プロローグ
― 助けてください ―
問題はなかった。
生きる為に必要なモノは揃っている。
― 助けてください ―
問題はなかった。
絶望はない。
けれど、希望もない。
問題なんて何もない。
大切な者を触れたら壊れる運命だと知っていれば、触れなければいいだけ。
だから、あの子とあの子も、そして私もこんなに孤独。
誰も助けを求めてはいない。
誰も手を差し伸べてくれるとは思っていない。
けれどその『願い』は生まれた。
無意識だから求めず望まない。
生きる未来は、永遠と続く灰色の世界。
陽の光もなく、潤す水もなく、根を張る大地もない。
『願い』はただ生まれ、実ることなく消え続けていた。
■ ■ ■ ■ ■
人口の光が煌めき、熱気漂う夜の街。
二つの影が風を切り、ビル群の屋上を疾走していた。
青い長髪の女が三十メートルの屋上から飛び降り、着地後、即トップスピードまで加速し走り去る。
「ハッハー!」
それを追うのは紅い長髪の女。
興奮と狂気を纏い疾走する。
前者が数十メートル跳躍すれば、後者もそれに続く。
まるで重力の制約はなく、並ぶビル群も障害物になっていない。
逃げる者と追う者でまるで鬼ごっこ。
お互いのスピードは拮抗し、どちらかが諦めるまで終わらない。
この追走劇を見る者は誰もいない。
否、人間の目には捉えられない速さ。
「っ!?」
大きな噴水のある公園に入った瞬間、グニャリと視線の先の景色が歪み、青髪の女が立ち止まる。
同時に周囲に霧散する紅い魔力。
「なんで逃げんねん。自分から近寄って来といてそりゃあんまりやわ」
腰まで伸びた紅髪をなびかせ、もう一人の女が距離を詰める。
「ひと目でいいからあなたの顔が見たくなっただけよ。もう気は済んだから帰らせて」
「ああ? なんの冗談やろ? ひと目見れば充分やて? アハハハハハハハ!」
紅い殺気が膨れ上がる。
「刺激しといてよう言うわドアホ!」
ヴヴヴヴヴヴと耳障りな音を発し、歪んだ空間そのものが青髪の女に迫る。
「…………」
だが女は身を引いただけで何の影響も受けず、そればかりか歪んだ空間を消し去り、無人の公園の姿が視界に戻る。
「別に嫌がらせをしたつもりはないのよ。本当にあなたの顔が見たかっただけ」
「ホンマにそうやったとしても、こうなる事は判っとるやろ? ウチ辛抱たまらんねん。大人しく殺されてくれや」
「ごめんね、そういうわけにはいかないの」
周りを覆っている紅い魔力が薄くなっていく。
「くそったれ!」
自身の結界が打ち消されたことに気づき素早く襲い掛かるが、予測されていた攻撃は容易く避けられ、二人は再び追いかけっこを始めた。
夜空には満月。
自然の光が照らす二つの影。
月光に照らされて二人の長髪が神秘的に映える。
人間の世界は更けている。
今日が終わろうとしているすぐ隣で展開される別世界。
この世の者であり、人間ではない者たちが闇夜を静かに蹂躙する。
流れる長髪は風に溶け――
唸る四肢はしなやかに――
その瞳は血色く輝いていた。
追走劇の再開から一時間。両者の距離がわずかに開いた。
それは一歩にも満たないわずかな差。
その距離が決定打だった。
足を止めたのは紅い影。
青い影は振り返ることもなく闇に消えた。
「…………」
立ち止まったまま闇を睨む。
その顔から狂気は消え、相手を逃した後悔の色もない。
汗一つ流れず、呼吸も乱れてはいなかった。
「……何しに来たんやお前は」
闇に愚痴る。
休む間もなく走り続け、最後はあっけなく幕を閉じた。
興奮していた感情が徐々に薄れていく。
胸に残るのは虚しさだけ。
「もう近寄ってくるんやないで」
その声に感情はない。
けれど、どこか悲しそうに紅い影も闇に姿を消したのだった。