43.セイラ2
その悲鳴を最初に察知したのは、庭で剣を振っていたセイラである。ミラの姉、セイラは幼い頃から剣の修行に励んでおり、まだ使用人が活動し始めたばかりの早朝、庭で鍛錬を行うのが日課であった。
「ミラ?」
亜麻色の、猫の毛のようなふわふわの髪をポニーテイルに纏め、運動用にあつらえたシャツと細身のパンツを身に着けている。手入れの行き届いた長髪と、きめの細かい白すぎる肌が、見る者に違和感を与えることだろう。遠目に垣間見たくらいでは、これがあの、社交界で今をときめく貴公子達の憧れの的、セイラ=マルメロ伯爵令嬢だとは分かる者はいない筈だ。
セイラは練習用の剣を握り直し、スッと目の前でまっすぐに構えなおした。一拍だけ目を閉じ、体内の魔力の流れをまとめ上げる事に集中する。
「フェイシン」
呪文を唱えると。トン! と、垂直にセイラの体が浮かんだ。
細い肢体が一気に三階の高さまで飛び上がり、そのまま彼女はミラの部屋のバルコニーに着地する。
スタッと膝を突き着地したセイラは、窓枠に身を隠すように背を付ける。いつでも踏み込めるよう剣を構え、焦る気持ちを押さえながらそっと部屋を覗き込んだ。
そこにはベッドの脇、床にへたりこむミラが居た。
セイラは窓の錠を、身内のみが仕える魔法錠の呪文で解除する。油断せずに剣を構えたまま周囲に視線を走らせつつ、部屋の中へ飛び込んだ。
「ミラ!」
「お姉さま」
掛け寄り肩を抱くと、呆けた表情でミラがこちらを振り仰ぐ。
「大丈夫?」
「は、はい」
「悲鳴を聞いて……どうしたの?」
「あの、あの……! キュイが……」
ミラはそこで、自分を取り戻したように目を瞬きベッドを指さした。
そこに居たのは―――少しめくれた上掛けの中で横たわる、今目を覚ましたかのように瞬きをする見覚えのない美少女。
「誰?」
白銀の髪に、珍しい―――赤い瞳。
ちょっと見たら忘れられない風貌だ。華奢な体と儚げな相貌は、一見して危険人物には見えない。
とはいえ、知らない人物が伯爵家の、しかも妹のベッドの中にいるのだ。ミラがこっそり友人を部屋にいれなければ、あり得ない事だった。いや、幾重にもめぐらされた伯爵家のセキュリティを突破するには、正面玄関から入る以外にあり得ない。だから家政をを取り仕切っているセイラが承認しない人物が、ここに居る筈がないのだ。
放心気味だった腕の中のミラが、靄を振り払うように頭を振る。
そして、少しよろめきつつ立ち上がった。
「あれは、イシュタルです。エドガー王子付きの国家魔術師の」
「王子付きの国家魔術師が、何故この部屋に?」
「分かりません。起きたら、もうそこに居て―――」
ミラにも、分からないのだと言う。彼女はどうやら、驚いた拍子にベッドから転がり落ちたらしい。
そこに、ノックの音が響いた。
「ミラ様? いかがしました?」
異変を察知した、護衛が到着したようだ。
二人は顔を見合わせて、頷いた。それからミラは立ち上がると、扉を開けないまま外の護衛に返事を返す。
「なんでもないわ。その―――怖い夢を見てベッドから落ちただけ!」
「お怪我は? 誰か呼びましょうか?」
「大丈夫よ。怪我もないから、わざわざ呼ばなくても……皆朝は忙しいから、手を煩わせたくないし」
「分かりました。でも、何かありましたらお声掛け下さい」
「ありがとう!」
セイラに後れをとったものの、優秀な護衛はすぐに駆け付けてくくれた。
けれども、この不穏な状況をその優秀な護衛に見られたくはない。淑女のベッドに、子供とは言え男性が潜り込んでいるなど……! セイラも、同じ意見のようだった。一瞬の視線だけでお互いの意思を確認した二人である。
この遣り取りですっかり平常心を取り戻したミラは、セイラの見守る中つかつかとベッドに近づいた。そして、糾弾するようにその美少女―――もとい、美少年に指を突きつける。
「イシュタル! 一体、何故こんなところにいるの? キュイは―――また貴方、キュイを何処にやったの?!」
一方糾弾された当のイシュタルはと言うと―――寝ぼけているのだろうか? 毛布を半ば被ったまま体を起こし、無言でポカンとミラを見上げている。それから、ゆっくり自らの体と頬に手を当てた。
「あぁ、そうか」
彼は緊張感の欠片もない、間の抜けた感じでそう呟く。そこで漸く何かに気づいたように頷き、憤り腰に手を当てるミラの前でもぞもぞと布団をかぶりなおした。
「ちょ、ちょっと……!」
余りにもマイペースなイシュタルに、ミラは驚く。
キュイと眠った筈のベッドに、イシュタルがいた。
そして、悪びれもせず二度寝を決め込もうしている。
唖然としつつ、ミラは追いかけるように彼が被った上掛けを引っ掴み、剥がした。そこに、居たのは―――
「きゅい?」
めくった上掛けの中から、ふわりと小さなぬいぐるみが浮き上がったのだ!
「キュイ?!」
そこに居たのは、キュイだった。
うさぎのぬいぐるみのような、小さな可愛らしいミラの加護。
彼女は一瞬言葉を失い―――それからヨロリと後退った。
「キュイじゃ……ないの?」
「ミラ……どういう事?」
セイラが剣を片手に、左手でふらつく妹の背を支える。
ミラを支えたまま、手品のように形を変えたイシュタルを食い入るように見つめている。彼女にも、はっきりとキュイの形が認識出来ているようだ。
「お姉さま……私はキュイと一緒に眠って……眠った筈で。そしたら朝、何故かベッドにイシュタルがいて」
ミラは混乱して頭を抱えた。
「じゃあ―――じゃあ、このキュイは……?」
掠れた声は、微かに震えている。
「キュイは―――イシュタルなの?……じゃなくて。じゃなくて、昨日戻ってきたのはキュイじゃなくて、イシュタルだったってこと? イシュタルはキュイの振りをして、ずっと……? えっ?……でも……でも、それって―――いつから?」
そこで漸くミラは、思い出した。
そうだ、これは以前もあった事だ!
イシュタルがベッドに現れたのは、記憶をたどれば二度目である。
色々あって追及する間もなくなり、まるで幻覚か夢のように怒涛のように流れる出来事に紛れてしまったが。
そう、あの時も。唐突に、本当に唐突にイシュタルが朝ベッドに現れた。
キュイを抱いて眠ったと思ったら―――そこに居たのは、イシュタルで。イシュタルが何故ここに? と混乱したミラが、改めて振り向くと―――そこに居たには、キュイだったのだ。それは見間違いかと思うくらい、短い時間だったのだ。
「もしかして、あの時から……?」
では、その時からずっと。
間抜けなミラは、キュイだと思ってイシュタルと過ごしていたのだろうか。
もしかして、それはエドガーの差し金だったのだろうか? 何故かキュイのような加護を持っていると気づいていた彼が、イシュタルを自分に付けたのだとしたら?
いや、しかし。
昨日の彼は、ミラに加護が付いていることを初めて知ったよう態度だった。
本当は……知っていたのか?
そしてあれは、あの態度はエドガーの演技だったのだろうか? だとしたら、何のために?
何のために、エドガーとイシュタルがこんな事をしたのか?
ミラには、まったくもって全然分からない。
見当すら、つかない。けれども―――
「じゃあ」
けれどもミラは、ある事実に気が付いてしまう。
「じゃあ、本物のキュイは……?」
一体、本物のキュイは何処にいるのだろう?




