6.間一髪
「ひっ……!」
思わず仰け反る『セイラ』の頬を、エドガーのポッテリとした唇が掠めた。間一髪! という所でキスを躱したものの、逃げようとする腰をしっかりと抑えられる。
「逃げなくても良いじゃないか……」
至近距離、耳元で溜息を零されたため、背筋がゾワゾワした。
あまりの展開に、声が出ない。
キュイったら! 何で跳ね返してくれないの?!
そう心の中で抗議したミラは、直ぐにハッとする。
……と言うか、ひょっとして。
こういうのって、キュイ基準では『害意』じゃないって言うの?!
ミラは、これまで男性に言い寄られるような経験が無かった。だから、男性からの強引なアプローチをキュイが跳ね返してくれるかどうかなんて、試した事が無かったのだ。
もしかして執事のハンスが怒った理由は、こういう事だったの?! と、ミラは今更ながらに後悔する。『セイラ』になると、危ない目に遭い易いのかもしれない。
モテる女性がこんなに危険な目に合っているなんて、『お買い得』止まりのミラには想像も出来なかった。きっと今まで不用意に『セイラ』になっていたら、アチコチで大変目に合っていたに違いない。そしてそれを躱す術は、ミラにはない。精霊の加護頼りでノホホンと過ごして来た彼女には。現に今、キュイは全く助けてくれやしないのだ。
しかしこの点に関しては、キュイが言葉を喋れたなら反論していただろう。
精霊は基本、宿主の命や健康を守る存在である。特に害意を以て傷つけようとする者があれば、キュイは遠慮なく予告なくそれを跳ね返すに違いない。だが、そうじゃなくても、宿主のミラがキュイに対してそう直接訴えれば、何かアクションを起こしたであろう。
けれども今『セイラ』であろうとするミラは、キュイがいないように振る舞っているし、声を掛けるまで出て来るな、とまで言い含めていたのだ。
つまりキュイは彼女の意図を理解し、ちゃんとミラの頼みを聞いているのである。そんな自分をミラが責めるなんて、想像してもいない。
そして相手が宿主を傷つけようとしていない事は明白だった……そう。特に要請が無いのに、キュイは勝手に暴走したりしない。
実は、キュイはこう思っている。自分は精霊としては割と宿主の意向を尊重している方だと。実際この国には、存在がアヤフヤで、宿主と意思疎通が図れない精霊の方が多いのだ。
このように人間であるミラと、精霊であるキュイの常識がかみ合っていない事は、ままあることだった。と言うか、もともと精霊の加護は、魔術と違って人間の思い通りにならないものなのだ。だからこれまで精霊の加護を人間の役に立たせよう、などと考える人間はいなかった。
そんなワケで孤立無援状態の『セイラ』ことミラ。彼女は実力(腕力)で逃げようとするも、ガッシリと腰を抱えられて逃げられず、心の中でキュイに盛大に抗議するしかない。そのような、追い詰められた状態であった。
「兄上なんかやめて、俺と付き合わない?」
と、色気タップリにささやかれるが、顔を逸らしているから、エドガーの熱い息が『セイラ』の頬に掛かる。またしても、背筋がゾワゾワした。
こんなに間近に男性と顔を近づける機会など、家族や屋敷の人間以外に無かったから、ミラは目を白黒させながら、必死で訴えるしかない。
「付き合いません!」
動転し過ぎて『セイラ』の偽装に関する集中が切れそうになる。しかしその像が揺らめいても、近過ぎたのが逆に功を奏したのか、エドガー本人には気付かれてはいないようだ。壁際で傍観者を決め込んでいる侍従の様子も変わらないので、小さなほころびは見つかっていないらしい。ホッとするとともに、改めて気を引き締める。
すると急に温度の低い声が、頭の上から降り注いできた。
「……そんなに皇太子妃になりたいのか?」
何故だか分からない。顔を背けているから、どんな顔をしているかも分からない。けれど今、きっとエドガー王子は笑ってはいないだろう、とミラは感じた。急に甘やかな気配が消えうせたのだ。
ヒヤリと冷静になった『セイラ』は深呼吸すると、顔を上げ、問われた方に視線を向けた。ヒタリとその吸い込まれそうなこげ茶色の瞳を見つめる。
「そう言う訳では……」
言いかけて一旦、言葉を切った。
慎重に言葉を選ばなければ、そう思うほどにどう答えるべきか迷う。
本物のセイラがこの問いにどう応えるのか、そこまで想像するのはミラには難しかった。ただ、セイラが自ら『皇太子妃になりたい』と希望して、アルフォンス王子と逢瀬を重ねているのだとは、どうしても思えない。
ミラの大好きな『お姉さま』は、権力欲や功名心からは遠い存在だ。ただ、その美しさや賢さ、血筋を、色んな意味で欲する者は多いかもしれない。
けれども彼女は―――道理や義理を自分勝手に覆すような人間では、決してない。それだけは、間違いない。
「でも、殿下の希望には沿えません。だからどうか、その手をお離しください!」
『セイラ』は、視線を合わせたままキッパリとエドガーを拒絶する。
すると僅かに瞳を揺らしたエドガー王子が、スッと視線を逸らしてしまった。
「そう……じゃあ、仕方ないな」
そして不意に、まるで岩で出来た牢屋のようにガッシリと『セイラ』を拘束していた腕の力が、緩んだ。そう『セイラ』は、無事開放されたのだ。
その時ミラは、勝った! と喜んだ。
『黒王子』だとか言われていても、やはり高貴な王族だ。真面目に話せば分かってくれる。無法者でもならず者でもないのだから。ミラの気迫が、本気の気持ちが漸く、伝わったのだと思ったのだ。
しかし、喜ぶのは早かった。
パッと腕を開き『セイラ』を解放したエドガーの口元が、にやりと弧を描く。その途端、嫌な予感がした。
「イシュタル……やれ」
「はい」
ジリッと後ずさりした『セイラ』に向けて、壁際で傍観者を決め込んでいた可愛らしい侍従が、ニコリと天使のように微笑んでスウッと腕を上げる。
かと思うと素早く空中に魔法陣を描き出し、ミラに放った。
速い!
ミラは息を飲んだ。
魔法陣を描くのに、普通の学院生なら数分かかる。記憶力だけでなく、魔力をインクのように細長く続けるのは、それだけの魔力量も必要だし集中力を要するからだ。だが教師達や優秀な生徒なら、それを数十秒でやってのける。簡単なものなら、数秒で描き切ってしまう者もいる。
ところが目の前の少女のような侍従は、スルリと腕を動かしただけで複雑な魔法陣を空中に浮かび上がらせた。そしてミラが「あっ」と言葉を上げる間に、それをこちらに向けて放ってしまったのだ……!
ミラなら一日かかっても掛けそうもない魔法陣だ。そしてそんな密度の物を、こんな距離飛ばすなんて無理だ。無理に飛ばそうとしたならば、タプンタプンと波打ったように人が歩くよりも遅い速度でしか飛ばせないだろう。そして到達した後、飛ばした当の彼女は疲れてバッタリその場に倒れるに違いない。
それらの作業を『イシュタル』は涼しい顔で事も無げに、一瞬でやり終えた。
魔法陣が、避ける間も無く真っすぐ自分に近づいて来るのが見える。その軌跡が蒼い光源となってドンドン明るく、やがて明るすぎて白く見えるくらいに視界一杯に拡がった。
来る……!
ぶつかる寸前、ミラは眩しさに目を瞑った。