鏑矢は放たれた・08
顔を上げると、辺りはすっかり暗くなっていた。
新聞を読むのに、大分熱中してしまっていたみたいだ。席を立ってカーテンを閉め、明かりをつける。照明は天井に埋め込まれた白い石で、魔力を光に変える性質のある魔石なのだと、エンデが教えてくれた。
『遅いな』
焦れた呟きに、「そうだね」と相槌を打つ。ベイルさんはまだ戻ってきていない。
『あの男、用事などと言いつつ、遊び呆けているのではあるまいな』
分かりやすく苛々した様子の声に、私は答えなかった。答えられなかった、というべきかもしれない。
ベイルさんが嘘を吐いて出掛けるような人だとは思えないけれど、今は状況が状況だ。気晴らしでもしなければ、やっていられないんじゃないかと思う。だって、かつての部下だった人と敵対しなければならないのだし。……それに、昼間のこともある。
「ベイルさんも、あんな風に怒るんだねえ」
『何だ、いきなり』
何でもないよ、と適当に答えて新聞を畳む。
そりゃあベイルさんだって人間なんだから、普通に怒ったりもするに決まっている。でも、あんな風に厳しい声で、言葉で攻撃するみたいな怒り方をするだなんて、想像もしていなかった。
ベイルさんは一体何に対して、あそこまで怒っていたのか。その理由が気にならないと言えば嘘になるけれど、あんまり気にしてもいけないかな、とも思う。きっと、すごく個人的な話だろうし。軽々しく口を突っ込んで、失礼になってしまってもいけない。
――カッカッ
ぐるぐると考え込んでいたところに硬い音が飛び込んできて、びくりと肩が跳ねた。椅子ごと飛び上がりそうになる。少し遅れてから、ノック――誰かが訪ねてきたのだと気付いた。慌てて扉へ向かう。
「どなたですか?」
「俺だ、ベイル」
扉越しの、聞き慣れた声。ほっと息を吐いて、扉の鍵を開けた。
「お帰りなさい!」
「ただいま。長く留守にして、悪かったな」
「大丈夫です。用事の方は、どうでした?」
「まあ、どうにか済んだ。商会へ状況報告のつもりだったが、翠珠の王家が騒ぎを嗅ぎつけたせいで、面倒なことになってな」
「新聞に載っていた、粋蓮の封鎖のことですか?」
「ああ、読んだかい。そいつは話が早くて助かる」
言いながら、ベイルさんは部屋の中央――テーブルへと足を向けた。椅子に座り、私にも向かいに座るよう示す。席に着くと、ベイルさんは深々とため息を吐いて語り始めた。
「翠珠の王家は、早耳と交渉上手で有名でな。その地盤を作ってるのが、国内外へ派遣されてる直属の隠密部隊だ。つまり、大量の諜報員」
「……もしかして、粋蓮にも」
「もちろん、いるさ。だからこそ、王家の動きはこれほどまでに早かった。俺たちがセトリアに入ると同時に、王家の使い――佳怜第四王子が砦に入って、粋蓮を封鎖させたそうだ」
「じゃあ、すぐに出発して正解だったんですね」
「ああ。しかし、既に佳怜は事態の大筋を掴んでる。佳怜との交渉を担当してるのはハイレインだが、そこに会長が同席しねえ訳にはいかねえし、王子に問われれば、会長も話さねえ訳にはいかねえ。この分じゃ、シェルも当分身動きが取れねえだろう。ヒューゴは潜んでる場所が場所だが……どうだかな」
そこまで言って、ベイルさんは一旦口を閉ざした。短い沈黙を挟んだ後、真っ向から私を見つめる。
「この話には、まだ続きがある。お前には酷な話になるが」
それでも聞くか、と問い掛ける声は低い。
ぞわりと背筋に冷たいものが伝った気がした。緊張しているのか、怯えているのか。自分の気持ちすらよく分からない。ただ、心臓がぎゅっと握り込まれたみたいに縮み上がっている。
どうしたらいいのか、どうするべきなのか。誰にも訊けない。自分で決めるしかない。
もし、ここで「聞きたくない」と言ったら? たぶん、それでもベイルさんは怒ったりしない。いつもみたいに「そうかい」と言って、話を終わりにしてくれる。根拠がある訳じゃないけど、そんな気がした。
そうしたら、きっとそれきり何も言わないで、黙ってナタンさんと戦って、アイオニオンへ連れて行ってくれる。それが仕事だから。けれど、ベイルさんを巻き込んだのは私だった。
この状況の原因と言えばいいのか、発端と言えばいいのかは分からないけど、それはとにかくは私だ。その私が目を逸らして、耳を塞いでいいはずはない。
膝の上で、ぎゅっと拳を握り締める。心を決めてベイルさんの目を見返すと、藍色の眼がゆっくりと一度瞬きをするのが見えた。
「聞かせて、ください」
最初はちょっと震えそうだったけれど、できるだけしっかりした声になるよう気をつけて答える。ベイルさんは「分かった」と頷いて、話を再開した。
「今後のことだが、確実に翠珠からも追手が出る。翠珠はニーノイエへの侵攻するにあたって、ハイレインの力を借りたがってるらしい。ニーノイエに恨みがあるのは同じだろうと、佳怜は言ったそうだ」
侵攻。その一言に、喉が詰まりそうになる。
「侵攻って……せ、戦争、に、なるんですか」
「なってもおかしくねえ、ってのが現状だな。一触即発の状態で、紙一重回避してるようなもんだ。……だが、ハイレインにあるのはハーデへの敵意であって、ニーノイエの国そのものに向けたものじゃねえ。翠珠に手を貸す理由自体もねえしな。奴は佳怜の申し出を断ったそうだ」
「お、王子は、それで諦めてくれたんですか?」
「諦めてくれりゃあ、話は楽だったんだがな。佳怜はハイレインの拒否を拒否した。交渉の継続という名目で議論は平行線のまま、終わりが見えてねえそうだ。こうなればと、ハイレインが敢えて長引かせて佳怜の注意を自分に向けている節もあるんだと」
「ハイレインさんも、大変なんですね」
「元はと言えば、奴が亡骸を守りきれなかったのが発端だ。大変でもやらねえ訳にはいかねえだろうよ」
そうは言っても、ハーデさんが〈爪〉の人たちまで連れて攻め込んできたら、ハイレインさんでも相手をするのは厳しいと思う。奪われたのが腕だけで済んだのは、むしろ良い方なんじゃないかな……とか考えてしまうのは、私が竜やハイレインさんのことをそんなに知らなくて、単にニーノイエの竜騎兵団の方が、まだ分かる気がするからかもしれない。
「あの、ハイレインさんが王子の相手をしていてくれても、追手っていうのは出てくるんですか?」
「だからこそ、だな。あの混沌とした状況の蓮粋に送り込まれるくらいだ、佳怜って奴は『翠珠の王族』の中でも出来のいい類なんだろう。おそらくは、向こうもハイレインの思惑は読んでる。それで何食わぬ顔をして、自分も同じことをやろうとしてやがるのさ」
「同じこと?」
「ハイレインは自分が翠珠の注意を引いてる間に俺たちを呼び寄せようとしてるように、佳怜も自分がハイレインの動きを制限してる間に自分の手駒に俺たちを追わせようする。……まあ、まだ『追わせようとしてる』って段階だろうが」
「どっちも牽制し合ってる、みたいな感じですか」
「その通り。会長はニーノイエの目的を『竜の亡骸を封じた器』と説明した。佳怜はそれを信じて、お前を魔道具か何かだと思ってるそうだ。佳怜はお前を確保することで、ハイレインとの交渉で優位に立とうとしてる。粋蓮を封鎖したのも、全て俺たちへの助勢を阻む為だ。今の粋蓮で外部と連絡を取るには、王家直属の兵の目を盗まねえとならねえ」
「だから、時間が掛かったんですね」
「ああ。たった数通の手紙の為に、今の今までな」
さすがにうんざりした、と眉間に皺を寄せてのため息。お疲れ様でした、と言ってから、一番気になっていることを問い掛けてみる。
「……戦争は、始まってしまうでしょうか」
「俺たちが翠珠の追手や、ニーノイエの連中に捕まることなくアイオニオンへ辿り着くことができれば、防がれるだろうとは思う。ニーノイエに対してハイレインが直接動き出せば、翠珠もおいそれと手は出せなくなるはずだ」
逆に言えば、私たちがアイオニオンへ辿り着けなければ、戦争は始まってしまう――かもしれない。途方もないプレッシャーに、気が遠くなりそうだった。
ううう、と思わず呻けば、ベイルさんに「大丈夫かい」と問い掛けられる。大丈夫……かは分からないけれど、物凄く怖いということだけは分かっていた。
でも、それをそのまま答えることはできない。だって、そんなこと言っても仕方がないし。また迷惑を掛けてしまうだけだし。
「た、たぶん、何とか……」
口ごもりながら、話を変えた方がいいかな、なんて考える。このままじゃボロが出るというか、変なことまで言っちゃいそう。
「ええと、そういえば、ハイレインさんはどうしてまだ蓮粋に留まっていたんですか? もうアイオニオンに戻ったのかと思ってました」
それは少しどころじゃなくて、だいぶ無理矢理な話の変え方だったと思う。自分でも思うんだから、ベイルさんにはもっと変に聞こえていたかもしれない。
そのせいなのか、じっと私を見据えていたベイルさんが一瞬だけ眉を寄せた。反応はそれだけで、他に何か言われることもなかったのだけど。
「ハイレインはハイレインで、商会と約定がある」
「約定? 約束ってことですか?」
「そんなようなもんだ。事件が明るみになれば、翠珠が接触してくるのは目に見えてたからな。竜なら王家とも対等以上に渡り合える。身内を拉致でもされちゃ敵わねえと、会長がハイレインに頼んだそうだ」
「ら、拉致……!?」
ひえ、と情けない悲鳴が口から飛び出す。対するベイルさんは、あっさりと「それくらいのことはやってのけるだろうよ」だなんて頷いていた。
「竜の力を得られる魔道具が手に入るとなれば、誰も彼もが血眼になる。竜ってのは、本来人間には御すことのできねえものだからな。格下とは言えニーノイエという脅威が現実に隣接している以上、翠珠も例外じゃねえさ。そうでなくとも、力があれば欲しがるのが人や国の性だ」
ベイルさんは淡々と、教科書でも読み上げるみたいに言う。でも、私は何かもう、怖すぎて言葉もなかった。うわあ、としか言えない。こわ……。
「もしかして、遺跡であの子たちに言っていたのも、そういう……」
「ああ。情報ってのは、兎角どこから漏れるか分かったもんじゃねえ。あのまま遺跡に留まれば、手っ取り早い情報源として目をつけられる可能性も、なくはなかったからな」
そうして攫われていった結果、何が起こるかという推測は、もうあの時に聞いているから知っている。
ひたすらに怖い。ぶるりと身体を震わせると、
「聞かないでいた方が、良かったかい」
おもむろに聞こえてきた声に、ハッとした。
一瞬瞑りかけた目でベイルさんを見返せば、またあの藍色が目に飛び込んでくる。静かな――そう、それは静かとしか言えない眼差しだった。変に気を遣ったりする風でもなく、答えを急かす風でもなく。
ただ一言問い掛けて、じっと待っている。
少し考えてから、私は首を横に振った。戦争が始まってしまうかもしれないこと、翠珠からも追手が出るかもしれないことを考えると、本当に怖いけれど。
「それでも自分に関わることなら、やっぱり知っていなきゃいけないんだと思います。何も知らないままでいられるとして、その方が楽なのかもしれませんけど……でも、それって後で自分が困るだけですよね。自分でどうにかしないと、どうにもならないのに。怖いからって先延ばしにしていたって、どうしようもないと思うんです」
考えながら喋っていたら、随分と長くなってしまった。それに、振り返ってみれば、何もできない子供のくせに偉そうなことを言ってしまった気もする。
生意気だって、怒られたりしないかな。そう思うと自然に視線は下がっていってしまうし、心の中ではかなりひやひやしていたのだけど、
「まあ、そうだな。その認識は正しい」
返ってきた言葉は、予想と違って穏やかで、しかも肯定的だった。驚いて、俯きかけていた顔を上げる。
「が、正しいと分かっていても実行できる奴は、存外多くはねえ。良い根性だ」
改めて顔を向かい合わせると、ベイルさんはほんのりとした笑みを浮かべて、そう言った。唇の端を持ち上げるだけの、本当にささやかな微笑み。
それだけのことなのに、どうしてか、ぎくりと心臓が震えた。痛いくらいに、びっくりするくらいに。自分でも自分の反応の訳が分からない。
「ああ、ただし、一つ言っておくことがある」
言っておくこと? 頭の中が何だかギクシャクしていて、首を傾げることしかできない。
「今回の――竜の亡骸を巡る件については、お前がどうにかしようと考える必要はねえ。そうさせずに済むように、俺がいる。前にも言ったがな。そもそも、こいつは子供が一人でどうにかできるような規模の話でもねえからな。そこのところは、ちゃんと覚えとけ」
分かったかい、と念を押すように言われて、勢いで頷いてしまう。頷いてから、「えっ」てなったけど。自分のことを誰かが代わりにやってくれるっていうことに、私はどうしても馴染みがないから。
……でも、とまだちゃんと動かない頭で考える。ベイルさんがそうしてくれるのは、そういう依頼を受けていて、お仕事だから。だから、私がこんな風に変に反応するのは、なんて言えばいいのかな、「違う」んだと思う。私が気にしなくちゃいけないのは、お仕事の邪魔をしないこと。迷惑を掛けないこと。
とにかく、変な反応をしていないで、落ち着かないと。落ち着け私――なんて自分に言い聞かせようとするくらいには、私も動揺していたので。
「あの、一つ質問してもいいですか?」
気がついたら、そんなことを口走っていた。言ってから、困る。質問なんて何も考えていないのに。
けれども、ベイルさんは目を細めて頷き、無言で先を促してくれてしまう。――うわーん、もう破れかぶれだ! 思いついたこと言っちゃえ!
「えっと、今までの話とは関係なくて……その、失礼かもしれないんですけど」
「構いやしねえさ」
「ナタンさんと会った時のことで、」
「ご飯だよー!」
意を決して言葉にしようとした質問が、絶妙なタイミングで阻まれる。扉の外――廊下から、陽気な声が叫んでいた。
「ごー飯ー!」
声の主はカサノーバ家の四女、アンジェリカだ。
扉の向こうで、元気いっぱいに叫んでいるアンジェリカの姿が目に浮かぶ。こんな風に叫ばれてしまったら、待たせたまま話の続きなんてできそうにない。
やれやれ、とベイルさんが肩をすくめた。
「どうやら、先に飯だな」




