見知らぬ街で・08
眩しい。閉じた目に光が当たって、気持ちよく眠っていたのが邪魔される。何なのもう、と呻きながら右に寝返りを打って目を開けると、
「……うん?」
そこは、知らない部屋だった。
大きな机にちぐはぐな椅子。床には何か変な置物が置かれていて、壁には地名が大きく書かれた小さなタペストリーがいくつも掛けられている。
「起きたかい」
どこだっけここ、と考え込んだのも一瞬。聞き覚えのある声が聞こえてきて、飛び起きた。
――そうだ、ベイルさんの部屋!
頭から水でも掛けられた気分で周りを見回してみれば、やっぱり私はベッドの上にいた。ベイルさんの部屋で。ベッドに。……何で……?
「す、みま、せん。ベッドを、お借り、しました」
布団の中に潜り込みたい衝動を我慢しつつ、テーブルの向こうで何か本を読んでいたらしいベイルさんに頭を下げてみせる。その返事は「いや」と軽い。
「それより、身体の具合はどうだ」
「ええと、特には、大丈夫だと思います」
痛いところはないし、疲れている感じもしない。そう答えると、「なら結構」と頷いて、ベイルさんは廊下に続く扉のすぐ右にある扉を示した。
「あの先が浴室だ。湯は張っておいたし、着替えは女連中から貰ったのを置いてある。その他置いてあるものは、好きに使っていい。俺はこれから朝飯を取りに行きながら、隊の連中と話をしてくる。三十分程度で戻るが、それくらいで十分かい」
「あ、はい、ありがとうございます」
頷いて、ベッドから降りる。靴は足元に、きちんと揃えて置かれていた。
「分かった。後は……そうだな、鍵は掛けておく。もし来客があっても、放っておいていい」
はい、と頷き返すと、ベイルさんは本を閉じて立ち上がった。それきりこちらを見ることもなく部屋から出て行く後姿を横目に、私も浴室へ移動する。
お風呂周りの設備は、私が知っているものとそれほど変わりもなかった。温かいお湯がたっぷりと張られたバスタブに手桶が一つと、壁に掛けられた鏡の前には白い石鹸。特にシャンプーとかコンディショナーとかの区別はないのかな、なんて思いながら、なるべく急いで身体や髪を洗う。
ちょっと大きいブラウスとズボンを着て部屋に戻ると、壁の時計で二十分が過ぎていた。まだ約束の時間まで十分残っている。ひとまず昨日座った椅子に座ってみると、テーブルには一冊の本が置かれていた。
「ラーゲルレーヴ……魔術、理論?」
分厚い本の表紙には、大陸共通語で大きくそう書かれていた。ちくりと好奇心が刺激される。どんな内容なんだろう? 勝手に見ちゃいけないとは思いながらも、ついつい気になって手が止められない。
そっと表紙を開けば、古い紙の匂いがした。ちらりと目次を見てから、ページをめくって読み進める。
第一章は、魔術の成り立ち。
古い時代のヒトが竜に教えを乞うたのが始まりで、やっぱり魔術とは「世界を作り変える術」なのだという。何もないところへ突然火を発生させたなら、確かに世界を作り変えたと言えるのかもしれない。
第二章は、魔術の構成。
全ての魔術は術を構築する式と、その式を稼働させる魔力によって成立する。魔力は体力とは逆に精神を素に生じる力で、これを式――紋章や詠唱によって加工し、発現させる。自販機(術式)にお金(魔力)を入れてジュース(結果)を得る、って感じかな。
第三章は、魔術式の構成。
意外に細かい決まりはなくて、望む結果を上手くイメージできれば、何でもいいみたい。でも、言葉や図形にも力や相性があるらしく、高い効果は得るにはきちんと計算しなくてはいけない。だから、紋章や呪文を売る専門の魔術師もいるのだそうだ。
そこまで読んで、ほうっと息を吐いた。
魔術なんてゲームみたいなスキルが、ここではちゃんとした技術として使われている。それを改めて思い知らされたようで、何だか少しぞくぞくした。
「すごいなあ……」
呟いて、まだ読んでいない部分のページをぺらぺらとめくる。いろんな図形や、何か詩みたいなものが書かれているところもあった。綺麗な円い模様を眺めていると――その時、扉を叩く音が聞こえた。
「ひえっ!?」
裏返った声が飛び出し、びくりと肩が跳ねる。慌てて扉の方を振り返れば、ノックの音はもう聞こえない代わりに、鍵を開ける音。あわわ、どうしよう。
本を読むのに夢中で気付かなかったんだ、と焦っている間にも扉は開く。予想通り、部屋の中に入ってきたのは、片手にお盆を持ったベイルさんだった。
「お、おかえりなさい」
「ああ。時間は短くなかったかい」
「大丈夫です。ありがとうございました」
いや、と短く答え、テーブルまでやってきたベイルさんは、私の前にお盆を置いた。お盆の上には、一人分の食事。パンとスープと、おかずと果物。
「あの、ベイルさんは」
「済ませてきた。――で、どこまで読んだ?」
昨日のように私の向かいに座ると、ベイルさんはテーブルの上の本を示しす。置き直してはみたけど、やっぱり気づくよね……。
「すみません、気になって読んでしまいました」
「ああ、それは元々お前にやろうと思ってた。謝る必要はねえ」
「!? あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。それで、どうだった」
「ええと、読んだのは三章までです。シェルさんとヒューゴさんに聞いていたこともあったので、特別分からないところはなかったんですけど」
「けど?」
「……実際に使える自信は、ないです」
「なら、気にする必要はねえな。本を読んだだけで習得できる奴は稀だ。とりあえず今は飯を食え。食ったら、出発の準備だ」
「あ、はい。頂きます」
手を合わせてから、フォークを手に取る。何から食べようか迷ったけれど、まずはスープを一口。それから、ふかふかの白いパンをちぎる。
「ところで、覚えてる限りでは、戦闘の経験はねえんだろう?」
「せ、戦闘!?」
予想もしない言葉に、また裏返った声が出た。
ギョッとして硬直する私を見返すベイルさんは、ゆっくりと一度瞬きをし、ふむ、と呟く。
「その様子じゃ、覚えはねえどころか、生まれたところは随分と平和だったらしいな」
「そう……はい、そう、ですね。犯罪はあっても戦争はどこかの遠い国のことで、ご飯に困ったりすることもなくて。私のような――」
その先を、言うべきかどうか。パンをちぎる手を止めて迷う。その間、ベイルさんは何も言わずに待ってくれたけれど、結局、判断はつかなかった。
「……何でもないです」
「そうかい」
きっと何もないようには聞こえなかっただろうけれど、ベイルさんは頷いただけで何も言わなかった。それからも、私が食べ終わるまで待っていてくれて、
「ごちそうさまでした」
「あれだけで足りたかい」
「はい、お腹いっぱいです」
「そりゃ良かった。なら、厨房に食器を引き渡した後で、武装を整える。そのままじゃ心許ねえからな」
ベイルさんが立ち上がり、お盆を手に取る。
「あ、持ちます」
「お前は本を持ってけ。自分が持て余してる力について、少しでも知っておいた方がいい」
そう言われてしまえば、反論もできない。大人しく本を持って、ベイルさんについていくことにする。
一階の食堂で食器を返却するついでに厨房の人にお礼を言って、ベイルさんが次に足を向けたのは、静まり返った人気のない廊下だった。
「この辺りは、武器や防具を押し込んだ倉庫になってる。昨日の今日だ、めぼしいものは粗方消えてるだろうが――」
言いながら、ベイルさんは見るからに重そうな金属製の扉の前で足を止めた。それを片手で軽々と開け、中へ進んでいく。部屋の中はたくさんの棚にいろんな種類の武器や防具が並べられていて、壁にも数え切れないほどの槍や剣が立て掛けられていた。
「いっぱいあるんですねえ……」
「依頼の報酬やら、戦利品やらで持ち込まれたのが適当に放り込まれてて、好きに使って良いことになってる。まずは、防具を見繕うか」
「防具……鎧とかですか?」
「ああ。その体格で鎧を着せる訳にもいかねえが、この辺りに外套の類があったはずだ」
ベイルさんは棚の間を、慣れた調子で進んでいく。その後についていくと、突き当たりの壁一面に服が吊るされていた。普通のブラウスやジャケット、物語に出てくる魔法使いが着ているようなローブもある。ベイルさんが手に取ったのは、深い紺色のロングコートだった。襟と袖、裾にも銀色の刺繍が光っている。
「袖を通してみろ。大きすぎても困るからな」
差し出されたコートを受け取って、腕を通す。袖が少し余ったけれど、邪魔になるほどでもなかった。
「大丈夫です」
「なら、そのまま着とけ。刺繍は防衛結界の構築術式だ。魔力を込めれば起動する。気休め程度だが、何もねえよりはマシだろう」
「ぼうえいけっかい? ですか?」
「身を守る盾のようなもんだ。……次は、武器か」
そう言って近くの棚へ移動したベイルさんは、あれこれと取り出して見るものの、すぐに戻してしまう。
しばらく続いた品定めの後、その手に残ったのは、私の身長と同じくらいの棒だった。先端には金属の突起があって、棒と言っていいのか、杖とでも言えばいいのか、よく分からないけれど。
「棍に軽量と硬質化の魔術付与。悪くはねえな」
「軽くて硬いってことですか?」
「ああ。急場を凌ぐ程度には使えるだろう」
また差し出されたので、受け取る。軽量化の魔術が効いているのか、金属の手触りなのに驚くほど軽い。
「さて、これで一通りの装備も整えたことだ――そろそろ、集合場所に向かうぞ。頃合いだからな」
「……はい」
つまり、いよいよ襲撃を迎え撃つ準備に入るということだ。心臓が痛いほどに脈打つのを感じた。
お城を出ると、玄関前にはもう一番隊の人たちが集まっていた。百人近い屈強な男の人達が武器を持って集まっている様子は、かなり威圧感がある。……正直に言って、ちょっと怖い。
「あ、隊長! おはようございます!」
ヴィサさんがベイルさんに気付き、挨拶をする。
「ああ、おはよう」
ベイルさんが軽く頷いて応じると、他の人も一斉に挨拶の声を上げた。低い声が一斉に響きだすと、まるで地面さえ揺れているように思える。
「ナオも、おはようさん」
「はい、おはようございます」
ヴィサさんがにこりと笑いかけてくれるので、会釈をして答える。――と、足音荒く走ってくる姿が、視界の端に映った。誰だろう。
「直生さん!!」
「あれ、慶寧君? どうしたの?」
「どうして、避難しないんですか!」
私の前で足を止めた慶寧君は、質問に答えず、叫ぶように言った。よっぽど急いできたのか、ゼエゼエと肩で息をしている。
「ええと、事情があって――とにかく大丈夫?」
「大丈夫じゃないですよ!」
「え、それは駄目だよね、癒務室行く?」
「何を言ってるんですか、僕のことじゃなくて!」
慶寧君の表情が一層険しくなる。
どうやら、私は意味を取り違えていたみたいだ。ぶふっ、とヴィサさんが噴き出すのが聞こえたけれど、恥ずかしいので聞こえなかったことにしておく。
「羽深さんに聞いたんです、直生さんは東の遺跡に行くって。どうして避難しないんですか?」
どうしてと言われても……。答えに困っていると、また新しい声が聞こえてきた。
「何だあ? 朝っぱらから、何を騒いでんだ」
声の方へ視線を転じると、ヒューゴさんがお城から出てくるところだった。その手には、青みを帯びた銀の槍が握られている。持ち主の長躯をゆうに上回る長さは、二メートル近いかもしれない。
「ヒューゴさん、おはようございます」
「おう、おはよう。……元気そうだな」
そう言うヒューゴさんは、呆れたような感心したような、複雑な表情を浮かべていた。
どういうことだろう。不思議には思ったものの、ヒューゴさんが慶寧君の姿を見つけて怪訝そうな顔をしたので、疑問は口に出し損ねてしまった。
「で、ケーネィはこんなトコで何してんだ。避難すんだろが」
「そうですけど、直生さんが――」
「ああ、こいつはベイルの護衛対象だから一緒に行くんだ。護衛の契約上、下手に引き離しても色々と面倒があるしよ」
「護衛、ですか?」
「そう言うこった。何にせよ、仕事の話だ。お前が口を挟むことじゃねえ。とっとと避難してろ」
「……分かりました」
悔しそうに、慶寧君は頭を下げる。そして、顔を上げると、じっと私を見た。まっすぐな眼差し。
「直生さん」
「な、何?」
「我が言祝ぎ、斎いとあれ」
慶寧君が唱え始めた途端、周りに淡い光が漂い始めた。驚いている間に、すぐ消えてしまったけれど。
「な、何、今の?」
「ちょっとした、守りの祝福です。僕にはこれが精一杯で――とにかく、気をつけて下さいね」
「あ、ありがとう。わざわざ、ごめんね」
「僕が勝手に騒いだだけですから。……失礼します」
慶寧君はベイルさんに頭を下げると、来た方へと走っていった。小さな背中は畑の植物に紛れて、あっという間に見えなくなる。
「……本当に、心配させちゃったんですね」
「気に病んでも仕方ねえさ。――さて、そろそろ出発だろ」
ヒューゴさんは私の頭に左手を乗せると、ベイルさんを見て言った。ベイルさんが溜息を吐く。
「お前が来ねえから、出発できなかったんだ」
「そりゃ、どーもすみませんな」
「最後の馬鹿が来たところで、出発する。配置に変更はなし。馬で先行するノエ班は、遺跡を塒にしてる連中を退去させておけ。だが、間違っても剣は抜くな。渋るようなら、今は全てに目を瞑って、砦の軒先を貸してやると言って説得しろ」
ベイルさんが告げると、五人の男の人が「了解」と返事をし、足早に去って行った。その背中を見送った後で、ヒューゴさんが問い掛ける。
「俺たちは歩きか?」
「遺跡では混戦になる。馬が好き勝手走れる空間はねえし、魔物に怯えて暴れられても面倒だ」
「なーるほど。で、お前は先頭だろ、ナオもか?」
「ああ。傍に置いておく。お前には、最後尾を頼む」
「はいよ」
そして、午前十時三十分――私たちは、ついに砦を出発した。