悪魔の能力
はぁっ……はぁっ……はぁっ!
喉が渇き、息も荒く、足が鉛のように重い。
酸素が足りないのか、混乱しているからか、自分がどこにいるのか目に映る全てを認識できない。
わかるのは目の前に障害物がないということだけ。
逃げる道があればそれでいい。
少しでも遠く、あの場所から離れられればそれでいい。
「能力も使っていないのに足が速いのね。少し驚いちゃった」
「ヒッ!」
突然目の前に青い影が現れ、慌てて俺は足を止めた。
「人の顔を見てそんな反応ってないわよ。傷つくわ」
女が嗤う。
「……クラリス、なんでここに!?」
俺の前に立ちふさがるなんてありえない!
さっきまで俺のずっと後ろにいたんだぞ!?
「私を置いてくなんて酷いわ。あんなに仲良しだったのに」
クスクスクスクス。
その嗤いに悪寒が走る。
「ハルに追いつくのなんて簡単。私をまだ人間扱いしてるの?」
クスクスクスクス。
端正な顔が冷酷に嗤う。
腰までの伸ばした艶やかで細い青髪。
蒼い瞳にきめ細やかな白い肌。
ホワイトブルーで袖の短い珍しいジャケットは胸元が大きく開き、下に着ているレースの付いた黒インナーは開いた胸元の下半分しか隠してなくて、男なら絶対に胸の谷間に視線を奪われるはずだ。
胸元は開いているのに、日焼け対策なのか薄手の黒いアームカバーを付け、足首まで隠す細身の黒いストレートスカート。
洒落たメッシュブロックヒールブーツも黒。
誰が信じるだろうか、一見セクシー美人なこの女は人間じゃない。
本当に馬鹿げている。どうかしてる。
人の姿をしていて人じゃないなんて冗談でもつまらない。
それが冗談じゃないってんなら、それこそ昔話よろしく、俺は不思議な世界に迷い込んでしまったんだろう。
太陽も沈んで街灯が灯っている。
荒い息のまま、自分がどこまで走ってきたのかを確認した。
ここは俺のマンション近くにある大きな噴水のある公園。
走ってきた場所から、約三百メートルほどがむしゃらに進んできたことになる。
不思議な世界でもなんでもない。
ここはよく知る日常の場所だ。
俺が逃げてきたのはクラリスからじゃない。
元凶はこいつだが、ある事実から逃げてきたことに、今になって後悔が胸を絞めてきた。
「……さっきの女の人はどうなったんだ?」
「私の説明を聞いてなかったの? どうなるもなにも、死んだわ」
初めて会った時には見せもしなかった笑みを浮かべている。
あの時はこんな悪魔だとは思わなかった。
俺が逃げてきた現場で、一人の女の人が死んだ。
口から泡を吹き、身体を痙攣させて、俺の目の前で死んだ。
初めて見る女の人だった。
スーツ姿で綺麗な人だった。
彼女は何も悪い事はしてないし、突然死するような体の変化もたぶんなかったと思う。
なぜそう言えるのか。
それは――俺が原因だからだ。
俺が『能力」を使えば誰かが死ぬ。
クラリスからそう聞いたのは、女の人が目の前で苦しんでいる時だった。
――十数分前。
「なっ、なんだよそれ!? そんなの聞いてないぞ!」
住宅が並ぶ静かな公道で俺の声が響いた。
「ええ、だから今回は特別サービスで、あなたには関係ない人を犠牲にしてあげたわ」
囁きながら、この時初めてクラリスは本性を見せた。
『能力』なんて単語を使っているが、俺は生まれも育ちも普通の人間で、普通の高校生だ。
だがほんの数時間前にクラリスから『能力』を与えられ、普通ではない人間になってしまった。
どんな『能力』を手に入れたのか、説明は簡単だ。
よくマンガやアニメで在りえない力を使って悪者と戦う主人公とかいるだろ?
それと一緒だ。
魔法みたいなのは使えないが『能力』を使えば地上からビルの屋上まで跳躍できるし、コンクリートの壁を殴れば、まるで豆腐のように破壊できてしまう。
クラリスが話しかけてきた時、最初はただの冗談かと思ったんだ。
綺麗なおねーさんが、年下の高校生をからかっているだけかと思った。
だから俺もつい調子に乗って話を合わせてただけなんだ。
人間では持ちえない『能力』がこの体に宿った事には本当に驚いた。
クラリスに言われるがまま『能力』を使い、興奮したし特別な力を得た自分が嬉しかった。
だが、その結果――人の命を奪ってしまった。
「今更になってそんなこと! それに本当は俺の知り合いが死ぬような言い方じゃないかよ!」
「ええそうよ。そんな大切な事を言い忘れるなんて私ってダメね。あなたがとても嬉しそうに『能力』を使ってるから言い忘れちゃった」
人間の姿をした悪魔が笑う。
「だから今回はあなたに無関係な人間を犠牲にした。これでいいでしょう?」
「いいわけないだろ! 人が死ぬんだぞ!? なんでそうなるんだよ!? なんで俺が『能力』を使うと人が死ぬんだよ!?」
「あなたのような普通の人間に能力を使わせるにはそれなりの代償が必要。それは物ではなく、目には見えないエネルギーが適材ね」
「……それが、人の命だってのか?」
「分かってるじゃない。エライわ」
俺の頭を撫でようとしてきた細い腕を力いっぱい振り払う。
振り払われたことさえ楽しそうに、クラリスは口を開いた。
「でも他人の命を使うのは今回だけ。次からはあなたの大切な人の命を使わせてもらうわ」
「……大切な人」
言われて色んな顔が頭に浮かぶ。
それは俺の身近な人たちで、家族であり、友人達だ。
ドクン……ドクン……ドクン……
さっきから心臓の鼓動がうるさい。
理由は明白。
倒れている女の人が動かなくなったからだ。
――死んだ、のか?
彼女が死んだと考えた途端、全身に悪寒が走り、膨れ上がる罪悪感。
『死』なんて言葉は生活の中で常にあった。
ニュースを見ればよく誰かの訃報が流れ、時には殺されたという事件が報道されている。
ゲームにもマンガにも『死』なんて単語はよく出てくるし、そういう場面を何度も見てきた。
だけど、いま俺の見ている『死』は今までのものとは違う。
初めて直面する人の死。
それがこんなにも、こんなにも怖くて悲しいものだなんて思いもしなかった。
この人とはまったくの初対面。
彼女が死んだのは、たまたまここを通っただけ。
運が悪かったと言えばそれまでだが、それじゃああまりにも酷すぎる。
うつ伏せに倒れて動かない女の人。
これが本当は俺の知る誰かに起きていた。
そんな馬鹿な話ってあるかよ?
非常識な『能力』なんて手に入れて、使ったら誰かが死ぬなんて非現実的すぎる。
……いや、違うだろ?
知り合いが犠牲になるとか、非現実的とか、そんなこと考えてる場合じゃないだろ?
本当はクラリスなんて相手にしないで、すぐに彼女に駆け寄るべきだったんだ。
救急車を呼んで、誰かに助けを求めるべきだったんだ。
頭の片隅でそんなことは最初から分かっていたんだ。
……けど。
「どうしたの? そんなに震えちゃって?」
俺の心を見透かしたかのようなその瞳。
現実だということは俺の身体が一番分かっていた。
だって足の震えが止まらないんだ。
たぶん、女の人が倒れた時から震えていた。
怖くて。
目の前で人が死んだ事が怖くて。
それが、俺のせいだってのが怖くて。
だから俺は――その場から逃げた。
誰かに見られたらマズいと思った。
問い詰められてクラリスのことを話したって誰も信じちゃくれない。
自分が疑われるのが怖くて、自分のやったことで人が死んだってバレるのが怖くて、俺は一度も振り返らずにそこから逃げた。
自分可愛さでみっともないなんて思いもしなかった。
ただ、心のどこかで、俺ってこんなに薄情な奴だったんだと冷めた目で自分を見ている自分がいた。