引退に向けて
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──引退に向けて
アロイスは今、とても心穏やかな気分だった。
ドラッグをやっているわけではない。彼は自分の商品に手を出さない。
彼が穏やかな気分なのは、ついに自分たちが最強の保険を手に入れたからだ。
アロイスたちは内戦に勝利した。あのクソッタレな麻薬取締局までアロイスたちに協力してくれた。フェリクス・ファウスト特別捜査官は死にかけたらしいが、死ななかったそうだ。それだけが心残りである。
だが、もうフェリクスの影に怯える必要はない。アロイスは究極の保険を手にし、今や“連邦”も“国民連合”も手出しできない最強のカルテルになったのだから。
「なあ、マーヴェリック。俺が引退すると言い出したら笑うか?」
「はあ? ちょっと待てよ、冗談で言っているのか?」
「割と本気で言っている」
アロイスはテレビで何度目かの再放送である“国民連合”の映画を見ながらそういった。それに対してマーヴェリックは彼女としては珍しく、かなり驚いていた。
「あんた、自分の立場が分かってるのか? あんたはもう世界最大のドラッグカルテルのボスなんだぞ。そう簡単に引退できるわけがないだろう。ちょっとは考えなよ」
「一応、準備はしてきたつもりだ」
アロイスはそう言ってソファーから立ち上がる。
「まず子供を作った。ヨハンの孫だ。俺は嫌だが、この子が俺のビジネスを継ぐだろう。俺は最低の父親になる。子供に与えるものがクソッタレなドラッグカルテルのボスの地位なんてことになるんだからな」
アロイスは続ける。
「カルテルの運営はヨハンに任せる。奴も今や親類だ。奴の孫にドラッグカルテルのボスの地位を与えると約束すれば裏切りはしないだろう。俺を殺して、まだ1歳にしかならない息子にドラッグカルテルのボスの地位を、とはならないはずだ」
「楽観的だね。ヨハンは裏切るかもしれないよ。孫ではなく、自分が地位を握りたがるかもしれない。そうしたらあんたが邪魔になる。その時はどうするつもりなんだい?」
「俺と“国民連合”の秘密協定の存在をほのめかす。俺がボスである限りは、“国民連合”は手を出さない協定を結んでいるとちらつかせる。事実。“国民連合”が俺たちヴォルフ・カルテルに手を出さないのは俺が結んでいる『クラーケン作戦』のおかげだ」
今も『クラーケン作戦』は続いている。
アロイスは多額の金をブラッドフォードに送り、大量の武器がメーリア防衛軍を始めとする反共組織の手に渡る。軍事政権に対する支援も『クラーケン作戦』の資金によって賄われているのである。
ブラッドフォードへの資金援助は引退してからも続ける。そうすることで二重の保険が手に入れられる。“連邦”の秩序を維持するための保険と、“国民連合”の秘密作戦を支援するための資金という保険。
「俺はもう疲れたんだよ、マーヴェリック。この地位は疲れる……」
アロイスは冷酷な人間であると誰もが言うだろう。
確かに彼は冷酷な決断をいくつも下してきた。平気で大量虐殺を拷問をあらゆる非人道的行為を命じてきた。
だが、彼は1度目の人生でも同じ経験をしてきたのだ。
それは精神が磨り減るには十分すぎるほどの苦行だった。いくら冷酷な人間であっても、ここまでのことをしてくれば、精神は打撃を受ける。正常な精神は摩耗していき、ドラッグに手を出しそうになるほどの異常な精神が顔を見せる。
アロイスにはフェリクスが持っているような法の正義という大義すら持っていない。ただ、自分が生き延びるために他者を犠牲にし続けてきたのだ。それが冷酷なアロイスにとってもどれほどの苦難だったか。
少なくともアロイスは今は疲れ果てている。
ここまで来るのに苦労に苦労を重ねた。多大な苦労だ。カールの裏切りを阻止して始末し、『ジョーカー』を相手に戦争をし、分裂したキュステ・カルテルの内戦を戦い、そしてレーヴェ・カルテルと戦った。
今、ようやく平和が訪れた。
今でも小さなドラッグカルテルやギャングは抗争を続けているが、些細なものだ。地元の警察官でも止められる。ようやく東部には秩序が戻った。ヴォルフ・カルテルの平和とでもいうべき秩序が。
ならば、自分はもう引退していいのではないか?
アロイスの記憶の中にこれ以上の戦争はない。キュステ・カルテルの分裂は想定外だったが、彼はこれ以上大きな抗争が起きるということを把握していない。
少なくとも1度目の人生ではそうだった。
もちろん、アロイスも自分が1度目の人生とは大きく違うことをしており、そのせいで歴史が変わっていっていることは分かっている。もう1度目の人生の記憶は当てにできないものであるということは分かっている。
だから、各地にネズミを忍び込ませて情報収集をしているし、ブラッドフォードと取引して情報を手に入れている。情報収集の必要性は理解している。ドミニクに裏切られたことで、身内も念入りに疑っている。
それでもヴェルナーの事故死など予想できなかったし、ライナーの裏切りも予想できなかった。未来を予知するのには限界がある。
ならば、もうこの事業そのものから手を引くということ。
すなわち、引退だ。
「周りがあんたの引退を許すとは思えないね」
「それは俺も考えている。だからこそ、ヨハンに権力をある程度握らせておき、俺もある程度権力を握っておくんだ。半引退と言ったところか。権力を譲渡し、カルテルを2頭体制にする。責任の全てを俺が背負うのはもう終わりだ」
アロイスはそう言ってため息を吐く。
「鏡を見ると思うんだ。19歳でこのビジネスに顔を突っ込み今まで戦ってきた。だが、それが何の意味があったのかと。普通の人間より老け込んで、幸福と言えば君と一緒にいられることぐらいだ、マーヴェリック。他に楽しいことなんて何もないんだ」
ひとつ間違えば殺されるという重責。それを数年。
これまで俺が商品に手を出さなかったのは奇跡に違いないとアロイスは思った。
「引退したらどうするんだい?」
「そうだね。西海岸に別荘を建てる。小ぢんまりとした別荘だ。決して豪華ではないが、陳腐でもない。そんなこじゃれた別荘を建てて、小説を読んだり、書いたりする。春の暖かな日にはベランダにデッキチェアを出して、日光浴をしながら昼寝する」
「退屈な人生だね」
「今までがひどすぎたんだ。俺には向いてなかった。俺は上手くやった方だと思うが、決してこれは俺の望んだ人生ではないし、俺に適した人生でもなかった。俺は小物なんだ。ずっとそうだった。それがドラッグカルテルのボス! どうかしてるよ」
アロイスは自分は大物ではないと思っていた。
いや、正確に言えば大物の地位に相応しくないと。彼は映画のマフィアのボスのようにどっしりと構えて、どんな危機だろうと動揺せず、的確な指示を出して、そして酒でも楽しむということはできないと思っていた。
ただ、生き残るために必死だった。それだけだった。
ようやくそんな生き方にも別れを告げられるのだ。
ヴォルフ・カルテルの平和。『クラーケン作戦』への貢献。もう麻薬取締局はアロイスに手出しできない。
「のんびりとした人生が送りたいね」
アロイスはそう呟いた。
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