悪魔の能力 3
二時間目の授業が終わった。
……眠い。
眠そうにしてるのを先生が放っておくわけがなく、何度も指名されたり注意されたりでたまったもんじゃない。
向こうとしても眠そうにされてちゃ気に食わないだろうけど、授業の声が子守唄みたいに眠気を誘ってくる。
注意されて眠気が無くなればいいのに、我慢すればするほど眠気が増す一方だった。
「いつものことだけど、今日は一段とだらけてるな」
休み時間に入るとすぐに敦がやってきた。
「お前だってどうせ授業聞いてないだろ?」
「いつものオレと思うなよ。今日は昼でフケるから、とりあえず話だけは聞いてた」
それは胸を張るようなことじゃないぞ。
しかしそう言われると俺もサボりたくなってくるわけで。
「じゃあ俺も午前で帰ろう」
決断は早かった。
帰ったところで何をするわけでもないんだけど、この眠さが怠けさせる。
「授業サボるのはいかんよキミ?」
一緒に行動するわけじゃないのに、サボり仲間ができて嬉しいのか敦は笑った。
「どうせなら南雲も誘って帰れよ。一次選考の合格祝いに飯でもおごってやれば?」
ニヤニヤ笑ってやがる。
南雲をネタに俺をからかうのが楽しいらしい。
からかわれてると分かっていても、その提案は魅力的だ。
「ばーか。南雲は授業サボったりしねぇよ」
しかし肝心の彼女はそういう事をしない子なのである。
そして、昼休み前の授業が終わった。
「あれ? 水衛君帰っちゃうの?」
先生が出ていくのと同時に教室から出ようとしたら、南雲に呼び止められた。
「まあ……今日はちょっと調子がのらなくて」
「朝からずっと眠そうだったもんね」
不良と言うほどじゃないけど、普段から早退してサボってるせいか、クスクス笑って俺を止めようとはしない。
「それじゃ、先生に見つからないように気をつけてねー」
南雲は手をヒラヒラさせながら女友達のところへ行ってしまった。
教室を見渡すとすでに敦の姿はない。
どんな理由で帰ったのかは知らないけど、行動の早い奴だ。
俺も早々に学校を抜け出しますか。
なにせ昼になっても眠気が治まらない。
家に帰ってベットに寝ころべばさぞ気持ちよく寝れるだろう。
ちなみに、この学校は昼休みの外出は認められていないので、校門を抜け出すまで気が抜けない。
■ ■ ■ ■ ■
「天気良すぎるだろ」
焼きつけるような夏の陽射し。
いい天気でもこれだけ暑いと、爽快感より不快感のほうが先に立つ。
そのせいか、不思議なもので学校が見えなくなってきた頃にはすっかり眠気が消えていた。
時計を見ると十三時ちょっと前。
寝るつもりで帰ってきたので、とくにやりたいこともない。
ぐぅー……
腹の虫が泣いた。
いつもなら昼飯を食べ終えてる時間だ。
そういえば食料のストックが切れ始めていた。帰ってもカップラーメンくらいしか食べるものがない。
夕方のスーパーは混んでるし、買い物して帰ろう。
いったんマンションに帰って着替え、愛用の自転車で隣町へと向かう。
買い物だけなら近くの店でいいが、時間があるのでちょっと遊ぼうという計画。
向かうのは隣町の千秋。
泉咲市にある俺の住む夢実咲と、大きな川を挟んで隣り合っているのが千秋だ。
千秋はもともとニュータウンとして造られた地域で、立ち並ぶ住宅は新しいものばかり。
そのニュータウンと並ぶように造られたショッピングモール。
そこにある店は有名店が多い。
十のスクリーンを持つ大きな映画館の入った巨大複合店を始め、東京や海外に本社を置く若者に人気のブランド店などが連なっている。
もともと近くに県立美術館があり、その隣に大きな病院が建っているので、この一角は田舎風景の多い泉咲では異色だ。
若者には人気のスポットとはいえ、俺のような彼女かいない男にはあまり縁の無い場所でもある。
出店している店舗が女性向けばかりなのだ。
もちろん男性向けもあるが、俺にはまだ早そうな大人向けの店ばかり。
なので女子高生は多く見かけるが、男子高生だけの姿はあまり見ない場所となっている。
東に進めば海に出て夏は海水浴ができるし、西に進めば山に出て冬にスキーが楽しめる。
どっちも俺には興味がない場所だが、レジャー好きな人にはこの泉咲市は楽しい場所なんだと思う。
見慣れた景色を眺めながら、千秋へと自転車を向かわせた。
足を運んだものはいいものの、やったことはゲームセンターで時間を潰したくらいだった。
時刻は十六時半。
これから食料を買って帰れば十八時くらいにはマンションに着くだろう。
「……うーん」
ちょっと悩む。
もう三十分もすれば、行きつけのスーパーの食料品に赤札が付く。
値引き札のことで、時間帯によって赤札の値引き率が増えていくというものだ。
十九時頃にもなれば半額の札が乱立するのだが、さすがにそこまで待ってるつもりはない。
姉ちゃんから充分な生活費を出してもらってるとは言え、安く買えるのならそっちのほうがいいに決まってる。
「ちょっと待つか」
あと三十分くらいなら大した時間じゃない。
千秋では結局何も買わず、俺は夢実咲に戻り、自販機でジュースを買って公園のベンチで一息入れることにした。
■ ■ ■ ■ ■
夕日が街を紅く染めている。
暑さは変わらず、セミの鳴き声と家に帰ろうとしている元気な子供たちの声が聞こえる。
自転車を公園の入り口に止めて適当に座る場所を探す。
この公園には大きな噴水があり、夏場に限り深夜以外ずっと水が出ているので、ちょっとした休憩に涼みに来る人がちらほらいる。
俺もその人たちに混じって一息つく。
「こんばんは」
その女の人に声を掛けられたのは、ベンチに座った直後だった。
後ろから急に声を掛けられ驚いたが、さらに驚いたのがその人の容姿だった。
驚くほどの美人。
すらりと長い四肢。
風に溶けるサラサラの青髪は陽光で輝いて見える。
整った顔に深みのある蒼い瞳は見る者を惹きつける。
正直に言って、芸能人や雑誌モデルでもこの人の前では霞んで見えるだろう。
長い黒のロングスカートはいいとして、大きく開いた胸元から覗く白肌にどうしても意識がいってしまう。
(……見えていいやつなんだろうけど、少しブラ見えちゃってるし)
なんというファッション。
「突然ごめんなさい、驚いちゃったかしら?」
色んな意味で驚いてます。
クスリと笑う仕草は、それだけで優雅さを感じる。
女の人はなぜか俺のすぐ隣に座った。
ベンチには四人が座れそうなほど余裕があるのに、少し動けば肩が触れてしまいそうなほど近い。
「えっ? ええっ!?」
隣に座っただけで驚くのも失礼な話だが、綺麗な人にいきなり近寄られて声が出ちゃったものはしかたない。
しかも胸元が露出しているだけに、視線がいってしまうではないか!
「あなた、名前は?」
透き通った綺麗な声。
「ハルです。水衛ハル」
煩悩も手伝ってすっかり緊張している俺。
美女と話すときってこんなに緊張するんだな。
自称美人の姉ちゃんとは大違いなんだが。
「ハル、あなたは何か夢を持っているかしら?」
「……え? 夢?」
いきなりな話に若干戸惑う。
正直、夢と言われても簡単には思い浮かばない。
そもそも高校三年生にして、俺はまだ明確な進路を決めかねているのだ。
進学するのか就職するのか、どっちでもいいかなんて考えてるあたり自分でも問題だと思う。
すぐ先の事も決めかねてるのに、夢なんて考えることもなかった。
というか、この人はなんでそんなこと訊いてくるんだろう?
「……あの、なんでそんなことを? っていうか、お姉さん誰?」
「私ったら名乗ってもなかったわ。ごめんね、私はクラリス」
彼女が動くと、微かに漂った良い香りが鼻をくすぐった。
「あなたの夢を聞きたいのは、そうすることが必要だからよ」
…………?
「えっと、つまりどういうことですか?」
「私がハルの夢を知りたいということね」
だからどうして俺の夢なんかを訊いてくるのか疑問なんだけど……
しかし、夢、ねぇ。
ここで夢なんてありませんと言うのもつまらないしな。
嘘を吐くつもりはないけど、つまらない奴だと思われたくないというのが本音。
ふと敦と南雲の顔が浮かぶ。
二人が以前、自分の夢を楽しそうに話してるのを思い出した。
敦は趣味でバンドを組んでいてボーカルを担当している。
あいつは容姿も良いから、それも手伝って女子にはかなりモテる。
なのに一切彼女をつくろうとしない。
敦曰く「女と遊んでるヒマがあったらバンドの練習をする」だそうだ。
そんなあいつの夢はメジャーデビューすること。
俺は音楽のことなんて全然わからないから、敦のバンドがどれくらいのレベルかなんて判断できないけど、以前録音した曲を聴かせてもらった時は正直すごいと思った。
素人目には凄いと思える技術をあいつは持っていて、今でもそれを磨いている。
今日敦が早退したのは、もしかしたらバンドの練習をするためだったのかもしれない。
南雲は小さい頃からアイドルを目指してると言っていた。
初めて聞いたときは驚いたもんだ。
すでにいくつかのオーディションを受けたようだが、残念ながら良い結果に結びつかなかったらしい。
それでも南雲は挫けずに頑張ってるあたりすごいと思う。
今日見せてもらった一次選考の合格は、努力を続けている南雲の成果だ。
俺には一度ダメだった事を諦めずにやろうと思えることがない。
だから二人が将来を見据えて頑張ってる姿は眩しいし、素直に応援したい。
二人が芸能科を専攻したときは俺も一緒に入ろうとしたけど、二人の真剣な顔を見て止めた。
俺みたいな奴がいると邪魔になると思ったんだ。
将来何がしたいのか?
担任や親や友達たちに何度も訊かれた質問。
先の事を決めなくても誰も責めたりしない。
けど、そう訊かれる度に少なからず周りから置いていかれるような焦燥感が生まれる。
俺だって何か夢中になれるものが欲しいとは思ってるさ。
だけど、そんなものは考えてもすぐには見つからなかった。
「そんなに難しく考え込まなくてもいいのよ?」
困惑しているのを察したのか、クラリスさんがやんわりと助け船を出してくれた。
「夢と言ってもね、具体的でなくてもいいの。例えば、こうありたいとか、誰かのようになりたいとか、抽象的なことでもいいのよ」
誰かのようになりたい、か。
まっすぐ俺を見ている瞳に促されて思い浮かんだのは、姉ちゃんだった。
何度もあの人のようになりたいと考えた。
人望が厚くて、姉ちゃんの周りには常に誰かがいた。
理想の姉というには程遠いが、尊敬して憧れる人物と言えば、姉ちゃんだった。
姉ちゃんが今の俺と同じ歳だった頃には、色んな人から慕われていたのをよく覚えている。
「家族に尊敬できる人がいるなんて素敵ね」
姉ちゃんのことを話すと、クラリスさんは優しく笑った。
その仕草にドキッとして慌てて視線を逸らす。
普段は誰にも話さないことなのに、不思議とこの人には何の抵抗もなく話してしまった。
この人の持っているどこか不思議な雰囲気がそうさせたのかもしれない。
突然クラリスさんの細い指が俺の顔に触れ、俺の逸らした視線を強引に自分の方へ向けた。
「うぇっ!」
あまりに突然だったので変な声が出ちゃったじゃないか。
触れられているだけで顔が熱くなっていく。
「けど、ハルはお姉さんのようにはなれない」
蒼い瞳が俺を射抜いている。
「……そんなの、わかってますよ」
「それにあなたは勘違いしてるわね。あなたがお姉さんに憧れているのは本当だけど、別にお姉さんのように優秀な人間になりたいわけじゃないでしょ?」
「……え?」
それは不意の問いかけだった。
姉ちゃんに憧れてるけど、優秀な人間にはなりたくないだって?
「お姉さんに憧れているのは、あなたにとってお姉さんが特別な存在だからでしょう? それはお姉さんが持っている能力に魅力を感じているのではなく、お姉さんが誰かの特別な存在であることに惹かれているのよね?」
本人である俺でも気づかなかった核心。
誰かにとっての『特別な存在』。
言われてみて初めて気づいた。
確かに、姉ちゃんの持っている才能に憧れていたわけじゃない。
姉ちゃんのやってきた事は確かに凄い。
けどそれは天才的なものじゃなく、凡人の中で優秀だっただけ。
世界中、いや、日本だけでも姉ちゃんより凄い人たちはたくさんいて、それこそプロの世界に目を向ければ姉ちゃんなんて到底敵わない。
それでもプロの人たちよりも俺が姉ちゃんに憧れたのは、姉ちゃんが色んな人たちに影響を与える特別な存在だったからだ。
姉ちゃんの賛辞は時に俺に伝えられることもあった。
『夏音ちゃんのおかげで元気が出た』
『お姉さんにはすごく感謝してる』
褒められているのは姉ちゃんなのに、俺は嬉しかった。
昔の俺は本当に姉ちゃん子だったから、彼女が褒められると一緒になって喜んでいた。
だから、俺もそういう風になりたいって自然に考えていたんだ。
それは何かの賞を取ったりするんじゃなくて、誰かにとって特別視されるような、他人に影響力のあるその人望に俺は憧れていたんだ。
「どうかしら?」
触れていた手を放したクラリスさんの瞳が、俺の答えを求めている。
「……はい、確かにそう言われるとそうですね。俺は姉ちゃんみたいに誰かに影響力のある奴になりたいんだと思います」
その答えに彼女は満足そうに頷いた。
「私はそれが聞きたかったのよ。それじゃあ質問。私があなたをそんな人間にしてあげるって言ったらどうするかしら?」
その表情からは、それを本気で言ってるのか冗談なのか読み取れない。
口調が軽かったから、俺は冗談だと思った。
それにそんな簡単に今の自分を変えることなんてできるわけがない。
「そりゃあ、そうしてもらえるなら嬉しいですね」
でもまあ、そんなに難しく考えることもない。
ここはクラリスさんに合わせて、ちょっと期待を込めて答えてみよう。
「それなら、今すぐあなたの望みを叶えてあげましょう」
しかし、クラリスさんの反応は予想外だった。
「……へ?」
どこか芝居がかった台詞に気を取られた瞬間――
「――げほっ!」
吐き気と眩暈に突然襲われた。
「大丈夫よ、すぐに治まるから」
彼女の声が音としてしか捉えられない。
何を言ったのか、耳が遠くなったようで聞き取れない。
腹の中に異物が入り込んだような感覚。
目は開いてるが、脳が視覚情報を受け入れてくれない。
自分がどこを見ているのかさえ判らない。
ガチン。
「――――っ!」
音は耳からではなく直接頭の中で響いた。
俺の中に何かがはまった。
それが何なのか、どこにはまったのかなんてわからない。
けど確かに、俺の体に何かが付いた。
「もう大丈夫。ごめんね、ちょっと苦しかったわね」
クラリスさんの声が聞こえた時には、さっきまでの吐き気や眩暈は嘘のようになくなっていた。
「あ……れ……?」
自分の体に何が起こったのか理解できない。
苦しくなったと思えば、次の瞬間には何もなかったような錯覚。
「あなたの望むことを叶えましょう」
クラリスさんの声が頭の中を侵食する。
「ハルには特別な能力が宿った。これからあなたは自分が望んだ人間になれるのよ」
「…………?」
会話についていけない。
「言ってたわね。誰かに影響力を与えるほどの人間になりたいって。あなたは今、その望みを叶えられる力を手に入れたのよ。さっき感じた不快感はその予兆。もう起こることはないから安心してね」
何の冗談だ?
正直話の流れについていけないんだが。
「あの、言ってることがさっぱりなんですけど」
「そうね、私も説明だけですぐに受け入れられるとは思ってないわ。実際に体験してみましょう」
ベンチから立ち上がり俺を見下ろすクラリスさん。
「少し時間をもらえるかしら?」
俺を誘う表情はどこか艶めかしく、拒否を許さない。
その誘いに抗う術も理由もなく、俺は半ば流れに任せるままに頷いた。