花降る街・02
『いっそ、狂ってしまえれば楽だった』
エンデがぼそりと言ったのは、泣き疲れて眠った直生を抱え上げ、ベッドに寝かせ直した――まさにその時だった。ベイルは一瞬眉を上げたが、表情を変えるまでには至らず、素っ気なく答える。
「その意見を敢えて否定しはしねえが、結局そうはしなかった。……できなかったんだろう」
『ああ、そうだ。ナオは臆病で、歪で、甘く、そして何よりも優しい娘だ。見て見ぬ振りなど、できるはずもなかった』
「お前は何故、この娘に手を貸すことにした」
ベイルは直生を見下ろす姿勢のまま、問うた。
昨夜はまどろむ度に魘されて飛び起きていたが、少なくとも今の寝顔は安らかに見える。眦に残った涙を指先で払ってやれば、小さく身動ぎをしたものの、幸いにも目覚める気配はなかった。
頭の近くに投げ出されていた手を布団の中に戻そうと掴み上げれば、無意識によるものか、掌に入り込んだ指が緩く握りこまれる。ベイルは一度だけ目を瞬かせ、珍しくも苦笑じみた笑みを浮かべると、眠る娘の手から指を引き抜き、その手を布団の中に戻した。
『ナオの左手の傷は見たか』
「ああ」
『あれは、自分で刺したものだ』
「……その理由は」
『ナオは、私の統べる山に捨て置かれた。それは前にも話したろう』
ああ、と繰り返し頷き、ベイルは直生の眠るベッドに腰掛ける。わずかに沈み込む感覚を捉えたか、直生はベイルの方へ寝返りを打った。
『私が見つけた時、既にナオは独りきりだった。手足には枷が嵌められ、幾重もの呪いで縛され、地に転がされていた。それだけでも十分に惨い仕打ちだが、奴らは実に外道極まる痴れ者でな。あの時のナオに許された自由と言えば、自害のみよ。短剣を与えられてはいたが、身動きも満足に取れぬ状態での使い道など高が知れている。竜の腕を御せず、噴き出す魔力に痛めつけられ、ナオは襤褸のように傷付いていた。その苦痛と恐怖が如何ほどのものか、想像するだにおぞましい。その状況下では意識を失うこともできず、そして己に近付くものに――私に気付いた』
「つまり、暴竜はお前も標的に含めた」
『是。永く生きてきたが、あの時ほど脅威を感じたことはない』
「それで死んでねえってことは、直生が止めたか」
『ああ。ナオは私に気付くや、『逃げて』と叫んだ』
語るエンデの声は軋るよう、ひたすらな深い嘆きと悲しみに彩られていた。
『しかし、どうして暴風から逃げることができよう。それを悟ると、ナオは短剣で自ら左手を刺し貫き、直接竜の亡骸に干渉した。深く考えてのことではあるまい。衝動的な行動だったのだろうが、あろうことか竜はそれで見事御されてしまった。……その成果が、あの愚物共をどれほど狂喜させたことやらな。私の山から回収された後、ナオには様々な実験や鍛錬と称した虐待が加えられた。ありとあらゆる全てが、ナオを傷付けるだけのものでしかなかった。だが、この娘は涙を見せず、不平も口にせず、ただ耐えていた』
「今と同じに、か」
『そうだ。しかし、決して唯々諾々と従っていた訳ではない。ひたすらに殺戮を恐れ、拒絶した。半年の期間も、或いは僥倖だったやもしれぬ。あれ以上逆らい続ければ、洗脳も検討されただろう』
「もしくは、その前に潰れていたか」
『かもしれぬ。余りにも、過酷にすぎた』
苦々しげな述懐を聞きながら、おもむろにベイルは半身に振り返り、右手を伸ばした。自分の方を向いて眠る娘の頭に手を乗せ、さらりと髪を撫ぜて頬に触れる。眠っているなりに何かを感じ取っているのか、頭を差し出すように寄せてきた。
かすかに吐き出した呼気は、笑声の代わりか、或いは憐みの発露か。
「不平も不満も呑み込んで、必死になるのは常に誰かの為。それだけでも相当に歪んでるってのに、更にはそのことに無自覚ときてる。分かっちゃいたが、大層な歪みぶりだ」
『ああ……ナオは歪だ。だからこそ、ベイルよ。どうか導いてやってくれぬか。そなたの言葉なら聞くはずだ。ナオもそなたには気を許している。過去を思い、涙を見せるほどに』
「他人の世話を焼くのは、趣味じゃねえがな」
『だが――』
「分かってる。その歪みが元からだとしても、ニーノイエの馬鹿共が仕出かした問題と責任が消える訳じゃねえ。直生は幸福を得るべきだ。その為なら、多少のお節介も焼くさ」
ベイルが見下ろす先で、頭上で交わされる会話など知る由もなく、小さな娘は眠っている。
「国だの軍だのの為に使い潰されて死ぬ子供を見るのは、もう十分だ」
◇ ◇ ◇
「――あれ?」
気が付くと、真っ白い回廊に立っていた。つやつやした床は冷たくも温かくもなく、果ての見えない長い通路には、たくさんの分かれ道や扉がある。
まるで、巨大な迷路みたいだ。
「君に与えられた選択肢は二つ。私に逆らい死ぬか、私に従い生きるか。――さあ、どちらを選ぶ?」
回廊の奥の方から、声がした。
その響きに思い浮かぶのは、赤い髪と緑の目。ハーデさんの声に誘われるように、歩き出す。
「役に立たないと判断すれば、大臣たちは躊躇いなく君を処分するだろうね。生きたければ、自らの価値を示し続けることだ」
響く声が、頭の中に知らないはずの記憶を描き出していく。どこにいて、何をしていたのか――忘れていた過去が、少しずつ蘇る。
「迷うな」
声が変わった。これは……ナタンさんだ。
「迷いは躊躇いを生む。躊躇いは隙になる。思考は全て、戦いの前に終えておけ。生きたければ、戦うのなら、迷うな」
短い沈黙。今度のはエジードさん。
「お前、また殺さなかったのかよ? いい加減、腹ァ括れって。分かれよ。殺せって命令があったら、殺さなきゃならねえんだ」
……そうだ。怖くて、どうしてもできなくて、その命令にだけは逆らい続けた。
あの国を離れる、最後の日まで。
「お前、このままじゃ敵に殺されなくても、命令違反で殺されんぞ。なあ、俺はお前が死ぬとこなんか見たくねえよ」
あの夜からは想像もできないような、苦しげな声だった。勝手なことを、と怒りに近いものを感じる一方で、ひどく胸が締め付けられるような気もする。
込み上げる感情を持て余して立ち止まると、聞こえてくる声も途切れた。静まり返った回廊で、降り積もった記憶を振り返る。まだたくさんのことがあやふやだけれど、一つだけ分かったことがあった。
私が戦えるのは、ナタンさんやエジードさんに教えられたから。あの人たちがたくさんの言葉で導き、励まし、鍛えてくれたから。
……けれど、あの人たちこそが、全ての元凶でもある。それも確かな事実だった。
あの人たちが私をここに連れてきた。だから、私もエンデも、数えきれないくらい辛い目や苦しい目に遭った。それなのに、あの人たちをまだ嫌いきれないでいるのは、私が生き残れるように、その為に真剣になってくれたことも知っているからだ。
深く息を吸って、吐く。ぐちゃぐちゃの頭の中を振り切って歩き出すと、また声が聞こえてきた。
「慣れろ、とは言わない」
四人目は、知らない女の人。凛とした強い声。
「だが、認めろ。己の行為から、その責任から、決して逃げるな。戦う決意とは殺される覚悟であり、殺す命を背負う覚悟だ。それを背負えぬのなら、剣を持つ資格はない」
声を聞きながら、歩き続ける。四人目の女の人のことは、声を聞いていてもよく思い出せない。きっと、前の二人と同じように教えてくれていたのだろうとは推測できるけれど。
「君には僕らを恨み、憎む権利がある。当然だね。けれど、今は僕らに従うことだけが、君の生き延びる道だ。生きて目的を果たしたいのならば、強くなりなさい。祈るだけじゃ、どんな願いだって叶わない。僕らが君を利用するように、君も僕らを利用すればいい」
また新しい声。五人目はまた男の人で、やっぱり知らない人だった。
その言葉を聞きながら、どうして、と呟かずにはいられなかった。優しくなんかしないで、いっそ憎ませてくれれば良かったのに。そうしてくれたら、こんな風に苦しく感じることはなかった。
もしかして、それすら作戦の内だったんだろうか。
「ナオ」
ハーデさんの声が、私を呼ぶ。
故郷での呼び方や、ベイルさんが呼ぶのとは少し違う、この大陸の言葉を構成する音で。
ニーノイエの国では、ハーデさんだけが私をそう呼んだ。大臣たちは兵器の名前を覚えようなんてしなかったし、それ以外の人はハーデさんの名付けた〈アンドラステ〉の名前で呼んだ。
「これは私たちにとっての試練であり、君のとっての好機だ。君は誰も殺すことなく、これから始まる戦争に加担することなく、故郷に帰ることができるかもしれない。……まあ何だ、情は移るもので、それも良いかもしれないと思わなくもないけれどね。けれど、私たちにも叶えたい願い、譲れない目的がある。逃げる君に、私たちが与えたものは与えない。その上で、逃げ切ることができたなら――」
君の勝ちだ、と皮肉っぽい声が言う。
その声が消えると、いつの間にか目の前には大きな扉が立ち塞がっていた。滑らかに白い扉には、短い文章が刻まれている。この世界にはない故郷の文字――平仮名が、よく知った自分の字で。
ああ、と息を吐く。また一つ、思い出した。
過ごした記憶も、覚えたことも、たったひとりの友人でさえも奪われた中で、たった一つだけ許されたもの。未来の自分への伝言。
わすれるな かえるべきばしょ
たったひとつの みちしるべ
それだけは、忘れてはいけないと思ったのだ。
故郷には弟や妹がいて、私がいなくなると困る人もいる。だから、何があっても帰らなきゃって。
「生きて、帰る。――そう決めた」
扉へ手を伸ばす。重い扉は力いっぱいに押して、やっと開いた。中に広がっていたのは、扉と同じに真っ白な空間。真ん中の辺りには背中を向けたエンデがいて、その前には透明な球体が浮かんでいた。
透き通った結晶の中では、銀色の光がうねりながら瞬いている。今だからこそ分かる。この光こそが、物質としての形を失った竜の腕そのものだ。
「エンデ」
呼ぶと、あからさまに嫌そうに彼女は振り向いた。
エンデは、いつもこの部屋を見張っている。封印が壊れてしまわないように、竜の腕が漏れ出してしまわないように。
「少し、思い出したよ」
歩み寄りながら言うると、エンデは「そうか」とつっけんどんに答えた。私より何十倍も長く生きているのに、考えていることが結構顔と態度に出る。
「怖いけど、そんなに後悔はしてないよ」
答えはない。でも、意地っ張りなのは私も同じかもしれなかった。ちょっと笑って、銀の光を見上げる。
「アンドラステ――かあ」
本当は、それは私ではなく、この光の名前だ。
古い神話に出てくる、勝利の女神。ハーデさんはその名前でもって竜の腕を支配し、希望を託した。
竜は深遠な知識と高潔な理性をもって、膨大な魔力と高度な魔術を操る。それは竜という種族だから可能なことであって、人間が人間のまま同じことはできない。けれど、私はそれをしなければならなかった。
そうしなければ、生き延びることができなかったから。その為に死に物狂いで魔術を覚えたし、身体も鍛えて、戦い方だって習った。そうして過ごした日々の中で、少しずつ竜の腕は私に混じっていった。
もしかしたら、故郷にいた頃の私と今の私とでは、何かが大きく変わってしまっているのかもしれない。例えば、物の考え方とか、立ち居振る舞いとか。
でも、それでも仕方がない。そうしなければ、とっくに死んでしまっていたに違いないのだし。
「本当に、大変だったねえ」
「全くだ」
「そう言えば、どうしてエンデが助けてくれるのか、昔の私は知ってた?」
「説明したが、そなたは理解しなかった」
「……ごめんね?」
「構わぬ。そなたが健やかであれば、それでいい」
「そう言ってもらっても、私、何も返せないよ」
「否。そなたが得る幸せこそが、私の報酬となる」
「やっぱり、分からないよ」
だろうな、とエンデが初めて笑った。何それ教えてよ、とお願いしても、やっぱり返事はノー。
ため息を吐いて、エンデの隣に並んだ。身体の中で魔力を巡らせて、密度を高める。竜の腕を封じ直せるだけの知識は、何とか取り戻していた。
「エジードも何を考えているのだか。今し方そなたが取り戻してきた記憶は、あやつがあの夜に忌々しい幻と共に残していったものだ。そなたの力を削ぐ為、あやつら自身が謀ったことであろうにな」
そうだね、と答えながら、困って曖昧に笑う。どう言えばいいのか分からないけど、あの人もやっぱり優しい人ではあるんだと思う。出会い方がどうしようもなかったから、こうなっちゃったけれど。
軽く息を吐いて、床に片膝をつく。右手を床に当てて、練り上げた魔力を一気に押し流すと、床が一面青色の光に包まれた。複雑な紋様が浮かび上がって、部屋の中を一層青く照らす。
「ちゃんとできた、かな。これで少しは楽になる?」
「うむ、地竜の祝福もあるゆえな。とは言え、今後寒さが増せば、私が姿を現すには適さぬ季節となる。そのことは承知しておいてもらいたい」
「そっか、半分は蛇だもんね?」
「是。そもそも、そう頻繁似姿を現しては野暮というものよ」
「何それ、どゆこと?」
意味が分からないから訊いたのに、エンデは笑うだけで答えてくれなかった。何か、変に楽しそうだ。
……何でだろ。
「いずれ分かろうよ。さて、もう目覚めるが良い」
「目覚めるって、これ、夢なの?」
「そのようなものだ。余り長く寝付いては、さすがのあの男も落ち着かぬであろうしな。そなたの身体にも悪い」
行け、と手を振るエンデに頷き返し、
「分かった、それじゃ起きてくる。また後でね!」
「ああ、また後で」
振り向いて、扉に向かって走り出す。走り抜けた扉は私が通った後、独りでに閉まった。
ふっと意識が浮かび上がって、目を開ける。暗い。カーテン越しに、ぽつぽつと街明かりらしきものが見えた。もうすっかり夜になってしまったみたいだ。
布団を剥いで起き上がると、ぐるる、とお腹が鳴った。お、お腹減った……。
『おやおや、随分と元気なお目覚めのよう』
「だって、朝から何にも食べてないもん」
からかう口振りのエンデに答えながら、ベッドの端ににじり寄って足を出す。行儀は悪いけど、足で靴を探り当ててから、爪先を突っ込んだ。
『どうやら、ベイルは食事に出ているようだな』
靴を履き、立ち上がって身体を伸ばしていると、エンデが呟いた。そっか、と答えて足を踏み出そうとすれば、ちょうどそのタイミングで扉をノックし、鍵を開ける音が聞こえた。え、もう戻ってきちゃった?
どうしようかと迷っているうちに扉が開いて、天井の白い石に光が灯される。急な光に痛む目を細めながら歩き出すと、お盆を片手に持ったベイルさんが部屋に入ってくるのが見えた。
「起きてたのかい」
「はい。あの、ご迷惑をお掛けしました」
「迷惑だとは思ってねえから、謝罪は要らねえ」
そう言って、ベイルさんがテーブルにお盆を置く。その上には野菜と薄切りのお肉を挟んだサンドイッチにスープ、淡い黄色のお茶が載せられていた。
「食欲があるなら、食え」
「ありがとうございます、頂きます」
お礼を言ってテーブルに着くと、ベイルさんもまた向かいに座った。食べながらはよくないかな、と思わなくもなかったけれど、時間ももったいない。折角なので、さっきの夢について話してしまうことにした。
記憶を少し取り戻せたこと、龍の腕を封印し直したこと、ニーノイエでのこと――他にもいろいろ。
「なるほどな。竜騎兵団ってのは、全てハーデの統括下にあるのかい」
「最初はそうだったみたいなんですけど、〈爪〉以外の二つ……ええと、〈牙〉と〈尾〉だったかな。それが、大臣たちにとられてしまったんです」
「だからか。どうりで追手が少ねえ訳だ。で、竜騎兵団はニーノイエにいた竜の亡骸から作った魔道具を扱う部署だった、と」
「はい。〈爪〉は最初に作られた隊なので、皆魔導具にも慣れていて……私もたくさん、教わりました」
そこで半年くらい訓練を受けた。何度か死にかけもしたけれど、それでも誰も殺さなかった。
それだけは確信をもって言いきることができた。
「そうか。殺さずに済んでいたなら、それに越したことはねえ。辛かったろうに、よくやったな」
「エンデが助けてくれたお陰です」
「それもあるだろうが、最後の最後まで踏み止まったのはお前だ。おかしな謙遜はするな」
よくやった。
穏やかに褒めてくれる声に、鼻の奥がツンとした。じわりと滲みかけた何かを誤魔化すように、パンを口に押し込む。答える代わりにもぐもぐと口を動かしていると、重苦しいため息が聞こえた。
「ハーデも、馬鹿なことをしやがったな」
珍しく、その声は嘆いているようだった。口の中のパンを飲み込んでから、訊いてみる。
「竜の亡骸を使ったことが、ですか?」
「それも含め、何もかもだ。ハーデの竜騎兵団は、かつてのグナイゼナウ部隊と同じだ。力を得る為、本来忌まれる全てに目を瞑った」
分かるようで、分からない言葉だった。
そこまで詳しく知っている訳ではないけれど、この世界で神様はあんまり信じられていない。どちらかと言えば、崇拝されているのは竜の方だ。
お墓を暴いて、亡骸を利用する。それ自体がとんでもないことだけれど、しかもそれが竜のだなんて、物凄く嫌がられることであるに違いない。でも、グナイゼナウ部隊も、というのはどういうことだろう。ナタンさんの言っていたことに関係があるのかな。最も竜が憎み、竜を憎む――とか、言っていたっけ。
「まあ、その話はまた今度にするとして、今はお前の話だ」
訊いてみようかな、と思ったのと同じタイミングで言われて、内心ちょっと慌てて言葉を呑み込んだ。先にそう言われてしまったら、さすがに訊けない。
「他に、思い出したことはあるかい」
「そう言えば、私……竜の腕? を使うことを、ハーデさんは〈ナーダ計画〉と呼んでいました」
「虚無? ……ふん、詩才のねえことだな」
「どういう意味なんですか?」
「虚無を意味するアルトの古語だ。――予想はしちゃいたが、やはりお前がどこかの国の手に落ちるのだけは防がねえとならねえな。そんなことになりゃ、後に残るのはただの地獄だ」
素っ気なく聞こえるほど、さらっと紡がれた言葉。その意味を理解するのに、妙に時間が掛かった。
「……地獄、ですか」
「そうだ。あの『湖岳の血戦』ですら生温い――そうさな、一種の悪夢と言っても良い。後に残るのは、それこそ虚無のみになる」
「それを、ハーデさんが――私が? そんな」
信じられない。訳が分からない、というのが本当のところだった。でも、ベイルさんはそんな嘘なんて言わない。言う人じゃない、と思う。
だから、どれだけ信じられなくても、それはきっと本当のことで――
まさか、と呟いた声は、ひどく震えていた。
「武器も兵器も、使い道があるからこそ――使う為にこそ、作られる。そういうものだ」
ベイルさんの語り口は、不思議なほど確信に満ちていた。けれど、私はまだ何も分からない。ベイルさんがどんな理由でそう言い切るのか、本当は私に何ができてしまうのか。……本当に、何も。
「あの、ベイルさん」
「ああ」
「……私は、自分にそんなことができるなんて思えません。でも、ベイルさんは、そう思うんですよね」
もう一度尋ねると、「そうだな」と二度目の肯定。
「それは――ベイルさんが、何を知っているからですか? どういう理由で、そう思うんですか?」
喋りながら、必死に考える。ちゃんと言葉を選び取らないと、きっと真実には辿りつけない。誤魔化されるとかではなくて、ベイルさんはこの話題について、自分から答えを教えてはくれないような気がした。
ひょっとしなくても、ずっと前からベイルさんは私の兵器としての力だとか、事情だとか、そういうものに気が付いていたのかもしれない。だからこそ、ヒューゴさんやシェルさんが不思議に思うような行動を取っていたのかも。
そんなことを考えながら喋って、口を閉じる。喋っている間も、その後も、ベイルさんはじっと私を見つめていた。きれいな、あの藍色の眼で。
「お前は、馬鹿じゃねえ」
けれど、そうして返された言葉は、質問の答えにはなっていないように聞こえた。思わず首を傾げる。そう言ってもらえるのは、素直に嬉しいけど……。
「少しずつでも思い出していけば、遠からず自分で答えを見付けられるだろう」
「そうした方がいい、ってことですか?」
「本質を理解するには、な」
結局、答えは教えてもらえないみたいだった。
はふ、と息を吐く。何か恐ろしいことがあるらしいのに、その原因が分からないというのは、結構辛い。
「もっとも、お前が力を使うなら、どの道大したことにゃならねえような気もするがな。どんなに強い力を持っていようと、お前はそれを破壊や殺戮に使うとなれば、躊躇うだろう」
確かに、と心の中で思う。
戦うのは怖い。誰かを傷つけるのも、傷つけられるのも。ただ、躊躇っても、私が本当にそれを止めることができるかと言われたら、どうだか分からない。
「でも、ニーノイエで、何度も死刑囚だという人と戦いました。その……練習台、みたいな感じで」
「殺せと?」
短く問い返す声に、頷く。
「だが、お前はやらなかったし、やれなかった」
「それは、そうなんですけど……あの時は、まだハーデさんが『ここで無理にやらせて精神を壊してもつまらない』って見逃してくれていたからで、そうじゃなかったら、」
「仮定の話に意味はねえさ。お前は誰も殺さないまま逃げ延びた。その結果だけで十分だ」
私の言葉を途中で遮って、ベイルさんは言った。
ちょっとどうかと思ってしまうくらい確信的で、突き放すみたいな言い方。否定されたのは「もしも」のことであって、私自身のことじゃないのに、どうしてか反発して言い返したい気持ちになってしまう。
「でも、逃げることができなくて、自分が死ぬかどっちかって言われたら」
「繰り返すが、仮定の話はどうだっていい。他人を切り捨て、殺すことを即座に決断できると――お前は自分にそれができると、本当にそう思うのかい」
まっすぐに問い掛けられて、言葉に詰まった。そんな状況になったら、私はまず迷うに決まっている。それだけは、自信を持って言える気がした。
黙ったまま答えられないでいる私が何を考えているかなんて、ベイルさんはお見通しだったんだろう。ほら見ろ、と肩をすくめた。
「どうしたって、お前は躊躇うだろう。だったら、その躊躇ってる間に、俺がお前を殺してやる。どこにいようと、どんな状況であろうと」
それは、まるで世間話の延長みたいな、どこまでも自然な口振りだった。消しゴムを忘れたなら貸してやる、って言うくらいの、カラッとしたトーン。
それなのに、言っているのは、いつかそんなことになったら私を殺すという予告みたいなもので。
怖がったり怯えたりするのが、本当は正しい反応なのかもしれない。それでも、私の中にすとんと落ちてきたのは「よかった」という、それだけだった。
「ありがとう、ございます」
お辞儀をして、心からの気持ちで言う。顔を上げた時、ベイルさんは少し眉間に皺を寄せていたけど。
「礼を言うのもどうかと思うがな。――まあ、お前がその決断を迫られるのは、俺がしくじって、最悪死んだ後のことだ。そう考えたい話じゃねえな」
「え」
思わず、すごく間抜けな声が出てしまった。
それはつまり、この仕事に命をかけてくれるってこと、なのでは。
「何を驚いた顔してる」
ぽかんとした私を見るベイルさんの眼差しが鋭い。さっきよりも、少し眉間の皺が深くなっていた。
「ええと……その、何でもないです、はい」
「……。……まあ、追及はしねえでおくが。いずれにしろ、アイオニオンへ着けば、お前は故郷に帰れる。見えねえ脅威に怯えるより、目的の為に力を注ぐ方が建設的だ。戦い方も、少しは思い出したかい」
「あ、はい。本当に少しだけですけど」
「なら、次の鍛錬は前ほど手加減しねえでおくか」
「えっ」
頭で考えるより早く声を上げた私の顔が、どんな風だったのかは、自分のことでもよく分からない。
「まあ、病み上がりってことを考慮して、多少は優しくしてやるさ」
そう青くなるな、とまで言われてしまったので、たぶん駄目な感じだったんだろうな、と思う。
で、でも、優しく前より容赦なくって、一体どういう……?




