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鏑矢は放たれた・02

 怪我をした人の手当てや、その他の後片付けを終えると、ベイルさんはヴィサさんに隊を率いて砦に戻るように指示を出した。ここから何か別行動をするのかな。横で聞いていた私は不思議に思ったし、たぶんヴィサさんも首を傾げていたからそうなのかもしれないけれど、理由を尋ねることはなかった。了解、と真面目な声で答えると、その命令があったことを周りに知らせて、あっという間に皆で遺跡を出て行った。

 そうして篝火が消され、人気のなくなった遺跡は、ひどく物淋しく感じられた。取り残されたのは私とベイルさんに、ヒューゴさんと二人の子供だけ。

「ヒューゴ」

 おもむろにベイルさんが口を開いた。

「この子供は、お前の話をよく聞くかい」

「まあ、それなりにはな。馬鹿じゃねえし」

「なら、お前が訊け。島を出て逃げるのと、ほとぼりが冷めるまで砦に隠れるのと、どっちがいいか」

 ベイルさんがそう言った途端、男の子が「ふざけんな!」と裏返りかけた声で怒鳴った。ヒューゴさんも眉を寄せて、賛同しかねる面持ちをしている。

「そこまで過敏になることかよ? こいつらだって生活があるんだぜ。砦に入り浸ってたなんて知れりゃ、遺跡の連中から爪弾きにされちまう」

「冗談や酔狂で言ってると思ってんのかい。現場に居合わせた以上、関係者だと見なされる。この件に興味を持つ連中に捕まって、尋問だの拷問だのをされても構わねえってなら、別にどこへ行こうと残ろうと構わねえがな」

 淡々とした口振りは、かえってその内容を恐ろしく聞こえさせた。今度はもう反論もなく、苦い沈黙だけが返される。しばらくして、諦めたような顔でヒューゴさんが口を開いた。

「分かったよ、こいつらはベイセルに預けとく。あいつなら信用できるかんな。ガキの面倒見んのも好きだし、十分な後ろ盾もある。この際、利用させてもらうしかねえ」

「となると、お前がラクスへ渡りをつける必要がある」

「ああ、しばらく護衛を外れる。悪いが、こいつは譲れねえ」

「……それが落とし所か。分かった、早く済ませて合流しろ」

「そのつもりだ。……あー、都合の悪い時に都合の悪いところに出てきやがって。おら、立て」

 ヒューゴさんに促されて、子供たちが立ち上がる。

「ヒューゴ、俺たち――」

「話は後だ。ベイル、俺たちはウスガレにでも潜んどく。荷物は後で取りに行くが、しばらく顔は出せなさそうだ。会長のおっさんや、シェルにはよろしく伝えといてくれ」

ヒューゴさんたちが慌ただしく出発すると、ベイルさんも私を背負い、足早に遺跡を離れた。左手の痛みは治まっていたけれど膝が震えていて、立ち上がることはできても、ちゃんと歩けなかったからだ。

すみません、ああ、と短いやりとりとした後は会話もなく、ベイルさんは黙々と昼間歩いてきた道を戻っていく。広い肩に掴まりながら、私はひどく申し訳ない気分でいた。謝ったって、きっと私が楽になるだけだ。でも、どうすればいいんだろう。

「お前も、親がいねえのかい」

ひたすらに迷っていると、突然に言われた。質問の急なタイミングもだけれど、それ以上にその内容に驚いて、一瞬何を言われたのか分からなかった。

「……わた、し、ですか?」

 短い間を置いてから訊き返すと、ベイルさんは「ああ」と相変わらずの調子で続けた。

「さっきの子供が孤児だと知った時、顔色が変わったろう。単なる同情や驚きにしては、妙な表情だったからな」

 それだけ言って、また口を閉ざす。問い掛けておきながら答えを求めていない風なのが少し不思議で、逆に気が楽になった。

 だからか、自然と口が動いていた。

「砦で、慶寧君と、話をしました。……この世界では、私たちのような子供は、多いですか」

 まあな、とベイルさんは軽い相槌を打つ。

「街には大概孤児院があるが、そこに入れるのは運のいい奴だけだ。ほとんどは薄昏や、さっきの遺跡のような場所で生き延びるか、のたれ死ぬ。辺境の農村じゃ、十人生まれて三人残ればいい方だ。商会が引き取ってる連中のように、賊や魔物の襲撃で家族を失う場合も少なくねえ」

 想像を絶する世界だった。ごくりと息を呑む。

「大変な、世界ですね」

「どこの世界だって、生きるのは楽じゃねえだろう。日本だったか。平和な、お前の国でも」

 そうかもしれない。はい、と頷く。それにしても、あの一瞬だけで言い当てられるなんて。

「ベイルさんは、凄いですね。一瞬で見抜けて」

「大したことじゃねえさ。お前は今まで、一度も親という言葉を口にしなかった。それを踏まえれば、推測できねえ話じゃねえ」

「え?」

「薄昏で、俺は訊いたろう。親はどこか、と」

「あ……はい、そう言えば」

「お前は『家族はここにいない』と答えた。『親は』と訊かれて、わざわざ『家族は』と言い換えて答える奴は、そう多くねえだろう。意図したんでなけりゃ、そう答える癖がつく事情があるってことだ」

 何でもない風の語りに、私はただただ呆気に取られていた。あの短いやり取りの中から、そこまで読み取ることができるだなんて。

「本当に――凄い、ですね」

「気に食わなきゃ、これからは止めとくが」

「え?」

「自分の口に出す言葉をいちいち深読みされるってのは、存外鬱陶しいもんだ。我ながら厄介な癖だとは思うがな」

「そんな、大丈夫です。馬鹿なことばかり言ってるって呆れられてしまわないか、心配なくらいで――」

 ……って、何を言っているのか、私は。

「ええと、その、とにかく、大丈夫です」

そうかい、と答える声を聞きながら前に目を向けると、遠く街が見え始めていた。なのに、ベイルさんの歩みは道を逸れていく。不思議に思っているうちに街を取り囲む壁が間近になり、

「ヒィ!?」

何度目かの悲鳴が喉から飛び出す。

ベイルさんは軽く壁の上に飛び乗ると、壁から屋根へ、屋根から屋根へと次々に飛び移り始めた。

「どうした?」

「わ、私、ですね」

 答える最中も、跳躍は続く。目が回りそうだった。

「た、た、高いところが、駄目なんです……!」

「どうりで。次回からは別の手段を考えるが、今回はまあ、後少しだから辛抱しろ」

 さらりと言われて、また気が遠くなりかかる。私はもう、目の前の肩にしがみつくしかできなかった。



ベイルさんの言った通り、街を抜けるまでにそれほどの時間はかからなかった。けれど、その短い時間でも私が震え上がるには十分だった。

街は、あちこちが壊れていた。それが、全部私がこの島にいたせいだというのなら。

「ベイルさん、あの、街はどうなりますか。すごく壊れていましたけど、私、どうしたら」

「どうもする必要はねえ。街の復旧は島主の考えることで、お前が気にすることじゃねえし、お前のせいでもねえ」

「……でも、私がいたせいで」

「街を壊したのは魔物で、それ意図したのは奴らを送り込んできた黒幕だ」

 きっぱりとした断言。少しの躊躇いもなく。

「ほ、本当に、それで、いいんでしょうか」

「ああ。信じられなきゃ、信じられるまで説明してやろうか」

 その言葉は、どこか冗談めかして聞こえた。慰めるというのは、少し違うかもしれない。けれど、私が気にしているから、気を使ってくれたのだと思う。

じわりと、胸の中があたたかくなったような気がした。ありがとうございます、と言おうとして――ハッとする。

「あ、あのう」

「ん」

「……その、ベイルさん、怒って、ます、よね」

「怒るって、何を」

 返ってきた声は、ひどく怪訝そうだった。……あ、あれ? 何で?

「や、その、私、散々勝手に――」

「それに関しちゃ、もう話がついたろう」

「え、あ、そ、そうですか」

「ああ。……俺が黙ってたから、そう思ったのかい」

「そう、というか……あの、やっぱり迷惑をかけてしまったのは、確かなので……」

 もごもご言っていると、ぴたりとベイルさんの足が止まった。

「――あの時。飛び出してったのは、危険だと思わなかったからじゃねえだろう。それが、正しいと思ったんだろう」

 静かな言葉に「きっと」とだけ答える。あの時のことは無我夢中で、ほとんど覚えていない。

「俺はお前を守るのが役目だ。その護衛対象に軽々しく動かれちゃ困る。だから、釘を刺した」

 存外戦えてはいたがな、とベイルさんは呟く。あれ私も不思議だった。この島に来る前のことに関係しているのかな、とは思うけど……。

「それでも、お前は反論して良かった。俺の言葉は、他人を顧みず自分を守れと言ったに等しい。それはお前の物差しじゃ、正しいとは思えねえんだろう」

「……その、すみません」

「謝ることじゃねえ。心底正しいと思って取った行動なら、恥じるところはねえはずだ」

 そう言って、ベイルさんは言葉を切った。

「お前はもっと我を通していい。何でもかんでも呑み込んで、折れてりゃ穏便に済むって訳でもねえ」

 何と答えたらいいのか分からなくて黙っていると、それからすぐ砦に到着した。砦を囲う壁の周りには、怪我をした人や、その手当をする人でごった返している。ベイルさんは人がたくさんいる辺りから少し外れたところで立ち止まると、私を地面に下ろした。

「癒術師を呼んでくる。ここで大人しくしてろ」

 そして、私が答えるよりも早く、人ごみの中に紛れていってしまった。大人しくしてろと言われても、まずまだ歩く気力もないのに。

 はあ、と息を吐いて、左手を目の前に持ってくる。ペンキの缶に突っ込んだみたいに真っ赤になっていた手は、遺跡で応急処置として水で流す程度に軽く洗われて、包帯が巻かれていた。水が掛けられた時は飛び上がりそうなほど痛かったけれど、今はもう全然。指を曲げてみても、ちっとも痛くない。

 丁寧に巻かれた包帯も、内側から滲んだ血であちこちが少し赤くなっているものの、染みが大きくなる感じもない。血が止まってるのかは分からないけど、痛みがないのと同じで、ベイルさんが何か魔術でしてくれたお陰なんだろうと思う。

「ナオー」

 意味もなく左手を表裏にくるくる回していると、名前を呼ぶ声が聞こえてきた。首を伸ばして探せば、人ごみを窮屈そうに掻き分けてやってくるカレルヴォさん。その顔も服も、あちこちが汚れていた。

「待たせてごめんねー、癒術師総出でも手が足りなくてさー。島外に出てる人数も多いもんだから」

「あ、それなら、私は後でも――」

「何言ってんの、後回しにしていい訳ないでしょー。それに、今俺は休憩中だから大丈夫」

「えっ、それ、大丈夫じゃないんじゃ」

「ナオを診たら休むよー。で、傷は? 裂傷って?」

 言いながら、カレルヴォさんは私の隣に片膝をついて左手を取った。血まみれの手を。

 丁寧な手つきで、血の染みた包帯を取っていく。痛くはないといっても、細切れになりそうだった手の傷口を自分の目で見る勇気はなかった。顔ごと目を逸らして、じっと待っていることにする。

 ……と思ったら、聞こえたため息。

「あのさー、これ、手当て済みだよねー? ほんと、ベイル隊長も人が悪いんだから。ここまでやってるなら、俺の出番なんてないってのに。明日には大方塞がってるだろうし、随分念入りにやってあるから、跡もほとんど残らないよー」

 そう言いながらも、カレルヴォさんは持ってきていた救急箱を開けて、新しい包帯を巻き直してくれた。

「俺だって五つの称号持ちなのにさー、ベイル隊長の前じゃ全くの形無し。あの人、癒術師でも解呪師でもやってけるよー」

「そ、そうなんですか? でも、この前、解呪師の人を探してましたよね」

「あれは、かなり特殊な呪いだったからねー」

 カレルヴォさんは唇を尖らせて肩をすくめ、それからぽつりと言った。

「ベイル隊長、〈竜の寵児〉だと思うんだけど」

〈竜の寵児〉――何度か聞いたことのある言葉だった。まだ、その意味は知らないのだけれど。

「〈竜の寵児〉って、どういうものなんですか? 〈竜の空蝉〉や〈竜灯〉も、同じなんですよね?」

「ん、竜の因子を持って生まれたヒトのことだよー。竜は膨大な魔力で、周囲の環境を自分の棲み易いように作り変えながら生きてる。だから、時々その影響で異常に強い魔力や、二つの属性を併せ持って生まれる子供がいるんだよー。そういうヒトを、大体セトリアから西は〈竜の寵児〉、東は〈竜の空蝉〉って呼ぶ。〈竜灯〉は、ミスミ独特の呼び方だねー」

「ええと、つまり……〈竜の寵児〉は、すごい」

「簡単に言えば、そゆこと。それも、とんでもなく。俺は、ベイル隊長がそれだと思うんだけどねー」

「訊いてみたこと、ないんですか?」

「あるけど、答えてもらえなかったんだよねー。『傭兵は互いの事情を詮索しねえもんだろう』って。俺は商会と契約してる癒術師で、傭兵じゃないのにー。ナオは何か知らないのー?」

「知りま、せん」

 気がつけば、そう答えていた。知っていることもあるけれど、勝手に教えてはいけない気がして。

「そっかー。ベイル隊長が子供を連れてくるなんて初めてだから、何か知ってるかと思ったんだけど」

 残念、とカレルヴォさんが息を吐く。

あ、そうだ。カレルヴォさんは魔術に詳しいみたいだし、訊いてみよう。

「あの、二重詠唱って、そんなに難しいんですか?」

「へ? どーしたの、いきなり」

「さっき、遺跡でベイルさんがやってたんです」

「ああ、なるほどねー。誰と? ヴィサ?」

「わ、私となんですけど」

 そう答えると、カレルヴォさんは目を見開き、頭を振った。信じられないと言うように。

「ホント、あの人何者なんだろねー。二重詠唱は二つの属性を重ねて別の属性にすることで――光と風で、雷とかね。よっぽど腕のいい魔術師じゃないとできない、超のつく高等技術だよー。属性同士の相性もあるし、魔術師同士の相性だってあるしね。まあ、二重属性持ちの〈竜の寵児〉は、それを自分一人でやっちゃうんだけど……ナオとベイル隊長は、何したの?」

「氷を、作った? んだと思います」

「てことは、ナオは流水? ベイル隊長は風でしょー。……属性自体の相性は、悪くないねー」

 ふむ、とカレルヴォさんが唸る。かと思えば、人ごみを見るなり、弾かれたように立ち上がった。

「噂の人が来たから、俺はもう行くよー」

「あ、はい、ありがとうございました」

「どうしたしまして! さっきの話は秘密にしといてねー!」

 頷き返す間もなく、カレルヴォさんは人ごみに飛び込んでいった。近付いてくる気配は呆気に取られる私の前で立ち止まり、静かに問い掛ける。

「怪我の具合はどうだって?」

「あっ、はい、明日には塞がってるだろうって」

「そりゃ結構。なら、出発だ」

 しゅっぱつ、とオウム返しに唱える私に、ベイルさんはいつも通りの表情で頷く。言われてみれば、ベイルさんは肩に鞄、首にゴーグルを掛けて、また出掛けるような格好をしていた。

「出発って、バドギオンへですか?」

「もちろん。シェルは部隊の引き継ぎやら何やらで、少し遅れる。しばらくは護衛が俺一人になるが、身軽を思えば差引ゼロってもんだろう」

 はあ、と訳も分からないまま頷けば、新しいコートに帽子、それからゴーグルが差し出される。

「先を急ぐ。悪いが、それ以外の着替えは落ち着ける場所に着くまで待ってくれ」

「あ、いえ、大丈夫です」

 立ち上がって受け取り、刺繍が焼け焦げて血に濡れたコートを着替える。今度のは色が黒くて、少し生地も厚かった。ついでにゴーグルを首にかけ、キャスケットに似た藍色の帽子をかぶる。

「一応、棍も持ってけ。で、これは荷物」

 手渡された鞄を受け取って背負い、地面に置かれていた棍も持ち直す。ついて来い、と歩き出したベイルさんの向かう方向には、また馬。

「また前に乗せてくから、鞄は背負わず抱えてろ」

 うわあ、と声にならない声が口を突いて出る。確かに、まだまだ落ち着けそうになかった。



 篝火で明々と照らされた港でも、たくさんの人が忙しそうに動き回っていた。ベイルさんが港の入口で馬を止めると、近くにいた人がすぐに駆け寄ってくる。

「ベイル隊長、何か火急の用事でもおありですか」

 まあな、と答えながら、ベイルさんは馬を下りた。

「ワイアットはどこだ」

「中央市場で損壊物の確認をしていますが」

「中央……ちょうど途中になるか。奴に用がある。馬はそっちで使うなり戻すなりしてくれ」

 続いて私を地面に下ろすと、ベイルさんは馬の隣で立っていた人に馬の手綱を押しつけ、颯爽と歩き出した。突然手綱を握らされ、ぽかんと目を丸くする人に会釈をし、私も後について港の中へと向かう。

建物と建物の間の通路を歩いていく間、たくさんの人とすれ違って挨拶もされたけど、ベイルさんは「ああ」とか一言返すだけとか頷くだけとかで、一度も足を止めなかった。そうしてしばらくすると、広い場所に出た。ベイルさんは足を止めて、広場の端で木箱に座っていた男の人へ呼び掛ける。

「ワイアット!」

 木箱に座っている人が顔を上げた。ベイルさんを見て、その次に私を見て、首を傾げる。億劫そうに立ち上がると、ゆったりした足取りで近づいてきた。

「何の用――いや、どういう事情かな、ベイル」

「島を出る」

「今から? えらく急な話じゃないか」

「急ぎの依頼だ。説明の要求、文句その他は上に直接言え」

「お前らしい言い草だねえ。で? 俺に何の用?」

「倉庫の鍵を、お前が持っていると聞いた」

「まあ、備品の確認もついでに任されたからな」

「ハーヴィは無事かい」

「……虎の子の最新型を持ち出すって?」

「許可は出てる」

 言いながら、ベイルさんはポケットから何かを取り出した。横から覗いてみると、澄んだ緑色の結晶だと分かる。端に穴が開いて、細い鎖が通されていた。私人差し指と同じくらいの楕円形。結晶を見下ろしたワイアットさんは、溜息を吐いて肩をすくめる。

「嘘でもない、と。分かったよ、今はちょうど第一分隊が倉庫の中に入ってる。鍵は開いてるから、勝手に入って持ってけばいいさ。……で、その子は?」

 ワイアットさんが、目線で私を示す。

「今回の任務の護衛対象(オルド)だ」

報酬(オルド)じゃあなくて?」

 にやりとワイアットさんが笑うと、ベイルさんは眉間に皺を寄せて、露骨に嫌そうな顔をした。珍しい反応だ。オルドって、どんな意味なんだろう。

「アリーチャーもお前も、下らねえことしか言わねえな」

「冗談だよ」

 からりと笑うワイアットさんをちらりと見て、ため息を吐きながらベイルさんが歩き出す。話は終わったってことかな。ワイアットさんに会釈をしてから、先を行く背中を追い駆ける。広場を突っ切って、更に奥へ向かうみたいだった。

「お嬢さん、ベイルに食われないようにな!」

 ベイルさんの隣に追いつくと、ワイアットさんのからかうような声が背中越しに聞こえた。どう答えたらいいのか分からなくて、ベイルさんを見上げる。淡泊な表情の中に深い呆れが浮かび上がり、

「阿呆め」

 低く落ちた呟き。そして、吹き抜ける風。

「おわっ!?」

 ワイアットさんの裏返った声。それから、どしゃりと重い音。……え、ええ……?

「おまっ、魔術使ってまで足払い掛けなくったっていいだろ! ただのジョークなのに――ちょっ、ごめんなさい、もう言いません! 止めて! ハゲる!」

 何か、ワイアットさんが大変なことになっているみたいだ。振り向こうとしたけれど、

「馬鹿に構うな。放っとけ」

そう言われてしまえば、何となく身体の動きは止まってしまう。申し訳ないような気分になりながら、振り向く代わりに大人しく足を動かすことにした。

「いつもながら、ホントにひどい奴だよお前は!」

 通りを曲がり際、ワイアットさんの悲痛な叫びが上がった。ベイルさんは全く反応しなかったけれど、いつもって、そんなによくあることなんだろうか。

何とも言えない疑問を抱きつつ到着した倉庫は、ほとんど被害を受けていないように見えた。ベイルさんは躊躇いなく中へ入っていき、何事かと問い掛けてくる人たちにも「仕事だ」とだけ答えて、最も奥まった区画で足を止める。

そこに置かれていたのは、大きなバイクに似た乗り物らしきものだった。ただ、私が知っているバイクとは、決定的な違いがある。何がって、それはもう……何というか、宙に浮いているのである。

「コーニッシュ社の最新型アクィロ・ウェンテ。型番のHRV‐1をもじって、ハーヴィとも呼ばれる。ウェンテは宙に浮いて移動する、この手の乗り物の総称だ。アクィロは、最も大型であることを示す」

 改めて見てみると、やっぱりそれはバイクによく似ていた。タイヤのあるはずの場所には、代わりに緑と透明の結晶が収まっていたけれども。

 そして、遅れて気がつく。

「あれ、今、アルファベット使いました?」

「アルファベット?」

 ベイルさんが首を傾げる。……あれ?

「さっき、HRVって」

「セトリアの古代文字だ」

「……そうなんですか?」

「お前の世界では、アルファベットって?」

「はい。私の国ではそこまで頻繁に使わないんですけど……あ、でも、翠珠の文字は日常的に使われてますよ。日本じゃ三つの文字を組み合わせて使ってて、その一つなんです」

「国ごとに、使ってる文字が違うのかい」

「文字というか、言葉が? です。他にも、もっといっぱい種類がありますし」

「他にも? 不便じゃねえのかい」

「そうなんですけど、そういうものだと思っていたので、どの国でも同じ言葉を使えることの方がびっくりしました」

 なるほどな、と頷きながら、ベイルさんが隣の区画からサイドカーのようなものをウェンテに繋げた。

「お前はこっちだ。荷物は適当に置いといていい」

「あ、はい!」

宙に浮いている乗り物なんて初めてだ。まず片足をかけてみると、意外に安定している。思い切って乗り込んでみても、ちっとも揺れたりはしなかった。

ほっとして座席に座り、荷物を膝の上に置く。ベイルさんが隣でウェンテに乗り込み、さっきワイアットさんに見せていた緑の結晶をハンドルに翳した。その途端に立ち上った気配は、たぶん、魔力かと魔術の。上手く言えないけど、今は「エンジンが掛かった」みたいな感じがする。あの結晶は、鍵だったみたいだ。

「こっちはお前に預けておく。お前の乗ってるアウィスの鍵だ」

 ベイルさんがまた違う結晶を取り出し、サイドカーのフロントガラスに翳す。ウェンテと同じ気配。

うーん、魔術って本当にいろんなことができるんだな。気になってあちこちを見ていると、小さく笑う声が聞こえた。はっとして見れば、ベイルさんがかすかに唇の端を持ち上げて笑っている。

「そんなに珍しいかい」

「その、どんな仕組みで動いているのなー、と」

 ベイルさんが笑っているのを見るのは、きっと、これが初めてだと思う。妙にどきどきしていると、膝の上に結晶――鍵が落とされる。

「首にでも掛けとけ。仕組みは道々話してやる」

「あ、ありがとうございます」

 頷きながら、鍵を首にかける。

「ああ。さて――と、行くぞ」

 車体がゆっくりと動き出す。倉庫の入口へ続く直線通路に進み出たかと思うと、一気に加速した。座席に身体が押しつけられ、帽子が頭から浮き上がる。慌てて手で押さえるものの、今度は吹きつける風が強くて目が開けられない。

……それから、どれくらい経ったのだろう。十分だったかもしれないし、二十分だったかもしれない。やっと風が弱まってきて、そろりと目を開ける。

周りはすっかり星と月の光だけが頼りの、真っ暗闇になっていた。振り返れば、港の篝火が地上の星のように瞬いている。

「朝までには陸地が見えるはずだ。それと、やたらに下を覗き込むな。暗闇に引き込まれて落ちるぞ」

「――は、はいっ!」

 伸ばしかけていた首を、全力で引っ込めた。

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