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5.黒王子

「兄上じゃなくて、がっかりしたか?」


やはりあの文は、偽装された物だったのだ。けれども王家の封蝋が押されていたのも当然だ。王族であるエドガー王子本人が使用したのだから。


「何だ? 言葉も出ないほど驚いたのか?」


ミラは、目の前で意味ありげに笑う王子に何と返したものか、逡巡する。

一体この王子様は何を目的にしてこのような悪戯を仕掛けて来たのだろう? そして『セイラ』なら、こんな時何と返すべきだろうか? 


「……驚きました」


そのまま相手の言葉を繰り返すと、目の前のエドガー王子は満足気に目を細めた。


ヘーゼルの髪は柔らかそうにフワフワと波打っている。瞳は吸い込まれそうな濃いこげ茶色で、切れ長の瞳が妖艶な雰囲気を醸し出していた。

その体躯は繊細な高級生地に包まれていてもなお、ガッシリと引き締まっているのが伺える。日頃から、よく鍛え上げているのだろう。確か、幼い頃から騎士団に所属している筈だ。将来は兄のアルフォンスを支えるべく、元帥の地位に立つことが約束されているそうだ。少なくともエドガー王子は、その約束に胡坐をかいて鍛錬をサボっているということは無いらしい。などと、ミラの頭をそんなどうでも良い事が掠めた。


そこでエドガー王子に関する噂を思い出す。

清廉なイメージの皇太子は恋愛小説に胸をときめかせるデビューしたての令嬢達に人気があり、一方弟のエドガー王子はその匂い立つような雄の色気で、遊びなれた貴婦人に人気があるのだと。

それはミラの女学院の友人、アグネスの言葉だった。


皇太子のアルフォンス王子は『白王子』と呼ばれているの。見た目も金髪に碧眼だし、誠実な人柄で知られるているから、光り輝く王子って意味。

反対に『黒王子』と呼ばれているのが、弟のエドガー王子。濃いこげ茶色の瞳が、遠くから見れば吸い込まれそうな黒に見えるでしょう。それにアルフォンス王子が精悍で爽やかなルックスなのに対して、彼はエロ……コホン。と言うか匂い立つような雄の色気があるでしょう?

見た目だけじゃ無くて、実際素行が悪いって噂があって。治安の悪い場所に仲間と出入りしていたり、いつも周りには遊び慣れたタイプの女性を侍らせていたりするのですって。

……でも、そう言う人間臭い所が良い! って言う人も多くてね。黒王子も、割と人気があるのよ。


「……エロ(・・)ガー王子……」

「は?」


思わず、ポロリと口を付いて出てしまった。


「いえ」


コホン、と一つ咳払いをして『セイラ』は言い直した。それは、友人のアグネスがエドガー王子に付けたあだ名だった。『セイラ』なら間違ってもこんな事、口にするわけがない。

ちなみにアグネスは、大の王室マニアだ。平民出身の特待生だが、王宮に勤めるのが夢なのだと聞いている。


「あの……エドガー王子。これは一体どうした事でしょうか。私はアルフォンス殿下の呼び出しを受けて、本日参ったのですが……」

「ああ、そうだよね」


戸惑う『セイラ』の問いかけを受け流し、エドガーは余裕たっぷりな笑みを口元に浮かべた。

とても麗しく美しい笑顔なのだが、何だか胸やけしそうな気分になる。

姉が一番大事で、恋とか愛とか結婚とかそう言う物にまだ興味を抱いた事がないミラにとっては『エロガー王子』から立ち上る過剰な色気は、受け入れがたいものだった。そう、例えば苦手にしているアルコールの匂いみたいに。


「兄上は少し用事があって、ね。代わりに相手をしてくれって言われたんだ」

「……」


そこはかとなく白々しい口調でそう言って、エドガーは『セイラ』に近付き手を差し伸べる。社交場じゃないから其処までする必要は無いと思うが、断るのも失礼かと思い手を差し出した。すると彼女の手を取り、彼は手の甲に口付ける。


「……」


普通はフリだけで終わる仕草なのに、柔らかくてポッテリとした唇が、ミラの手の甲にしっかりと押し付けられた。しかもその口付けが―――長い。

流石にゾワゾワして来て、手を引っ込めたくなった。

だが相手が離す前に手を引っ込めるのは、不敬な態度と取られてしまう。ジリジリしながら『早く離してくれ~!』と言う抗議の視線を送って、待つ。


暫くして、漸く唇を離してくれたエドガー王子が背を伸ばした。

しかし何故か手を握ったまま離さず、ジッと『セイラ』の瞳を見つめて来る。


「……あの、私の顔に何か付いているでしょうか?」

「ああ、すまない。あまりの美しさに、目が離せなくなってしまって」


本物のセイラなら聞きなれている類の美辞麗句であるが、ミラはそのような事を言われ慣れていない。思わず頬に血が集まった。


さすが豊満なお姉さま達に大人気のエロガー王子……! と心の中で感嘆する。

女性に会う度、こんな風に口説くような口調で褒めているのだろうか。まるで南国ミルチアの男性のようだ。かの国では、女性とみれば口説くのが礼儀と考えられているらしい。逆に口説かない方が失礼にあたるそうだ。これは辺境男爵にして貿易商を営む大富豪の家で育った女学院のもう一人の友人、ユミルから聞いた話だったと思う。


「……兄上には、勿体無いな」

「は?」


言われた意味が分からず、思わず聞き返した。


その時グイっと手を引かれて体を引き寄せられる。

気が付くと、スッポリと大きな腕の中に閉じ込められていた。一瞬何が起こったか認識できなかったが、直ぐに我に返って『セイラ』は声を上げた。


「あ、あの! お戯れが過ぎます……!」


慌てて腕を突っ張ろうとするが、鍛えた騎士からすれば、赤ん坊が暴れているようなものなのかもしれない。悔しいが全く歯が立たなかった。

けれども吹き飛ばない所を見ると、直接『セイラ』を傷つけようとかそう言う悪意はないようだ―――と、同時に頭の隅で考える。


しかしだからと言って、従順に抱き込まれている訳には行かない。動揺しつつも『セイラ』の見た目を崩さないよう集中を保ちつつ、彼女が常に纏っている筈のおしとやかさはかなぐり捨てる。素でジタバタと、暴れてみた。

けれどもやはり力では敵わない。魔力でも抵抗してみたが、無理だった。

本物のセイラならそれで押し退ける事が出来たかもしれないが、普通の魔力しかないミラには、魔力の塊であろう王族を吹き飛ばすなど無理な話だった。


暫く抵抗を続けてから、そこでハッと気が付いた。


部屋の中には、いつの間にか離れた壁際に下がっているものの、先ほど『セイラ』を案内してくれた侍従が控えているのだ。


『セイラ』はグルリと首だけ回して、壁際に立つ可愛らしい侍従に懇願した……!


「あの! 助けて下さい!!」


目がパチッと合う。しかし長い睫毛に囲まれた大きな目を瞬いた彼は、ニッコリと笑って手をヒラヒラと振って返して来た。




な、なんで助けてくれないの……?!

助けられなくても王子の無体を止める、くらいしてくれても良いのに、ただ笑って見ているなんて! 今の私『セイラ』お姉さまは、アルフォンス皇太子の婚約者候補なんだよ?!




絶望した『セイラ』の髪が、何かに触れる。

顔を後ろに向けたまま、その気配に咄嗟に視線だけで王子の動向を確認すると、背の高い彼の顔が、『セイラ』の顔にゆっくりと近づいて来るのが見えた……!

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