鏑矢は放たれた・06
やっぱり、少し眠っただけじゃ疲れは取れなかったということなのかもしれない。お風呂を借りて――左手の傷はほとんど治っていた――部屋に戻ると、またすぐに眠くなってきてしまった。ベイルさんを待った方がいいのかな、と思うのに、気がつくと一瞬寝てしまっていて、ハッとして起きる。そんなことを何度も繰り返しているうちに、呆れた様子の頭の中の声に促されて、先に寝ていることにしたのだけど。
「起きなさい」
眠り始めてから、どれくらい経ったのだろう。
柔らかな、知らない女の人の声が聞こえた。夢にしてしっかりとした、「聞いている」と思える響き。
「敵!?」
深く考えるより早く、飛び起きた。
周りは一面真っ暗で、何も見えない。起きたと思ったのに、もしかしてまだ夢を見ているんだろうか。
「真実そうであれば、声を掛けずにその首を掻き切っていますよ」
真っ暗闇の中に、女の人の姿が浮かび上がる。
正確には分からないけど、歳は施設のある先生と同じくらいに見えた。四十歳くらいだったかな? けれど、印象は全然違う。赤と黄と茶の三色が斑になった長い髪、淡い青の目。すらりと背筋を伸ばした佇まいは、モデルさんみたいに凛々しかった。
私がぽかんとしていると、その人は目を伏せ、ため息混じりに言った。
「ヒトの子、北の同胞の縁を持つ子よ。この地に騒乱を招くならば、私はあなたを歓迎できません」
同胞。その言葉に、思わず息を呑む。
つまりは、竜。彼女が反応していないのも、だからかもしれない。私だけを選んで起こすとかも、できたっておかしくない気がする。何たって竜だし。
すごいなあ、と思うのは、半分くらいは現実逃避だった。言われた言葉に、なんて答えればいいのか分からなくて。
「……その、すみません。ご迷惑を」
「責めたい訳ではないのですよ、あなたに罪科のないことは分かっています。けれど、やはり争いは忌まわしい。さりとて同胞の苦難を見過ごすことも、またできません。ゆえに、あなたたちが自らの手で事態を収拾するのであれば、その為の助力はしましょう」
助力。……助けてくれるってこと?
「あ、ありがとうございます」
「その言葉は、まだ早いでしょう。……これまでヒトは少しずつ力を得ながら、私たちの傍らを歩んできました。そして今、決まるのかもしれません」
女の人が手を伸ばす。細い指先が私の左の頬に触れて、それから首筋から肩へ順に伝っていった。手が離れても、じんわりとした温かさが残っている。
「ヒトと竜が――あなたたちと私たちが、これからも同じ大地で生き続けられるのか。それとも、遠く離れて生きるべきなのか」
悲しそうに言って口を閉ざすと、それきり女の人の姿は消えた。
チチチ、と鳥の声が聞こえた。目を開ける。部屋の中は、すっかり明るかった。また見慣れない天井が目に入って、粋蓮からホヴォロニカへ旅をして、アランシオーネに辿り着いたのだと思い出す。
目を擦りながら起き上がり、隣のベッドを見る。空っぽ。もう起きちゃったのかな、と眠気の抜けきらない頭で考えていると、
「起きたかい」
声は、部屋の中央――テーブルの方から聞こえてきた。しぱしぱする目で瞬きしながら顔を向けると、椅子に座って新聞を読んでいる背中が目に入る。
「お、はよう、ございます」
「おはよう」
ベイルさんは背中を向けた姿勢のまま、いつも通りの落ち着いた声で続けた。
「飯は三十分後だと」
「分かり、ました」
ぱしん、と両手で軽く頬を叩いて、残った眠気を振り払う。まずは身支度を整えなくっちゃ。鞄から着替えを取り出して、まずは洗面所へ。
魔術を使っているかどうかで差はあるものの、作り自体は日本のものとそんなに変わりはない。流しの前には大きな鏡が設置されていて、その前で顔を洗い、借りたパジャマの上着を脱ぐ。左手の傷も綺麗に治っていて、ハイレインさんと出会った夜に浮かび上がった貫通した痕を除けば、すっかり元通りだ。
ベイルさんにお礼を言わなくっちゃ。そう思いながら着替えを取り上げて、鏡を見た――時だった。
「にぎゃあああああああ!?」
転がるようにして、洗面所から飛び出す。
「何だ、どうか――って、お前」
全力ダッシュでテーブルへ突撃。ベイルさんが呆れた顔で私を見たけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「あ、あわわわわわわ……!」
訳が分からなさ過ぎて、言葉が出てこない。ベイルさんは深々とため息を吐くと、新聞を畳み、
「分かった、分かったから落ち着け。服を着ろ」
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないんですうううう! ひええ、な、何かの呪いでしょうかこれ!」
これこれ、と首筋の左側から二の腕にかけて浮かび上がった、緑色の蔦のような紋様を指差す。ベイルさんが目を細め、手を伸ばす。けれど、私の腕を掴む寸前で、白い手がそれを弾いた。
いつかのように、細い腕が両肩に回る。彼女のゆったりとした衣服の袖が、ふわりと私の身体を隠すように覆った。
「そなたは相変わらず粗忽よな。不明を問うのは構わぬが、その格好はどうか。ベイルとか言ったか、確かにナオは小僧めいているが、これでも一端の娘。気安く触れるでない」
涼しげな声が、咎めるように言う。そりゃ失礼、とベイルさんが肩をすくめた。ついでに、何かちょっと聞き捨てならないことを言われた気がするけど――うん、今は聞かなかったことにしておこう。
振り返る。視線が合うと、彼女はほのかに笑った。
緩く波打つ浅葱の長い髪。桔梗の瞳は瞳孔が縦に細長く、私はそれが蛇の化身の証であるからだと、どうしてか知っている。青白いほどに白い肌の、映画に出てくる女王様のように綺麗なひと。
「ここまで、よく持ち堪えてくれた。そなたの苦しむ様を目の当たりしながら手助けができぬ、その何と口惜しかったことか」
言葉に合わせて、太く長い蛇の尾が、床を叩く。私の腕でも抱えられるか怪しいほどのそれは――そう、眼が示しているように、彼女の身体だった。
「魔祇か」
ベイルさんが呟くのが聞こえて、ちり、と頭の中にノイズが走るような感覚を覚える。知らないことが入り込んでくる……違う、湧き出してくる?
魔祇とは魔物であり、そうでないもの。時に竜にすら比肩する、自分たちの手に負えない魔物を、人は恐怖と畏敬でもって「魔祇」と呼んだ。……と、どこかで教えてもらった気がする。
ともかく、彼女もまた魔祇と呼ばれる人身蛇足の大魔だ。理由はまだ思い出せないけれど、私に力を貸してくれている。そして、私は彼女を――
「エンディス――エンデ?」
そう、呼んでいた。ようやく思い出した。
「漸う呼んだな。待ち侘びたぞ」
肩を抱く腕に力がこもる。にこりと笑って答える声は、珍しく弾んでいた。
「あの、ごめんね? ずっと、忘れてて」
「否。そなたのせいではない」
柔らかく慰めてくれる声に、胸が締めつけられる。ありがとう、と答えるので精一杯だった。
「……で? その魔祇とはどういう関係だ」
静かに問われて、はっとする。ベイルさんに向き直ると、藍色の眼がじっと私たちを見つめていた。
「ええと、エンデは、理由はまだ思い出せないんですけど、私に力を貸してくれていて」
「正確には憑いている、と言うべきよの。私はこれに宿り――」
エンデは私の左手を取って、ベイルさんに示す。手の甲の掌まで貫通する傷跡の上には、エンデの鱗と同じ色の花のような紋様が浮かんでいた。
「ナオを内外の脅威から守っているのだ。これまでは竜の腕と共に封じられていたがゆえ、満足な手助けもできなかったが」
「今になって出てこれるようになった理由は」
「ナオが私を奪い返し、且つこの地の竜の助力を得ることが叶った。平時、私は竜の腕の封じに力を割いているのでな、余裕が出てきたという訳だ」
「――てことは、直生が泡食って見せに来たのは」
「是、竜の祝福よ」
さっくり肯定。ぎょっとして、エンデの袖を引いた。
「あれ、やっぱり夢じゃなかったんだ?」
「術式がそなたへ絞られていたゆえ、会話の内容は知れなかったが、竜が精神感応を施したのは確かだ」
「竜が、ね。何を言ってた?」
そっか、すっかり忘れてた。何かいろいろ言われたから、それもベイルさんに伝えなきゃだよね。
ちょっと待ってください、と断ってから、真っ暗闇の中で聞いた言葉を思い出す。なるべく、短く分かりやすくまとめるようにしないと。
「ええと、街に争いを呼び込むなら歓迎はできないけれど、私たちが自分でどうにかするなら力を貸してくれる……みたいなことを、言っていたと思います」
「なるほどな。だったら、鍛錬を優先させるか」
「え? 挨拶に行くんじゃ」
昨日の夕食では、そういう話になっていたはずだった。話をしておいた方がいいから、って。
挨拶をすっぽかして、怒られたりしないかな。不安になって問い掛けてみたけれど、ベイルさんは平然としていた。
「あっちがそう言うなら、こっちはこっちで打てる手を全て打っておくべきだろうよ」
「そういうものですか……」
そう答えて、ふと思い出す。左手と言えば、まだちゃんとお礼を言っていなかった。
「あ、ベイルさん、左手の傷なんですけど、綺麗に治ってました。ありがとうございました」
古い傷跡とエンデの紋章こそ浮かんでいるものの、すっかり綺麗に治っている。ああ、とベイルさんはちらりと私が掲げた手を見て、
「どう致しまして、と言っておくが。礼を言う前に、お前は他にやることがあるだろう。自分の状況を思い出せ。まず着替えを済ませろ」
「あっ」
その一言で、今更に自分がどんな格好をしているか思い出した。アワワ、し、下着は! 下着は着けてるから! まだセーフだよね!?
「き、着替えてきます……!」
ともかく私は本当に顔から火が出そうな思いで、洗面所に逃げ帰ることになったのだった。
昨日ウェンテを停めさせてもらった裏庭は、改めて見てみると広かった。カサノーバ家との顔合わせを兼ねた朝食が少し長引いたので、いつの間にか太陽も空のてっぺん近くまで昇っている。
私とベイルさんは照りつける太陽の下、裏庭の中央で向かい合っていた。エンデは竜の封印に集中すると言ってまた姿を消してしまったので、二人だけで。
今回の目的は早速の鍛錬……というか、前に約束していた模擬戦だ。つまりはお試しながらも戦ってみるってことで、正直かなり緊張している。戦い方なんて分からないし、知っているはずもないと思っていたから。そのはずなのに、不思議と呼吸は静かで、何をどうすればいいか迷うことはなかった。
ぐっと右足に力がこもり、強く地面を蹴る。弾けるように身体が前へ飛び出した。短く息を吐きながら突き出した右の拳は、横から当てられた掌に逸らされて空を切る。左の拳も、同じように弾かれた。
拳が駄目なら蹴り、蹴りが駄目ならまた別の。身体は流れるように攻撃を繰り返していくのに、淡々と、そして完璧にベイルさんは全てを捌いていく。
「!?」
その時、急にがくりと身体が沈んだ。膝が折れて座り込んでしまう。一体どうして――?
「エンディス、直生が戦い方を覚え始めたのはどれくらい前のことだ」
『およそ半年前。こちらに呼び込まれてすぐ、ナオは私の山に放り出された。そこで私を得たばかりか、竜の腕を御す規格外の有用性を示してしまい、昼に夜に鍛錬が課されるようになった』
立ち上がろうと思うのに、身体が動かない。何で、と焦りだけが募る中、顎の痛みに気付く。ああもう、いつの間にかやられてたってこと。
「たった半年にしちゃ、筋が良いな」
『それだけナオに課されたものは過酷だったのだ』
動け、といくら念じても足は動かない。俯いた視界の端にベイルさんの靴の先端が映って、一層焦った。
――敵は必ず殺せ。
知らない誰かの声が、耳の奥で囁く。
――確実に息の根を止めろ。
冷淡な声が繰り返す。ひどく頭が痛い。そのせいでまたイライラしたので、魔力を巡らせて無理矢理身体を動かした。そうするのにも、慣れている。
――殺せ。必ず、
まだ声は繰り返している。呪詛めいた言葉を振り払うように、両手で地面を弾いて立ち上がった。顔を上げ、相手を視認。わずかな間合いを突進するように詰める。繰り出した右拳は、正面から受け止められた。そのまま握り込まれて、腕が引けない。
「いきなりどうした、血相変えて」
拳を掴む手の力は強く、振り払えない。問う声が余裕の誇示のように思えて、ひどく腹立たしい。
「……だんまりか。エンディス?」
『私とて、ナオの全てを把握している訳ではない』
「そっちでも分からねえ、と。……仕方がねえな」
頭上でため息を吐く気配。掴まれていた手が離されたと認識した瞬間、深く上体を沈めた。髪を巻き込みながら、横薙ぎの風が奔る。左足の蹴り、と思った時には、もう相手は次の攻撃動作に移っていた。
「加減はしてやるが、手は抜かねえ。上手く捌けよ」
振り抜かれた脚が翻り、踵が叩きつけられる。咄嗟に左腕を立てて防いだものの、防御の上で吹っ飛ばされた。砂地の上を二度三度と転がり、まともに踵を受けた左腕を庇いながら起き上がる。
視線は敵へ。決して逸らしてはならない。
「まだ懲りねえかい」
呆れた風の言葉には、答える気にもならなかった。何を馬鹿なことを、敗北とは死に他ならない。
体勢を低く保ったまま、再び相手へと接近する。蹴りを得意とするのなら、まずその脚を壊してしまわなければ。四肢に魔力を充填。詠唱を省略し、強化の術式を高速構築。一足飛びに更に前へ、前へ。
敵の間合いに踏み込んだ瞬間、予想通りに蹴りが放たれた。痛んだ左腕と肩とで受ければ、危うく身体が揺れそうになったものの、歯を食い縛って耐える。
敵の格闘能力が驚異的であることは間違いない。それでも懐近くまで飛び込んでしまえば、どうにか持ち堪えられるくらいにまでは押さえ込めた。痛む腕に鞭を打って、そのまま敵の膝を取ろうとすると、
「物騒になったもんだな」
ため息混じりの声、目の前に伸びてくる手。
「しばらく寝てろ」
頭を掴む手に、視界が暗く覆われる。精神干渉術式独特の、痛みに似た圧迫感が意識を占めた。
しまった、と歯噛みしても遅い。猛烈な後悔と自己嫌悪の中、意識はすとんと闇に落ちていった。
◇ ◇ ◇
ふらりと前のめりに倒れる直生を、ベイルは無言で抱き留めた。自分の身体に寄りかからせながら、小さな頭に手を置いて魔力を注ぎ込む。しかし、予想に反して求めた反応は見当たらなかった。
ち、とつい舌打ちが漏れる。少女の変貌が元からの気質によるものとは考えにくく、であれば何らかの洗脳や思考誘導の術式が施されているのであろうと踏んだ。だが、よほど巧妙に隠蔽されているらしい。何かがあるのは分かるが、明確には捉えきれない。
面倒なことだと呟き、ベイルは直生を片腕に抱き上げる。あどけない寝顔の少女は、身動ぎもしない。
「……軽いな」
不意にこぼれた一言は、全くもって意図せぬものだった。抱き上げてみれば、小さく細いと知っていたはずの体躯の、空恐ろしいほどの頼りなさが一層に身に迫る。折れてしまいそうな、などという次元の話ではない。話に聞いた境遇にあっては、折れてしまわなかったのが不思議なほどの細さと軽さ。
その事実と感触が、ベイルの胸中にかすかな細波を起こした。怒りとも哀れみともつかない、何か。
表面的にはそれをおくびにも見せず、ベイルは大股に裏庭を縦断し、〈ヒラソール〉の裏口に近づいた。扉を開けてくぐるのと前後して、エンディスの腹立たしげな声が精神感応術式越しに聞こえてくる。
『ナオには何か呪いが掛けられているようだ。さほど強くはないが、忌々しく巧妙だ。精神干渉の類とまでは読めるが、そこから先が分からぬ』
「お前の方で探っても考えても分からねえなら、思い悩むだけ無駄だ。異変が起きる可能性だけ把握しときゃ、今は十分だろう」
『……そうだな』
悔しそうに、エンディスの声は途切れた。
ベイルは黙々と廊下を歩む。表の方から賑やかに騒ぐ声が聞こえてきたが、構いはしなかった。まっすぐに三階まで上がり、宛がわれた部屋の扉を開ける。
淡い色合いのカーテンが開け放たれた、通りに面した窓から差し込む陽光が眩い。目を細めながら、ベイルは部屋の奥へと進んだ。自分が使うものの隣のベッドの傍らで膝をつき、抱えた娘を抱き直しては裏庭を転がってついた服の汚れを丁寧に払い落す。ひとしきり砂塵を払った後で靴を脱がせ、ベッドに寝かせた。
穏やかな呼吸。静かに眠る娘の面差しは、十五だという年齢よりも更に幼く見えた。




