鏑矢は放たれた・04
再出発の後の道のりは順調だった。空が赤くなり始めると、ちょうど地平線に大きな木のシルエットが見えてきた。距離が近くなるにつれて、その途方もない大きさに圧倒される。街を囲む壁は国境の街の数倍はあろうかという規模なのに、上空をすっぽりと赤や黄に染まった枝葉が覆っていた。
ぼうっと見惚れていると、隣から声。
「あの樹は竜の名を取って、ケラソスと呼ばれてるそうだ」
そうですか、と相槌を打ちながら、私はまだ悩んでいた。再出発してから、初めての会話らしい会話。言わなきゃいけないとは、思うのだけど。
「さっきのことだが」
迷っている間に、ベイルさんがまた切り出す。
「シェルも言ってたろう。傭兵は自分の意思で戦場に身を置く。下手な憐憫や同情は、かえって侮辱だ」
「……よく、分かりません」
「平和な世界で生きてきたなら理解し難いだろうし、割り切れねえだろうとも思うがな。だが、殺す意思を持って剣を取ったなら、殺される覚悟もすべきだ。そうでなくとも、今はお前の安全が最も優先される」
「でも、人が血を流すのは、どうしても」
怖い、とまでは言えなかった。口ごもると、ベイルさんがため息を吐く。思わず肩が揺れた。ああ、呆れられたかな、それとも怒られる……?
「分かった、そこまで言うなら仕方がねえ。敵であろうと何であろうと、なるべく殺さねえでおくと約束する。代わりに、采配は任せてもらえるかい」
けれど、びくびくする私の予想を裏切って、告げられたのは怒りでも呆れでもなかった。よかった、受け入れてもらえたみたい――と息を吐こうとして、今になって気が付く。これじゃあ、同じだ。
「す――すみま、せん」
ぞっと背中に冷たいものが走って、咄嗟に口に出したのは、そんな言葉だった。どもって情けない声。
「何だ、そりゃあ。質問の答えになってねえな。それとも、お前は自分に非があると?」
「これまで、もうたくさん迷惑を掛けているのに、また、我が儘を言いました」
そう言うと、急にハーヴィが停まった。えっ、と驚いて隣を見上げれば、ハンドルから手を離したベイルさんがゴーグルを外すのが目に入る。今まで隠れていた藍の双眸が、直に私を見下ろしていた。
「どうにも、まだ分かってねえらしいな」
分かってない? 意味が分からなくて、首を捻る。
「重ねて言うが、俺がお前を守るのは自分で納得して決めたことで、同時に仕事だ。襲撃があるのは、馬鹿なことを考えて騒ぎを起こしてる奴がいるからだ。お前に責任はねえし、負い目を感じる必要もねえ」
「でも、代わりに戦ってもらって、守ってもらってばっかりで」
「それが、気が咎めると?」
頷く。ベイルさんは眉間に皺を寄せ、頭を掻いた。
「俺が戦うのは、それが俺の仕事だからだ。それに対して罪悪感を持たれても、困るだけだ」
すみません、と何度目かも分からない言葉を呟く。それ以外に何と言えばいいのか、分からなかった。強情だな、とベイルさんがため息を吐く。
「さっき転移を解いたし、敵の大将から何か情報も得てきたんだろう。それで十分、手柄だと思うがな」
「それだけ、で?」
「それ以上をさせるなら、俺は護衛失格だろうよ。むしろ、お前は大人しく守られてるのが仕事だ。護衛で一番面倒なのが、襲撃で動転した護衛対象の暴走だからな。その点、お前はよくやってる」
「大人しく、守られるのが、仕事」
「そうだ。よって、お前は十分自分の役割を果たしている。何も問題はねえ。分かるな?」
「ええと、はい。たぶん」
「よし。なら、この件はこれで手打ちだ。――で、さっきの答えはどうなった? あれで納得してもらえると、俺としては助かるが」
「大丈夫、だと思います。何度も我が儘を言って、すみませんでした」
そう言って見上げたベイルさんの顔が、一瞬ひどく険しくなったように見えた。けれど、瞬いて見直した時には、いつも通りの表情があるだけ。見間違いだったのかな。心の中で不思議に思っていると、
「お前はどうしてそう、自分を軽視する?」
冷たく聞こえるくらいに、乾いた声。今度は驚きで目が見開く。
「そんなこと、ないと思いますけど」
「ある」
即答の断言。そんなにはっきり言わなくても、と思うくらい、きっぱり言い切られてしまった。
「心配するのも、守ろうと思うのも他人ばかり。我がねえ訳でもねえのに、常に折れて譲歩して。挙句の果てには、元凶も責めずに、あれもこれも一人で全部背負い込もうとしてるときた」
ベイルさんが、じっと私を見下ろす。
「お前は、自分を守ることに意識を割くべきだ」
冗談だなんて思えない、真剣な口振り。でも、さすがに今回ばかりは私も頷けなかった。
その言い方じゃ、まるで私が自殺志願者か何かみたいだ。確かに周りは気になるし、譲歩することも多いかもしれないけれど、それは単に臆病で衝突を避けているだけ。自分を差し置いて、何でもかんでも誰かの為に動いている訳ではない……と、思う。
「そんなに自分を軽んじているつもりは、ないです」
「だろうな。意識してやってるなら、そりゃ生き物として致命的に歪んでる」
ベイルさんの口振りは、どこまでも断定的だった。絶対に間違いのない、確かな事実を指摘している。そんな風な言い方に、聞こえた。
「……私は、何か間違ってますか」
途方に暮れて、訊き返す。
だって、そんなこと言われたって困る。そうやって生きてきて、それ以外は知らない。間違っていると言われたって、どうすればいいか分からないもの。
「俺も所詮は外野だ。悪いとも、間違っているとも言う気はねえさ。だが、そのままじゃ、いずれお前は潰れる。それは嬉しくねえからな」
そう言って、ベイルさんはハーヴィのエンジンを掛け直した。
「お前は、優し過ぎる」
ため息混じりの言葉にも、私は答えられなかった。
「最後に、一つだけ訊かせろ。お前は故郷に帰りたいから、その願いの為にハイレインの取引を受けた。そうだな?」
「はい、そうです。故郷には、帰らないと」
急にいなくなったら、たくさんの人に迷惑を掛けてしまうから。ちゃんと、帰らないといけない。
そう思って頷き返すと、また沈黙。ううん?
「……どうかしました?」
「いや――別に。何も」
素っ気ない返事。何もない風には見えないけれど、ベイルさんが何でもないというなら、そう思っていた方がいいのかもしれない。
そうですか、と答えておくことにする。
「ああ、アランシオーネまで残りわずかだ。飛ばすから、気をつけろ」
「は」
い、と続けるはずの声は、風に呑まれて消えた。ついでに頭の上の帽子も。慌てて背後を振り返ると、
「おっと――」
ベイルさんの左手が閃くように伸び、帽子を掴んでいた。危うく遥か彼方に飛んでいってしまいそうだった帽子を、頭の上に戻してくれる。
「悪い、急に加速しすぎた」
「いえ、こちらこそ、すみま――」
「直生。言うべきは、それじゃねえだろう」
「へ? え、ええと……あ、ありがとう、ございます」
「正解。どういたしまして」
ベイルさんの手が帽子から離れ、ハンドルに戻る。
「少し時間が押しててな。部下は日が落ちてからが商売の場所にいるんで、日が暮れる前に着いておいた方が手間がねえ」
「日が落ちてから……何のお店なんですか?」
「本来なら、お前のような娘を連れていく場所じゃねえがな」
珍しく、ベイルさんが苦々しそうにしている。
日が暮れてから、っていうと居酒屋とかかな。だったら、子供を連れていくところではない……のかも? 行ったことがないから、分からないけど。
「部下の店は、花街にある」
花街、と鸚鵡返しに呟く。
その名前と意味は、一応、図書館で読んだ時代小説に出てきたので、知ってはいる。いるの、だけれど。
「そ、そそ、それは、あの、ベイルさん、その、何と言いますか、あばば」
「落ち着け」
「え、ええと、ですね、その、お、落ち着きます、ええ、落ち着いてますとも、はい。ものすごく」
「そのどこが落ち着いてんだ」
「だ、だってですね、あの、それって、お、女の人がたくさん、いるところ、ですよね?」
「一般的にはな」
「わ、私はお邪魔なのでは……」
「だから、落ち着け。部下が花街に店を持ってるから向かうだけであって、それ以外の意図はねえ。あの手の場所なら、昼夜を問わず人が動いてるからな。万が一、俺の目が届かなくなったとしても、誰かが代わりになれるはずだ」
「な、なる、ほど」
「もう少し容易な相手か、シェルかヒューゴが同行してりゃ、普通の宿屋に泊まれるんだが。悪いが、しばらく我慢してくれ」
「だ、大丈夫です」
何だかお腹が痛くなってきた気もしたけれど、どうしようもないので我慢して頷いておいた。
アランシオーネの街の門は、日が暮れる直前でも大きく開け放たれていた。それでも門の前には長蛇の列ができていて、たくさんの人が監査の順番を待っている。首を長ーくして、退屈しすぎるほどに待って、やっと私たちの番になると、
「〈ヒラソール〉のカサノーバ夫妻に繋いでくれ」
ベイルさんは、まずそう言った。ハーヴィを取り囲む監査の人たちが、怪訝そうに顔を見合わせる。
「お二人の知り合いか?」
「昔の上司だと言えば通じる」
「嘘ではあるまいな」
「俺に訊くより、直接確かめたらどうだ」
疑わしそうにしながらも、監査の人の一人がすぐ近くの事務所のような建物へと向かって行く。しばらくすると、中から話す声が聞こえてきた。
「警備部のモーゼズです。ヒメナさんは――」
聞き耳を立てている限りだと、電話……じゃないかもしれないけど、そんな感じの喋り方だ。精神感応の魔術もあるし、こっちの世界でも何か魔術で同じようなシステムが作られているのかもしれない。
「あ、ヒメナさんですか。どうも、お忙しい所すみません。今、旅人らしい二人組が〈ヒラソール〉のカサノーバ夫妻を名指しで来てましてね。ええ……昔の上司だとかで――はい? ちょっと!?」
裏返った声が聞こえたかと思うと、首を捻りながら事務所の中から話をしていた人が出てきた。
「『すぐ行くから、そこで待たせといて!』だと」
「何だそりゃ」
ベイルさん以外の誰もが訳の分からないような顔をしていたものの、カサノーバさんと知り合いであることを確かめたからか、監査の人たちは次の人のところへ移っていった。私たちは門の脇で待っているように言われたので、ベイルさんがハーヴィを邪魔にならないところに動かしていく。
意外なことに、今度の待ち時間はそれほど長くなかった。
「――来たか」
ふとベイルさんが呟いたのと、街の奥から猛スピードで走ってくる一台のウェンテが見えたのは、ほとんど同じタイミングだった。乗っているのは二人だけれど、正直なところ、あれを二人乗りと言っていいのかは分からない。よっぽどすごい速度で走っているようで、後部座席から運転手にしがみついている人は、風に流れる鯉のぼりのようだった。ひええ……。
「ホラ、退いて退いて!! 轢くわよ!」
通行人をなぎ倒す勢いで走ってきたウェンテが、ハーヴィの真横に停まる。運転していた女の人は長い濃紺の髪を掻き上げ、颯爽とウェンテを降りた。
たぶんだけど、歳は二十代の真ん中くらい。すらりとした長身に、きりっとした薄紅の眼が印象的な、ものすごく綺麗な人だった。でも、女の人とは対照的に人間鯉のぼりだった男の人は地面に立ってもフラフラしていて、項垂れて膝に両手をつくと、それきり動かなくなってしまった。
女の人はそんな様子の男の人もお構いなしに、にこりと私に笑いかけてから、ベイルさんに向き直る。
監査の人たちは遠巻きにこちらを眺めていたけれど、
「ヒメナさん、その二人は任せていいんですか?」
「問題ないわ」
その一言で、また離れて行ってしまった。カサノーバさんは、随分と信頼されてるっぽい。
「久し振りね、隊長?」
女の人はどこか挑みかかるような、何とも言えない圧力のある笑顔を浮かべてベイルさんに言う。
「今まで音沙汰なしだったのに、いきなり訪ねてくるなんて一体どんな風の吹き回しかしらね」
「仕事でな。部屋を借りたい。都合できるかい」
「部屋って、その子と?」
女の人が私を指先で示す。
「ああ」
「お、お世話になります……」
ベイルさんがと頷き、私が頭を下げる。すると、今度はどうしたのか、女の人はごく短い間、私とベイルさんを真顔で見比べ――
「信じられない! 隊長、女嫌いだからって、まさかこんな子供と?」
急に、頭を抱えそうな勢いで叫んだのだった。
「人の話を聞かねえ癖は、まだ治らねえらしいな。仕事だと言ったろう。今回の依頼はこいつの護衛。普通の宿に泊まるんじゃ不安があるんで、お前のところを借りる。それだけだ」
「ああ、なるほど。……って、君、いくつ?」
女の人が膝を曲げて、私の顔を覗き込む。
「十五歳です」
「ふうん? 十五にしては随分と純真っていうか、奥手っぽい感じよね。隊長、お行儀のいいお坊ちゃんには、ちょっと刺激が強いんじゃないの?」
……む。お坊ちゃん、ですとな?
「俺がその辺りの事情を踏まえてねえと思うのかい」
「分かってるけど、一応の確認よ。随分と用心するのね。……ま、良いわ。テオ! いつまでへばってんの。行くわよ」
「む、無茶言うな……それに挨拶くらい……」
ゼーゼー言いながら、男の人が顔を上げる。
短い髪は鳶色で、穏やかそうな眼は群青。パッと見た印象では、女の人より少し年上かもしれない。優しい感じの格好いい人で、二人が並ぶと一枚の絵のようにも見えた。
「……ゴホン。えー、お久しぶりです、隊長」
「ああ。相変わらず苦労してるようだな」
「はは、とんでもないです。そうだ、彼は俺たちのこと、知りませんよね?」
「彼」とは、残念ながら、私のことを言っているみたいだ。ベイルさんが頷くと、男の人はにっこり笑って手を差し出した。握手かな?
「俺はテオドロ、こっちは奥さんのヒメナ。どうぞよろしく」
「天沢直生です、よろしくお願いします。ええと、直生が名前で」
違う意味だったらどうしよう、と内心ちょっと不安になりながら同じ側の手を出してみると、特に間違ってはいなかったみたいで、がっちり握られた。ベイルさんみたいにごつごつした、硬い掌だった。
「ナオくんか。ひょっとして、メリノットから?」
「あ、はい。そうです」
それにしても、完全に男子だと思われてるっぽい。ううん、どうしよう……。別にいいかな……?
「ところで、テオドロ、ヒメナ」
「何です?」
「こいつは男じゃねえ」
あっさりと、ベイルさんは言い放った。私がもだもだ考えていたのが、何だったのかと思うくらいに。
けれど、その一言の威力は絶大で、まるで時間が止まったようだった。真ん丸く見開かれた、ヒメナさんとテオドロさんの視線が突き刺さる。き、気まずい。
「ごめん、ナオ!」
「ひょえっ!」
いきなりヒメナさんが抱きついてきて、思わず身体が硬直する。ついでに、変な声まで出てしまった。
「――ってことは、隊長、女嫌い治ったの? それとも、若い子ならいいって?」
「だから、どうしてお前は人の話を聞かねえ上に、前に話したことをすぐ忘れやがるんだ」
「つまらないことは覚えていたくないからよ」
ばっさり言い切ったヒメナさんには、ベイルさんもなす術がないようで、答えは深いため息だけだった。ヒメナさんは私の顔を覗き込むと、
「ナオ、よーく気をつけるのよ」
妙な威圧感に圧されて、話を聞く前に頷き返す。
「このひと、血も涙もない冷血漢なんだからね。あんまり気を許しちゃ駄目よ。後で泣くことになるわ」
何が何だか分からないけれど、もう一度頷く。すると、ベイルさんが呆れたような声で言った。
「お前、五年も経ってまだ根に持ってんのかい」
「その上、この言い草よ!」
ぎりり、ヒメナさんがベイルさんを睨みつける。何となく聞かない方がいいような気はしたけれど、つい好奇心に突き動かされて訊いてみる。
「何かあったんですか?」
「結婚して」
「……はい?」
「五年前、私が部下だった最後の日に、そう言ったのよ。それをこの人でなしったら、即答で『断る』よ! 躊躇いもなく!」
「本人の前で言うなよ、ヒメナ」
テオドロさんが苦笑しつつ、ヒメナさんが降りたウェンテに跨る。反応に困り、とりあえずベイルさんを見上げてみたものの、いつも通りの無表情と無言。
「まあ、今はテオドロと幸せだから良いんだけどね」
「お、おめでとうございます」
「ありがとう! とにかく、隊長は止しといた方がいいわよ。絶対、泣かされるに決まってるんだから」
ベイルさんを指で何度も突くようにしながら、ヒメナさんはしかめっ面で言う。対するベイルさんは、肩をすくめてみせるだけだけれど。
「話は終わったかい。なら、とっとと案内してくれ」
「この泰然自若っぷりが、余計腹立つのよね」
「そりゃどうも」
「誰も褒めてないわよ」
ヒメナさんの眉間に、一層深い皺が寄る。元が綺麗な人だけに、そうすると威圧感もものすごかった。
「ああもう、ヒメナ、積もる話は後にしよう。早く乗ってくれ」
「あっ! ちょっと、勝手に乗ってんのよ!」
「お前の運転は荒すぎるんだよ……。隊長、後からついてきて下さい。案内しますから」
ああ、とベイルさんが頷くと、ヒメナさんは唇を尖らせながら立ち上がり、
「ナオ、後でお喋りしましょう。この冷血漢に関する鬱憤が、ようやく晴らせるってものよ」
そう言って、私が返事をする暇もなく、テオドロさんの後ろに飛び乗った。テオドロさんがウェンテのエンジンを掛けて、走り始める。
「ちょっ、ヒメナ! 首、首! 締まってる!」
「あーら、そうだった? ごめんなさいねえ」
何でかな、謝る声が楽しそうに聞こえる気がする。
「相変わらずだな」
前を行く二人についていく形でハーヴィを走らせ始めながら、ベイルさんがため息を吐く。私はただ、笑っておいた。
ベイルさんの部下だったということは、同じようにいろいろと事情があったのかもしれない。それでも今は幸せだという言葉に、確かに間違いはないように思えたから。
テオドロさんの案内で街を走ると、やがて煌びやかな色彩の灯りで飾られた一角に出た。繁華街という言葉で連想する景色そのものの街並みには、華やかながらも薄暗いような、独特の空気が流れている。
「ここです」
テオドロさんがウェンテを停めたのは、通りで一番大きな建物の前だった。店先にはヒマワリの描かれた看板が吊るされ、通りに面した綺麗な細工の格子窓の中には、着飾った女の人が見える。
「ウェンテは裏に停めて下さいね」
テオドロさんの先導で、お店の裏に回る。そこには広い庭があって、小さな女の子や男の子が忙しそうに走り回っていた。子供たちはテオドロさんとヒメナさんに気付くと、口々に「お帰りなさい」と言い、
「あれ、お客さん?」
「それとも新入り?」
その後から庭に入ってきた私たちへ、好奇心に満ちた目で向けてきた。
「こら、静かに。俺とヒメナの、個人的なお客さんだよ。お世話になった人だから、失礼のないようにな」
口々に喋る子供をなだめつつ、テオドロさんは庭の隅の車庫にウェンテを停めた。ハーヴィも、その隣に入り込んで停まる。
ヒメナさんは開店の準備があるので、ここからの案内はテオドロさん一人になるんだとか。荷物を持ってハーヴィを降り、裏口から建物に入る。
「部屋自体には余裕がありますけど、護衛ならやっぱり離れる訳にはいかないですよね」
「そうなるな。直生、不便を強いるが」
「あ、いえ、大丈夫です」
「だ、そうだ」
「分かりました。それじゃ、三階の客室で――あ、夕食はどうします? 一緒にいかがですか」
「なら、頼む」
打ち合わせをしながら階段を上り、廊下を進む。ここです、とテオドロさんに案内されたのは三階の廊下の一番奥、角にある部屋だった。
「夕食になったら、また呼びますね」
ベイルさんに鍵を手渡し、テオドロさんは下の階へ戻っていく。大きなお店だから、やっぱり忙しいんだろう。その背中を見送って、私たちも部屋に入る。
部屋の中は、淡いベージュで統一されていた。奥の方にベッドが二つ並んでいて、その手前に大きなテーブルが一つと椅子が二つ。壁には小さな花の絵が飾られていたり、丸っこい輪郭の棚も置かれていて、何だかちょっと可愛い雰囲気だ。
何か調べているのか、ベイルさんは部屋の中をゆっくり一周した後で、二つのベッドへ目を向けた。
「直生、お前は奥を使え」
はい、と答えてベッドへ向かい、荷物を下ろす。ベッドのすぐ右手には窓があって、カーテンがまだ開いていたお陰で、表の通りが見えた。
完全に日が暮れた今は街灯りの数も増えて、少しだけ日本の夜景に似ている。それを眺めていると、きゅうっと胸が締め付けられるような気分になった。懐かしいと言えばいいのか、切ないと言えばいいのか、よく分からないけれど。
「夕飯までは、部屋から出ねえ範囲で自由にしていていい。俺も少し休む」
「分かりました」
しんみりしていたせいで、生返事みたいになってしまった。ううん、こんなことじゃいけない。軽く頭を振り、カーテンを閉めて振り返る――と、
「……!?」
その瞬間、思わずぽかんとしてしまった。
頭のてっぺんから爪先まで、無意識にじっくりと見てしまった後で、ハッと我に返る。あわわ、失礼なことをしてしまった。や、その前に邪魔何ならないように、ちゃんと静かにしていなきゃ……! 忍び足で自分のベッドの近くに戻って、そうっと座る。
ふかふかの布団。柔らかく沈み込む感触。
でも、それより何より気になるのは、やっぱりお隣のことだった。
(……寝て、る?)
ベッドの端に座っているベイルさんは軽く顔を俯けていて、腕を組んだ姿勢のまま動かない。ほんの小さく寝息が聞こえるのでなければ、何か考えごとをしているように見えるくらいだった。
考えてみれば、ベイルさんは粋蓮を出発してから今まで、睡眠どころか満足に休憩も取っていなかったはず。考えてみれば、疲れていない方がおかしかった。
日も沈んで、暗くなった部屋の中はほんのりと肌寒い。ベッドから慎重に立ち上がって、着ていたコートを脱ぎながら、そそくさと隣のベッド――ベイルさんの背後に回り込む。ないよりマシくらいにしかならないかもしれないけれど、コートを肩にそっと掛けた。
……反応はない。起こさずに済んだ、のかな。
ほっとして、自分のベッドに戻る。ついでに鞄を開けて、新しいシャツを取り出した。着替えるのなら場所を変えた方がいいのかもしれないけど、ベイルさんは寝ているんだし――まあいいか、って。
今着ているシャツは、左手が傷ついた時に血で汚れてしまった。後で洗って落ちればいいんだけど……と少し憂鬱な気分になりながら、苦労して右手だけで服を脱ぐ。左手はまだ包帯が巻かれたままで、動かすとちょっと痛いのだ。片手が使えないのは不便だけど、こんなことまで助けてもらう訳にもいかないし、練習みたいなものだと思うことにしよう。
いつもよりも時間をかけて着替えを済ませると、何だか身体が重い。ひょっとして、私も疲れているんだろうか。
『そなたも、少し眠ればいい』
頭の中で、囁く声があった。うん、と深く考える前に答えている。ベッドに上がった途端、意識はぷつっと途切れた。




