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花降る街・01


アンジェリカの案内で一階へ、そして食堂に向かうと、そこは既に人で溢れ返っていた。お祭り前日の夕食は〈ヒラソール〉の人たちが全員集まって、皆で食べるのが毎年の恒例行事なんだそうな。

あっちに押され、こっちに押されを繰り返して、やっとのことで少ない隅のテーブルへと逃げ込んだものの、ただでさえカサノーバ家には食べ盛りの子供が多い。避難先のテーブルでも、お皿の上の食べ物を巡って過酷な戦いが行われていた。

 もうここが戦場なんじゃないかな……? ちょっと遠い目になりながら、フォークやスプーンが飛び交うテーブルを眺めていると、

「ナオ、そんなじゃ何も食べられないわよ」

 すぐ隣で上がった声。見てみれば、カサノーバ家の長女、ジョージナさんだった。

金髪碧眼長身美人のジョージナさんは、私より三つ年上の十八歳。ただ、母親のヒメナさんは二十七歳だそうで、しかも五年前までアルトゥ・バジィで戦争をしていた人だから、きっと私と同じような境遇なのだろうと、勝手に思っている。

「あはは……ちょっとびっくりしてました」

「そうねえ、今日は特別浮かれてるから」

 ごめんなさいね、と笑いながら、私のお皿にジョージナさんが料理を取り分けてくれる。

「あら、飲み物も無いじゃない。これでいい?」

 示されたのは、近くにあった瓶だった。透明な瓶の中には、鮮やかな青色の液体が詰まっている。

「あ、はい。綺麗な色ですね」

「でしょう? この辺りでよく栽培されてる、フェネモって花から作ったお酒でね。まあ、お酒と言っても子供用なんだけど」

 くすりと笑うジョージナさんは、慣れた風でフェネモ酒をグラスに注いでいく。差し出された丸いグラスを、お礼を言って受け取った。

その時、視界の端にちらと見えるものがあった。ベイルさんだ。細くて長いグラスを持っている様子が珍しくて、ぼうっと見ていると、ベイルさんも私に気付いたようだった。口の動きだけで「食べてるかい」と訊かれる。にへらと笑って頷き返すと、

「ナオはあの人のこと、本当に好きよねえ」

 いきなりそんな言葉が聞こえてきて、危うくお皿を落とすところだった。

「な、な、なんて!?」

「だから、ナオはあの人が――」

「繰り返さなくていいです!」

「照れることないじゃない。ナオくらいの子があのくらいの人のところに嫁ぐなんて、よくあるわよ?」

「ち、違いますってば。ベイルさんは護衛の人で、お仕事中で、好きとか嫌いという話じゃ」

「でも、仕事の一言で括るには、随分親身よねえ」

 ううむ、それはそうかもしれない……。

ベイルさんは、本当にたくさん気を使ってくれる。ただの仕事だったら、わざわざ魔力の使い方を教えてくれたり、銀貨をくれたりなんてしないはず。

「それは――でも、違いますよ」

 それでも頷いてしまうことだけはできなくて、負け惜しみのように呟いた。逃げるように料理を頬張り、飲み込む。

「素直じゃないわね」

からかって笑う声なんて、聞こえない振りだ。ついでにそっぽを向こうとして――急に、くらりとした。目の前がチカチカして、足元がふらふらする。どうしたんだろ、フェネモ酒もまだ飲んでいないのに。

ギリギリでテーブルの縁を掴んだから倒れずに済んだけれど、頭の中は「行かなくちゃ」という、その一言に埋め尽くされていた。おいで、と囁く声が聞こえた……気がしたけど、本当かどうかは分からない。

「ナオ? どうしたの、気分でも」

「すみません――ちょっと、休んできます」

 ジョージナさんへ答えるのもそこそこに、人の間を縫って食堂を出る。ほとんど走るように廊下を進み、人気のない辺りで窓を開けた。

秋の夜の、少し冷たい風が吹き込んでくる。ぶるりと肩が震えた。その震えが収まるのを待って、窓枠に足を掛け、一息に身体を外へ乗り出――

「何をしてる」

 そうとしたら、後ろから襟首が掴まれて引き戻された。振り向けば、いつの間に追ってきたのか、ベイルさんがいた。

「こんな夜中に、外に用事かい」

「用事というか、行かなくちゃいけない――呼ばれているような、感じがして……え? あれ?」

 口に出して説明してみると、やっと自分のしていることのおかしさが分かってきた。何だそれ。

 自分の喋ったことに自分で首を傾げてしまう。ベイルさんは「ふむ」と小さく唸ると、右手を私の額に当てた。乾いた掌から流れ込んでくる、魔力。

「暗示やら何やら、大層な術式がいくつも向けられてやがるな。この程度の誘導で済んで、むしろ僥倖だ」

 エンディスに感謝しとけ、と言いながら、ベイルさんが手を離す。あの「行かなくちゃ」という義務感のようなものは、もう綺麗さっぱり消えていた。

「魔力の気配が違う。ナタンとは別の奴だろうが――どこに呼び出されてたか、分かるかい」

「ええと……あっちの方です」

 大体の方向を指し示す。詳しい距離とか、それ以外のことは分からなかった。そうかい、とベイルさんは私が示した方角を一瞥して頷く。

「何のつもりかは知らねえが、いい度胸だ。売られた喧嘩は買ってやる。出るぞ、ついてこい」

 言うや否や、颯爽と歩き出した。裏口の方へ。慌てて、その背中を追い駆ける。音を立てないように開けられた扉をくぐると、冷たい風にまた身体が震えた。

「直生」

 薄暗い裏庭の真ん中で、ベイルさんが手招きしている。小走りで傍に行くと、肩が掴まれて――いきなり強い風が吹き付けてきた。目も開けていられない。手でかばいながら、風が止むのを待っていると、

「え?」

 風が止んで、目を開いて。……ぽかんとした。

私が立っている場所はヒラソールの裏庭でなく、街の通りでもない。黒い空に浮かぶ月は同じだけれど、周りは遥か彼方、地平線まで続く夜の草原。

その真っ只中に、私たちはいた。

「さすがに」

 その時、知らない声が聞こえた。ぐるりと草原を見回してみれば、少し離れた闇の中に細いシルエットが佇んでいるのが見つかる。

(――知らない? 本当に?)

 焦りにも似た既視感。苦しいような怖いような。どく、と心臓が強く鼓動を刻む。

「あのヒトが言うだけあるか。強いんだって? 中佐さんよ」

細い影が、軽く言う。ああ、と自分でもよく分からないまま呟いた。知っている(・・・・・)。男の人にしては高い声も、ちょっとおちょくるみたいな言葉遣いも。

「お前も、〈爪〉とやらかい」

「そ、ウチの虎の子を取り返しに来た。全く、手間が掛かるぜ」

 遠い人影の、大袈裟に肩をすくめる仕草。

きっと、その眼は鮮やかな朱色で、風に流れる髪は墨のような黒色だろう。

「ナタンの野郎は妙に人がいいから、猶予をやろうだなんて考えてんだろうけどさ。俺はそんな、気ィ長くねーのよ」

「分かり易くて結構だ」

 そう言って、ベイルさんは一歩前に出る。

「一応、言っておく。退けば追いはしねえが、向かってくるなら殺さねえ保証はねえ」

「随分とお優しいんだな、話と違ってよ」

「そういう注文でな」

「ナールホド。相変わらず、馬鹿馬鹿しく甘っちょろいな」

 闇の向こうに立つ人が肩を揺らして笑う。そして、朱色の双眸で、私を睨み据えるのが分かった。

「変わらねえなあ。全く竜騎兵の単体最高戦力の名が泣くぜ、アンドラステ」

 囁くような声音は、どこか粘ついて聞こえた。

「何もかんも封じられたからって、そう間抜け面晒してんじゃねえよ。お前は俺たちと違って、紛いものじゃねえ、真正の竜なんだぜ。――忘れたか? あの屍の山を。焼け焦げた風のにおいを」

 ごう、と炎の燃える音がした。

ぎょっとして息を呑んだ瞬間、目の前の草原が紅蓮の荒野に塗り替えられる。焼け崩れた街。焦げ爛れた肉の山。赤黒い空。大気には腐臭とも血臭ともつかない、吐き気を伴う臭気が満ちていた。

(なに、これ)

大地は燃え盛る炎に焼かれ、罅割れていく。それがおかしくて堪らないとばかりに笑い立てる声は、どうしてだろう、よく知った音をしていた。

うそだ、と呟いた声は、音にならない。笑い声だけが、わんわんと遠く近く響き渡る。

 ――否、何が嘘であるものか。これこそが事実(しんじつ)。お前は、誰よりもそれをよく知っている。その手で、この地獄を生み出したのだから。

 誰かが告げる。違うと叫ぼうとして、声が出ない。どれだけ反論しようとしても、ただ喉が痛むだけ。認めろと嘲る声に、それでも違うと叫び返す。声にならなくても、喉が裂けそうに痛んでも。

 ――ああ、でも。

こんなにもひどい景色には、心が挫けそうになる。怖い。怖い。怖い。こんな景色の中にいることが。こんな景色が、自分のせいかもしれないことが。

何もかもが耐えきれなくなってきて、両手で目を覆った。嫌だ、お願いやめて。こんなの、嘘であって。

「ああ、嘘だ」

 静かな声が、聞こえた。

「何もかも、幻だ。全て偽り。惑わされるな」

 びょう、と音を立てて流れる風。身体が押されるほどの強さで、腐臭を押し流していく。

風が治まると、ふわりと草の匂いがした。そろりと目を開く。周りはちゃんと、あの夜の草原に戻っていた。焼けた荒野も、屍の山もない。あるのはただ、大きな背中。私を背に庇って立つ、人。

「いきなり精神汚染とは、悪趣味が過ぎるな」

「それが仕事なんでね」

 そうかい、と答え、ベイルさんが足を踏み出す。

「一つ、忠告だ。死にたくなけりゃ、戦うことだけを考えてろ」

「何だよ、アンドラステに手ェ出したら殺すって?」

「ハーデは、俺を――気を散らしながら戦って、生き残れる相手だと言ったかい」

 その声が聞こえた時にはもう、ベイルさんの姿は消えていた。何だと、と驚愕の声。

月明かりの下に血飛沫が散る。黒髪を振り乱して逃げる人を、ベイルさんが無言で追ってゆく。その手には、いつの間にか一振りの剣が握られていた。

「てめえ……!」

 怒鳴りながら、あの人が右腕を翳す。掌に刻まれた紋章が怪しい光を放ち、月の光すら呑み込む闇が染み出した。覚えのない知識が脳裏に閃く。

 ――魔術式起動。属性闇、精神汚染。

 あの手から漂う闇は、精神を侵す毒そのものだ。それが凄まじい勢いでベイルさんに向かっていく。

対するベイルさんは口を閉ざしたまま、ただ右手を振った。指先に淡い光が灯り、

 ――魔術式簡略起動、高速展開。属性光……

 全てを読み取る間もなく、ものすごい音と爆発が起きた。闇と光。対立する属性が衝突した結果。

「んっとに、化け物かよてめえ!」

「口だけは達者だな。これで終わりか、呆気ねえ」

 怒鳴りながら逃れようとする相手を、吹き荒ぶ風を物ともせずにベイルさんは追い詰めた。

振りかぶられた白刃が月に光る。その真下で、あの人は素手のまま。逃げることもできない。きっと、ベイルさんがそれを許さない。

そうして、ついに剣が振り下ろされる。

その光景を、私は目を閉じることも、逸らすこともできずに、呆然として見ていた。

「勝手をするな、エジード」

 けれど、上がったのは悲鳴ではなく。聞こえたのは覚えのある男の人の声、響き渡ったのは金属音。

そう、ベイルさんの剣を受け止める剣があったのだ。その担い手は、昼間会ったばかりの――

「げ。出てきやがったかよ、ナタン」

「当たり前だろう。一番手は俺だと決めたはず。約定は守ってもらうぞ」

「あー、はいはい。分かったよ。悪かったよ」

 拗ねた声を返され、ナタンさんがため息を吐く。

「で? お前がそいつの代わりに戦うつもりかい、ナタン・ラパラ」

 ベイルさんの声は、どこまでも冷ややかだった。ナタンさんは首を横に振る。

「否、刻限に変更はない」

「ここまで勝手をしておきながら、尻尾を巻いて逃げると?」

「有体に言えば、そうなる」

「俺がそうさせると思ったなら、考えが浅い」

 ベイルさんの手の中で剣が崩れたかと思うと、瞬く間に何本もの矢へと変わる。至近距離から放たれた攻撃を、ナタンさんは避けきることができなかった。

 表情を歪めて距離を取ろうとする、その人の肩や腕には、深々と矢が突き刺さっている。

「お前らの都合に乗ってやる義理なんざ、ありゃしねえ。今ここで、諸共に始末する。それが一番手っ取り早い話だろうが」

「正論だが、我々も倒れる訳にはゆかない。――エジード!」

「はい、はいよっと」

 軽やかに答え、エジードさんが魔力を迸らせる。

その人の、その気配は、ついさっき目の前に見た、あの焼けた荒野を思い出させた。蘇る恐怖に身体が硬直する。ガチガチと歯が鳴っているのに、震える喉は今にも叫びだしたがっている。怖くて怖くて、もう頭がどうにかなってしまったのかもしれない。

はは、と笑う。笑ったつもりだっただけで、泣いているみたいな声だったけれど。ああ、もう、分からない。どうしたらよかったんだろう。どうすればいいんだろう。もう嫌だって、言えたらよかった?

「……どうして」

 こんなことになってしまったんだろう。

呟こうとした時、強い力で腕が掴まれた。引かれる身体が、両腕で抱き込まれる。覆い被さるように。

放たれた魔力が吹き荒れているのが聞こえる。抱えられた今の私には、それも届かないけれど。

「奴ら、街の中に逃げたな。仕方ねえ、今日はこれで終いだ」

 怖い魔力の気配が流れ去ると、ため息混じりの呟きが降ってきた。顔を上げる間もなく、来た時と同じような風に包まれる。帰るのかな。帰れるのかな。

そう思うと、ほんの少しだけ、ほっとした気持ちが沸き起こる。なのに、水を差すみたいに、どこからか囁く声が聞こえてきた。

『――あれが、本当に幻だと思うのかよ?』

 それは、何よりも聞きたくない言葉だった。



 醸成の祭りは、ちょうど午前十時に領主さんのありがたいお言葉から始まった――らしい。らしい、としか言えないのは、自分で実際に見てはいないから。

昨日の夜からずっと部屋に閉じこもっている私にそれを教えてくれたのは、お見舞いだと言って部屋を訪ねてきてくれたジョージナさんだった。大通りにはたくさんのお店が並んで、吟遊詩人や曲芸師があちこちで芸を披露しているのだという。ここまで届いてくる楽の音も、きっとそんな人たちの演じるものの一つなのだろう。明るくて、賑やかで、本当なら聞いているだけで幸せな気分になれそうな音楽。

「それにしても、ひどい顔色ね。朝もお昼も、何も食べてないって母さんが言ってたけど、本当なの?」

 眉間に皺を寄せて、ベッドの傍に立つジョージナさんが言う。私は布団に埋もれたまま、曖昧に笑った。

「すみません……」

「謝ることじゃないわよ。具合が悪いなら、それは仕方のないことでしょう? 少しくらい、何か食べた方がいいとは思うけどね」

 どう、と尋ねる声に、もぞもぞと首を横に振る。何かを食べると思うだけで、ひどい吐き気がした。

「ううん……それじゃあ、せめて水くらいは飲んでおくのよ。あ、甘いものはどう? 果実水とか」

「……気持ち悪くなりそうです」

「重症ね……。とりあえず水を持ってくるから、それだけでも飲むのよ。薬はいる?」

 いらない、と答える代わりにまた首を横に振る。ジョージナさんは腰を屈めて、私の額に手を当てた。

「熱はないのよね。でも、何かあったら、あの人にはちゃんと言うのよ。今は保護者なんだから」

 はい、と頷くと、ジョージナさんは「それじゃ、また来るわ」と残して、部屋を出て行った。

しんとした部屋の中で、寝返りを打って壁を見つめる。ぼうっとしていると嫌なことまで思い出しそうになってしまうから、ぎゅっと目をつむって考えないように。そうやって布団の中で丸まっていると、今度は聞き慣れた足音が入ってくるのが聞こえた。

「まだ調子は戻らねえかい」

 外に出ていたベイルさんが、戻ってきたみたい。

「……すみません」

「謝ることじゃねえがな。起きられるなら起きろ、ジョージナからの差し入れだ」

 足音がベッドの近くで止まる。もう一度寝返りを打つと、二つ並んだベッドの間に置かれた、小さいテーブルが目に入った。その上に蓋の開いていない瓶と、グラスが一つずつ置かれている。

 布団の中でもぞもぞして、重い身体を動かして起き上がる。その間にベイルさんは瓶を開けて、中身をグラスに注いでくれた。透明な液体。水。

ほら、と差し出されたグラスを受け取る。心配だった吐き気はしなかった。少しずつ含んで、一口ずつ飲み込んでいく。

「――それで」

 グラスが空になると、ベイルさんはそう言いながら隣のベッドに座った。並んだ二つのベッドの間の距離と同じだけの、ほんのちょっとの遠さだけを挟んで、膝を合わせるように向かい合う。

「エジードとやらの見せた幻が、まだ尾を引いてるのかい」

 いつもと変わらない、淡々とした声。

それに頷けばいいのか、首を横に振ればいいかも分からなかった。だって、あれが「幻」なのかどうか、それ自体に答えが出ないんだから。

「直生、何か喋れ。どんなことでもいい、伝えようとしろ。力ずくで探らせるな」

 力ずくで探る。ベイルさんはいろんなことができるみたいだけど、そういうことまでできるのか。

 だったら、いっそ――

「それなら、その方が」

「直生」

 言いかけた瞬間、ぴしゃりと名前が呼ばれて遮られた。怒ってはいないのかもしれないけれど、随分と厳しげな声だった。

「自棄になって、思考放棄するのは止めろ。蔑ろに(そう)されることを受け入れるな。慣れるな」

 時間はどれだけ掛かってもいい。上手く喋ることができなくてもいい。全部ちゃんと聞くから、自分の言葉で話せ。

 声の響きは変わらない。いつもと同じどころか、厳しげなまま。それでも命令の形をした言葉が、その逆のことを言っていることは分かった。

 私のことを考えて、気にして、言ってくれている。それはとても嬉しいことで、だから、私もちゃんとしなくちゃいけないと思った。

 水を飲んで、少し濡れた唇を舐める。少しだけ、声を出すのに緊張した。

「……あの『幻』が本当に幻なのか、分からなくて」

「分からない? 奴に何を言われた」

 ベイルさんが眉間に皺を寄せる。

グラスを持つ手がカタカタと震え始めたのは、その表情の変化のせいではなく、思い出したくないことを思い出さなければいけないからだ。ベイルさんの手が伸びてきて、私の手からグラスを抜き取る。

 グラスはテーブルに置かれて、代わりに私は空になった掌を握り締めた。強く、強く。その感覚だけが、何が現実なのか教えてくれる気がして。

「『本当に幻だと思うのか』って。あの人たちは、ニーノイエにいた頃の――私が今、忘れている私を、知ってます。エンデだって、その頃のことは思い出さない方がいいって、思い出したら気が狂うかもしれないって言ってて――だったら、本当に私は、忘れてるだけで、ああいうことを」

「何を見た?」

早口になって、そのままの勢いで叫び出しそうになるのを、差し込まれた問い掛けが押し留めた。開いたままの唇を閉じて、言葉を吐かずに息を吸う。少しは落ち着けた……と思う。たぶん。

あの時、何を見たのか。その説明は難しくない。ただ、口に出すのが怖いだけで。

「見渡す限り、一面の荒野、で。焼けていて、崩れた街があって……焦げた、しっ、死体が、たくさん、ありました。積み重なって、ほんとに、たくさん。それから、空気が悪くて――とにかく、怖くって、どうしようもなくて、でも、それなのに、わ、私、は」

 どんどん息が速くなって、言葉がつっかえつっかえになる。上手く喋れない。ひく、と喉が鳴った。

「わ、笑いながら、その中を歩いてて」

 世界を破壊し続けていた、とまでは言えなかった。

息を吸おうとしたのに、喉の奥が震えていて、よく息ができない。それどころか咳が出て、思わず顔を下に向けたら、膝に置いた手の上で水滴が弾けた。

 ぱちん、ぱちんと透明な水が手の上に落ちては、あっちこっちに飛び散って滴っていく。

「……そうか」

 ぽつりとした呟きに重なって、ベッドのきしむ音がした。それが妙に不吉に思えて、肩が震える。

「悪かった」

 俯いた頭に、何かが触った。

「酷なことを喋らせた」

 俯けた視界に、靴の先が映る。顔を上げようとするのと、ベイルさんが私の前で片膝をついたのは同時だった。真正面から目が合う。

 今までにないくらいに近い距離で見つめ合っていても、私は何も言えなかったし、ベイルさんも何も言わなかった。ただ頭の上に置かれていた手が後ろに回って、身体ごと引き寄せられる。目元が肩に押しつけられると、じわりと涙が染みていく感触がした。

慌てて顔を離そうとしたけれど、

「いい」

 頭を押さえられて、身動きができなかった。

「泣きたきゃ泣け。無理に堪えるな」

 すぐ近くで囁かれた声はいつもと変わらないようで、ひどく優しく聞こえた。頭の後ろに回った手があたたかくて、あたたかすぎて、余計に涙が出てくる。泣くのを止めて離れなければいけないと思うのに、どうしても止められない。

握り締めた拳に大きな掌が重ねられて、指の間に指が入ってくる。固まっていた指がゆっくり解かれて、掌と掌がくっつく。何も考えずに握ってみたら、優しく握り返してくれた。

そのお陰でまたもっと泣けてきて、頭を押さえていた手で背中を撫でられると、もう駄目だった。大きな肩に縋って、抱きついて、私は声を上げて泣いた。


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