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花降る街・06

 突き出した掌に、抵抗はなかった。

 叩きつけたのは心臓の上、胸の真ん中。エンデの魔力が吸い込まれていくのが、掌越しに伝わってくる。掌を当てた身体が、びくりと震えた。吊り上げていた糸が切れたみたいに、短剣を持った手が落ちる。

 アンドラステ、と掠れた声に呼ばれた。

「……じゃねえ、ナオ、だったっけ。本当、お前、甘いのな」

 途切れ途切れではあるものの、思った以上にしっかりした喋り方だった。気絶しかかっているようには思えない。エンデが『まさか』と呟いた。

『精神干渉の術を得意とするがゆえ、耐性も高いということか? いや、しかし……』

 困惑した声を聞きながら、はい、と頷く。

 エンデにではなく、今、耳に聞こえる声で私に話しかけている人へ。肯定するというよりは、否定のしようがなかったから。

 手を下ろして一歩引くと、エジードさんの身体がふらりと傾いた。不思議と躊躇いもなく、手が出る。刀は持ったまま、両腕で受け止めた。エジードさんは痩せていて細いから、魔術を使う必要もなかった。

「俺は、お前を殺そうと思った」

 腕の中で、声がした。苦しそうで、辛そうな。

「……はい」

「それが情けって奴だと思った。俺たちが鍛えて、お前は強くなった。けど、それは苦しみを長引かせるだけ、だろ。遅かれ早かれ、お前は竜騎兵に戻る。逃げるなんて、無理だ。あの人が、逃さねえ。だったら、ここで、死んどいた方が、マシだろ、って」

「……なら、どうして一番得意なの、使わなかったんですか」

 エジードさんは精神に干渉する魔術が得意だった。前に私にやったみたいに思考を誘導したり、幻覚を見せるだけじゃなくて、本当なら人の思考を書き換えたりまでできる。洗脳っていえばいいのかな。

 私は特に、そういう魔術に弱い。ニーノイエにいた頃も、何度も慣れるように耐えられるようにと訓練されたけど、いつもエンデに頼りっぱなしだった。

 その時の訓練を担当していたのも、エジードさんだった。私がどのくらい駄目なのかも、エジードさんは全部知ってる。だからこそ、最初はあんな風に幻を見せたんだろうし。

 なのに――そう、本当に最初だけだった。今夜は一度も使ってない。使えないはずがないのに。

「私がああいうの駄目だって、知ってるのに」

「最初は、お前を道具だと思った。思おうとした」

 けれど、返ってきたのは、質問とは関係のない……そうとしか聞こえない言葉だった。

「俺たちと同じように、使い潰されるものだと。――けど、無理だった。どうしても、できなかった」

 エジードさんは五年前――十七歳の頃に竜騎兵の適性を見出されて、時計技師から軍人になったのだという。その理由はお父さんが事故で亡くなって、家にはまだ小さい弟や妹がいたから。竜騎兵になることで家族がちゃんと暮らしていけるようにしてもらったんだと、前に教えてもらったことがあった。

 そう考えると、エジードさんはニーノイエで周りにいた誰よりも、私に近い立場の人だったのかもしれない。他は皆、最初に自分で軍に入ることを決めて、それからずっと軍人をしてきた人ばかりだったから。

「お前は俺たちと違って、自分で選ぶこともできなかった。俺たちがさせなかった。いつからか、それが、すげえ後ろめたかった」

 ぼそぼそとした呟き。それが、一瞬途切れる。

「……お前を殺さなくちゃならねえと、思ってたよ。それしか、お前の為にできること、思いつかなかったから。でも――できるなら、生きて、逃げ延びて欲しいとも、思ってたんだ」

 震える声を聞きながら、ぎゅっと刀の柄を握り締めた。拳を作る代わりに、爪を立てるように。

 胸の中でぐるぐると渦巻く感情を、じっと耐えて飲み下す。そうしなければ、何かが溢れるとか、折れるとか、そういうおかしなことになってしまいそうな気がした。

「俺が知ってるお前は、いつも張り詰めてた。ずっと我慢して、耐えてた。だから、この前、驚いたんだ。比べ物にならねえくらい、気の抜けた顔しててさ」

「……そうですか」

 気の抜けた顔とは。そんな顔をしていたつもりはなかったから、つい言い返す声がきつくなった。

怒んなよ、なんて笑われてしまったけど。

「それでも……ああ、何だろうな。俺は、嬉しかったのかもな。これが、ほんとのお前なんだって、最後に知れて。……でも、それを知っちまったから、俺はお前を殺せなくなった。殺したく、なくなっちまった」

「いきなり、あんな幻を見せたのに?」

 あんなものを見せておいて、それで殺す気がなかったと言われても、ちょっと信じられない。

 本当のことじゃない、作り物の幻だって分かっている今でも、思い出すのは嫌だ。本当に怖くて、恐ろしくて、どうしようもなかったんだから。

「それで憎んで、吹っ切れて、火が点けばいいと思ったんだよ。殺さねえように戦うのは、ただ殺すより、ずっと難しい」

 知ってるだろ、と囁く声に、曖昧に頷く。まだ全部を思い出せている訳ではないけれど、言われていることは何となく分かった。

 人間は意外と頑丈かと思えば、意外と脆かったりする。殺さないように戦うというのは、つまり自分で戦い方の選択肢を少なくすること、なんだと思う。

「その枷を解いたら、あの人から逃げきることも、できんじゃねーか、ってさ。その為になら、それくらいしてやってもいいと思った」

 ひく、と喉が震える。冗談だと思うには、それはあまりにも真剣で、穏やかな声だった。

 どうして、と吐き出した疑問は、ほとんど聞き取れないくらいに掠れていた。なんで、そんなこと。だって、それじゃあ、私に殺されようとしていたってことになっちゃう。

「だって、なあ……怨んでる、だろ? 迷惑だろーけど、俺にできること、それくらいしかねえし。ほんとに、さ。お前とは、もっと違う形で出会いたかったんだ。言うだけ野暮、かもしんねーけど」

 ぐす、と鼻が鳴った。それ以外にはうんともすんとも答えられないでいると、ああ、とエジードさんが息を吐くのが聞こえる。

「最後まで、悪役面できりゃ、よかったんだけど」

 ごめんなあ。最後にそう言って、声は途切れた。

その直後、抱えた身体が急に重みを増した。一瞬ふらつきそうになったのを、何とか持ちこたえる。体勢を立ち直しながら、刀を持っていない方の手で目元をこすれば、濡れた手触りがするのが情けない。

 エジードさんを地面に寝かせながら、頭の中でエンデを呼ぶ。戦いが終わっても、まだ気は抜けない。やっと術が効いたみたいで、エジードさんも気絶してくれたけれど、このままにしておいていいんだろうか。それから、砕いた短剣のことも気になる。柄まで全部壊してしまうべきなのか、預かるだけにしておくべきなのか。どう思う、と問い掛けようとした時、

「話は、終えたか」

 低い声が降ってきた。

 息を呑んで見上げれば、予想以上に近い空中にナタンさんが立っていた。目が合ったと思った瞬間、身体が後ろに吹き飛ばされた。目も開けていられないほどの突風になす術もなく、ボールみたいに跳ね上げられる。あっという間に地面が遠くなった。

 どうしよう、どうすればいいの。頭の中がパニックになりかかる。私は風なんて操れないし、この高さじゃ受身を取るにしても限度がある。大急ぎで役に立ちそうな魔術を頭の中で探していると、

「悪い、遅くなった」

 身体が背中から受け止められた。

 聞き慣れた声に思わずホッとしたものの、おかしなにおいがして振り返る。

「ベイルさん」

 名前を呼んで、その後が続かなかった。

 服や肌のところどころに見える、焼け焦げた跡。そして、その傷に残る魔力の気配は、ぼんやりとしか思い出せない記憶の中でも、とびきり鮮明だった。

「それ、あの、ハーデさんが」

「ああ、加勢してきやがった。言い訳にするつもりはねえが、ありゃハイレインが手を焼くのも無理はねえな。いつの間に、あれだけの力を得たんだか」

 ため息混じりに言って、私を抱え直したベイルさんが高度を下げていく。細かくは思い出せないけれど、私もハーデさんにはとにかく敵わなかったような覚えがある。ベイルさんがここまで言うんだから、やっぱりとんでもない人だったんだろう。

「それにしても、ハーデはどこぞで観客でも気取ってやがるのかい。わざわざ手ずから敗残兵を回収とは、よほど暇を持て余していると見える」

 ナタンさんと同じ高さまで下りてくると、ベイルさんは素っ気なく言った。え、と思って草原を見下ろしてみれば、いつの間にかエジードさんの姿が消えている。ハーデさんが「回収」してったってこと?

「そのくせ、独りになったお前を掩護する訳でもねえらしい。見捨てられでもしたか」

「答える義理はない」

「だろうな。で? 一人で二つを操ってみせると?」

「目的を果たす為ならば」

 厳しい表情で言ったナタンさんが、サーベルを持っていない(・・・)方の手を挙げた。何かが握られている。

 目を凝らして、それが何か分かった瞬間、あっと声が出た。あれ、エジードさんの剣だ!

『しくじったな。刃だけでなく、総身を破壊しておくべきだった』

 エンデが苦々しげに言う。……そうだ、あの短剣はニーノイエの竜の亡骸を込めた魔道具。

 刃を砕かれて短剣としての機能を失っても、魔道具としての機能は決して消えていない。やっぱり、さっき壊しておくべきだったんだ!

『私が気付かなかったから』

『自責は止めよ。見過ごしたのは私も同じだ。……竜の亡骸は欠片と言えど、ヒトの身には余る。よもや、それを二つ同時に用いようなどという愚かを考えるとは思わなんだ。捨て身か?』

 気がつけば、風の匂いが変わっていた。ホヴォロニカの、ほんの少し草の匂いが混じった風じゃない。これは、ニーノイエの岩山の匂い。

 匂いで現実だと分かっているのに、信じられない気持ちでいっぱいだった。だって、普通に考えたら有り得ない。それじゃあ、ここをホヴォロニカからニーノイエに上書きしたってことになる。

 ごう、と風が鳴った。他に何も聞こえなくなるくらいに、強い風。

『まずいぞ、ナタンは竜巻を呼んでいる』

 周りを見回してみれば、がりがりと音を立てて地面を削りながら、私たちを取り囲むように竜巻が近付いていた。速い。それに、数も多い……!

『この一帯を一時的に自らの支配下とし、大地に蓄積された魔力を強制放出させているようだ。エジードの短剣をも得たからこその無理よな』

 エンデの言う通りに相当な無理をしているのか、遠く見えるナタンさんの顔色は明らかに悪かった。

「そんな大技使って、こいつに傷がついたらどうする」

「生かしたまま確保することが難しい場合、左腕さえ持ち帰ればよいと指示を受けている」

「そいつは素敵な方針だな。死に腐れ」

 低く吐き捨て、ベイルさんが右手――私を抱えていない方の手に剣を作り出す。雷光を纏った剣が、弾丸めいた速さで放たれた。夜を貫いて飛ぶ剣は、まっすぐにナタンさんへ向かっていく。

 けれど、それは届かない。突然横から風が吹きつけたかと思うと、明後日の方向に飛ばされて粉々に砕かれてしまった。

 息を呑んだのと同時に、がくんと身体が揺れる。太股に回された腕に座るような形で抱えてもらっていたけれど、この姿勢はどうもバランスが良くない。ベイルさんが動き出すと、すぐにぐらぐらしてきた。

「掴まってろ、落ちねえように」

「は、はいっ!」

 こうなったら、形振り構ってなんかいられない。ベイルさんの首に抱きつくようにして、腕を回した。

「全く、次から次へと鬱陶しい」

 ひどい暴風の中を、ベイルさんは隙間を縫うようにして飛んでいく。私はその動きに振り回されそうになりながら、どうにか落ちないように掴まっているので精一杯だった。高いところは苦手なのに、なんて震えている余裕すらない。

 その時、小さな舌打ちが聞こえた。何かと思って目を上げれば、ベイルさんが険しい表情で眉間に皺を寄せている。その横顔の向こうには、竜巻も見えた。いつの間にあんな近くに……!

止針(ししん)の巡り、停時(ちょうじ)の果」

 右手を竜巻に向けたベイルさんが唱え始めると、ナタンさんに塗り替えられた世界が、少しずつ歪んでいくのが分かった。ホヴォロニカの匂いが戻ってくる。

 ナタンさんに操られているとはいっても、今起きている竜巻は正真正銘の天災だ。竜でもなければ、そう簡単に消し去ることはできない。だからこそ、ベイルさんが選んだのも、あくまで干渉。支配する術に割り込んで、その動きを変えることだった。

 岩と草の匂いが交じり合う。竜巻がじりじりと押し返されていく。

「逆巻き、因に報――」

 バチ、と弾ける音が上がり、声が途切れた。

 え? ぽかんとして、私はその「赤」を見つめていた。突然、視界に飛び散った色を。

『押し負けたな』

 エンデが、苦々しげに言う。その声を聞いて、やっと理解することができた。

 竜巻に向けられていたベイルさんの腕は、今や指先から肩までが真っ赤に染まっている。エンデの言葉が本当なら、それは術式を競って、そんな傷を負わされてしまうくらい一方的に押しきられてしまったということだ。あの、ベイルさんが。

「だ、大丈夫ですか!? 傷を、傷が」

 とにかくびっくりして、自分が何を言っているかも分からないまま手を伸ばした。

 指先に濡れた手触り。温かな血。治癒の術を、と思う間にも、触った指先から次々と情報が流れ込んでくる。その傷の多いこと、深いこと。

 私が怪我をしているのじゃないのに、目眩がしてきそうだった。ひどい。ひどすぎる。

「ど、どうしま、しょう」

 治せない訳ではない。ないけれど、今すぐになんて無理だ。エンデの力を借りたとしたって。

「お前が痛えんじゃねえだろうに、泣くな」

 ――なのに、平然としたのを通り越して、呆れたみたいな声で言われた。

「な、泣いてません!」

「だったら、しゃんとしてろ」

「だって、傷が」

「大したことはねえ」

 ない訳が、と反論しかけて、止まった。

 振り向いた先で、ベイルさんは笑っていた。今までに何度か見た微笑とは違う、冷たい顔。どんな言葉を選べばいいのか、すぐには思いつかないけれど――

「下手な使い走りかと思ったが、存外やる」

 小さく唇の端が持ち上がる。それを見た瞬間、分かった。……酷薄。その顔を表現するには、きっと、そうの言葉が一番相応しかった。

 初めて見る表情に何も言えないでいると、

「ひゃわっ!?」

 すぐ近くで白い光が弾けて、思わず変な悲鳴が飛び出した。恐る恐る周りを見てみれば、バチバチと音を立てて、白い……違う、ただの光じゃない。雷だ。私たちの周りを、雷光が縦横無尽に迸り踊っている。

 それだけでもびっくりしたのに、ベイルさんの方を振り向いて、更に驚いた。血を流していた右腕が、これは……何? 指も、腕も、見る見るうちに太く大きく膨れ上がっていく。伸び始めた爪は鉤爪のように鋭く尖って、肌は炭みたいに黒い。

 もう、ぽかんとするしかなかった。信じられないような変化は、腕だけに留まらない。見上げる顔も、もう半分以上が黒い。ぎらぎらと輝く右目は黄金に、髪は白金へと変わり、額の中央から生えかけている尖った黒銀色は、どう見ても角だった。

 何がどうして、どうなって。この短い時間で、どれだけ思い浮かべたか分からない疑問が、また頭の中に呼び戻される。

「――つ、っ!」

 ずきりと、不意に左手が痛んだ。今度は自分の手を見てみると、一目で分かるくらいに震えている。肩の祝福も、何かを主張するかのように、じわじわとした熱を発していた。

『……これは、何だ』

 愕然とした声で、エンデが言う。答えられない。私に分かる訳がなかった。

『何故――竜が目覚めるぞ!』

 ほとんど悲鳴に近い叫び。ここではないどこか、銀の光を宿した結晶に罅が入るのを見た気がした。

 いけない。反射的に右手で左手を掴んで、魔力を注ぐ。無理矢理にでも抑え込む。歯を食い縛って、とにかく溢れ出しそうに暴れるものを押し返した。

 ……一つ、二つ、三つ。

 そうして数えるうちに、どうにか落ち着き始めた。エンデが頑張ってくれたのと、後は……たぶん、ケラソスさんが何かしてくれたんだと思う。途中から肩の祝福を通じて何か流れ込んでくる感じがして、そこから一気に楽になったから。

『ナオ、助かった。何とか暴走はさせずに済んだ』

 息も絶え絶えなエンデに『うん』とだけ答えて、さっきの彼女と同じように考える。

 これは一体、何? 

(拒絶、嫌悪。違う、もっと深い……憎悪?)

 いくつかの単語が脳裏を巡り、そうして何となく分かった。何が起きていて、何が理由なのかは分からないままだ。それでも、一つだけ確かに感じ取れる。

 竜に関わる全てが、ひたすらに拒絶と反発を起こしているのだと。何に。――ベイルさんに、だ。

今のベイルさんは、まるで人でも獣でも、魔物でもないもののように見えた。とにかく、途方もなく禍々しい何か。だからこそ、竜がこんなにも強く拒むのかもしれない。秩序の守り手とも謳われるだけに。

 おもむろに、ベイルさんが空へと手を伸ばした。真っ黒く塗り潰された大きな掌が、長い指と長い爪が、何もない空中を握り込む。たったそれだけの動作で、私たちの正面にあった竜巻はぐにゃりと歪んだ。歪んで、ねじれて、砕けるように飛び散って消える。

 更に黒い手が一振りされると、周りの竜巻までもが片っ端から弾け飛んで消えてしまった。たぶん、それは戦いですらなかったのだと思う。もしかしたら、蹂躙。ただただ圧倒的な力の侵攻。

 その時、目線の高さが下がり始めていることに気がついた。地上近くまで下りていったベイルさんは、地面に足をつけないまま、空中から私を降ろす。

「……お前、は、ここで、待って、ろ」

 最初、私はそれが自分に向けられた声で、言葉だと分からなかった。

 嗄れた、ひどく聞き取り辛い声。人の声というよりも獣の唸り声か、風の吹き荒ぶ音の方がよっぽど近いような。そんな風にさえ思ってしまう、聞いている方が苦しくなる荒れ果てた音だった。

「……分かっ、た、かい」

 聞き慣れない声の、聞き慣れた言い回し。それで、ようやく誰が喋っているのか実感できた。

「わ、分かりました! います、ここにいます!」

「……素直、で、結構」

 そう残すと、ベイルさんは背を向けてまた空高くへと舞い上がっていった。右腕だけが大きくなった、歪な背中が遠ざかる。知っているのに、知らない人みたいな背中が。

 いびつな影は夜空を滑るように駆けていく。差し向けられる竜巻も、吹き付ける突風も、その足を止めることはできない。切り裂いて、踏み砕いて、あっという間に爪の届く距離にまで追い詰めてしまった。

 地上からでは、ナタンさんがどんな表情をしているのかは分からない。それでも、決して怯んでいるようにも見えなかった。サーベルで斬りかかる。ベイルさんはそれを防ごうともしなかった。

 長い爪が下から上に振り抜かれる。鍔迫り合いすら起こらなかった。爪と噛み合ったサーベルは折れ、斬り裂かれた肉体が血飛沫を上げる。空中に投げ出された二つの魔道具も、雷に打たれて黒焦げの塵に変わった。それは、本当に呆気ないくらいの決着。

 ゆらり、ナタンさんの身体が傾いて落下する。危ない、と何も考えず足を踏み出そうとした瞬間、

『……さ、すが、は、』

 電波の悪いラジオみたいに、またざらざらとして聞き取りにくい声が聞こえた。驚いてそっちに気を取られている間に、ナタンさんの落下が止まる。

 それをさせた魔力には、まだ聞こえにくい声には、覚えがあった。

「ハーデだな」

 ざ、と音を立てて私の隣に着地した人が呟く。不機嫌そうな声も、その姿も、私が知っているものと同じだった。普段通りの。

『ご名答。さすがは中佐だ。いや、准将?』

 ほんの少し笑うトーンで答える声もまた、すっかり聞きやすいものに変わっていた。

「御託はいい」

『相変わらずですね』

 そう言って肩をすくめるハーデさんの姿が、夜空にぽっかりと浮かび上がる。魔術で投影されているのだろう、ゆらゆらと揺らぐ半透明の虚像で。

『しかし、全ては予定通り』

「この状態が、かい」

『ええ。ナタンは高潔がゆえに情けをかけ、エジードは善良がゆえに情に流れる。ですが、私は彼らを従えるもの。その程度の事態は予め想定済みです。彼らはそれで構わない。愛すべき資質だ』

「――で? 回収に来たなら、とっとと連れて帰りやがれ。お喋りに付き合うつもりはねえ」

『ええ、私とて長居をするつもりはありません。久方ぶりの再会に挨拶を、と思ったまで。そして、勝者には褒美が必要だ』

 ハーデさんがナタンさんへ手を伸ばすと、ナタンさんの懐の辺りから淡い光がこぼれだした。その光はゆるやかに私の方へ流れ始め、ちらりとベイルさんが目を向けて眉間に皺を寄せたものの、それ以上の反応はない。悪いものじゃないってことなのかな。

 ふわふわと流れてきた光が、身体に吸い込まれる。その瞬間、濁流のように頭の中に押し寄せてくるものがあった。記憶。記録。過去。ニーノイエで過ごしていた日々のこと、どんな風に鍛えられたか、どうやって戦ってきたか。入ってくるものが多すぎて、目が回りそう。ううん、回りそうじゃなくて、回った。

 回った目は世界も回して、そのまま身体ごと引っくり返ってしまいそうになる。抱えて支えてくれた腕があったから、そうはならずに済んだけど。

「……っ!」

 頭の中のぐちゃぐちゃがどうにか治まり始めると、ズキリと左胸に痛みが走った。ほんの一瞬だけど、刺されたみたいに鋭く。そのはずだったのに、痛んだところを触ってみても、魔術で探ってみても、おかしなところは何もない。……何だったんだろう。

『果たして、君は私の想像を超えられるかな。君が失ったものの断片は、かつて君の師であった四人がそれぞれ持っている。これで二人分――後、二人だ』

 私が首を傾げるのをよそに、ハーデさんは楽しそうに笑う。……あ、怪しい。敵を弱体化させたら、普通はそのままにしておきたがるはずなのに。罠でも仕掛けているのかもしれない。

「お前は、何を考えてる」

 ベイルさんの声も、ひどく訝しげだった。

「自分では出て来ずに、部下を使う理由は何だ。お前が出てくれば、それが一番手っ取り早いだろう」

『そうしたいのは山々ですが、私もこれで忙しい身なのですよ。ご存知かもしれませんが、ニーノイエでは未だ先の内紛の影響色濃く、お偉方の方でも軍部でも分裂が続いている。海千山千の巣窟を、そうそう留守にする訳にはいきません。氷湖の竜の相手もしてやらなければいけませんしね。敵わないと知りながら、彼も健気なことです』

 ハーデさんが肩をすくめる。

 その言葉を聞きながら、私はまた驚いた。ハイレインさんは粋蓮で翠珠の王子と交渉をしているのに、ハーデさんの方まで気にしているなんて。アランシオーネに着くまでに一回しか襲われずに済んだのも、ハイレインさんのお陰なのかもしれない。

『おっと、お喋りが過ぎましたね。ともあれ、しばらくは私の部下がお相手します。よい旅を』

 最後まで余裕の笑みを見せて、ハーデさんは消えた。ナタンさんの姿もない。後に残されたのは、遠くでごうごうと音を立てる竜巻だけ。

 遠い音が、かえって静けさを意識させる。それで、やっと終わったのだという実感が沸いてきた。

 まだまだ不安はあるけれど、それでも一つの関門を乗り越えたと思えば安心する。はあ、と息を吐きかけて、さっきからずっと支えてもらっていることに気がついた。あわわ、なんてことを!

「す、すみません!」

 慌てて離れようとしたのだけれど、「いや」と逆に抱え上げられてしまった。傷ついていない方の腕で、それでも軽々と。

「無粋で悪いとは思うが、少し我慢しろ。相手があれだった上、こっちも久しぶりで消耗が大きい。大規模な転移術式を組めるほど、余力が残ってねえ」

 ただ、そう言うベイルさんの右腕は、やっぱり動いていなかった。

「足手まといで、すみません……」

「これは俺の不足だ、お前が謝ることじゃねえ」

 ベイルさんが転移の術式を構築していく。私も残る魔力を使って、なけなしの治癒を試みることにした。

 それができるだけの記憶は、もう戻っていたから。

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