鏑矢は放たれた・01
東の遺跡は、街を中心に砦と正反対の場所にある。街を通って遺跡へ向かう道のりは緩やかで、本を読みながらでもついていけるくらいだった。ちょうど街を抜ける頃に一通り読み終わると、
「これで基礎知識は大体触ったな。次は実践――魔力の感知、管理に移る。初歩の初歩だが、必要不可欠な技術だ。自分の魔力の管理すらできねえんじゃ、話にならねえからな」
言いながら、ベイルさんは丸い透明な石を取り出した。石の中には、白い模様が浮かんでいる。
「魔力を吸う性質のある石に、吸収量に応じて色が変わるよう仕掛けをしておいた。これで魔力を使う感覚を探れ。消費の感覚は個人で異なるだけに、助言はできねえがな」
「わ、分かりました」
本が持っていかれる代わりに、掌へ丸い石が落とされる。つるりとした感触を握り込んで、意識を集中。十秒数えてから、手を開いてみると――
「ああ……」
「まあ、一朝一夕にはいかねえだろう」
まるっきり、何にも変化なし。慰めの言葉が逆に悲しい。ため息を吐いて、石を握り直す。
石の中に浮かぶ模様は、花に似ていた。咲き誇る菊にも、牡丹にも似ている。綺麗だなあ、と眺めていると、不意に手の中でしゅわりとした感覚が走った。上手く言えないけれど、注射の前に塗られたアルコールが蒸発していく感じが近いかもしれない。
パッと手を開いてみれば、石の中の模様が赤くなっていた。模様の赤色は薄く広まって、石自体を薄紅色に染めていく。よく分からないけど、さっきのが魔力を込めたってこと?
ええと、さっきの感覚を忘れないうちに――そう、水だ、水。蒸発する水。水路を引いてきて、掌の中で蒸発させるイメージ。
そうやって繰り返していたら、
「あいたっ!?」
掌に鋭い痛み。反射的に手の中を見てみれば、透明だった石は鮮やかに赤く変わり、ついでに指や掌まで火傷でもしたように赤くなっていた。
「魔力を込めすぎたな」
隣から手を覗き込み、ベイルさんが言う。
「込めた量、込められる量を把握してねえと、溢れた魔力が逆に手を傷める。――だが、魔力を使う感覚は分かったようだな?」
「あ、はい。水を蒸発させる感じです」
蒸発か、とベイルさんが低く唸る。眉間に皺を寄せて、思案するような素振り。……何か、変なことを言っちゃったのかな。
「何にせよ、一歩前進だ。石はしまって、手を出せ」
石をコートのポケットに入れてから右手を差し出すと、ベイルさんの手に包まれた。指の長い、硬い掌のごつごつした大きな手。その感触にどぎまぎしていると、すっと右手から痛みが消えた。
「……え? あれ?」
「次、逆。ほら」
急かされて左手を出すと、同じように包まれて痛みが消えた。離された手を見てみれば、いつも通りの色に戻っている。
「ま、魔術、ですよね? でも、式が必要なんじゃ」
「まあ、昔取った杵柄って奴だ」
そう言えば、薄昏でも同じように、何も言わずに私の呼吸を整えてくれたっけ。式もなく魔術を使えるなんて、ハイレインさんが言っていたように、やっぱりすごい人なんだろうな。
「昔って、アルトの軍にいた時、ですか?」
思い切って口に出してみると、ベイルさんは無言で私を見下ろした。その眼差しに、ちょっとばかり怯みそうになっていると、うなじの震える感覚。
『ハイレインが言ったのを、覚えてたのかい』
頭の中に、直接言葉が響く。声に出したくない、聞かれたくないとか、そういう……?
『精神感応だ。伝えたい言葉を念じれば伝わる』
『あ、はい。……その、ハイレインさんが言ってたのを思い出して口に出してしまっただけなので、言いにくいことなら』
『別に、大した話じゃねえさ。ただ昔、ハイレインが評したように呼ばれたことがあったってだけでな』
それは、十分に大した話だと思うのだけれど。
『今は〈鵺〉と呼ばれることの方が多い』
『確か、いろんな動物が混ざった妖怪ですよね。何でですか?』
『得体の知れねえものの代名詞でもあるんだと』
『……失礼な話ですね……』
『ま、どうだって構いやしねえさ。他人が勝手に呼ぶ名前だ』
少しも気にした様子のない返事を聞きながら、そう言えばベイルさんとは自己紹介をしていなかったな、と今更に思い出した。
遺跡に到着したのは、お昼近い時間だった。実際に見てみると、これまで想像していた「遺跡」のイメージは粉々に砕かれた。あちこちに壊れた食器や雑貨が散らばっていて、人の生活していた痕跡が、これでもかと残されている。だから、ベイルさんも先に人を送って退去させろって言ったんだろうなあ。
「十分の休憩の後、必要施設の造設にかかる」
ベイルさんの号令で、まず遺跡の外で昼食をとる。その後で一番隊の人たちは作業を始めて、私とヒューゴさんは遺跡の隅で待機することになった。待機とは言っても座っているだけなのだけれど、退屈に思うことはなかった。今している作業や遺跡について、ヒューゴさんはいろいろと教えてくれた。特に重点的に作られているのはバリケードや物見櫓で、瓦礫や岩を利用した魔術で、簡単に出来上がってしまうらしい。
「ここはウスガレと似て非なる場所でな。あっちが後ろ暗い連中の基地なら、こっちは表立って売り買いできねえもんを扱ってる連中の中継地点。後は、家のねえ連中が住み着いてたり……。住んでる奴自体はそう多くねえから、普段は静かなんだけどな。それでも交渉人や商人が集まる時にゃ、人で溢れ返る」
「そんなに騒ぎになったら、危なくないですか?」
「大陸中を流れる連中だからな。店を立てるのも早けりゃ、畳むのも早え。騒ぎになりそうだと思ったら、即座に店を畳んでトンズラだ。まあ、自警団は希少品の入手、商人連中はウスガレからの保護ってんで、お互い利用し合ってるトコもあんだけどよ」
「じゃ、ヒューゴさんも、お買い物に来たり――」
「まあ、そりゃ、物は試しにってな?」
「どんなもの買ったんですか?」
好奇心に駆られて訊いてみたものの、ヒューゴさんはにやりと笑っただけだった。……も、もしかして、答えられないようなものを……?
「それよか、到着まで暇じゃなかったか? ベイルの奴、ろくに喋らなかったろ」
「あ、いえ、魔術のこととか、たくさん教えてもらったので、全然退屈じゃなかったです」
「え、庇ってるんじゃなくてか?」
信じられない、とばかりのヒューゴさんの声に、逆に驚く。
「……普段、そんなに喋らないんですか?」
「この島に寄ると、一緒に飯食いに行ったりすんだけどよ。いっつも、話しかけねえ限り喋らねえ」
「食事中だからじゃ」
「食い終わっても喋らねえ」
どこまでもきっぱりと、ヒューゴさんは言い切る。そうなんですか、と苦しい相槌を打つと、会話も途切れてしまった。それでも、不思議と気まずくは感じない。何となくだけれど、ヒューゴさんはどこか話を切り出すタイミングを探っているような気がした。
「あいつ、自分のことを話したか」
短い沈黙の後、低い声が言った。
「ええと、その、少しだけ、ですけど。ヒューゴさんと会った時のこととか、軍人をしていた時に受けていた評価のこととか」
そうか、とヒューゴさんが呟く。右腕で槍を抱き、片膝を立てて座る姿は、今まで見てきた人とは別人のように鋭い空気を纏っていた。
「あいつは、ほんとに何も話さねえんだ。シェルだって『湖岳の血戦』――ラクスとアルトの戦争な、それに従軍してたのを知ってるくらいで、それだって俺が喋ったからだしよ」
「ベイルさんは、大した話じゃないって、言ってました。……精神感応で、でしたけど」
「大したことある反応じゃねえか、って話だよな」
くつくつ、ヒューゴさんは喉を鳴らして笑う。
「後は、〈鵺〉と呼ばれているとか」
「ああ、あれな。結構、あいつに合ってるあだ名なんだぜ」
「そう、ですか?」
「呼び始めたのは、ヘイズ――『黒の鎧亭』の主でな。あいつは情報屋だからいろいろ知ってるみてえで、上手く名付けたもんだぜ」
「ヒューゴさんは、ベイルさんのことをよく――」
「いや、知らねえ」
あんまりにもきっぱりとした否定に、耳を疑う。目を丸くして見返すと、肩をすくめる仕草。
「俺は敵だったもんよ。知ってんのは、今の名前が戦争終わった後に名乗りだした奴だってことと、戦い方くれーだな」
「ヒューゴさんでも、それだけなんですか」
「ああ。けど、あいつが強えってことは、誰よりもよく知ってる。何度も殺されかかったしな」
からりとヒューゴさんは笑った。「殺されかかった」なんて語るには、余りにも軽く。
「……不思議な人ですね」
「何か事情があんじゃねえの。知らねえけどよ」
「そう言えば、私、ベイルさんのこと、まだ名前と傭兵をしてることしか知りません」
「そうだっけか。つっても、俺が教えられることもねえんだよなあ。歳も知らねえし」
「それも、ですか?」
「んー、俺よか歳食ってるとは思うけどな。三十ちょいってもんじゃねえ? ……ま、何だ。あいつは何もかんも分かんねえし、嫌な奴だが、悪党じゃねえのは保証するから、安心しとけ。この件にゃ、ベイルも随分肩入れしてるみてえだしよ、どうにかなるって」
「それなんですけど、どうしてここまでしてくれるんでしょう」
「へ? そりゃ、竜が関わってるからだろ」
「でも、それは最初から分かってたことじゃないんです。昨日の夕方に、初めて言われて、知ったことで。――私も、ベイルさんも」
「てえことは、何だ。竜に関わる事情があるから、ベイルの奴も手元に置くことにしたんだと思ってたんだが……違ったのか?」
「違う、と思います。ハイレインさんが事情を説明している時、ベイルさんも驚いてました」
そうか、とヒューゴさんが眉間に皺を寄せて、小さく呟く。そして、橙の眼が私を見た。その眼差しの鋭さに、ごくりと息を呑む。
「なら、まだ他に……あいつが注意を払う何かが、お前にあるってのか?」
その問いに、私はただ黙っていることしかできなかった。私の方こそ、知りたいくらいだから。
夕方過ぎに全ての作業が完了すると、遺跡のあちこちに篝火が灯された。その灯りの下、ベイルさんの指示で割り振られた通りの場所に隠れて、待機に入る。
辺りは、しんと静まり返っていた。私はベイルさんとヒューゴさんに挟まれる形で遺跡の真ん中辺りに隠れていたけれど、話し声一つ聞こえない静けさには、どうしてか居心地の悪さを感じてしまう。
「そう言えば、ソレ、棍どうしたんだ?」
そんな時、左手の方から声が聞こえてきて、びくりと肩が跳ねた。恐る恐る見上げると、ヒューゴさんが苦笑を浮かべている。
「悪かった、驚かしたな」
「いえ、その、大丈夫です。……ええと、これですよね、ベイルさんが見つけてくれたんです」
「へえ、コートもか?」
「はい。そういえば、ヒューゴさんも今までは槍を持ってませんでしたよね?」
「ああ、俺は商会に出入りしてるが、所属してる訳じゃねえからな。こいつは監査を受けた時に、封印されてたんだわ」
封印? どういうことなんだろう。思わず首を傾げれば、今度は逆側から声。
「一定以上の規模の街に入るには、監査を受ける必要がある。その時に規定以上の長さや大きさの武器を持ってると、魔術で封印される決まりだ。――が、治安維持機関に限っては、その縛りを受けねえ。商会は島の自警団と連携してるからな」
「監査に逆らったり、受からなかったりすると、街には入れねえって仕組みでな。んで、今は襲撃で緊急事態宣言が発令、封印解除されたんで、自前の武器で戦えるって訳だ」
なるほど、と相槌を打った瞬間、西の空が明るく光った。ほとんど同時に、物見櫓から報告が上がる。
「西三キロの湖上にて迎撃術式の展開、着弾を確認! 取りこぼし六。九、十五番隊が継続迎撃! 砦周辺に二、街上空に七出現! 遺跡上空、転移魔術発動中! 数は――」
一瞬の間。まるで時間が止まったみたいな。
「五体!!」
怒号めいた一声。ざわめきの中、反射で空を見上げた。夜空を背景に、虹色に輝く巨大な紋章。その中から、次々と巨大な影が落ちてくる。
額に角を持つ猪、四つ首の大蛇、二対の翼を持つ虎面の鳥。その後の二体は、もう姿も見えない。
「千客万来だなオイ」
「だが、これではっきりした。追ってくる連中に、直生の居場所は把握されてる」
らしいな、とヒューゴさんが頷く。そして、ベイルさんは遺跡中に響くような、大きな声を張り上げた。
「第一分隊は猪、第二と第三は蛇、第四は馬を狙え! 鳥と獅子は俺とヒューゴで片付ける! いけるな」
「言ってから訊くなよ、順序逆だろそれ」
「御託はいい。やるかやらねえか、早く答えろ」
「アホ抜かせ、やるに決まってんだろ!」
楽しげに言って、ヒューゴさんは両手で槍を構えた。
「久々の大物だ!」
高く笑い、勢いよく地面を蹴る。行く手には、雷鳴のような咆哮を轟かせる獅子が待ち受けていた。ヒューゴさんは振り下ろされた爪を槍の柄で受け、弾いて返す刃で太い前足を斬り裂く。見惚れずにはいられない、踊るように軽やかな動きだった。
けれど、見惚れる時間もなく、急に聞こえてきた耳障りな鳴き声に頭が締めつけられる。ズキズキと痛む頭に顔をしかめながら、音のした方――空を見れば、
「わあっ!?」
ちょうど虎面の鳥が急降下してくるところだった。
えええ!? こ、これ、逃げた方がいいのかな!? でも、勝手に動く訳にはいかないし……! 訳も分からずにあたふたしていると、
「動くな」
隣に立っていたベイルさんに、ぐっと肩を掴まれた。そのまま、身体が引き寄せられる。
「ひゃあ!」
びょう、と風の鳴る音がしたかと思うと、どさりと重い音を立てて、目の前に何かが落ちてきた。反射的にベイルさんのコートにしがみつく。
……それは、血まみれの大きな翼だった。
「うわっ! 何だこれ!」
そして、石畳に転がる翼の向こうから聞こえた悲鳴。驚いて見てみれば、割れた石畳の間から、二つの小さな頭が突き出ていた。
「地下通路か。間の悪い時に出て来やがったな」
ベイルさんの呟きに重なり、また上空から鳴き声が響く。
「狙いを変えたか」
半分に減った翼を羽ばたかせ、辛うじて墜落を免れた鳥は、これまでとは違う方角へと頭を向けている。
――ああ、でも、それは。
「直生!?」
その瞬間、衝動的に走り出していた。
鳥は夜空を滑空する。まっすぐ、二人の子供へと。
「何てこった! 隊長、上に新手っス! 三匹!」
「面倒な――手の空いてる奴から迎撃にかかれ!」
叫ぶ声も怒鳴る声も、耳に入らない。一足飛びに駆け抜ける。
「頭下げて!」
子供の頭の上を飛び越え、棍を構える。まるで見えない糸で操られているみたいに、身体は滑らかに動いた。コートの術式を起動、水平に構えた棍を媒介に防壁を組み立てる。耳に痛い鳴き声を上げながら、急降下する鳥は頭から障壁に突進。
ずしゃり。両足が地面を滑る。全身の骨が砕けそうな衝撃。棍を支える腕が痺れ、膝が折れかける。その隙を逃さず、刃物のように先端の尖った尾が防壁の横を回りこんで飛んできた。白い光――何となく、気配で慶寧君の祝福だろうと思った――が阻もうとしたものの、貫かれる。身体を屈め、頭を狙う一撃を回避。
甲高い咆哮を上げ、眼前で怪鳥が巨大な顎が開く。剥き出しになった太い牙に食いつかれて、防壁があっさりと破られてしまった。やばい、なんて思うのに、身体は勝手に動いていく。痺れた腕に魔力が流し込まれて、強引に復活。棍を握り直す手が狙うのは、たぶん左目で、今まさに棍を突き出そうとした時――
「うわっ!?」
地鳴りのしそうな音を立てて、魔物が倒れた。
何が起こったのか分からなくて、思わずぽかんとしてしまう。けれど、魔物の眉間に深々と突き刺さった剣と、それが誰のものであるか気付いて、ぞっと全身が震え上がった。
「ベイルさん!」
振り向いた先、三体の魔物に囲まれた人の手に、武器はない。しかも、額から赤いものが滴っていた。
ああ、と意味のない声が唇からこぼれだす。どうしよう、どうしよう、どうしよう。私のせいだ。私が勝手なことをしたから。
ぐるぐると混乱する頭の中に、ふと奇妙な水音が混じりこむ。ごうごうと濁流が渦を巻くような、ひどく荒々しい音。どこから聞こえるのか、何の音なのか。何も分からないのに、勝手に思考が走る。
――いけない。今は、抑えられない。
「づうっ!?」
突然、あの左手の傷跡が痛んだ。取り落とした棍が足元に転がり、拾おうなんて思う余裕もなく地面にうずくまる。背中を丸めて、頭を石畳に押し付けた。
痛い、痛い。それだけに頭の中が埋め尽くされる。骨が内側から飛び出そうとしているみたいだ。吐き気がしそうなくらい痛くて、どうしようもなくて、ボロボロと涙がこぼれては流れていくのが分かった。
こんなもの、耐えられる訳がない。身体が丸ごと砕けてしまいそう。そんなことを思ったからか、砕ける壁が見えた。砕けた壁の奥からは途方もない量の水が流れ出してきて、何もかもを呑み込んでしまう。
いつの間にか、水の匂いまでもがしていた。雨の前に感じるような、薄いけれど確かな匂い。なら、と痛くてどうにかなってしまいそうな頭で考える。もし、本当なら。それも、私のせいだ。
ぎりぎり歯を食い縛って、左手を強く握り締める。右手で傷跡を押さえ込もうとすれば、どうしてか粘つくものが触れた。「跡」だったはずなのに。
また痛みが強くなる。目の前がチカチカする。やっぱり駄目だと、諦めそうになる……。
『猛きものの声、届かぬこと能わじ』
その時、声が聞こえた。
雷に打たれたような衝撃が走り、遠くなりそうだった意識が引き戻される。
それから。言え、と強く求める響き。
「濤ち、滋して、満ちや、淪め」
ぜいぜいと荒れる呼吸の中で、言葉を押し出す。後に続いて唱える声が、小さく聞こえた。
「縒流れ穿漓、千々に浮游げ」
「高遠き、流れ、混巡ぎ、晶結る」
「氷凍て射打ち、填ぎ鎖す」
交互に唱えられる言葉が絡み合って、混ざり合いながら広く伸びていく。不思議と、それが分かった。
広がる音色に紛れて、風が吹き始める。びゅうびゅうと耳いっぱいに風が鳴っている。その次の瞬間に吹き抜けた突風は息も吐けない強さで、漂っていた水の匂いを吹き飛ばしていった。後に残されたのは、しんとした静寂だけ。
息を吸って、吐く間だけの沈黙が流れると、わっと声が弾けた。負傷者とか他の場所の状況とか、問い掛けたり答えたりする声が勢いよく飛び交う。
……もしかして、戦いは終わったのかな。だったらいいのだけど、と思いながら確かめる元気もなくて、ごろりと地面に転がる。まだ痛みは残っていて、気を抜けばまた涙が出てきそうだった。
「大丈夫?」
ずび、と鼻をすすった時、そんな声と一緒に視界の端に女の子の顔が映り込んだ。誰、と思いかけて、石畳の間から顔を出していた子の一人だと気付く。
「えっと……何とか大丈夫、かな」
泣いてしまったせいで答えづらかったものの、ほとんど反射でそう言っていた。
「阿呆言え。大丈夫な訳ねえだろうが」
答えた瞬間に、全否定されてしまったけれど。
え、と目を見開いた視界に、また新しい顔。ベイルさんだった。ため息を吐いて、ベイルさんは女の子に退くよう手振りで示す。女の子はきょとんとして、私とベイルさんを見比べた。
「チェリア、何してんだ!」
けれど、口を開きかけた女の子が何か言うよりも早く、私の視界から彼女はいなくなっていた。それに、この甲高い怒鳴り声。誰かまた別の人? 起き上がれない私には、何が起こったのやら分からない。
「こいつら、家壊しやがった! 逃げるぞ!」
「でも、ディーター、助けてくれたよ」
「そんなもん知るか!」
それにしても、声が大きすぎて頭まで痛くなってきそう。我慢しきれずに顔をしかめていると、ベイルさんが私のすぐ傍に膝をついて、抱え起こしてくれた。お礼を言おうと思ったけれど、その顔は険しいほどに厳しげで、何も言えなくなってしまう。
代わりに視線を追ってみれば、さっき私の顔を覗き込んでいた女の子の手を引っ張り、どこかへ行こうとしている男の子がいた。やっぱり戦いは終わっていたみたいで、その周りに魔物は一匹もいない。
「助けられといて、そいつは頂けねえな」
言うや否や、ベイルさんが右手を宙にかざした。うわっと悲鳴が上がり、男の子と女の子の身体が宙に浮かび上がる。そのまま移動して、私の隣に落下した。
「そこで大人しくしてろ。居合わせたからには、口止めと事情聴取をしなくちゃならねえ」
子供たちが地面に座ったのを確認すると、ベイルさんが厳しく言い放った。有無を言わせない強さに、男の子が悔しげにベイルさんを睨む。
ただ、ベイルさんはもう男の子の方を見ていない。その目は、じっと私に向けられていた。何もかもを見透かされてしまいそうな、鋭い眼差しだった。
「誰かを助けたいと思うのは結構。だが、無謀な行動を取られるのは迷惑だ。分かるな」
「……はい。すみませんでした」
「帰りを待つ家族もいるんだろう。よく考えてから行動しろ」
そう結び、ベイルさんは右手を上着の裾で拭ってから、私の額に当てた。じんわりとあたたかいものが流れ込んできて、左手の痛みが和らいでいく。全く、とベイルさんがため息を吐いた。
「無茶のし過ぎだ。一歩間違えれば、左手は細切れになってたろうよ」
細切れ!? とんでもない表現に、ヒエッと裏返った悲鳴が飛び出す。
「う、動かなくなったり、とか」
「それはねえが、どうやっても跡は残るぞ」
きっぱりと言い切られて、肩が落ちる。細切れってことは、傷もたくさんあるのかもしれない。手袋とかしてなきゃいけない感じになるのかな……。
暗い気分になっていると、そこに「どうして?」とあどけない声が上がった。あの女の子だ。
「どうして怒るの? 助けてくれたのに」
「他人を助けても、それで自分が死んじゃ意味がねえだろう」
「……死んじゃうところだった?」
「下手をすりゃあな」
ベイルさんは子供に対しても同じ調子だった。淡々と答えては、物見櫓を振り仰ぐ。
「奏絹、他所の状態はどうだ」
「港で火事が起こり、対応に追われていますが、それ以外に助勢が要りそうな場所はありません」
「分かった、ご苦労。――分隊長は各自被害を確認、報告!」
ベイルさんが大声で言うと、あちこちから返事が上がった。それを確かめるように辺りを見回しながら、袖で頬を拭う。……そうだ、ベイルさん、血が。
あの、と声を上げる。藍色の双眸が私を見た。
「どうした。傷が痛むかい」
「私じゃなくて、その、怪我、大丈夫ですか」
「怪我?」
血が、と額から頬に流れているそれを示すと、ベイルさんは瞬き、事も無げに肩をすくめた。
「俺のじゃねえから、気にしねえでいい」
「そ、そうですか……」
勘違いだったみたいだ。ほっとしたような、どこか情けないような気分でいると、
「ベイル、ナオ!」
赤く濡れた槍を担いだヒューゴさんが、走り寄ってきた。
「素人と二重詠唱たあ、えらい荒技やったもんだな。――とにかく、驚いたぜ。いきなり魔物が氷漬けになって、粉々に砕けっちまいやがってよ」
氷漬けになって、砕けた? それを私とベイルさんがやった? から、魔物がいない? の?
「あのまま暴発させたんじゃ、こいつの身が危険だった。結果として上手くいったんだ、問題はねえ。で、お前は?」
「かすり傷だ。ナオは――って、オイ、血まみれじゃねえか! 暴発にしたって、お前が見てて、何だってこんなことになってんだよ!」
「その、私が勝手に」
「それでも守るのがこいつの仕事だ、ったく。でもって、更にそこのガキ共は何なんだ」
「さあな。逃げ遅れたのか何なのか、いきなり出てきた」
「何だそりゃ――って、ん?」
怪訝そうな顔をしたヒューゴさんが言葉を切り、子供たちを見下ろす。げっ、と踏み潰された蛙のような声が上がった。
「チェリアに、ディーターじゃねえか」
「……ヒューゴおじさん?」
「おじさんじゃねえって、いつも言ってんだろ」
ヒューゴさんが口をへの字に曲げる。ベイルさんが「知り合いかい」と問うと、苦々しげに頷いた。
「ああ、ここで暮らしてる孤児だ」
――孤児。
その言葉に、顔が引きつる。視線を感じて見上げれば、ベイルさんが無言で私を見下ろしていた。