してドアの前にいられると、真夜さんにでも見つかったらまた勘違いをされてしまう。
「俺に『何も気にしないようにする』とか言ってたけど、それってお前と一緒に居るのが気にならなくなるってだけだったのか?」
「うん」
「物事全てってことじゃなくて、お前に関してだけってことでいいんだな?」
「うん」
あれからユメリは瞳を血色にしたり、変な術? を使ってくることはなかった。
「本当にお前のことを認知させる以外は、真夜さんや他の人にも何もしてないんだな?」
「うん」
感情もなくただ肯定する。
今はそれを信じたい。
俺がこんな奴らに関わったせいで、周りの人たちを巻き添えにしたくなかった。
そうだ、敦に電話してみよう。
皆がユメリのことを知ってるふうに思い込んでいたけど、実際は真夜さんしか確認していない。
スマホを操作して敦にかけてみる。
《はいよ》
何回かのコールで敦が電話に出た。
「よう、ちょっと訊きたいことがあるんだけどさ」
用件だけ手短に訊こう。
「ユメリって知ってるか?」
《はぁ?》
微妙な反応。
今の反応だと、知っていて俺が何を言い出したのかと怪しんだ様にもとれるし、誰だそれ? という感じにもとれる。
若干の緊張を覚えながら、次の言葉を待った。
《知ってるもなにも、ユメリとはよく遊んでるじゃねーかよ。どうしたんだお前?》
あ、よく遊んでるんだ。
「悪い、ちょっと気になってさ。ついでに訊くけど、いつからユメリのこと知ってた?」
《お前どうしちゃったわけ? なんか変だぞ?》
変なのはお前の方だ、とは言えない。
「いいから、質問に答えてくれよ」
敦はしばらく押し黙っていたが、とりあえずは答えてくれた。
《いつからってそんなの知らねーよ。それにそんなこと気にする必要ないだろ》
もしかしたらって気持ちはあった。
もしかしたら敦は何も知らないんじゃないかって。
わかっていたのに、冷水を頭からぶっかけられた気分だ。
ユメリは嘘は言ってない。
この分なら、親や姉ちゃんもユメリのこと知ってるだろう。
「……そうか、ちょっと気になっただけなんだ」
《マジで大丈夫かよ? 何かあったか?》
心配してくれる気持ちが今は痛い。
俺とユメリが一緒に住んでるという作り話は、周りの皆には真実となって埋め込まれていた。
それが真実でないとわかるのは俺一人。
それは周りからは俺が間違っている様に見えるということ。
本当は白いのに、全員が黒と言えばそれは黒になる。
だから俺はこれから皆に嘘を吐き続けなければならない。
気を遣わせないように、心配させないように、疑わせないように、俺はこれから『以前からユメリと暮らしている』という虚偽を演じなければならなかった。
「何でもないんだ。悪いな、急に変な電話して」
返事を待たずに通話を切った。
気づけば、ユメリが俺を見ていた。
「なんだよ、盗み聞きかよ?」
「きこえる」
それはこんな近くにいれば嫌でも聞こえてくるという抗議なのだろう。
まったくもってその通り。
「ああっもう! 風呂入ってくる」
俺は頭をグシャグシャに掻いて、腰を上げた。
今の事態は頭を悩ませれば解決できる事じゃない。
その糸口すら見えていない。
下手に頭を働かせても疲れるだけだ。
こんなときはシャワーを浴びて体だけでもスッキリするにかぎる。
不意に服が引っ張られた。
「ん?」
見れば、ユメリも立ち上がって俺の服の裾を掴んでるではないか。
「ユメリも」
服を掴んで見上げてくる仕草は小動物を連想させる。
不服にも、こいつの警戒を忘れてしまうほどに。
「なんだって?」
破顔しそうになった顔を引き締めて訊き返す。
「ユメリもおフロ」
「お前も入りたいのか?」
「うん」
まあ入りたいというなら使わせてやらないこともないけど。
「俺の後でもいいだろ?」
サッとシャワーを浴びるだけなので先に使いたかったが、ユメリは首を振った。
「ハルといっしょにはいる」
……なんて言った?
「ハルといっしょにはいる」
訊き返してもないのに、もう一度言ってきた。
「俺とか?」
そう言ってるのはわかってるんだけど、いきなりのことでビックリした。
懐きすぎてるんじゃないかと逆に注意したくなるような無防備ぶりだ。
懐かれて困るのは俺の方だが。
「お前一人で入れないのかよ?」
こんな子供に反応するような性癖は持ち合わせていないし、真夜さんが仕事で遅いときは俺がカナちゃんを風呂に入れてやるときもある。
小さい女の子と風呂に入るのはあまり抵抗はないが、こいつと入るとなるとまったく落ち着けない。
「いつもおねえちゃんといっしょにはいってる」
それはそれは仲の良い姉妹なことで。
「ダメだって言ったらどうする?」
「やだ」
分かりやすい返事。
「俺は一人で入りたいんだ」
懐いてくれるのは結構だけど、相手を選んでもらいたい。
無言で見上げてくるユメリ。
「どうしても一緒に入らないとだめなのか?」
「かみのけあらって」
すでに話が通じてない。
しかも髪を洗ってやらないといけないらしい。
たしかにこいつの長い髪は一人で洗うのは大変そうだけど。
「ええい! もうめんどくせぇ! ほらいくぞ」
ユメリの頭をワシャワシャと撫でて脱衣所へと向かう。
いちいち考えるのは止めだ。
今日一日、動き回ったり頭を回転させたりでいい加減疲れた。
ユメリは大人しくついてくる。
でもそうなると、シャワーだけで済ますというわけにはいかないだろう。
「お前、お湯に浸かりたいか?」
「つかる」
ほらね。
なら風呂にお湯を張らないといけないんだが……こいつの髪を洗ってる間に溜まるか。
ユメリの髪は細くて長い。
これを洗うとなるとそれなりの時間は掛かるだろうから、お湯を入れながら髪を洗ってやればちょうどいい。
脱衣所に着いたと知ると、ユメリは無言で服を脱ぎだし、俺はそれを尻目に風呂桶を確認する。
前回お湯を張ったのは一週間前だから若干埃がたまっていた。
冬はお湯を張るんだけど、夏場はシャワーで済ますことが多いのだ。
埃を簡単に洗い流し、栓をしてお湯を入れる。
脱衣所を見れば、ユメリは服を脱ぎ終わって風呂の様子を見ていた。
まだ幼い体はやせていて肌は雪のように白い。
髪をまとめていた大きなリボンを解くと、後ろ髪が広がってさらにその細さと艶やかさを際立たせた。
女性が見たら、羨ましい! なんて言うんだろうなーと思いながら俺も服を脱ぐ。
さすがに子供とは言え女の子の前なので、前の方はタオルで隠す。
「先に髪洗ってやるからそこ座れ」
言いながらバスマットを敷く。
カナちゃんが転んで怪我をしないようにと真夜さんが買ってくれた物だ。
カナちゃん以外に使うとは思ってもみなかった。
シャワーの熱さを確認して、ユメリの頭のてっぺんからお湯をかける。
あいにく家にはシャンプーハットなんてない。
シャンプーを掌に垂らし、小さな頭をワシャワシャと掻き始めると、ユメリもモゾモゾと動き始めた。
見れば毛先の方を洗ってる。
……しかし俺は何をやってんだろうね。
子供と風呂に入るのは慣れてるが、こんな得体の知れない奴の髪を洗ってるなんて。
「お前たちって人間じゃないんだろ? だったら何者なんだよ?」
ただ洗ってるのもつまらないので、ある程度の疑問を解消するためにも会話しよう。
「なにもの?」
しかしユメリには質問の内容が理解できてない様子。
やっぱりこいつは見た目相応、いや、それ以下の会話しかできないようだ。
「やっぱり今のは気にしなくていい」
「うん」
しかしそうなると……
「お前、歳はいくつだ?」
普通の子供にするような会話しかできないよな。
「よんさい」
おや?
もう小学生くらいだと思ってたのに、まだそれくらいだったか。
カナちゃんと一つしか違わないじゃないか。
浴槽を見ればお湯が五割ほど溜まっていた。
こいつの髪を洗い流せばちょうどいい頃合いか。
ユメリの髪を洗い終え、先に浴槽に入れさせようやく俺も頭からシャワーを浴びる。
「はぁ……」
ついため息が漏れる。
明日明後日は土日で休みなのが助かった。
とりあえず、じっくり腰をすえてユメリと話してみよう。
俺の能力を消す当てはなく、結局のところ、ユメリに話を聞く以外に術はないのだ。
今日は苛立ってしまったのが悪かった。
冷静になって話を聞けば、きっと色々見えてくるはずだ。
幸いにも、ユメリは言葉足らずながらも素直に答えてくれる。
なんて考えながら、ふとユメリの方に視線を向けると――
「えっ!」
思わず声が出てしまった。
ユメリの長い髪が水面いっぱいに広がっている。
本人は目を細めて気持ちよさそうにして、髪のことなんて気にしてない様子。
「ちょっ、お前、その髪なんとかしろよ!」
こいつはいいかもしれないが、次に俺も入るのだ。
「どうして?」
「どうしてって、俺も入るんだし、そんなやってたら毛が抜けるじゃないか」
「かんたんにぬけないからしんぱいしなくていい」
そういう問題じゃなくて。
俺がこいつの髪を纏めてやらなかったのが悪いのか?
髪を包むタオルを用意してやらなかったのは俺の落ち度かもしれないが、せっかくリンスまでしてやったんだから、もうちょっと気を遣ってほしいものだ。
「それにハルはシャワーだけっていってた」
「いや、そりゃ最初はそう思って……」
…………ん?
「俺、お前にシャワーだけ浴びるつもりだって言ったか?」
「いってない」
「だよな」
なんだか、嫌な予感が。
「ちょっとだけならハルのかんがえてること、わかる」
予感的中。
俺が質問する前にユメリは答えた。
こっちから訊かなければ答えようとしない奴が。
つまりそれは、俺の頭に浮かんだ疑問を読んだから?
ユメリには当たり前のことなのか、それ以上は何も言わずに口をつぐんでしまった。
俺はお湯をかぶっただけで済まし、ユメリを風呂に置いたまま無言で脱衣所に出る。
気味が悪いとか今さら思わない。
ただあいつと一緒に居たくない。
考えてることがわかるだって?
じゃあなにか?
今まで俺が考えてたことも筒抜けだったってことかよ。
そんなことはあいつにとって簡単に出来ることかもしれないと、これまでの経緯から納得できる自分がいて笑えやしない。
シャツとズボンを無造作に着て、タオルで髪の水分を拭きとる。
「なんだか不機嫌ね」
――っ!?
リビングに戻ると、クラリスが待っていた。