1-5
耳につんざくような音が鳴り響く。それは喉が張り裂けるような声だった。
その声を聞いた時、誰もが思った。恐怖を。それを誰よりも感じたのは一番近くにいたアリシアで、そのアリシアは恐怖の先、今、新也の前に立てば殺されると思ったほど。
アリシアの横でなにかが落ちる音がした。そこに視線を移すと、それはアリシアが持てきたリュックであると気がつく。なにかの役に立てばと思い、思いつく限りたくさんの物を詰め込んできた荷物だ。まさか新也が持っていたなんて。
だけどそんなことより、アリシアは思った。なにか新也の邪魔をしたのではと。
たかが荷物を持ってもらっているだけで、いつもならそう思うアリシアだが、今は違う。状況が、新也の感情が。全てが。
焦り、恐怖を覚えたアリシアは恐る恐る新也の方を見やる。
「え……」
しかしそこには新也の姿はなかった。そのかわりアリシアの耳に新たな衝撃音が鳴り響いた。
「うっ……っ……」
その音のした方へ目を向けるとそこに新也がいた。となりにはさきほどまで頭を掴まれていた寿の姿が。片手で抱き上げられ、小さくうめき声をあげている。
新也は寿のことを助けてくれたのかとアリシアは思ったが、その新也は寿のことなど見ていない。新也の視線の先にはその原因の大男がいる。壁まで吹き飛ばされた大男の姿が。
「アリシア、寿のこと頼む」
「————は、はいですわ!」
咄嗟のことでアリシアの声は上擦っていた。だけど今は寿のことを考えることに。
駆け寄ってきたアリシアに新也は寿を預ける。その間も新也は大男の方を睨み続けていた。見たこともない剣幕で。
「いきなりなにしやがんだ、あぁン。いてえじゃねえか」
声が聞こえた瞬間には新也の姿はそこになかった。その変わり、甲高い音がアリシアの耳に届く。そして遅れて新也の姿が見つかり、そこで大男に切りかかっている。
「ちっ。ちょっとは話をしてもいいんじゃねえのか、あぁン。気にならねえのかよ。この状況が。どうしてこうなったか。どうしてその女がそこで倒れているのか」
大男は新也の刀を防ぎながらあざ笑うかのように聞いてくる。
「それもとはっきり言った方がいいのか? なぁ、白神新也」
「てめえと話すことなんてねえよ。話す前に殺してやるからよぉ!」
新也は刀に力を加えるとそのまま振りおろす。すると大男が握っていた刀のようなものが折れ、そのまま体に突き刺さる。
たが、切られたはずの大男は後ろに下がると余裕の笑みを浮かべる。胸に深い切り傷ができたはずなのに、それを手で触るだけでなにもなかったかのように傷が塞がっていく。
「まあまあ話ぐらい聞けよ。俺様はこう見えて親切なんだぜ、あぁン。まっ、話を知ってた方が俺様好みってだけなんだがな」
「だからてめえの話なんか聞かねえっつてんだろぉ!」
新也は聞く耳を持たず再度切りかかる。話しなんて今更したところで今の状況は変わらないのだから。それよりもこいつの声を聞いているだけで腹の中から熱い物が溢れてきそうだった。聞きたくない。だから口を開くなと。姿なんて今すぐに消してやりたい。視界に入れたくもない。だから今すぐに殺してやる。
新也の中はそんな怒りにあふれていた。いや、怒りで制御していた。でないと自分が壊れてしまうことを分かっていたから。今、自分が壊れてしまえばなにもかもを壊してしまう。殺してしまう。そう。ここにいる全員を。
「っ!? だ、だから俺様の話を————」
なにかを伝えようとしているが、もう返事はしなかった。答えるだけ時間の無駄だから。殺してしまえばなにも残らないのだから。
新也は力の限り刀を振り続けた。大男はそれを新しく作りだした刀でなんとか防いでいたが、それでも完全ではなく少しずつ傷が体に増えてきた。
「お、俺様は、鬼蜘蛛。てめえは興味がねえのか、あぁン。教えてやるよ」
今更興味などない。だからこれ以上しゃべるな。これ以上汚い空気を吐くな。
「これは俺様の復讐だ。そう、俺様は復讐に成功したのさ!」
防戦一方だった鬼蜘蛛は一旦距離をおくと両手を広げ、更に声を大きくする。
まるで自分の功績を認めてもらうように。自分が全ての原因だと分からせるように。
そんなことしなくても今の状況が鬼蜘蛛のせいであることは一目瞭然。それがさらに新也へ火をつけた。
「もう分かってんだろ、あぁン。俺様がやったのさ! そこに転がっている小娘を! そいつは俺様が殺したんだよ!」
しかしその言葉を最後に鬼蜘蛛の口からは血が溢れてくる。
「しゃべんなっつってんだろ……」
静かに聞こえたその声は、腹の底からドスのきいた声だった。鬼蜘蛛の腹の方から聞こえている。そしてそれは新也であることはすぐに分かった。
距離を取った鬼蜘蛛だったが、そんなもの新也にとって大した距離ではなかった。更に鬼蜘蛛は両手を広げるなどふざけた行動に出たのだ。そんな隙を見逃す新也ではない。
新也は刀に力を加えると、走り出しそのまま鬼蜘蛛の腹に風穴を開ける。
「ぐっ! て、てめえ……」
睨みつける鬼蜘蛛だったが、もう新也は鬼蜘蛛を見えていない。全てを終わったかのようにうつろな目をしていた。
新也は突き刺した刀を、突き刺したまま横へひく。するとそこから鮮血があふれ出し、新也の全身を汚した。
骨も筋肉も断ち、鬼蜘蛛の体は半分が繋がれていない状態になる。
しかしそれでも新也はやめなかった。そのまま刀を上へ振りあげると、その軌道は鬼蜘蛛のわきに入り、そして鬼蜘蛛の左腕が切り落とされる。そして新也は鬼蜘蛛の胸を足を首を肩を、全てを切った。回復できないほどに。切って切って切って切って切って切り続けた。
その度に新也の体は赤く染まり、気づいた時には新也に白い場所は残っていなかった。全身が赤く染まり、白髪頭だった髪を赤黒くなっている。
床に赤いシミが広がっていく。そこに落ちていく肉が元は鬼蜘蛛であったことなんて今ではもう判断がつかない。いや肉なのかも分からない。それほどまでに鬼蜘蛛は細切れにされていた。新也の手によって。なすすべもなく。
「…………」
部屋に沈黙が訪れ、新也は無言で刀についた血を払うとそれを鞘に納める。
達成感もなにもない。沈んだ感情が浮上することもない。あるのは目の前に広がる赤い景色。そしてその中心で動かない火蓮の姿。
間に合わなかった。なにもできなかった。理由なんてどうでもいい。そんな絶望が……。
「…………新也」
そんな新也に寿がアリシアと一緒に寄ってくる。うつむき、いつも無表情な寿が今ではその顔が見えない。いや、寿は見せられないのだ。そこにいた寿だからこそ。
「寿。お前のせいじゃねえ。だから、てめえが責任を感じるな」
「でも、私————」
状況がどうであったとしても新也に寿を責められないし、誰も寿を責めることはできない。だから寿が寿を責めることは違うと伝えるが、そんな言葉が届くはずもなく、寿は暗く沈んでいく。
「それよりもなにがあったか教えてくれるか? じゃねえと俺は……納得できねえ」
新也は火蓮の元へ行きながら寿へ事の経緯を聞く。せめてなにが起きたのかを聞くために。どうして火蓮が横たわっているのか。それを聞かなくては、新也自身なにもできないから。そう、なにも……。
「……分かった」
寿はなにが起こったのか全てを語った。しかし寿も知っていることはほとんどない。寿がこの部屋にきた時にはすでに火蓮と鬼蜘蛛は戦っていたのだから。
「私も知っているのはこの程度」
「分かった。じゃ分かっているのはあいつの名前ぐらいか」
浮かばれない。火蓮の顔が浮かばれなかった。これでなにをやり、ここまできたのか意味がまるで分からなかった。
そんな時、ずっと黙っていたアリシアが一枚の布を取りだすとそれを火蓮へかぶせてあげる。
「いつまでもこのままでは可愛そうですわ。きちんと弔ってあげませんと」
「そうだな。アリシア、お前は案外強いんだな」
新也は火蓮をきれいに整えていたアリシアに向け、乾いた笑みを向けていた。たが、それがよくなかった。アリシアでも許されないことがある。
「強い? どこが強いんですの? わたくしに強いところなんてどこにもありませんわ」
「アリシア?」
「わたくしが…、わたくしが強ければもっと違う結果になっていましたわ。そんなわたくしに強いなんて……強いなんて言わないで!」
新也の言ったことは心のことだった。しかしアリシアの言う強いとは力のことだ。力があれば火蓮を守れた、そう主張している。ならば強い人間だったらどうなのか。新也や寿ならば。アリシアの怒りはそこへたどり着く。
「……でも、強くないわたくしと違って、新也は違うじゃない! 新也は強いでしょ! だったらなんで守れなかったんですの! わたくしと違って強いのに! 新也だったら守れたはずなのに!」
「……アリシア、やめて。新也のせいじゃない」
寿が止めに入るが、それでもアリシアはやめない。力があるのだからと、力のないものと違って力があるものはできることがあったはずなのにと。
「新也のせいですわ! こうなったのも! 寿が傷ついたのも!」
「ああ、そうだ。俺のせいだ。もっと俺が火蓮のことを考えて行動すればこうはならなかった。もっと早く行動していればこうはならなかったはずだ……」
強く唇を噛んだ新也の口元には血が流れる。アリシアの言うとりだからこそ、その悔しさが全身に流れてくる。
だけど、アリシアが考えていることはそんなことではなかった。なぜなら、新也が悪いなどと思っているはずないだから。誰が悪いなんて責任の押し付け合いをしても意味が無いことも分かっている。
「なぜ、認めるんですの! 新也が悪いなんて誰も思ってないでしょ! なのに……」
アリシアの強く握られた拳が小さく震える。自分の情けなさが溢れてくる。今、こんなことを話している自分に。
遠回しなアリシアの訴えは届かなかった。それは新也に力があり、寿にも力があり、そしてアリシアには力がないから。
「反発して! 自分は悪くないって言って! わたくしが間違っていると、自分を責めるなと。いつもの新也ならそう言うじゃないですの……。いつもなら! 自分でやれっていうじゃないですの!なのに、なのになぜ今はそう言わないんですの!」
「アリシア。別にてめえは間違ってねえよ」
「だから! 認めないで! わたくしの言っていることは間違ってるって言って! じゃないと、じゃないと…………」
「てめえ、もしかして……」
そこで初めて新也は気がつく。アリシアの思いに。弱くて力がないアリシアの思いに。
あふれ出したアリシアの涙が、全てを物語っていた。
「じゃないと、わたくしは、わたくしは、誰も責めてくれません……」
アリシアは力がないからこそ誰からも責められない。誰もアリシアを責めようとしない。戦えないから、弱いから。それがアリシアは許せなかった。責任を追いたかった。誰かに責めてほしかった。そうしなければ張り裂けそうだったから。アリシアだけ孤独になるから。それだけは嫌だった。新也がいて、火蓮がいて、寿がいて、そしてその中にアリシアがいたかったから。だから新也を責めた。そうすれば間違ったことを言った自分を責められると思ったから。
強いからこその責任と弱いからこその責任がその場に交差していた。
「てめえがてめえを責めたいなら別に構わねえ。だけど、これだけは忘れんな。それは俺も寿も同じだ」
新也はアリシアが思っていることが分かったからこそ強く当たる。誰も誰かを責めないけど、責められたい思っていると。
「俺とか寿とか、もちろんアリシアだからとか関係なく、だ。誰も他のやつを責めようとは思わねえよ。これだけは変わらねえ」
「……しん、や。……うん」
嗚咽交じりに返事をするアリシアに寿が無言でその肩を抱く。
「それよりも今は火蓮のことを考えてやれ。いつまでもこのままってわけにはいかねえだろ」
「そ、そうですわね。……すみません。火蓮のことをもっと考えるべきでしたわ」
アリシアは取りだした布で火蓮を覆うと抱き上げる。未だ固まっていない火蓮の血がアリシアを染めていく。
「……アリシア、もう一枚ない?」
寿がアリシアに尋ねる。そしてその寿の視線の先にはもう一つの火蓮の姿があった。
「そうですわね。それでしたらこちらを」
アリシアはリュックから小さめの布を取りだすとそれを寿に渡す。寿はそれで火蓮のもう一部分を包むとアリシアの抱く火蓮の元へ。
誰にともなく歩き始めた。元きた場所へ帰るために。失ったものを惜しむように。
その時だった。背を向けた3人にあの死神の声が聞こえたのは。
「どこに行く気だ、あぁン?」
もう二度と聞きたくない声が、もう二度と聞くことはないと思っていた声が、3人の体を震撼させた。新也が滅ぼしたあの声が。
「う、嘘だろ……」
新也は手加減などしていない。全力でやった。殺す気で。それにそのことは寿もアリシアにも伝わっていた。いや、目を見ていれば誰でも分かる。あんなにもバラバラにされたのだから。もう個体とは呼べない——むしろ液体と言っていいほどになっていたのに。
————そこに鬼蜘蛛がいた。
以前よりもさらに大きくなっている。腕なのか足なのか分からないが、その姿は蜘蛛だった。8本の脚。だけどどこか元の特徴が残っている感じがする。だから鬼蜘蛛だと思ったし、それに額にはずっと主張を続けている角が2本ある。
「決めたぜ。俺様はてめえら全員殺して餌にしてやるってなぁ!」
状況がまったく理解できなかった。なぜ生きているのか。ほとんど体を失ったはずなのに。それでもなお、鬼蜘蛛の目には光が宿っていたことに。
焦った新也の行動は遅れてしまった。気づいた時には目の前に鬼蜘蛛が迫っており、そして新しく生えた4つの腕に刀があり、それが3人へと一斉に降り注いでいた。
新也は咄嗟に寿とアリシアを突き飛ばしたが、それが限界だった。新也はもう避けられる場所にはいなかった。そのまま刀が振りおろされれば新也の首が飛ぶ。
覚悟を決めた新也の首に痛みが走った。それは————それは刀による痛みではない。
「————」
一瞬だが、チクッと針に刺されたような痛みが走る。その瞬間、新也の目の前には黄金に輝く髪を揺らす少女が立っていた。
「もう、初めからこうしていればよかったかもね」
この声は聞いたことがある。それにその服も、そして後ろ姿も。だが、いつも赤茶色をした髪の毛がなかった。そのかわり金色の髪の毛がたてがみのように揺らめていた。
「よっと。ちゃっちゃと済ませるよ」
懐から取りだした拳銃が火を噴いたと思ったら、鬼蜘蛛が振りおろしていた刀4本が砕けちる。
「ほら、新也。そんな呆けてないで。さすがに私1人じゃ厳しいからさ」
「…………火蓮、か?……」
振り向いたその顔はいつも見ている顔で、家の家事をいつもやってくれている火蓮だった。
「私の顔忘れちゃったの? それとも偽物とか? まあそりゃそうだよね。でも私は正真正銘、火蓮だよ」
しかしいつもと同じように見えて火蓮のその姿は、髪色とそして瞳の色が金色に輝いていた。