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鏑矢は放たれた・03

 きらり、何かが光ったような気がした。

重い瞼を押し上げれば、青く晴れた空の真ん中、遠く輝く太陽が目に入る。もう朝かあ。眩しすぎる光から顔を逸らし、目をこすっていると、

「お目覚めかい」

 呼びかけられて、飛び上がるかと思った。

 びくりと肩が跳ねる。ひえ、と上げかけた悲鳴を飲み込んで隣に顔を向けてみると、ゴーグルを掛けたベイルさんが私を見下ろしていた。

「お、おはようございます。す、すみません、いつの間にか寝ちゃったみたいで……」

「謝ることはねえさ。眩しかったら、ゴーグルを使うといい」

 そう言われて、首に掛けたゴーグルの存在を思い出した。目元まで引っ張り上げて装着すると、驚くほど世界が見やすくなった。何も遮るもののない太陽の光も、もうそんなに気にならない。何か魔術がかけてあるのかもしれなかった。

すっきりした視界でまた隣を見上げると、不思議なものが目についた。空を進むウェンテはそこまで速くないのか、吹きつける風もそんなに強くはない。けれど、その風で前髪が流れて、ベイルさんの額が露になっている。今までは髪で隠れていた、左側の方。黒い紋様。細かく書き込まれたデザインは綺麗だと思うのに、見ていると妙に落ち着かない気分になった。

「お前は聡過ぎる。あまり見ねえ方がいい」

 見上げていた横顔がこちらに向いて、我に返る。

その時になって、やっと身体が変に緊張していることに気が付いた。やけに力が入っているというか。

「すみません、じろじろと」

「いや。それにしても、お前はすぐに謝るな。それが悪いとは言わねえが、謝るのは自分に非がある時で十分だ」

「……はい」

「ま、俺が口出しすることでもねえが。――前を見てみろ」

 促されて、指さされた方を見る。淡い碧色が、ある地点から深い緑色に変わっていた。湖の先に、広大な草原が続いているのだ。

「陸に着いたら、一旦休憩だ」

 その言葉から数分もしないで、ウェンテは陸地へ降り立った。エンジン? を切って、ベイルさんが運転席から降りても、宙に浮かんでいる。私も地面に降りてみたものの、どういう仕組みで動いているのか、気になって仕方がない。周囲を歩き回っていると、

「ウェンテのことは後で説明するから、今は大人しくしてろ。鞄の中に水と食料が入ってる。何か胃に入れとけ」

「あ、はい! すみません」

 座席に置いた鞄を開けて、食料の詰まった革袋と水筒を引っ張り出す。革袋の中には、スコーンのような焼き菓子と、干し肉があった。とりあえずスコーンを一つ取り出して、かじる。

「これから、ホヴォロニカに向かうんですよね?」

 スコーンをかじりながら問い掛けると、ベイルさんは干し肉をくわえたまま「ああ」と頷き、座席の上に広げた地図とコンパスを示した。

「国境の街ホロスを経由してホヴォロニカに入り、まずはアランシオーネに向かう。今は、ここだ。セトリアの南東部」

 長い指が地図の上を辿り、アランシオーネへの経路が示される。ここからだと北東にある街だ。

「アランシオーネに、今夜は泊まるんでしたっけ」

「そうだ。順調にいけば、夕暮れには街に入れる」

「街は、夜になると門を閉めてしまうんですよね?」

 遺跡にいた時、ヒューゴさんが教えてくれた。

主に魔物の侵入を防ぐ為に、大きな街は必ず厚い壁で囲まれている。街への出入りには壁の四方に設けられた門を利用するのだけれど、やっぱり夜は危ないから閉じられてしまうのだそうだ。

「一般的にはな」

「アランシオーネは違うんですか?」

「と、いう話だ。あの街は地竜のお膝元で、だから並の魔物も賊も近寄らねえと聞く」

「りゅ、竜がいるんですか?」

「いる、と言うのは正しくねえな。竜の宿る巨木の周りに、わざわざ街を作ったんだ。その竜は争いを嫌う性質で、足下の街の治安もすこぶる良好。外敵もまず寄ってこなけりゃ、門を閉じる必要もねえんだろう」

「へええ……そんな街もあるんですね」

「唯一無二だろうがな。――ま、追手の連中にもまともな頭がありゃ、アランシオーネにいる間はまだ安全なはずだ。一度に二体の竜を敵に回すような真似は、普通なら避ける」

「です、よね。……あ、国境を越える時も、何か調べられたりしますか?」

「ああ。だが、指名手配を受けてる訳でなし、正規の監査を通ったところで問題はねえだろう」

 そう言って、ベイルさんは地図を畳み、コンパスと一緒に鞄にしまった。残りの干し肉を口に入れてしまうと、もうウェンテに跨る。

「もう休憩はいいんですか?」

「お前がいいならな」

「私は、寝てたので……。ベイルさんこそ」

「俺はいい。休むなら、街に着いてからの方がいいからな。で? もういいのかい」

「はい、大丈夫です」

 頷いて、アウィスに乗り込む。ベイルさんを真似て鍵を使ってみると、すぐに足の下から起動の気配が伝わってきた。

「それじゃ、今度こそハーヴィの構造講義といくか」

 ベイルさんがウェンテを発進させる。あっという間に加速して、すぐに湖は見えなくなってしまった。

「まず、魔力を含む鉱物全般を魔石と呼称する。ウェンテに組み込まれてるのは、浮遊石と風魔石だ。浮遊石は吸った魔力を浮力に、風魔石は風属性に換える特性がある」

 ベイルさんは淡々と語る。

 人が乗っていなくてもハーヴィが浮いているのは、魔石が自動的に周囲の魔力を吸収し、浮力に変換しているから、らしい。

「ウェンテは浮遊石で浮き、風魔石を介し変換された魔力を用いて風を起こし、飛行する」

「風属性は、空まで飛べるんですね」

「誰でも飛べるって訳じゃねえがな。かなり得手不得手の差がある。――ざっくりだが、説明とすればこんなところだな」

 それからは、ぽつぽつとこの世界の話を聞いた。こちらの世界にはたくさんの種族が存在するようで、私が教えてもらった以外にも、有翼族や鉱人族、人魚族……とにかく、たくさんあるらしい。

「ホヴォロニカは、有翼族と樹人族が多いそうだ」

「アランシオーネもですか?」

「さて、どうだかな。この前来た手紙にゃ、鉱人族の商人一家が街に根を下ろして、親しくなったとは書いてあったが」

「知り合いの人がいるんですか?」

「昔の部下だ」

「……アルトにいた、頃の」

「軍人をしてた頃の、な」

 あっさりと、ベイルさんは言う。

 部下がいて、「アルトゥ・バジィ国軍の最大戦力」なんて呼ばれていて。きっと、ベイルさんは軍でも偉い人だったに違いない。それなのに、今は軍人じゃなくて、傭兵をしている。どうしてだろう。

 そこまで考えて、止めた。気にはなるけれど、きっと、そんなに軽々しく訊いていい話じゃない。開きかけた口は閉じて、黙っておくことにする。

「俺は、アルト国軍の非正規部隊に所属してた」

 けれど、まるで私の考えていたことを見透かしたみたいに、ベイルさんは淡々と続けた。

 え、と反射的に声が出たのは、まさか続きを話してもらえるなんて思っていなかったからでも、ベイルさんの言う「非正規部隊」という意味がよく分からなかったからでもあった。

「非正規って、どういうことですか?」

「公には存在しないとされていた、と説明すれば分かりやすいかい。俺も書類上は正規部隊の佐官になってたし、実際にそっちの仕事も掛け持ってたしな。あくまで本業は非正規の方だったが――まあ、上の連中にとっちゃ、大層使い勝手のいい駒だったろうよ」

 諜報から暗殺、前線での戦闘まで何でもやった。

 乾いた声で呟くベイルさんは、私に話しているのではなく、ただ口に出して過去を思い出しているようにも見えた。

「部隊はグナイゼナウ少将の管理下、グナイゼナウ部隊と呼ばれた。終戦間際は、少将の私兵じみた扱いになってたがな」

「グナイゼナウ少将は……」

「直属の上司だった。今でも軍で辣腕を揮ってるだろう。大人しく暗殺される御仁でもねえ。……俺は、その部隊の直接指揮を任されてた。最終階級は中佐――いや、戦死待遇で准将だったか」

「え?」

 今、ちょっと、おかしなことを聞いた気がした。

「……あの、今、戦死って?」

「ああ。軍人としては、五年前に死んでる。講和条約を結ぶのに、あの部隊が邪魔になったらしくてな。あっさりと全員丸ごと首切りだ」

 どこまでも乾いた声で言われて、言葉が見つからなかった。そんな……邪魔になったから切り捨てるなんて、あんまりだ。ひどすぎる。

「横並びで斬首になるところを、少将の機転で助かった。表向き戦死にして、軍を抜け出してな。かつての部下で生き残った連中は、皆大陸中に散って好き勝手生きてるそうだ」

 そう締めくくり、ベイルさんは口を閉ざした。

 こんな事情があるのなら、誰にも過去を喋らなくて当然だ。処刑されたはずの人が生きているなんて分かったら、大騒ぎになる。――なのに、どうして。

私は知りたがってしまったかもしれないけれど、やっぱりこれは絶対に教えていいことじゃない。

「ベイルさん、こんな重大なこと、何で私に」

「そっちの事情を聞き出しておいて、こっちがだんまりってのも不公平だろう」

「事情なんて、私のは全然、」

「或いは」

 私の言葉を断ち切るように、ベイルさんが言う。強い響き。はっとして口を閉じると、

「この五年、誰にもその話をしなかったからな。昔語りでもしたくなったのかもしれねえ」

 そう語る声は、もういつも通りの様子だった。

 でも、と言葉には出さないで思う。たぶん、ベイルさんは本当のことを言ってはいないのだ。私が気にしないように、また変に謝ったりしないように、わざわざそういう言い方をしてくれている。

「じゃあ、あの……ちょうどいいですね。私なら、ハイレインさんのところに着いてしまえば、その後誰かに話がバレちゃったりしなくなりますし」

「そう言えば、そうだったな」

 今思い出した、みたいな言い方でベイルさんは答える。でも、それこそ嘘だ。ベイルさんが仕事のことを忘れるはずがない。

「……ありがとうございます」

「礼を言われることをした覚えはねえが」

 さらりとした口振りに何だかむず痒いような気分になって、私は逃げるように地平線に目を向けた。



「ホロスが見えてきたぞ」

 ベイルさんがそう言って前を指差したのは、太陽もすっかり高く昇った頃のことだ。向かっている方向の地平線に、灰色の輪郭が見える。距離が近くなると、もう見慣れた壁だと分かった。

街を囲む壁に築かれた門の前には、ずらりと馬車やウェンテが並んでいる。ハーヴィも最後尾に並んだ。

「ゴーグルと帽子は外しとけ」

 ハーヴィの速度を落として、ベイルさんが言う。

「下手に顔を隠して、痛くねえ腹を探られるのも面倒だからな」

はい、と頷いてゴーグルを外し、かぶっていた帽子も膝に乗せる。そうして待っていたのに、列の進みったら遅くて遅くて。順番が回ってくるまでには、一時間も二時間も経ったように感じられた。

「お待たせしました。ホロスへは、どんな用件で?」

「通過するだけだ。目的地はアランシオーネ」

門のすぐ前にまで進み出ると、監査の担当らしき人が近付いてきた。答えながら、ベイルさんは鞄から一枚のカードを取り出す。差し出されたそれを監査の人は慎重な手つきで受け取り、何か呟く。

 その瞬間、カードから紋章のようなものが浮かび上がった。3Dの立体映像みたいに。

「……確認しました。どうぞ、つつがなく任務を終えられますよう」

 そんな言葉と共にカードは返却されて、監査の人は次の順番の人のところへ移っていった。ベイルさんもカードを鞄に戻すと、ウェンテを再発進させる。

門をくぐった先には、壁と同じ灰色の街並みが広がっていた。大通りは賑やかで、たくさんの人や馬車が行き来している。私たちのウェンテも、すぐにその中に埋もれてしまった。

「こんなに簡単でいいんですか?」

「ホヴォロニカも商会の活動範囲内だからな。部隊長の身分証明は、それなりに役立つ」

「じゃあ、街を出る時も?」

「ああ、大して変わりやしねえ」

 ベイルさんの言う通り、人でいっぱいの大通りをまっすぐに進んで、また見えてきた門を出る時も、カードを見せるだけだった。あっさりすぎるくらいあっさいと送り出された門の外は、また一面の草原。

 ううん、と思わず唸ってしまう。違う国に行こうとしたら、パスポートを用意して、空港で外国語の質問に答えたりしなきゃいけない。そんなイメージがあっただけに、逆に拍子抜けだ。

「何だ、いきなり唸って」

「もっと、こう、いろいろ大変な手続きがあるのかと思ってました」

「ま、実際はこんなもんだ」

 そんな会話の中、ハーヴィはホロスの街から伸びる街道を進んでいく。ずうっと、地平線まで緑色。だからなのか、セトリアとは風の匂いも違うような気がした。そのことを伝えてみると、

「さすが、と言うべきか。呆れるほど鋭いな。ホヴォロニカは風の魔力を強く帯びた土地だ。その差を感じ取ってるんだろう。俺もそこまでは分からねえな」

「ベイルさんでも、ですか」

「俺でも、何でもできる訳じゃねえさ。そう言えば、お前は記憶を封じられていると、ハイレインが言ってたろう」

「あ、はい、そう言えば」

「昨日荷物を纏めがてら聞いてきたが、奴はその呪いを解こうとして、解けなかったらしい。『空蝉では』と言ってたが、存外竜も役に立たねえ」

「や、でも、それは竜の人でも難しいっていう、大変なことなのでは」

「どうだかな。ともかく、奴はしくじった」

 ベイルさんはきっぱりと言い切る。て、手厳しい。

「ええと……なら、アイオニオンに着くまで、その記憶っていうのは、戻らないんでしょうか」

「いや、そうでもねえだろう」

「はい?」

 問い返す声が、引っくり返った。冗談だろうか。ハイレインさん――竜にできないことなのに?

「お前はハイレインをして奇跡と言わしめた。だったら、自分で取り戻せる可能性もなくはねえだろう」

「……それは、その、冗談」

「のつもりはねえが」

 恐る恐る口に出した言葉は、さっくりと先回りで否定された。そ、そんな無茶なぁ……!

「私は、全然、できる気がしませんけど」

「俺は、できると思うがな」

 否定を真っ向から打ち返す肯定の声には、少しの迷いもない。どうしてそんな風に断言できるのか、私にはさっぱり分からないけれど。

――でも、そこまで言ってもらえるのなら。

「……ううん、何とか、頑張ってみます」

「無理はしなくていいがな。アイオニオンに着けば、どの道万事丸く収まる。しかし、記憶やら何やら封じられてる割に、昨日は戦えてたな」

 昨日? あ、遺跡でのことかな。

「あれは、私も何でか分からないんですけど」

「ふむ……。封印されても、何か残った物があるのかもしれねえな。アランシオーネに着いたら、試してみるかい」

「試す?」

「戦闘状況下において、無意識ながらも発揮されたんなら、存外戦ってたら何か思い出せるかもな」

「ま、また、戦うんですか!?」

「お遊び程度だ。もちろん、加減はする」

「その相手を、ベイルさんが」

「他にいねえだろう。――怖いかい」

 少し、と口の中で呟く。怖くない、なんて強がりは言えない。遺跡で戦いのようなものを経験したからこそ、やっぱり怖いと思うし。

……でも、やっぱり狙われているのは私で、その為にあんなことになってしまったのだから。ああいう被害を減らす為には、少しでも努力はしないと。

「無理強いするつもりはねえが」

「あ、いえ、大丈夫です。やります」

 だから、決めた。

 気遣ってくれる言葉に首を横に振る。答えると、ベイルさんがちらりと私を見るのがわたった。

「えらく思い切りがいいな」

「だって、やっぱり、何もしなかったら、何もできないままですよね。粋蓮の街もあんな風になっちゃいましたし、私も何かしなくちゃ」

「……周囲への被害が気になるか」

 ふと呟いたベイルさんが、唇を歪める。

「そこは普通、自分の生存確率を上げる為だと考えるんじゃねえのかい。周りを気にするより先に」

「え? あ、それもそうかもですね。すみません」

「謝ることじゃねえが――」

 言いかけて、不意にベイルさんが言葉を切る。

 その理由は、私にも分かった。変な感じに空気が重い。まるで空から押さえつけられているみたいだ。気付けば、ハーヴィも停まっていた。ベイルさんが停めたはずはないから――じゃあ、停められた?

(――七時の方向)

 頭の中で囁く声がした。方向の次は、角度を示す。それが誰の声か考えるよりも早く、左手が動いた。かざした手に魔力が集まって、弾けるように放たれる。

そのすぐ後、ちょうど左手の教えられた方向で、ひどく大きな音がした。やったことはないけど、たくさんの風船を一気に割ったような。

「――おわぁっ!?」

 それから、急に空中から人が投げ出されてきた。どさどさと、何人も地面に転がり落ちる。見るからに屈強な、大人の男の人がたくさん。二十人、もっといるかもしれない。約束が違う、そんな馬鹿な、と口々に言いながら立ち上がり、私たちへ武器を向ける。

 ぞっとしたけれど、どうしてなのか、身体は震えるとか竦むよりも先に、他のことをしようとしている。

「追手か」

 面倒臭そうに、ベイルさんがこぼす。その声を聞きながら、私は空を見上げていた。ふらふらと目線が泳ぐ。勝手に。これは、何かを探している? ……私自身が、何を探しているのかも分かっていないのに?

「直生、無茶はするな」

 釘を刺された瞬間、空へ向いていた視線が膝の上に落ちた。私の目は、もう何も探していない。何を探していたのかも分からなかったけれど。

 何だったんだろ、と思わず首を傾げる。


『やれやれ、まさかの大物が釣れてしまった』


 その時、皮肉っぽい声がして、目の前が真っ白く塗り潰された。空も太陽も草原もない、のっぺりと白い世界。不思議と身体は動かなくて、目も逸らせない。

 そんな世界の中心に、そのひとは立っていた。

『久しぶり――と、言うほどでもないか』

 斜に構えた笑みを浮かべ、その人は言う。少し頭を傾ける仕草に流れる長髪は深い紅で、涼しげな瞳は鮮やかな緑。女の人みたいに、線の細い男の人。

 ……誰だろう。

 不思議に思った時、背中の向こうに気配を感じた。振り向こうとして、それよりも早く伸びてきた腕に止められる。白く細い腕に背中から抱き締められて。

『相変わらず、それは君に懐いているな』

 からかう声。しゅるる、と背後で上がる威嚇音。

その音に反応したのか、いくつかのイメージが頭の中に浮かんでは消えていった。うん、そう……そうだった。お母さんか姉妹みたいに私に優しくしてくれた「彼女」は、この人をとにかく嫌っていた。

『さすがの魔祇(まぎ)も、こうなってしまっては罵倒の一つも叶わないか。いや、滑稽滑稽』

 威嚇が高まる。抱き締める手を撫でて宥めると、明らかに渋々な感じではあったけれど、音を消してくれた。赤い髪を揺らせて、あの人はまた笑う。

『君は従僕と違い、いつも理性的で助かるよ。――中佐に伝えてくれ。あなたの前には有象無象は塵芥に同じ、無駄でしかない。今後の追手は私の配下、四人に絞る。貴方が勝っても負けても、私にとっては喜ばしい。竜の腕をよろしく頼む、と』

 さらりと告げられた内容に、目が見開く。

もしかして、と口に出しかけた質問は、抱き締める手に、今度は私が腕を叩かれて飲み込んだ。言葉はなかったけれど、何となく何を言いたいのかは伝わってくる。止めておきなさい、というストップ。

確かに、そうかもしれない。勢いで訊きかけてしまったけど、うっかり答えなんて聞いてしまったら、それはそれでショックになりそうな気がした。

「伝言をしろ、それだけですか?」

『ああ、それだけだ』

「それじゃ、不公平ですよ。ご褒美とか、ないと」

 折角だから物は試しに言ってみると、あの人はおかしそうに笑った。それもそうだ、と右手を翳す。

『では、その蛇を返してあげよう。私には価値がないからね。伝言のご褒美だ。――さあ、行きなさい』

「……っ!」

 がくん、と身体が揺れる。

 はっとして顔を上げると、周りはもう見慣れた草原だった。空も、太陽も、ちゃんとある。

「戻ってきたか。単なる対話用の術式だったから、邪魔しねえでおいたが」

 隣から聞こえてきた声に、びくりと肩が跳ねた。問題はなかったかい、と続けて尋ねる声に頷く。

「たぶん、私を呼んだ人で――伝言、が」

 隠しておこうとか、そういうことを思った訳じゃなかったけれど、何となく顔を上げて答えることができなかった。

 伝言、とベイルさんが繰り返して呟く。

「まあいい、後で聞かせてもらう。ひとまず始末は終わったからな」

 始末は終わった? その言い方に驚いて辺りを見回してみれば、そこら中の草地に男の人たちが倒れていた。ぴくりとも動かない人もいる。

まさか、と息を呑むと、

『死んではおらぬ。皆、生きている』

 また頭の中に響く声。ああ――彼女(・・)だ。

その言葉なら、きっと間違いはない。ほっと息を吐いて、気を取り直す。

「私、そんなに長い間、その、呼ばれてました?」

「いや。単にこいつらが大した腕じゃなかった」

ベイルさんがばっさりと切り捨てれば、それに低く罵り返す声があった。

「くそ、ようやく思い出したぜ」

 声の方へ目を向けてみれば、倒れていた男の人の一人が、歯を食い縛って顔を上げるところだった。額から赤い血が流れている。

「てめえ、アルトゥールの一番隊長だろ。そんな化け物の相手なんざ、してられっかよ。俺だって命が惜しい、もうお前らには手を出さねえと誓う。だから、見逃してくれねえか」

「仕掛けてきたのはそっちだ。都合が良過ぎるな」

 かすれた命乞いにも、ベイルさんの返事は冷たい。男の人は顔をしかめ、頭を振る。

「依頼人の情報も、依頼の内容も全部話す。頼むぜ」

「それだけで?」

「噂通りの冷血っぷりだな、分かった、何でも言うことを聞く。そっちの望みは何だ」

「お前に叶えられるような望みは、何一つとしてありゃしねえさ」

 滑らかなほどに躊躇いなく、ベイルさんは言い切った。男の人の顔が青ざめる。

その絶望を絵に描いたような表情が、かつて対峙した誰かに、重なって見えたような気がした。

「ベイルさん!」

 気付けば、叫んでいた。口を出すべきじゃない。それは、分かっていたけれど。

「もう、行きましょう。ここで足止めされてたら、目的地に着く前に日が暮れちゃいます」

「始末に時間は掛けねえさ」

「――そうじゃなくて!」

 どうしてこんなに必死なのかは、自分でも分からなかった。ただ、目の前で人が死ぬ――殺されるということが、恐ろしくてならなかった。

「あの人は、もう手を出さないと言いました。他の人だって、もう動けません。十分じゃないですか」

「見逃す甘さが命取りになることもある」

「ならないかもしれませんよね」

「なるかもしれねえし、ならないかもしれねえ。――が、なってからじゃ遅い」

 淡々と畳み掛けられて、言葉に詰まる。

「情けをかけた相手に寝首を掻かれたんじゃ、笑い話にもならねえだろう。少しの間でいい。目を閉じて、耳を塞いでろ」

 そんなこと言われたって、できない。無理だ。

項垂れて、最後の悪足掻きのように首を横に振る。それきり会話は途切れて、寒々しい音を立てて風が流れていった。ひどく気まずい、静寂。

「……分かった」

 ふと、ため息混じりの声が聞こえた。驚いて顔を上げれば、隣からゴーグル越しに見下ろす目。

「そこまで言うなら、見逃すさ。――ただし」

 そこで言葉を切り、ベイルさんは倒れたままの男の人へ目を向けた。

「口止めはするし、相応の対価は払ってもらうがな」

 そう言い放たれたかと思うと、ぞっとするほど冷たい風が流れた。呻き声があちこちから上がる。

「依頼主と依頼内容を吐いたら、全員連れてとっとと消えろ」

「あ、ああ……」

「今掛けた呪いがどんなものかは、分かるだろう」

「喋れば、殺すんだろう」

「見逃すといった建前、そこまではしねえさ。精々が利き腕の反応が鈍るくらいだ」

「十分じゃねえかよ」

 しかめっ面で言って、男の人は溜息を吐く。それでも、呪いを受けたにしては落ち着いた表情で、ぽつぽつと語り始めた。

「俺はセトリアの傭兵だ。今日の昼前、妙な奴がギルドに依頼に来た。赤い髪に緑の目の、色白で細っこい野郎だった」

 赤い髪に緑の目。どくりと心臓が跳ねる。

「前金で金貨十枚。標的を連れてくりゃ、更に十五枚出る。しかも、標的んトコまでタダで転移させてやるって触れ込みだ」

「明らかに胡散臭いだろうが」

「だからって、こんな儲け話を見過ごせるかよ。とにかく、それで俺たちはここまできた。こんだけの人数を軽々転移させるって時点で、いよいよヤベえとは思ってたけどよ」

 そこまで言って、男の人は言葉を切った。

「それだけかい」

「それだけだ」

「予想通り、大した手掛かりにゃならなかったな」

 肩をすくめてみせてから、ベイルさんはハーヴィに魔力を込め直す。すぐにエンジンは掛かった。

「一つ忠告しておいてやる。しばらくはメリノットか、更に東にでも逃げてるんだな」

「ああ、おっかなくてセトリアにゃ戻れねえよ」

「それが賢明だ」

 ハーヴィが動き出す。加速。ぐっと座席に身体が押しつけられる感覚に、私は黙って耐えた。

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