花降る街・03
「丸一日寝込んでたと思ったら、今度は朝から生傷作って――全くもう!」
「すみません……」
ため息を吐きながら、ヒメナさんが頬に湿布を貼ってくれる。冷たい感触に、背筋がぞぞっとした。
朝食ができる前の食堂はがらんとしていて、私たちの他には誰もいない。ヒメナさんはテオドロさんとご飯を作っている真っ最中だったのだけれど、私の手当の為にわざわざ来てくれたのだった。
手当が必要になった理由は、もちろん今日から再開になった格闘の鍛錬。前よりも手加減しないから、とベイルさんの判断で「念の為」にご飯を食べる前にやることになったのだった。
でもって、結果はといえば、ヒメナさんの反応で分かるように、だいぶ微妙な感じ。裏拳をもらってしまった左頬は赤くなって、口の中もちょっと切れてしまった。蹴りを防御し損ねた右の脇腹はもう青くなっているし、他にも身体のあちこちが痛い。
「ほんと隊長は容赦ないわね。顔、腫れるわよ?」
「大丈夫です、これくらいなら」
「心意気は立派だけど、ナオは傭兵でも軍人でもないでしょ。ただの子供、しかも女の子が顔を腫らしていいなんてことは、絶対にないのよ。どうしてもやるっていうなら、もう少し上手くやりなさい」
もう一度ため息を吐いて、ヒメナさんは救急箱を閉じた。ありがとうございました、とお礼を言いつつ、服を着直す。脇腹に湿布を貼ってもらうのと、それ以外にも怪我がないかの確認とかで、ヒメナさんにぽぽーんと脱がされてしまっていたのである。
「まあ、いいわ。朝食ができるまでもう少しかかるから、ちょっとでも休んでなさい」
「す、すみません、お料理の途中に」
「それは別に構わないから、もうちょっと受けるのを上手くなりなさいね。鍛錬の度にこんなになってるんじゃ、手当だって一苦労よ。隊長に手伝わせる訳にもいかないでしょ?」
それもそうだ……。ベイルさんにお願いするなんてできないし、こんなことの為にエンデも呼べない。
因みに、そのベイルさんは今新聞を買いにお出かけ中だ。近くに売っているお店があるんだとか。
「もっと、気をつけるようにしてみます」
頷いて答えると、ヒメナさんは「そうしなさい」と言って、食堂に戻っていこうとする。ちょっと急ぎ足だ。……あ、しまった、そうだった! ご飯はカサノーバ家の人たちだけじゃなくて、住み込みで働いている人たちの分も作る。私の方に来てもらってしまったせいで、準備が遅れちゃってるんだ。
「あの、ヒメナさん! 何かお手伝いできることありますか?」
咄嗟に食堂のすぐ隣のキッチンに入っていこうとする背中に向かって叫ぶと、ヒメナさんが足を止めてこちらを振り返った。ちょっと渋い顔をしている。
「無理するんじゃないの。気持ちは嬉しいけど、疲れてるでしょう? ちゃんと休んでなさい」
「ご飯を食べたら休みます!」
ヒメナさんの傍――キッチンの入口に駆け寄りながら言い返すと、ヒメナさんはやれやれとばかりに肩をすくめてみせた。
「全く、真面目すぎるんだから。――テオ! 何かナオに手伝ってもらうことある?」
ヒメナさんの後にくっついて、もうもうとした熱気の漂うキッチンに足を踏み入れる。
テオドロさんはキッチンの一番奥にいて、オーブンの様子を見ているようだった。ヒメナさんに呼ばれると立ち上がって、こちらを振り返る。
「ナオちゃんに? そうだなあ、野菜の皮でも剥いてもらおうかな」
「野菜ね。ナオ、そこの流しのをお願い」
ヒメナさんが指さした広い流しの中には、こんもりとジャガイモが盛られていた。ピーラーみたいなのはないみたいだけど、調理実習でやったことあるし、たぶん、大丈夫なはず……! ちょっとドキドキしながら一緒に置いてあった包丁で皮を剥き始めると、テオドロさんがオーブンを開けるのが横目に見えた。ふわりと、焼き立てのパンのいい匂い。
ついさっき運動してきたばかりだから、もちろんお腹は減っている。そんなところに、こんなにもいい匂い。そうしたら何が起こるかなんて、あんまりにも分かりきったことだった。
ぐう、と鳴る。何が、とかは言わないけど!
「……すみません」
「だから、そう謝ることないわよ。あれだけ殴り合いしてれば、そりゃお腹もすくでしょう」
隣で皮の剥き終わったジャガイモを刻んでいくヒメナさんが、軽く笑う。その言い方だと、まるでその光景を見ていたみたいだ。顔を上げてヒメナさんの方へ向けると、「ええ」と頷き。
「ここの窓から、見てたの」
ここ、と指で差されたのは流しの前にある窓。首を伸ばしてみれば、確かに裏庭がよく見えた。
そっか、だから鍛練の終了を見計らったみたいなタイミングで声が掛かったんだ。
「そう言えば、ナオちゃんもすっかり調子が良くなったんだよね。今日は祭り見に行くの?」
オーブンから取り出したパンを籠に入れながら、テオドロさんが言う。お祭り、かあ……。
「ええと、明日に大事な用事があるので、お祭りに行けるなら、その後? だと思います」
「今日も何か予定があるの?」
分かんないです、とまた曖昧にしか答えられないでいると、キッチンの入り口から声が聞こえてきた。
「どうも姿が見えねえと思ったら、こんなところにいたのかい」
新聞を片手に持ったベイルさんだった。ジャガイモを刻む手を止めて、ヒメナさんが入口を振り返る。
「ちょっと借りてたわ。返した方がいい?」
「そこまで行動に口を挟むつもりはねえ」
「そう。ところで、今日の予定は?」
「特に決まってはねえが、午前中は休んでいるべきだろうな」
そうね、と私をちらりと見て、ヒメナさんが頷く。
「だったら、午後でいいから頼まれてくれない? 知り合いのお店に注文しているものがあるから、取りに行って欲しいの。後で地図は渡すわ」
「……その程度なら、構わねえか。分かった」
「助かるわ、ありがとう」
ヒメナさんがにっこりと笑顔を浮かべ、楽しそうに答える。その途端、どうしてかベイルさんが胡散臭いものでもみるみたいな、変な表情になった。
「お前、何か企んでやがるな」
「真実企んでいたとして、素直に言うと思う?」
ふふん、とヒメナさんが胸を張る。見惚れてしまうくらい素敵な笑顔なのに、ベイルさんの眉間にはくっきりと皺が寄せられていた。
「面倒は御免蒙る」
「別に面倒なことじゃないし、そもそも断る権利なんてないわよ。前言撤回は受け付けないわ」
不機嫌そうなベイルさんにも、ヒメナさんは一歩も譲らなかった。つ、強い……。
朝の鍛錬で作った傷は、予想通り後になって腫れたり、痛くなったりしてきた。口の中も切れたままだったから、朝ご飯の時は水を飲むだけでも一苦労。
なるべく傷に触らないように、気をつけてご飯を食べて、その後は部屋で休憩。ちょっと仮眠……のつもりだったんだけど、ベイルさんに起こされて目を覚ましたら、もうお昼だった。口の中の傷は治ってたし、顔も腫れてなかったからよかったんだけど、朝から食べる→寝る→食べるしかしてないってことで、ちょっと自分で自分に引いた。
「何か、ついさっき朝ご飯食べたような気がするんですけど」
「よく寝てたからな」
「それなんですよねえ。ずっと寝てただけなのにまたご飯って、太っちゃいますよね。これでお腹減ってなければ、まだマシだったのに……」
なんてお昼を食べに一階に下りて行きながらベイルさんに言ったら、
「寝てる間に怪我を治して、それで体力を使ったんだろう。それに、お前は太ることより細すぎることを気にするべきだな。もっと食って太れ」
「え、やです」
まさかの「太れ」に、思わず即答してしまった。
ベイルさんはまたちょっと眉間に皺を寄せたけど、高校生女子に「太れ」とか。それは禁句も禁句なのです。無理です。駄目です。
「そんな骨と皮だけじゃ、ぽっきり折れちまうだろうが。嫌でも食え」
「お、折れないので大丈夫です」
後、何をして骨と皮とか――って、あああそうだった! ベイルさんのところに、半分下着で突撃してったことあったんだった……。忘れたい……。そして忘れてほしい……。
「意外に強情だな」
「私だって、一応、ちゃんと女子なのです」
よく男子に間違えられるけど。悲しいことに。
「『一応』じゃねえだろうが、それなら、まあ――あれだな」
「あれ?」
「今は俺を安心させる為とでも思って、大人しく食っといてくれ。お嬢さん」
お、お嬢っ……!?
そんな風に言われるなんて思わなかったから、びっくりして変な声が出た。ヒョエッて。
「何だ、その反応は」
「な、なんでもないです」
そして、お昼ご飯はベイルさんの隣に座って食べたのだけれど。おかしなことに、気付くと食べ終わったはずのお皿におかずが増えていて、結局朝よりもたくさん食べてしまった。ううん、太る……。
こうなったら、食べた分を動いて使うしかない。タイミングのいいことに、午後はヒメナさんのお使いがある。ベイルさんは「お前は休んでてもいいが」と言ってくれたけれど、頷く訳にはいかなかった。ここでまたお昼寝なんてしてしまったら、確実に体重が増える予感しかしない。
「行きます! 絶対に!」
「ただの使い走りだろうに」
ただのお使い、されどお使いなのである。
何をそんなに意気込んでるんだか、と呆れ顔をされてしまったけれど、ともかく、ヒメナさんのお使いには一緒にくっついて行けることになった。
渡された地図に従って、お祭りで賑やかな街を歩くこと二十分ばかり。到着したのは、服や装飾品を取り扱っているらしいお店だった。
お店に足を踏み入れたベイルさんは周囲に目もくれず、まっすぐ奥のカウンターへ向かっていく。カウンターの中では、若い女の人がきょとんとして、私とベイルさんを見比べていた。
「ヒメナ・カサノーバの代理で来た」
「あー……ああ、今朝言ってた、アレね」
ようやく納得が行ったという風で頷くと、女の人はかウンターの中から紙袋を二つ取り出した。地図と一緒にヒメナさんから渡されていた代金を、ベイルさんが支払う。その間に紙袋を持とうとすると、
「ぐえっ!」
いきなり襟が後ろから引かれて、喉が締まった。
な、何で!? ほんのちょこっと抗議する気持ちで振り返ってみれば、ベイルさんは平然として、
「野暮だな、お前は」
や、野暮? 野暮、って何……?
意味が分からなかったので、首を傾げて見せる。それでもベイルさんは答えてくれなかったし、カウンターで代金を受け取った女の人は笑っていた。
「毎度」
そう言った時には、何かもう物凄い笑顔だった。これは一体……何が、どういうこと……?
「行くぞ」
声を掛けられて我に返れば、私が頭の中を疑問符でいっぱいにしている隙に、ベイルさんは二つとも紙袋を持ってしまっていた。しかも、もうお店の出口に向かって歩き出している。仕方がないので、先回りして扉を開けておいた。これくらいはしないと。
「わ、すごい音」
お店の外に出ると、さっきまでは聞こえていなかった音楽が大音量で流れてきた。近くに楽団とか、何かそういうのでも来たのかもしれない。
そのお陰なのか、表通りも一層に人が増えていた。あの中を通るんじゃ、ちょっと進むだけでも何十分かかるか分からない。一本裏に入った道はまだ空いていたので、そっちを通って帰ることにした。
表通りよりも少し暗い路地を、並んで歩いていく。
「ベイルさん、一つ持ちますか?」
「いや、いい。軽いからな」
そう言われるような気はしていたけど、やっぱり渡してもらえなかった。何だか負けた気分で「そうですか」と頷きかけて、ふと思う。
軽いから、と渡してくれないのなら――
「どうした、途中で黙り込んで」
「ええと、今、ベイルさん、軽いからいいって言いましたよね」
「ああ」
「逆に重くても、やっぱり渡してくれなかったんじゃないかなって」
「まあな」
あっさり肯定。む、と唇が曲がる。
「私だって、ちょっとくらい重くても持てますよ」
「頼りねえと思ってる訳じゃねえがな。――直生、少し寄れ」
喋っている最中に、軽く腕を掴んで引かれた。自然とベイルさんの方に歩み寄る形になって、何だろうと思っていれば、後ろから歩いてきていた人が隣をすり抜けて行く。人が来てたんだ。
「すみません、ありがとうございます」
「ああ。お前は端の方に寄ってろ。後ろからぶつかられでもしたら、吹っ飛ばされそうだ」
「そんなひ弱じゃないですけども!?」
もしかして、お昼に「太りたくない」って話をしたからかな。確かに、筋肉をつけようと思ったら食べる量を増やさなきゃいけないのかもしれないけど、女子としては……! それだけは……!
「ひ弱じゃなくとも、俺が気になるから、大人しくそこにいろ。それに、もう片方の手が空いてるからな。何なら抱えて帰ったって構わねえが」
もだもだ考えている間に腕を引かれて、ベイルさんと道の端に挟まれる場所に入り込まされてしまう。
路地はそんなに広くはないけれど、三、四人は並んで歩ける幅があった。これまでは私が道の真ん中側、ベイルさんの右側にいたのが、今は左側。
というか、「抱えて帰ったって」って、一体それはどんな交換条件なんでしょーか!?
「だ、大丈夫です歩きます」
「そうかい」
そりゃ残念、と冗談だか本気だか分からないことまで言われてしまって、私の頭はもういっぱいである。ベイルさんもそういう冗談言うんだ……。
それにしても、紙袋のこともそうだけど、さっきから気を使ってもらってばっかりだ。これじゃあ、ただの足手まといなのでは――って、そうだ、紙袋!
「あの、ベイルさん!」
「何だ」
「道を譲ってもらったので、代わりに荷物を持ちます!」
「却下。何の代わりだ、そりゃ」
どさくさで渡してくれないかと思ったんだけど、やっぱりそんな甘い考えじゃ駄目だったかあ……。
「だって、さっきっから私、何もしてないです」
「することがねえんだから、当たり前だろう」
「でもー……」
「それに、荷物持ちは男の仕事と相場が決まってるもんだ。俺を立ててると思え」
そう言われても、そんな「相場」とか、よく分からないし……。
「そんなに気を使ってもらわなくても」
「気を使う、ねえ。お前ほどじゃねえさ」
「私? そんなことないと思いますけど」
「ある」
「ええー、ありませんってば」
「だったら、そう堅苦しい喋り方をするな」
あれ? 何か、急に話が変わった。
きょとんとしてベイルさんを見上げれば、一瞬だけ藍色の目が私を見る。ちらりと。
「癖なのかどうなのかは知らねえが、そう日頃から気を張ってる必要もねえだろう。エンディスと話している時の方が、よほど楽そうだ」
ベイルさんはいつも通り、淡々とした声で言う。
私はそれを聞きながら、また訳も分からず落ち着かない気分になっていた。もちろん、言われていることは分かる。でも、どうやって答えればいいのかが、どうしてか分からなかった。
「ヒューゴさんも同じようなこと、言ってました」
それでも、あの時は、こんな変な感じにならなかったと思う。こうやって喋るのは癖なんだって、そうやって答えられた気がするのに。
「丁寧が悪い訳じゃねえが、傭兵稼業には縁遠い話だからな。傭兵の半分は無頼の類だ。聞き慣れねえ言葉に、距離を取られてるように感じたのかもな」
「でも、ベイルさんは慣れてますよね?」
軍は特に規律と慣例を重んじるものなんだと、ニーノイエにいた頃に教わった。ベイルさんだって、前には軍人をしていたんだし。
「さてな。俺も今はしがない傭兵だ」
「……その言い方、なんか、ずるくないですか」
「そうだな」
あ、あっさり……! 柳に風っていうのは、こういうことを言うのかなあ。全然歯が立たない……。
「でも、あの、ベイルさんやヒューゴさんは、大人の人なので、ちゃんとしなくちゃって」
「そんなことを気にする性分じゃねえから、楽にしてりゃいい」
「ううん、分かり――分かった。……です」
何だそりゃあ、とベイルさんがほのかに笑う。だ、だって! 言い慣れないんだもの!
そうやってお喋りをしながら帰って、〈ヒラソール〉に到着すると、空はうっすら赤くなっていた。
お帰りなさい、とちょうど裏庭にいて迎えてくれたヒメナさんは、満面の笑顔だった。
「使いは果たした」
ベイルさんが差し出す紙袋を受け取り、中身を確かめながら、ヒメナさんが「そうみたいね」と頷く。
「ついでに観光もしてきた?」
「それが目的で出た訳じゃねえ」
「……ほんとに気が利かないわね、隊長」
「ほっとけ」
言いながら、ベイルさんはヒメナさんを置いて建物の裏口へと向かっていく。何となく、その後ろについて歩いていくと、
「夕食、後一時間くらいで準備できるわよ!」
背後から響いた声に、ベイルさんは片手を挙げるだけの反応を返した。




