8.黒王子の変化
「何故、他の男を見る?」
その声の近さに焦ったミラの体は、反射的に逃げる事を選択した。振り向きもせず、『セイラ』はエドガー王子に背中を向けたまま駆け出そうとする。
「きゃっ」
しかし、あっさり左手首を捕らえられてしまった……! と同時にクルッと体を返されて、手首ばかりでなく右の肩をがっちりと抑え込まれる。
「逃げるな」
いつの間にか日が傾き、大きな窓越しに水平に近いほどまっすぐ差し込んでいた。眩しさに『セイラ』は目を細めるが、窓を背にした大きな体躯がその日差しを遮ってくれていた。陰になった男の表情は、明るさとの対比で非常に判別しづらい。なのに何故か、その大きな切れ長の瞳ばかりが爛々と輝いて見えるような気がして、『セイラ』は思わず息を飲み込んだ。
「ひっ……」
「セイラ=マルメロ」
低い、低い声で名を呼ばれ、思わず背筋が引き締まる。
「は、はいっ」
「お前は―――」
その切羽詰まったような声音に、『セイラ』はゴクリと唾を飲み込んだ。と、同時に少しだけ安堵する。『セイラ』と呼ばれたから、おそらく擬態はバレていないのだろう。
だけど、魔法陣を無効にした事実を追及されたら……?
次に何と言われるのか、それにどう答えるべきか。ミラは必死に、忙しなく小さな頭を働かせる。
けれども鍛えられた大きな体、それがシルエットとなって迫り来る状況に、すっかり気持ちは怖気づいていた。黒い影に切れ長な瞳だけが爛々と光っていて、見据えられているだけで悲鳴が出そうだ。上手く躱せる自信など、全くない。
絵に描いたような、ピンチだった。
「お前は―――美しいな」
「……へ?」
思わず、素っ頓狂声が出た。
確かに、今ミラが擬態している彼女の姉『セイラ』は……美しい。シスコンのミラも、その意見には大賛成である。だが、この流れでその台詞が出るとは思わなかったのだ。戸惑わずにはいられない。
「あの……」
「ああ……こんなに美しい女性を、私はこれまで見た事がない」
ミラは、更に混乱した。
エドガー王子からは、顔を合わせたばかりの時にも似たような賛辞を受けた。けれども、さきほどとは込められている熱量が違い過ぎる。思えば、出会いがしらに口説いて来た時のエドガー王子はずっと冷静だったように思う。目には冷めた光が宿っていて、十二分に己の魅力を把握して効果的にそれを見せつける事で目の前の女性を篭絡しようとしていた。
けれども今のエドガー王子は、さきほどとは別人のようだった。
瞳はトロンと潤み、頬は紅潮し、熱い溜息と共に彼女への称賛を吐き出している。彼女を捕らえる指先が、微かに震えているようにも感じられた。ミラの思い過ごしだろうか? だが―――
これが演技だとしたら、かなり迫真の演技だ、と彼女は思う。これまで男性から言い寄られる経験が皆無(と、彼女は思っている)のミラからすれば、まるで本気で言っているようにしか見えなかったのだ。
「美しい……ああ、これは運命に違いない!」
「あの、殿下どうか落ち着いてください」
「『殿下』などと! そんな、よそよそしい呼び方をしないでくれ。俺の名前を!……その鈴のように軽やかな声で、どうか『エドガー』と呼んでおくれ!!」
怒涛のような攻めに困惑する『セイラ』は、言葉を失う。
本当にこれは別人かもしれない、という考えが頭に上った。
一体彼に、何が起こったのか……?
『セイラ』は、すっかり正気を失くしたエドガー王子をスルーする事にした。肩を押さえられたまま、顔だけグリンと後ろに向けて壁際のイシュタルに恨みがましい視線を投げつける。
「あの、イシュタル……さん?」
「はい」
返事をする少年は、相変わらず憎らしいほど朗らかだ。我関せずと言った様子でシレッと壁際に立ち続けている。
苛立ちを必死で押し留め、改めて問い正した。
「これはどういう事かしら? 一体、殿下はどうされてしまったの?」
「何故俺の名を呼ばずに、イシュタルなんかの名を呼ぶのだ……?」
後ろから懇願するような声が聞こえてきたが、構っている暇はなかった。続けて壁際に立つ、涼しい顔をした少年に語り掛ける。
「イシュタルさん、貴方は魔術師ですわね? もし殿下に魔法を掛けたなら、それが何なのか教えてください。……いえ、もう教えて下さらなくても良いから、とにかく私をここから帰して……! これ以上私が屋敷を留守にすれば、私の父マルメロ伯爵も黙っていません」
しかしイシュタルが口を開く前に、切羽詰まった声が二人のやり取りを遮るように割り込んで来た。
「ああ、セイラ……! 何故そいつにばかり語り掛けるのだ……!!」
無視し続けられた男が、とうとう強硬手段に出た。エドガー王子は『セイラ』の肩を引き寄せ、再び彼女の華奢な体を抱き寄せたのだ。慌てた『セイラ』は腕を突っ張って、再び抵抗を試みる。
「殿下! どうか、お止め下さい!!」
『セイラ』にしてはみっともないほどジタバタ暴れてみたが、先ほど抱き込まれた時以上の強い拘束に、やはり全く歯が立たない。
「何故だ……何故俺の名を呼んでくれない……?」
「え?」
そこで、ミラは動揺する。エドガー王子の声が、震えを含んでいるように聞こえたのだ。
「あ、あの……殿下? どうされました?」
「……」
抵抗するのを一旦止めて、『セイラ』は恐る恐る尋ねてみた。屈強な、矢にも剣にもビクともしないような大きな体も震えている……ような気がした。
「名前くらい、呼んで差しあげたらいかかですか?」
「え?」
壁際に立ったまま、イシュタルが投げやりに声を掛けて来た。唐突な提案に驚くとともに、『呼んで差しあげたら』などと、王子に対する発言にしてはあまりに不敬な物言いに、驚いてしまう。
更に不敬な事に、イシュタルは王子に向かって直接こう言ったのだ。
「エドガー王子! セイラ様が名前を呼べば、解放しますよね?」
「……ああ……」
不承不承、と言うように相手が頷いた。
顔が見えないから分からないが、鼻が詰まったような声だ。これ、やっぱり泣いているのかも……? と、いろんな意味でミラの心臓はバクバクと早鐘を打った。
不敬にも王子を泣かせてしまった……!
いや、って言うか私悪くないし……!
つーか、そこのイシュタルとか言う魔術師! 王子にそんなゾンザイな口をきけるなら、もっと早く解放するように提案してよ……!!
動揺と興奮のあまり、ミラは肝心な事に気づけずにいた。
ミラに対する精霊の加護は、どうやら彼女を害する行為や仕掛けを無効化するだけではない。害意を向ける相手がその場に居れば、呪い返しのようにそれが仕掛けた相手に跳ね返ってしまうのだと言う事を。
キャパシティー以上に色々な事が怒涛のように押し寄せて来てしまい、冷静に物事を分析する余裕も、状況を把握することも出来ずにいるミラだった。