32.気になること
自分が嵌められたのだと自覚したミラは、挨拶もそこそこに苛立ちのままその部屋を後にする。
そして帰りの馬車に揺られながら、額にグリグリと拳を当てて彼女は悶えた。
「あー……もう。先に、イシュタルの事をきけば良かった!」
そう、イシュタルである。
出会ってからずっと、エドガー王子がミラの前に現れる時には必ずあの国家魔術師が傍らにいた。いないと思っていた時でも、鷹に身を変えて周辺に控えていたのだ。
だからパッと見存在しないように見えても、エドガー王子がいる場所には必ずどこかに潜んでいるのだろうとミラは考えていた。
あの時。何故、彼はミラのベッドに現れたのか?
マルメロ伯爵家の防御を軽々と超え、キュイの守りを突破して彼はミラの部屋に現れた。そして少し目を離した隙に、まるで夢のようにかき消えたのだった。
本当は王宮に通うようになってすぐにでも、エドガー王子に問いただしたかった。
だが、ミラは躊躇したのだ。
もし王子が、あのイシュタルの行動を認識していなかったとしたら、藪蛇になる可能性がある。ミラに(魔法で)夢中になっている彼の嫉妬を、無駄に煽ってしまうかもしれない。最初に王宮で魔法に掛かったばかりの時、彼はミラがイシュタルとちょっと話しただけで、苛立ちを露わにしていたのだから。
そうなると、非常に面倒くさい。
イシュタルが彼女の部屋に現れたのは彼が勝手にやったことだ。ミラは何も悪くないのに、絡まれるのは嫌だった。
だから王子の周囲にイシュタルがいるなら、直接本人にあの朝の話を確認したいと考えていた。
けれども一週間が過ぎても、イシュタルはミラの前に姿を現さない。
何処かでこちらを見ているのか? それとも、キュイのようにその存在を隠す事が出来るのだろうか?
王子とお茶したり王宮内を連れ立って歩いたりする間、ミラはジリジリしながら周囲にそれとなく視線を走らせた。
隠れる事が出来そうな隙間を伺う。カーテンの陰、天井の付近、観葉植物や美しい彫像の裏側など。何もない空間に、目を凝らしてみることもあった。
けれども、何処にもイシュタルはいない。影も形もない。王子が少しの間ミラの隣を離れた時に、声を押さえてイシュタルの名を呼んでみたりもしたが、ダメだった。
ミラの私室に。あんなに唐突に、すぐ近くにイシュタルは現れた。
なのにあれ以来、彼はミラの目の前に現れない。
いるのにミラを無視しているのか、それとも本当に近くにいないのか。
ここにいないのなら、何処にいるのか。
それにキュイのことも気になっていた。
二人きりになった時、キュイに「あの時どこに行っていたの?」と尋ねても「きゅい?」と可愛らしく首を傾げるだけだ。
イシュタルがベッドに現れた時、キュイは何処にもいないように見えた。
見た目を隠す事はキュイにとっては朝飯前のことだ。
けれどもあの時は、全く気配が感じられなかった。
イシュタルが、キュイをどこかに隠したのだろうか?
それとも―――
その時ミラの頭に浮かんだのは、最も考えたくないことだった。
もしかすると、キュイが消えかかっているのではないだろうか?
『加護』は本人が成長するにつれて、消えるのが一般的なのだと言う。
そう、ミラの加護が今まさに、なくなりつつあるのではないだろうか。
だからあの時、一時的にキュイはミラの周囲から消えていたのではないだろうか。
そして何らかの方法で、キュイの守りが薄くなったことに気が付いたあの国家魔術師が、ミラの部屋に現れたのでは……? 伯爵家の守りを潜り抜ける事自体は、ひょっとすると国家魔術師であるイシュタルにとっては簡単な事なのかもしれない。目的は何だろう? 例えば……エドガー王子を手引きしようとしていたとか?
いや、それは無いだろう。と、ミラはすぐさまその問いを否定する。
だってエドガー王子は、二週間が経過した今でも全くあの事に触れない。
だからやはり、イシュタルのあの行動について彼は知らないのだろう。
そして伯爵邸に忍び込んだ筈の、当のイシュタルは―――声を掛けても目を開けないほど、呑気にぐっすり眠っていた。
本当に、あれはどういう事なのか?
それから、あの一瞬―――ミラを見て名前を呼び、ニッコリ笑ったのはなぜか?
彼女は、あの、天使のような微笑みを思い返す。
まるで例えようも無く愛しいものを目にしたような、そんな優しい微笑みだった。
ここでミラの頭の中にピコン! と、新たな回答が浮かんだ。
イシュタルは、ひょっとしてミラを好きになってしまったでは?
もちろん、自分に魅力があると自惚れているわけじゃない。
純粋に、ある可能性に気が付いたのだ。
跳ね返した魔法が掛かったのは、すぐそばにいたエドガー王子だ。
だけど……離れた場所にいるイシュタルにも、掛かってしまっていたとしたら?
しかし、王宮で魔法を跳ね返した時。あの時話した感触では、全くそんな感情は向けられていなかったとミラは断言できる。むしろ彼は、彼女を小ばかにしていた気すら、する。その嫌な感じだけは、しっかり焼き付いていた。
けれども例えば距離があると、魔法がゆっくり浸透していくとか。そういう仕掛けになっていたとか。
あまり魔術が得意じゃないミラには分からない、何かそういう作用が仕組まれていて、若しくはキュイの加護と国家魔術師の魔術の相性の所為でそんな風に魔法が作用してしまった、なんてことがあるかもしれない。
だが今のミラにとって、イシュタルがミラを好きかどうかなんて、どうでも良いことだ。色気たっぷりの黒王子に加え、美少女ばりの少年魔術師に好かれたって、たいして変わりはない。だってどうせ、それはいつか消えるものだ。本物の好意では、ないのだから。
ミラが一番気になっているのは―――キュイの事だ。
キュイはもしかして、ミラから離れて行こうとしているのだろうか……?
嫌だ、と思う。
ずっとキュイがいたから、ミラは元気でいられたのだ。
半分、平民だとしても。母親がいなかったとしても。やがて大好きなセイラと離れ、いつか家族から―――彼女にとって心地よい居場所であるマルメロ家を離れなければならなかったとしても。
女学院で、一般の貴族が平民に対して抱いている感情を知った。
勿論そんな人ばかりではない、とミラは知っている。
貴族であっても、平民と分け隔てなく付き合おうとする人間も確実に存在する。尊敬する大好きな姉、セイラのように、優しく公平な人もいるのだ。
けれども実家を離れ嫁いだ先で、もしかしたら辛い目に合うかもしれない。
だとしても、キュイがいてくれるなら。ミラは平気だった。一人じゃないし、物理的な悪意からは常にミラを守ってくれる。だから絶対ミラは大丈夫!……な筈だった。
なのにキュイは、ミラの傍を離れようとしているかもしれないのだ。
それに単純に―――キュイがいないと、ミラは寂しい。
いつも一緒だった。常にミラの傍にいる、ふわふわでつるつるで、柔らかく温かいぬいぐるみ。物心ついた時から存在するキュイがいなくなるなんて、想像したことも無かった。
勿論、知識では知っていた。女学院で、理論として習ったから。オトナになって加護がなくなることもある、のだと。
でも実際、自分の身になってその状態を想像してみた事は無かった。
考えたくなかった、と言うのが本音かもしれない。
怖かったのかもしれない。
でもそれが現実になろうとしている……?
キュイのいない隙に現れたイシュタルになら、キュイが消えた理由が分かるのかもしれない。
国家魔術師は加護の研究をしようとしている、と聞いている。その国家魔術師である彼なら、ミラの疑問に答えてくれるかもしれないのだ。
もしかすると……そう! あの現象自体が、イシュタルの仕業なのかもしれない。
イシュタルがキュイを排除するか、隠すかする魔法を使ったとしたら。
だからキュイが消えて。
だから―――あれは、あの時のキュイの不在は。キュイがいなくなる前兆なんかじゃなくて。
そういう答えを聞きたかった。
ミラはイシュタルに、否定してほしかったのだ。
キュイがミラを置いてどこかに行ってしまう、なんてあり得ないのだと。
もし、それを。
キュイがミラとずっと一緒にいるのだと、証明してくれるなら。
保証してくれるなら―――ミラは、イシュタルの実験台になったって良い、と思うほどに。




