金と銀の木犀の秋、12種類の薔薇の春、そして一輪の花
直接ではありませんが、死の表現があります。
よろしくお願いいたします。
窓から見える庭の、夏になれば色とりどりの蓮の花が咲く池に、蜻蛉のような儚い薄氷が張った寒い冬の朝。
「どうかわたしの庭を守っておくれ、フローレンス」
それが叔父の最期の言葉だった。
私、フローレンスの叔父の広い庭は自然の風景を取り込み、四季折々の花の香りと植物の匂いが時に甘く時に清々しく芳しく漂っていた。特に秋になると金と銀の木犀が圧倒的な芳香を放ち、女王のように君臨をした。
銀木犀は白っぽい黄色の落花を、金木犀はオレンジ色の落花を庭に散らし、朽ち果ててゆく匂いさえ熟れて甘い。月のない濃密な闇夜は、見えない香りに包みこまれるように、まるですぐ近くに咲いているみたいに夜気を染めて漂い来た。
草が萌え鳥が鳴く春からは、美と愛の象徴とされる薔薇が爛漫と咲き誇る。
品種は、花色花形も華麗な12種類。
愛らしいピンクのアルベルティーヌ。
可憐な濃いピンク色のアンジェラ。
光と戯れ合うみたいに華やかな赤い色はガーネットジェムとルージェリアン。
薫風にそよぎ、落とす影も瑞々しく清らかな白い色はジョリフィーヌとエーデルワイス。
明るいオレンジのカラルナ。
あでやかな濃いオレンジ色のマリーナ。
楚々とした茶色系のジュリア。
川の流れの底に砂金を沈めたような黄色はルミナスとエリナ。
気品に満ちた紫色のガブリエル。
全て叔父がかつて愛した女性たちの名前。
そして銀木犀は、叔父の元婚約者が好んだ花。
貧乏な叔父を棄てて、貴族として裕福な生活を保証してくれる他の男性と結婚した女性たちの、名残の花たちだ。正確には。家長が絶対の権力を所有する王国で、女性たちは家長である父親に逆らうことができずに、叔父との別れを選択させられたのであるが。
若い頃の叔父は、自身の美貌と傾いた男爵家しか持っていなかった。
叔父の姉である私の母は、豪商である私の父に嫁いでずっと叔父に援助をしてきた。その甲斐あって叔父が実業家として成功した時。その時には、降るような縁談がくるようになっても、過去の女性たちとの辛い別離を経験した叔父は結婚をする気はなくなっていたのだった。
その叔父の死により、私は叔父の屋敷と庭を相続することとなった。
金と銀の木犀の庭を。
12種類の薔薇が咲く庭を。
そして誰も知らない秘密の、沈黙の四季の庭を。
天空の星の動く音さえ聴こえてきそうな静寂な夜の底を、私は歩いていた。
闇の溜め息のような蛍が飛んでいる。私の前を。水をかき分けるように空気をかき分けて、身の重さなどないみたいにユラリユラリと蛍が夜の闇夜を飛ぶ。
私は星屑のように淡く、かそけし蛍の光に予感を感じた。ヒヤリと肌を滑るみたいに気温が下がり、沈黙の庭に入ると予感は的中していて、御客人がいた──ふたり、も。
ふたりとも酷い状態だった。
同じ金色の髪、同じ青色の目、容貌も似ている。兄弟だろうか。そして、ふたりとも噴き上げる血煙を纏っているみたいに血塗れていて、身につけている鎧は破損してボロボロであった。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
私はドレスの裾を持って軽く膝を折り、礼をとった。
ふたりとも状況が理解できずに茫然とした表情をしていたが、やや背の高い方の青年が、
「ここはどこなのだ? 我らは戦闘中だったはずだ」
と、ぎこちなく尋ねてきた。
「ここは沈黙の庭でございます。叔父の庭であり、今は私が主となった庭。別名、死者の庭と呼ばれております」
「死者の庭!?」
背の高い青年が驚愕に目を見開く。青年の鎧の胸部分には大きな穴があり、そこから赤い血が滴っていた。
「まさか、まさか伝説の? 死者の願いが叶うといわれている死者の庭なのか!? まことに?」
「庭? 何も無いではないか!」
青年に比べてやや年若い、私と同年齢くらいの少年が自分の周囲の何も無い白い空間に視線を走らす。
「それに死者の庭ならば、僕は死んだことになる? 皆まだ闘っているのに僕は死んでしまったのか!?」
少年は、手負いの獣のような物騒な雰囲気を漂わせて私を睨んだ。
「駄目だ! まだ死ねぬのだ! 魔物の氾濫を食い止めねば、民たちが全員死んでしまう!」
私は少年をじっと見て、首をふった。
「いいえ、貴方は生者です」
少年から青年に視線を移して、
「条件が重なったのでしょう。あちらの方が死亡した瞬間、貴方はすぐ近くにいて瀕死の状態だった。その場合、血とか心とか何かが繋がっている方は稀に死者に引き摺られて、ここに来訪することがあるのです」
と控えめに青年と少年の様子を窺いつつ言った。私の残酷な宣言は続く、貴方は死者だと。
「この庭は、死者だからと言って誰しもが来れる庭ではないのです。貴方は強い想いが、それが何かは私はわかりませんが、死をも越える想いがあって、だからこの庭に入って来られたのです」
青年は自分の穴の開いた胸にふれた。
「覚えている……。あの時、倒れた弟を庇いながら闘っていたのだ。だが、魔獣の尾に胸を貫かれてしまって……、そうか、死んだのか。わたしは死んでしまったのか」
自分に言いきかすように青年は呟く。
「わたしは死んだのだな……」
少年が目じりを吊りあげる。双眸が青い炎のようだ。私が殺したわけでもなく私のせいで死んでしまったのでもないが、怒りを目の前にいる私にぶつける死者は多い。少年は死者ではないが、青年の死にショックを受け、咆哮するように絶叫した。
「嘘をつくな! 兄上は死んでおらぬ! 兄上はっ、兄上はっ、死者ではないっ!!」
深い水底から沸きあがる気泡のように震えて、慟哭の涙を流す少年を青年が抱きしめる。
「ルヴィオン──泣くな。これも運命だ、わたしの寿命はここまでだったのだ。おまえを守りきれなかった兄を許してくれ」
青年は私に顔を向けた。もはや青年は自身の死に動揺していない。現実を無視して甘い夢をむさぼるよりも、常に一歩先を計算して生きてきた青年は冷静に思案していた。
弟を助ける方法を。
異母兄弟は多いが、同じ母親から生まれたのは弟のルヴィオンだけだった。辺境の城で、ふたりで支えあい助けあい生きてきたのだ。
「名前も知らぬご令嬢。本当にここが、交わることのないはずの死者と生者が交わる死者の庭であるのならば。どうかわたしの願いを叶えてもらえないだろうか? 何の縁もないご令嬢に頼むなど図々しいことと百も承知しているが、わたしは弟を助けたい。わたしの願いは、弟を助けることだ」
青年は深々と頭を私に垂れた。
「私が叔父から死者の庭を引き継いで、初めての来訪者は砂漠で亡くなった少年でした。少年の商隊は砂嵐に遭遇して、迷い、水をほとんど失いました。少年は自分に与えられた水を幼い弟妹に飲ませて亡くなったのです。少年の願いは、水、でした。ゆえに死者の庭は、睡蓮を咲かせました。少年は睡蓮を持って弟妹の所へ戻り、その場所で睡蓮は小さな泉に変化して商隊の人々の命を救いました──信じますか?」
青年は厳かに頷いた。まるで誓いをたてるように。
「信じます」
私はにっこりと微笑んだ。
「では、花を」
淡い光が白い空間に集まる。
「死者の庭からは何も持ち出してはなりません。しかし、許されているものがあります。願いが叶う一輪の花です。少年の時は、水の花でした。そして貴方が希望したのは」
空間に、一輪のラナンキュラスが咲いていた。
たった一輪に多いもので幾重にも幾重にも薄い花びらを200枚も重ねる、美しい花。
「死者の庭で咲く花には不思議な力があります。砂漠の少年のために咲いた睡蓮が泉に変化したように、このラナンキュラスは花びらの一枚一枚に回復の効果があります。たとえ瀕死の状態でも、この花びら一枚で回復することでしょう」
青年はそっとラナンキュラスを掴むと、慎重に少年に渡そうとした。
「ルヴィオン、おまえは生きろ。これは奇跡の花であり、ここは奇跡の庭だ。このチャンスを逃がさず、生きておまえは幸福になれ」
「嫌ですっ! 兄上、兄上といっしょでなければっ!」
少年はまろぶように私の前に来て、ドレスの裾を持ってすがった。
「頼む! 頼む! ここが奇跡の庭ならば兄上を生き返らせてくれっ!」
私は腰をおとして膝をつき、少年と視線をあわせた。金色の髪の下、青い目が涙に濡れていた。
「それは神の領域です。私の手は天に届きません、ただ少し死の国に旅立つ方のお手伝いができるだけなのです」
私は、涙をあふれ出す少年に頭を下げた。
「申し訳ございません」
青年が、少年を背後から強く抱きすくめた。
回された腕を、恐る恐る、その存在を確かめるみたいに少年が触れる。
「ルヴィオン、ひとり残すことになってすまない。不甲斐ない兄を許しておくれ」
「あ、兄上っ! 兄上ーーっ!!」
ルヴィオンだとて理解はしているのだ。
兄の腕は冷たく、兄の穴が開いた胸は呼吸をするために動いていないことを。感情と理性が一致せず苦しげに息を吐く少年だった。
だが、少年の切り替えは早かった。
ぐいっと涙を拭って、私に懇願する口調で聞いた。
「兄上は、兄上はどうなるのだ? 僕に花を渡した後、兄上は!?」
「死者の庭で花を咲かせることができるのは、ひとり一輪です。貴方のために花を咲かせたので、死の国に旅立つための灯りとなる花は……」
「では、僕が願う! 兄上の花を僕が願うことはできないのか!? 花を咲かせることができるのは死者だけなのか!?」
「いいえ」
私は少年の手をとった。
「それが貴方の心からの願いならば、花はここに」
少年の手には、小さな花が咲いていた。
蛍袋の花だ。
ふっくらとした釣り鐘の形の花で、うつむくように下向きに咲く花は提灯に似ている。花の奥に蛍がいるみたいに、淡く花自体が光っていた。
「火垂るの花です。この花があれば、死の国への道も暗くはなく、迷うこともないでしょう」
「あ、ありがとう! 絶対にこの恩は返すから!」
少年は、自分の持つ蛍袋の花を青年に渡した。
青年は、ラナンキュラスの花を少年に渡した。
「兄上の弟として生まれて僕は幸福でした。いつまでも兄上のご冥福を祈っています」
「わたしもルヴィオンに兄上と呼ばれて幸福だった。我らは母上の笑顔に迎えられて生まれてきた。だから、よき人生だったと終わりのこの時もルヴィオンが笑顔でわたしを送っておくれ」
お互いがお互いのために花を咲かせた兄弟。
それは、春の始めの出来事だった。
そして、今、秋の始めに私の屋敷に訪問者がいた。
「フローレンスの婚約者となったルヴィオン・カスタークリフだ。フローレンスの屋敷に婿入り予定だから、よろしくな」
金色の髪に青い目の少年が微笑む。
「この王国にいなければ他国まで捜索するつもりだったが、よかった、見つけることができて。フローレンスの実家の父君に婚約をお許しいただいた」
私は、ぽかんと餌をもらう雛鳥のように口を唖然と開けた。
「フローレンスは珍しい銀髪だったから、すぐに特定できたんだ。気をつけないと危険だぞ。あのような希少な能力があるのだから。まぁ、死者が相手ゆえに身元がバレることは今までなかったのだろうが」
少年、ルヴィオンがチッチッと指を振って私に注意をする。
「今度からは僕がフローレンスを守るから。指一本触れさせないから安心してね」
「……あの……」
「あの後、僕さ、ラナンキュラスを花ごと食べてしまったんだよ。花びらを一枚だけちぎる力がなくて、丸ごと花を口に入れたんだ。あはは、まだ誰にも露見していないけど、僕ね、見た目は変わっていないんだけど他人とだいぶ違う身体になったみたいなんだ」
ルヴィオンが言葉を続ける。
「だから魔物の氾濫も終息したし、辺境の城の異母兄弟たちによる後継者争いに巻き込まれるのも嫌だし、父上に手切れ金をもらってフローレンスの婿入りに来たんだ」
「……あの……」
「秘密を持つ者同士、仲良くしようよ。ね?」
悪い話ではない。ないけれども、突然すぎて私が返事に困っていると。
風に乗って窓の外から咲き匂う金木犀の香りが漂い流れてきた。濃密な甘い香りに、
「あー、金木犀だ」
とルヴィオンが金色の髪を揺らして目を細める。
「……金木犀が好きなの?」
「城の庭園の隅に咲いていて。兄上とかくれんぼをした時、香りが移ってしまって別の場所に隠れても見つかってね」
「庭には銀木犀も咲いているわ」
「金と銀だね。ねぇ、庭を案内してくれる? 僕、フローレンスと庭を歩きたい」
差し伸べられたルヴィオンの手をじっと見て、私は小さく頷いた。
こうして私には、恩返しに来たらしい押しかけ婚約者ができたのだった。
〈補足〉
~ルヴィオンの兄上と睡蓮の少年~
「ああ、やっと見つけた」
ルヴィオンの兄は、幾重にも闇が堆積したような漆黒の暗闇の中で、膝を抱えてうずくまる小さな少年の前に立った。
驚愕の表情で少年が顔を上げた。
この暗闇で、誰かに出会ったのは初めてのことだった。
「銀色の髪のお姉さんを知っているね? 彼女に頼まれたのだよ、遠く離れてしまったかも知れないけれども、もしかしたらまだ近くにいる可能性もあるので探してほしい、と。もう大丈夫だよ。頑張ったね、こんな暗闇の中でよく頑張った」
ルヴィオンの兄が少年の頭を優しく撫でる。
「おいで、いっしょに行こう。わたしの右手は蛍袋の花を持っているが、左手は空いている。君と手をつなぐことができるよ」
「……いいの? 僕と手をつないでくれるの?」
蕾のような唇をおずおずと開き、少年が言葉を綴った。
「僕、銀色のお姉さんに言われていたの。睡蓮の花を咲かせてしまうと自分のための花を咲かすことはできないって。道に迷ってしまうよって」
「そうだね。魂の前にあらわれる死の国への道を、死者の庭へと入ることで外れてしまったから、道へと戻るには灯りが必要だものね。ほら、見てごらん」
ルヴィオンの兄が蛍袋の花をかざす。
彼方に、淡く、かすかに白い道が輝いていた。
「花の灯りに反応して、道が現れてくれている。わたしといっしょならば道へと戻ることができるから、安心して手を握って?」
ぎゅっ、と少年はルヴィオンの兄の手にしがみついた。澄んだ瞳から涙があふれる。光の滴のような涙だった。
「僕、暗くて、怖くて、寂しくて……。このままずっと一人だと思っていた……」
「──睡蓮の花のこと、後悔したかい?」
「ううん、後悔なんてしていない。弟も妹もお父さんもお母さんも隊商の人たちも、睡蓮の泉を見て泣き笑いして凄く凄く喜んでいた。ここは真っ暗な場所だったけど、みんなの笑顔を思い出すだけで心がね、ほわん、と温かくなって。だから一人でも頑張れたの」
ぎゅっ、とルヴィオンの兄も少年の手を強く握りかえした。
ルヴィオンの兄は語らなかったが、少年を探すことは容易ではなく、百夜、千夜、それ以上の時間がかかった。だが苦労も時も溶解して久遠に運ばれ、宝物のような少年を見つけた。
「さぁ、ともにあの道を目指して歩こうね」
読んで下さりありがとうございました。