鏑矢は放たれた・07
傷を負ったのなら、すぐに治さなければならない。次の戦闘で隙を作ってしまうし、また次の怪我に繋がってしまうかもしれないから。そうやって叩き込まれてきたお陰で、眠った身体が治癒の術式を組み上げていくのを感じても、不思議には思わなかった。
ただ、疲れた身体は休みたがっていて、思ったほど早くは回復していかない。
(鈍ったかな)
自然とそう考えたことに、自分で驚く。そして、目が覚めた。
「あれ」
目に映るのは、今朝見たばかりの天井。
前にもこんなことがあったような――と言うか、もしや、これは三度目なのではないでしょーか……。気がついたらベッドにいたとか、寝てたとか。
「身体の調子はどうだ」
何とも言えない気分で天井を眺めていたところに声が掛かって、飛び起きる。声のした方を見ると、またテーブルで新聞を読んでいたらしいベイルさんが、振り返って私を見ていた。
「だ、大丈夫です、治したので――それより」
「どうして寝ているのか?」
「……それです」
布団を畳んでベッドから降り、靴を履きながら頷く。
「どうもお前の様子がおかしいんで、強制的に眠らせた。あの時のことは、覚えてるかい」
ベイルさんの言っていることは分かるし、うっすらと覚えてもいる。けれど、はっきり思い出そうとすると、嫌な風に頭が痛んだ。
こめかみを押さえる。チクチクと、針で何度も刺されているようだった。眉間に皺が寄る。
「どうした?」
「すみません、少し、頭が痛くて」
「頭が? ……この話は止めておいた方がいいな」
「でも」
「無理をさせるのは、本意じゃねえ」
ベイルさんが席を立つ。もう一つのベッドを迂回して歩み寄ってくると、いつも通りの静かな眼差しで私を見下ろした。
「少し散策にでも出てみるかい。気晴らしにでも」
「で、でも、さっきの続きは」
「根を詰めても仕方がねえさ」
構わない、とベイルさんは頷いてくれる。
散策ってことは、観光できることだよね。そう思うと、にへりと頬が緩んでいくのが分かった。
「ありがとうございます」
「ああ。そうと決まったら、行くか。ちょうどいい時間だ」
ベイルさんが時計を指差す。十一時半。もうすっかりお昼の時間だ!?
「ひえ、すみま――」
「眠らせたのは俺だ」
そう言って、私の目の前に佇むベイルさんは腰を屈め、手を伸ばしてきた。指が髪に触れて、何度か同じ場所を梳かす。え、と驚いて硬直している間にも、
「これでいいか」
髪を梳かしていた手が離れる。私はもちろん、まだ何が何だか分からないままだ。首を捻ってみれば、ベイルさんはさらりと言い放つ。
「寝癖」
ひぎゃあ、と裏返った声が喉から飛び出した。
「そんなに気にしなくてもいいだろうに」
「わ、私だってですね、一応は、こう、ちゃんと女子なので! 気になるんですよう……」
さすがに寝癖問題はショックだったものの、いざ街に出てみると、そんなことはすぐに頭の中から飛んでいってしまった。あっちもこっちも、お祭りの準備に動き回る人で物凄く賑やかだ。
「凄い人ですね」
「この様子じゃ、明日は更に騒がしくなるだろうな」
「粋蓮にも、こういうお祭りはあったんですか?」
「環理の月に夏祭りがあった。昔一度、ヒューゴに引っ張って連れてかれたきり、出たことはねえが」
「お祭りとか、あんまり好きじゃないですか?」
「行く用事が思い当たらねえだけだ。別段、嫌いって訳でもねえ」
その言葉が、きっと気を使って言ってくれたものなのだろうと分からないほど、私も鈍感ではないつもりだった。嫌いじゃないとしても、好きで行く訳でもないのだから、とりあえず、あんまり浮かれて迷惑を掛けないようにしよう……。
そんなことを考えていると、不意にうなじがピリリと痺れた。よく分からないけれど、誰かに見られていると感じる。そんな気がする。
「直生?」
足を止めて、周りを見回す。……いた。前の方、通りの真っ只中に、その人は立っていた。
ベイルさんと同じくらいの歳に見える、男の人。きちんと整えられた髪は金色で、鳶色の眼はどこか悲しげに感じられた。背が高く、見るからに屈強な身体つきをしているからだろうか。いかにも旅人といった風の服装に、かっちりとした軍服を着た姿が、一瞬重なって見えた。
「……あなたを、知ってる」
ふと、そんな言葉が零れ落ちた。
懐かしいようで怖いような、おかしな気持ち。じっと見つめていると、その人は困ったように笑った。溢れ返る人を避けて、歩み寄ってくる。
「久しいな、アンドラステ」
掛けられたのは、意外に穏やかな声音だった。
お久しぶりです、と勢い答えかけて、失敗する。急に掴まれた腕を強く引かれて、言おうとした言葉はどこかに消えてしまった。
いきなりのことにぽかんとして、私は目の前に現れた背中をただ見つめていることしかできなかった。まるで目隠しをするように、入れ替わりに対峙するかのように、ベイルさんは私の前に立っていた。
「止まれ。それ以上近付けば殺す。――何者だ」
「ナタン・ラパラ。ニーノイエ国軍竜騎兵団は〈爪〉の一。ベルムデス様の配下と言えばいいか」
「へえ、遂にお出ましって訳か。それで? 今、ここでやる気かい」
「いや。この地の竜までも刺激するな、と厳命されている。街中で行動に出はしない。ゆえに、場所を変えての勝負を申し込みたい」
「いいだろう。いつ、どこがご希望だ」
「祭りの三日目の夜、東七〇〇の地点にて」
「妙に間を空けるな。仲間でも呼ぼうって腹かい」
「そのようなつもりはない。ただ……その間、アンドラステを楽しませてやってくれないか」
その言葉が聞こえた途端、ベイルさんの背中に滲む空気が変わった。ぞっとするほどの――これは怒り?
「情けをかけてやったつもりか? 笑わせるな」
嘲る声で、ベイルさんが吐き捨てる。掴まれたままの腕が痛い。何をそんなに怒っているんだろう。
「巻き込んだのは、貴様らだ。巻き込まれるはずがなく、巻き込まれるべきですらないものを、手間暇掛けて引きずり込んで虐げ続けた。その元凶共が、どの面を下げて偽善を騙る」
「言い訳はしない」
「聞くつもりもない」
ベイルさんは鋭く切り捨てる。短い沈黙の後、ナタンさんはため息のような声で言った。
「何故あなたが竜に肩入れをする? ベルムデス様は竜を憎悪しておられる。そもそも、あなたを含めた同胞全てが、竜を好むはずがない。特にあなたは最も竜が憎み、竜を憎むものの――」
「黙れ。今ここで首を刎ねられたいか」
ナタンさんの言葉を遮って、低く鋭い声が響く。まるで冷え切った鋼のよう。その声を向けられている訳でもないのに、ひくりと喉が鳴る。……怖い。
「失礼、余計なことを口にした。――それでは三日後の夜、東門の外で。それまで、アンドラステをよろしく頼む」
そう告げる声がしたかと思うと、一筋の風が吹き抜けた。急な風に驚く声があちこちで上がる。恐る恐るベイルさんの横から顔を出してみれば、ナタンさんの姿は跡形もなく消えていた。
「……馬鹿が」
舌打ち混じりに呟くと、ベイルさんは私の腕を離した。もう声に刺々しさはない。振り向いた顔にも、さっきのことが夢だったかのように、怒っているような気配は少しも残っていなかった。
「悪かったな。……痛かったろう」
掴まれていた腕のことを言われているのだと、少し遅れて気付く。慌てて首を横に振ると、ベイルさんは眉間に皺を寄せて「そうかい」と呟いた。そうしてまた私の後ろに立つと、背中を軽く押す。
「道草を食ったな。行くぞ」
訊きたいことはあるのに、どう訊けばいいのか、そもそも訊いてもいいのか分からない。
はい、とだけ答えて、足を動かした。
通りのあちこちに並んでいる屋台でお昼ご飯にした後、ベイルさんは「少し用事がある」とのことで、商店街へ向かうことになった。
「お買い物ですか?」
「まあな。だが、その前にこれを換金する」
ベイルさんがポケットから取り出したのは、見覚えのある赤い石。あ、と思い出す。粋蓮で遺跡に向かう途中、魔力を込める練習に使った石だった。
「質のいい魔力を秘めた魔石は、高く買い取られるからな」
「ええ……値段、つけてもらえますかね……」
こんなのじゃ駄目だね、なんて門前払いされたりしないかな。すごくドキドキするんですけども。
「心配しなくとも、高値で買い取られるだろうよ」
私の心配をよそに、ベイルさんはそう言って、あるお店の前で足を止めた。
そこはお店と言うより、実際には屋台に近い。柱を立てて布を渡した屋根の下に大きな台が置かれて、たくさんの品物が並んでいる。店主は灰色の髪のおばあさんで、じろりとベイルさんを見上げた。
「何の用だね?」
「魔石の買い取りを」
ベイルさんがあの赤い石を差し出す。おばあさんは目を細めて石を受け取ると、表面を指でゆっくりとなぞった。
「……銀貨三枚ってところだね」
「妥当だな」
商談成立、と銀貨を取り出すおばあさんと、ベイルさんが石を交換する。銀貨を受け取ったベイルさんは私へ向き直り、
「直生、手を出せ」
言われるまま手を出せば、掌の上に銀貨が揃えて置かれた。三枚。ぎょっとした。
「ええ!? これ、あ、あの」
「お前が稼いだ金だ。好きに使うといい。――ああ、遠慮はするなよ。他人の稼いだ金を掠め取るような類にゃなりたくねえんでな」
そう言われてしまえば、軽率に「結構です」なんて答えることもできない。うむむ……。
「それなら、その、いただきます」
悩みに悩んでからて頭を下げると、くつくつ笑う声が聞こえた。目を向けると、おばあさんが目元に皺を寄せて笑っている。
「お前さん達、魔術師の師弟か何かかね。お弟子は筋がいい。また来てくれるなら、歓迎するよ」
「そりゃどうも。行くぞ」
「あ、はい!」
おばあさんに会釈をして、ベイルさんの後について歩き出す。商店街のある通りは広く、たくさんのお店が並んでいて、冬に備えた装備や、他の必要物資も全て揃えることができた。
買い物を終えて〈ヒラソール〉に戻ると、もう四時近くなっていた。開店の準備に忙しそうなヒメナさんやテオドロさんに挨拶をしながら、三階の部屋へ。そうして部屋に到着すると、ベイルさんが意外な名前を呼んだ。――エンディス、って。
「俺は少し外に出てくる。そう時間を掛けずに戻るつもりだが、どうなるかは分からねえ。その間、直生を任せて構わねえかい」
『ナオを同行させれば済むのではないのか?』
「連れていっても、延々無為に立ちっぱなしになるだけだ」
『それは確かに酷な話よの。あい分かった、護衛の一時代理を引き受けよう。早くに戻れよ』
「そのつもりだ」
エンデに答えたベイルさんが、今度は私を見る。
「悪いな」
「だ、大丈夫です。気をつけて行ってきてください。……部屋からは、出ない方がいいですよね?」
「ああ。窮屈だろうが、そうしてくれ。念の為、いくつか結界を張っておくが、部屋の外に出られちゃ意味がねえからな」
分かりました、と頷いてみせると、ベイルさんは守りの為の結界をいくつか張り巡らせた後、部屋を出て行った。廊下を歩いていくかすかな足音は少しずつ遠ざかり、やがて完全に消えてしまう。
心細い気がするのは気のせいだと思うことにして、退屈しのぎにテーブルへ向かってみると、ベイルさんが読んでいた新聞が残っていた。
『スィレン島襲撃――ニーノイエ国軍の威嚇攻撃か』
一番大きく書かれていた文章を、エンデが読み上げる。襲撃……私たちが遺跡で戦った日のことかな。ドキドキしながら、見出しの下の文字を読み進める。
新聞によると、今の粋蓮島は完全に封鎖されているらしい。襲撃の被害が激しく、危険だからだと書いてあるけれど、そこまでしなければいけないほどだったかなあ? 街と遺跡しか見ていないけど……。
『方便だろうよ。大方、どこぞの権力者から圧力でも掛かったに違いあるまい。ベイルの外出も、或いはその件に関連してのことやも知れぬぞ』
「そっか、連絡を取りに行ったのかも。残りの二人と」
『ああ、シェルとヒューゴとか言ったあれか』
「うん。……たぶん、ベイルさんは、自分一人で護衛を続けるのは危ないと思ってるんだと思う。ハイレインさんだって手を焼く相手なんだし」
『確かにな。私とてあれに立ち向かうとなれば、策を弄する。真っ向から力勝負をするのは下策だ』
露骨に嫌そうな声には、しみじみとした実感。
「そう言えば、エンデは私のこと、よく知ってるんだよね?」
『ああ、今朝の鍛錬中の話を聞いていたのだな?』
「ちょっとだけだけどね。あのさ、私、ニーノイエでどんなことしてたの?」
軽く投げてみた質問には、思いがけず重い沈黙が帰ってきた。さすがにちょっと、動揺する。
「エンデ? 何、もしかして言えないようなこと?」
エンデ、ともう一度名前を呼ぶと、やっと語りだした。ひどく苦々しげではあったけれど。
『私は、そなたにあの半年――ニーノイエでの記憶を、失ったままでいて欲しいと思っている。そなたは望まぬだろうが、できるなら過去を捨て、この世界で幸せを得てもらいたいと。故に、ハイレインとの邂逅だけは、何としても阻みたかった』
果たせなかったがな、と寂しげな呟き。
「じゃあ――花歌での、あれは」
あの時の、苦しいほどの不安は。
『うむ。結果として言えば、ハイレインとの繋がりを得ぬままであった方がかえって追っ手に囚われることになったやもしれぬし、そなたに辛い思いもさせた。それは謝罪する』
「……そうだったんだ」
『怒るか』
窺うような声音に、首を横に振る。エンデはいつも私を心配して、気遣って、助けてくれた。うっすらとだけど、そのことは覚えている。だから、今回もきっとそうだったんだろうと思う。
「ニーノイエでのことは、そんなに思い出さない方がいいの?」
『忘却は限りなく救いに近い。思い出したが最後、その全てがそなたを縛り、傷つける』
「どういうことか、分からないよ」
『分からずとも良い。私はそなたに何も知って欲しくないのだ。叶うのならば、何も知らぬままアイオニオンに至り、開放と自由を得てもらいたい』
「ねえ、エンデ」
『否。何度乞われようと、教えることは何もない』
「頑固だなあ、もう……。いいよ、じゃあ自分で思い出すよ」
『怖いとは思わぬのか』
「そりゃ、怖いし、できれば逃げたいけど……。自分のことなんだから、逃げたくても逃げられないよ」
『思い出したことで、気が狂うやも知れぬぞ』
「……そこまでひどいの?」
『そなたに嘘は言わぬよ。ナオ、今一度忠告する。決して、思い出すでない』
「でも、駄目だよ。やっぱり思い出さなくちゃ。大丈夫、何とかなるよ。今までだって、どうにか生きてきたんだから」
『そなたは、甘い。甘過ぎる』
苦々しげな――もしくは、苦しげな呟き。
聞き覚えはないはずなのに、その台詞が妙に懐かしい。今は思い出せない過去のどこかでも、言われたことがあったのかもしれない。
「ありがとうね」
『何だ、藪から棒に』
「きっと、エンデがいてくれたから、私は生き延びてこれたんだと思うよ」
根拠も何もないけれど、そうなんだろうという確信だけはあった。だから、ありがとう、と重ねる。
『……そう言うのならば、折角失ったものを思い出そうとする無茶は止めてもらいたいものよな』
「それは無理だなあ」
だろうな、とエンデが拗ねたような声で言う。その声に笑いながら、新聞の続きを読むことにした。




