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9.名前を呼んで

「さぁ、セイラ様。どうぞ」

「……」


いかにも楽し気に、イシュタルはセイラを促した。


何だか納得が行かない。しかし拘束が解かれるなら、名前を呼ぶぐらい安いものかもしれない。


恋人や婚約者でもないのに王子の名前を呼ぶと言うのは、不敬な振る舞いには違いない。伯爵令嬢として女学院で口酸っぱく淑女の礼儀について指導されてきたミラには、かなり抵抗のある行為だ。けれども、このままでは埒が明かないのも事実である。彼女―――『セイラ』は、覚悟を決めた。そして恐る恐る、口を開く。


「え……エドガー様」

「……!」


言葉にならない感動が、『セイラ』を拘束する腕から伝わって来た。その大げさな反応に怯んだものの、ミラはええい、ままよ! と、心を定めて後を続ける。


「御手をどけて……私を解放してください」

「……分かった。他ならぬお前の頼みだ。……聞き届けよう」


ものすごく名残惜しそうな響きを含んでいたが、約束通りエドガーは言う事を聞いてくれた。堅牢な檻のような両腕から漸く解放された『セイラ』は、心底ホッとして身を引いた。

しかし依然、鷹のような精悍な眼差しが突き刺さるように『セイラ』に向けられている。


これは一体全体、どういう事だろう。

まるで本気で、エドガー王子は『セイラ』に惚れてしまったかのようだ。


「そ……それでは、失礼致します」


『セイラ』はドレスの裾を摘まみ、淑女の礼を取った。

頭を下げている間も尚、エドガー王子の熱視線が痛いほど向けられているのを感じてしまう。


「どうしても、帰るのか?」

「はい」

「そうか……」


懇願する眼差しを向けられるが、ここで更に絡まれては困る。帰宅が遅くなって、万が一マルメロ伯爵にここに乗り込まれては困るのだ。できれば自分の口から、この事態を報告したい。その方が同じ叱られるにしても、幾分マシなような気がした。

確認したい事は山ほどあるが、必死でその衝動を押さえる。とにかく、ここを一刻も早く立ち去らねば。


「ならば―――屋敷まで、私が送り届けよう!」


だがエドガー王子は、今度は迷惑極まりない提案を押し付けてきた。


「はいぃ?」


思わず淑女らしからぬ声が出てしまい、口元を押さえる。予期せぬ提案に驚くあまり、うっかり素に戻ってしまった。それもセイラが絶対出さないような、素っ頓狂な声だ。

何とか見た目だけはと、必死で『セイラ』を保つ。

しかしエドガー王子は特に不審がる様子もなく、ウキウキとこう続けたのだ。


「美しい女性を独りで返すのは、心配だ。私が、屋敷まで貴女を送ることにした。うん、良い考えだと思わぬか?」

「いえ。あの……侍女もおりますし、御者も待たせております。独りではございませんので、どうかご安心を」


強張る頬を叱咤しながら、『セイラ』はかろうじて笑顔を返す。しかし敵もさるもの。まるで聞く耳を持たず、更に食い下がる。


「そうは言っても、何があるか分からないからな。王宮の堅牢な馬車に乗り換えた方が良いのではないか。もちろん、私も同乗しよう。安心したまえ」

「あの……!」


ここはキッパリ言わなければ、到底伝わりそうもないと『セイラ』は悟った。姿勢を正して改めて正面から向き直る。できる限り威厳を込めて、しっかりと反論した。


「私は―――アルフォンス様の『婚約者候補』です。周囲に万が一、誤解を招いては王家にご迷惑を掛けてしまいます。だから、エドガー様と馬車に同乗する訳には行きません」


本当は『婚約者』と公式に発表されたわけではないし、当然『婚約者候補』なんて身分も公的に定められたものでは無い。

ただ、セイラと皇太子アルフォンスが親しく遣り取りしているのは本当の事だ。贈り物だって頻繁に届いている。だから皇太子のいない場所で、エドガー王子と二人でいる事も本来ならあり得ない。そう、馬車に同乗するなんてもってのほかだ。


実際のところ、エドガーが『セイラ』を屋敷へ送ったとしても、周囲にはそれはミラとエドガーの組み合わせにしか見えないだろう。ミラが魔力を総動員して、周りの目を眩ませでもしない限り。でもそんな余裕は、今の疲れ切ったミラには残っていなかった。

もし帰宅途中で、エドガー王子と一緒にいる所を誰かに見られたなら? 仮にミラの事を面白く思っていない女学院の、特に黒王子ファンのご令嬢方にこのことを知られでもしたら―――この先女学院での居心地は、これ以上ないほど悪くなるに違いない。


言われる嫌味まで、リアルに想像できてしまう。


『姉が婚約者候補になるのに乗じて、黒王子に言い寄るなんて。何てはしたない人間なのかしら……!』

『半分平民の身分不相応な人間が、血筋の確かな姉と同じように王族と縁を持てると勘違いしているわよ。教育的指導が必要じゃなくて?』


それから、それから……悪意のある想像が、次から次へ湧き出してきてミラは気が遠くなりそうだった。

しかしミラの事情など知らない目の前の屈強な体格の美男子は、あっさりと提案を却下されて、見る間に蒼ざめる。


「ああ、そんな悲しい事を言わないでおくれ……! 私はただ、セイラと一緒にいたいだけなのだ。嫌がる事はしない。だが、ただ一人のつまらぬ男が、履いて捨てるほどいる護衛の一人として傍に侍る事くらい、許してくれないだろうか……!」


悲壮な声で訴えられて、今度は『セイラ』が色を失う番だ。

『履いて捨てるほどいる護衛の一人』に、どうしてもなり得ない存在だからこんなに困っていると言うのに……!

このままでは、ダメだ。ミラは逃げ道を、必死で考えた。しかしもう自分ではどうにもならない事は分かり切っている……


「あの、エドガー様」

「ああ、セイラ! 何だ?」


名前を呼ばれた事が嬉しいのか、エドガー王子は満面の笑みで次の言葉を待っている。内心盛大に引きつつも、『セイラ』は作り笑顔で、お願いした。頑張って、ついでに小首をかしげて見せる。


「少しお待ちいただいても……?」

「ああ。お前が『待て』と言うなら、いくらでも待とう!」


すると更に全開の笑顔で、エドガー王子は頷いた。

彼の背後に、ブンブンと勢いよく回る犬の尻尾が見えた気がした。


笑顔のまま後ずさり、それから壁際の方を振り返る。何がおかしいのか、お腹を抱えてクツクツと笑っているイシュタルを見つけて、カッと頭に血が上った。

もう、これ以上おとなしくしてはいられない。『セイラ』は、ツカツカとイシュタルの元へ歩み寄る。

十分に近づき、『セイラ』とたいして変わらない背丈の美少年に顔を近づけ、エドガー王子に聞こえないよう声を潜めつつも強い口調で詰め寄った。


「あの! イシュタルさん!! この変な魔法を解いて下さい!!! 貴方の主でしょう? 殿下をこのままにしていたら、困りますよね?!」


もはや『セイラ』を維持しているのは、見た目だけだ。口調は、すっかりミラに戻ってしまっている。けれどもおしとやかにしていては、ここは収拾がつかないと思ったのだ。

しかし怒りを露わにする『セイラ』を前にしても、イシュタルは飄々とした態度を崩さなかった。


「変な魔法?……確かに。でもこれはエドガー王子が望んだ仕様で、特別なオーダーメイドですから」


もったいぶって遠回しに表現するイシュタルに、イライラしながら『セイラ』は尋ねた。


「一体、どんな魔法なの?」

「どうしても聞きたいですか?」

「さっきから、そう言ってるでしょう?!」


すると肩をすくめて、イシュタルは語り始めた。

焦れる気持ちを押さえつつ、ミラはイシュタルの言葉に集中する。


けれども魔法陣の内容を詳しく聞いた後―――聞かなければ良かったと、心底思う羽目になった。

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