見知らぬ街で・01
本作は旧版「トランクィル・タワー」を大幅に改稿したものです。
ストーリーにさほどの違いはありませんが、ほぼ全ての文章を書き変えています。
新しい形の物語を、どうぞ楽しんでいただけましたら幸いです。
青く澄んだ空、異国情緒溢れる白壁の街。
そんな景色を見たら、大抵の日本人はヨーロッパの観光地を想像するんじゃないかと思う。もちろん、私だってそうだ。この街に――本当に旅行で来ていたのなら、どれだけ良かっただろう。
目を開けたら、知らない街にいた。
寝ぼけているのかと言われるかもしれない。でも、本当のことなのだ。寝て起きたと思ったら、自分の部屋じゃないどころか、まるで日本とは思えない景色の真っ只中。訳が分からなかった。ううん、訳が分からないといえば、この街自体がそう。
とにかく、信じられないことが多すぎる。道を歩いている人は金や銀だけじゃなく、青や緑の髪をしていて、見間違いじゃなかったら、二足歩行の猫としか思えない人だって歩いていた。
「もう、意味が分からない」
ため息を吐いて、頭を抱える。
何もかもが有り得ないんだから、きっとこれは夢なんだ。夢に違いない。寝て起きたと思ったのは間違いで、物凄くリアルだけど、これは夢。絶対に夢。
「でもなー……」
心の底から夢だと思いたい一方で、靴の下の石畳の硬い感触や、うっすら漂う潮の匂いは、どうしようもなく現実的だった。……夢って、匂いまで感じるんだっけ? あーもう、考えるの止めたい。
もう一度ため息を吐いて通りの脇へ目を向けると、ガラス張りのショーケースの中で、着飾ったマネキンがポーズを取っていた。曇り一つないガラスは、鏡のように通りの景色を映し込んでいる。その虚像の街並みには、こちらを見返すしかめっ面の女子。
短い黒髪に同じ色の目と、浅黒い肌。天沢直生という男子に見えなくもない名前のせいか、背が低い上にいろいろ貧しいぺったりした身体のせいかは知らないけれど。高校一年生になった、今でもたまに男子扱いされるのが不満な――つまり、私である。
夢の中だからか、服装まで変わっていた。古くなった中学のジャージを着て寝ていたはずなのに、見覚えのない開襟シャツに、ゆったりしたパンツを身に着けている。だいぶ着心地が悪くなってきたジャージを捨てたいとか、そういう願望の表れだろうか。
「何でもいーけど、そろそろ目が覚めたっていいんじゃないかなあ」
とぼとぼ歩いていると、大きな十字路に差し掛かった。特に考えもせず左に曲がり、ひたすら歩いていくと、通りは次第に薄暗く、人気がなくなり始めた。
……やばい、道を間違えたかもしれない。
背筋がひやりとして、戻ろうかと足を止める。その途端、身の毛もよだつ叫び声が響いてきた。しかも、続いて爆発音みたいなものまで!
「な、何!?」
裏返った声が喉から飛び出す。何にも考えずに道を選んだことを、心の底から後悔した。とにかく、元の道に戻らなくっちゃ。慌てて踵を返す――ものの。
「いやいやいやいや……」
振り向いた瞬間、頬が引きつって半笑いになった。もう、笑うしかなかった。
「何でこんなことになってるかなぁ……」
いつの間か通りは人で溢れていて、私が歩いてきた道は完全に封鎖されていた。
「ガキじゃねえか。しかも、痩せっぽちのチビ」
「開いて中だけ売ればいいんじゃない?」
「何それ面倒臭い。手っ取り早く奴隷商に渡そうよ」
聞こえてくる会話が怖すぎるので、本当に止めてほしい。――ああもう、こうなったら、道は一つだ。
深呼吸をして、両足に力を込める。思い出すのは、いつもの決まり文句。
(よーい、)
ぐ、と軸足が地面を踏みしめる。一瞬の空白。
「あっ、逃げるぞ!」
スタートダッシュ、全速力で走りだす。通りの奥へ向かうのも怖いけれど、ここで捕まるのも嫌だ。
夢の中でだって、人を売るだとか奴隷商に渡すだとか言う人と仲良くしたくはない。
「逃がすな、追え!」
「くそっ、あのガキ速えぞ!」
「何、奥は迷路だ。焦らんでもじき捕まる」
中学、高校と陸上部に所属してきただけあって、走るのは得意だ。ただ、「迷路」という言葉が不安を掻き立てる。行き止まりとかに入ってしまったら、もう終わりだ。
「どいつか、飛べる奴いねえのかよ!」
折角のカモだぞ、と怒鳴る声。お願いだからいないでよ、と呻きながら、更に奥へ。
進めば進むほど、道は薄暗く入り組んでいった。分かれ道をでたらめに選んで、ひたすらに走る。知らない道を追い駆けられているせいか、もう息が苦しい。ぜい、と喉が鳴る。
その時、唐突に身体が浮き上がった。
「――っ!?」
ぎょっと息を呑む。何が起こったのか分からない。慌てて見下ろせば、石畳は足下遠く、両脚は宙を掻いている。何これ。反射的に悲鳴が飛び出す――
「騒ぐな」
寸前、口は硬い掌に塞がれた。今になって、やっと後ろから抱えられていることに気がつく。
短く命令するのは低く抑えられた男の人の声で、嫌でも追ってくる人たちを思い起こさせた。恐怖が呼吸を詰まらせ、カチカチと歯を鳴らす。
「……行ったか」
しばらくして、呟くのが聞こえた。口を塞いでいた手が、胴に回った腕と一緒に離れる。けれど、驚いて止まった呼吸は戻らないまま。喉は息の仕方を忘れてしまったかのように、少しも動いてくれなかった。
どんどん息苦しくなっていって、辛くてしょうがないのに、どうすればいいのか分からない。どれだけ唇を開いて閉じても、息が吸えない。できない。
「!」
ふと、大きな掌が目を覆った。掌の触れたところから、不思議な温かさが広がっていく。
「落ち着いたかい」
そう声を掛けられた時には、すっかり息は元通りになっていた。掌が離れるのを待って、頭を下げる。
「ありがとう、ございました」
そう言うことに、迷いはなかった。何が何だか分からないままだけれど、助けてもらったことは確かだ。けれど、返ってきた声は「礼はいい」と言って、
「薄昏は子供が足を踏み入れていいような場所じゃねえ。この街に住んでるなら、知ってるはずだろう。死にたいのかい」
紡がれる言葉は、内容の割に淡々としていた。それでも窘め、警告するものであることに変わりはない。ここは本当に子供にとって危険なところで、だから、助けてくれたのだろう。
「……すみません、でした」
ほっとするやら怖いやらで、答える声が震えた。ため息が落ちて、真後ろにあった気配が右手へ動いていく。つられて視線を動かすと、いつの間にか見覚えのない白い地面に座らされていることが分かった。石かな、コンクリートではなさそうだけど。
「一人でここに来たのかい」
頭上から降る声に、少し迷ったものの、頷く。
「家はどこだ」
重なる質問に、つい口ごもってしまった。何と答えればいいのか、分からない。
「親は」
更に答えられないでいると、かつ、と硬い靴音が鳴った。ひ、と口の中で情けない悲鳴が上がる。
「す、すみません、ええと、その――」
口を開いてはみたものの、答える言葉は見つからない。分かるのは、このまま黙っているのはよくないということだけ。でも、本当にどうやって答えればいいんだろう?
「その、ええと……」
「ああ」
短い相槌ですら、答えを遠回しに急かしているように聞こえた。どうしてこう、夢でまで怖い思いをしなきゃいけないんだろう。理不尽だ。
「あれ?」
そう思って、首を捻る。……夢。夢。――夢?
「……!」
気付いた瞬間、嘘、なんて呟いていた。
信じられない。信じたくない。――でも。
拳を握る。爪が食い込んだ掌が痛い。夢なら、痛くはならない。理由かは知らないけれど、そういうものだと言われていた。だったら、これは、
「……夢じゃ、ない……?」
「そりゃ、どういう意味だ」
怪訝そうな声が聞こえたけれど、答える余裕はなかった。ゆっくり、両手を目の前に持ってくる。ぶるぶると震えた、自分の手。指を曲げて、伸ばす。
その感触は、やっぱりどこまでもリアルだった。
「おい」
揺れる手を動かす。指先に強張った皮膚の感触。思い切って息を止めて、ありったけの力を込めて――
「あ痛ぁっ!?」
「そりゃ、自分の顔をつねって痛くねえ奴はいねえだろうよ」
頭上から降る声は、呆れているようだった。ですよね、と涙目になりながら、相槌を打つ。つねった頬は痛いけれど、これで分かった。分かってしまった。
息を吐いて、隣を見上げる。すぐ傍に立っていたのは、背の高い男の人だった。三十歳くらいだろうか。癖のない短い髪は淡い金色で、眇めたように細い双眸は深い藍色。けれど、色彩や他の何より、その表情こそが特徴的に思えた。完璧な無表情。声の響きまでも、揃えたように抑揚がない。
「それで? さっきの質問の答えは」
「すみません、ええと、家族、ですよね。その……ここにはいない、と、思います。さっきの人たちに攫われた、とかじゃなくて」
「思う?」
「私の知らないところで、この街に来ているのでなければ」
「結局は、一人ってことかい。……どうにも要領を得ねえな」
男の人が眉根を寄せる。私は「すみません」と呟くしかなった。確かに、あんまりな説明だとは思う。
「とにかく、白碧――この街の人間じゃねえんだな?」
「あ、はい。それは、そうです」
「そうかい。この街はアルトゥール商会の拠点であるだけ、他所よりは治安が良い。……が、薄昏に限っては、下手な貧民街なんぞより、よほどタチが悪い。今し方、身をもって知ったろう」
その通りだ。助けてもらわなければ、どうなっていたか分からない。はい、と頷く。
「そんな街に、お前の親はろくな知識を与えもせず、娘を放り出したのか。お前もお前で、そんな状況にもかかわらず、こんなところまで出歩いてきたのか」
どこまでも静かな――底冷えのする声。ただ言葉で言われているだけなのに、ぞっと背筋が震える。
ごくりと息を呑む音が、やけに大きく思えた。
「……家族、は、ずっと、遠いところに、いて」
声に出して、言葉を喋る。それだけのことが、ひどく難しかった。
威圧。
その言葉の本当の意味が、今、初めて分かったような気がした。重く、苦しく、挫けそうになる――これこそが、それだ。
「この街、を知らない、んです。私が勝手に、来てしまったので、家族が悪い訳じゃ、ありません」
「家出かい」
短く続けられた問いには、ただ首を横に振る。すぐに「だろうな」という呟きが返ってきた。目を見開いて見上げれば、淡々とした声があっさり言う。
「家出してきたなら、そんな風に庇ったりはしねえだろうよ。どんな理由があった――あるのかは知らねえが、大人しく家族のところに帰れ」
「か、帰りたいん、ですけど」
「――けど?」
「……帰り方が、分からなくて」
「普通、帰りは来た時と同じだと思うがな」
その通りなのだけれど、私は自分でここに来た訳ではないのである。困り果てて黙っていると、男の人が「やれやれ」と溜息を吐いた。
「どうにも、妙な事情があるらしいな。家――故郷はどこだ」
「木津野です。木津野市」
「……国は」
「日本、ですけど」
沈黙。ただ、今回は気まずくもなかった。
この街が夢にしか思えないほど「違っている」ことは、もう嫌というほど思い知らされている。だから、予想はしていた。
「そんな国は、聞いたことがねえな」
そう、言われるんじゃないかと。
……でも、やっぱり、ショックはショックだ。そうですか、と答えた声にも、落胆を隠しきれない。
「持ち合わせはあるかい」
変わらずに淡々と問う声に、また首を横に振る。お金どころか所持品自体、一つもない。
「だったら、ここから通りを二つ越えた先、招籠て通りにある『黒の鎧亭』って宿屋に行くといい。店主に『〈鵺〉に紹介された』と伝えりゃ、便宜を図ってもらえる。そうすりゃ、少なくともさっきの連中に捕まるよりかは、マシに過ごせるはずだ」
どうする、と続けて問われる。
その流れが滑らかすぎて、ぽかんとしてしまった。すると、男の人は小さく肩をすくめて、
「不満だってなら、無理強いするつもりもねえが」
「あっ、いえ、違います! ……その、私、怪しくないですか」
「確かにな。だが、職業柄、人を見る目は持ってるつもりだ」
「お仕事、ですか?」
「傭兵。さっき言った、アルトゥール商会――傭兵の寄り合い所とでも言えばいいか。そこに所属してる」
「よ、傭兵?」
驚いて繰り返せば、「ああ」と短い返事。その顔はとても冗談を言っているようには見えない。どう答えたものか分からずにいると、不意に男の人の腰にあるものが目に付いて、唖然とした。
――剣。それ以外に表現しようのない、すらりと細い棒。前に漫画で見たサーベルに、少し似ていた。
「それで、どうする」
もう一度問い掛けられて、ハッとする。そうだ、呑気に驚いている場合じゃなかった……。
とりあえず、状況を整理しよう。
とにかく、帰る方法を見つける。これは絶対。ただ、「日本なんて国はない」と言われてしまうくらいだから、簡単にもいかないんだろうな……。ううん、お腹痛くなりそう……。
「あの、その、さっきの宿屋さんで、働くところを紹介してもらえたりも、するでしょうか」
「できるだろう。なけりゃ、こっちから何か回してもいい」
男の人の答えは簡潔で、何より予想外だった。
今更怪しむのも変な話だけれど、どうしてここまで親切にしてくれるのだろう。
「あの、私、お礼もできないんですけど」
見上げて言うと、男の人はかすかに目を見開いた後で、ゆっくり瞬きをした。そして、首を横に振る。
「気にする必要はねえ。俺が勝手にやってるだけだ。気紛れだとでも思っておけばいい」
そうは言われても……。困って黙っていると、
「存外、頑固な性質らしいな。悪くはねえが、今悩んだところで、どうしようもねえだろう」
「……そう、でしょうか」
「ああ。で? 結論は」
何度目かの確認。散々待たされているのに、責める言葉もない。いい人――優しい人? なんだろうな。それに、これまでを振り返ってみれば、この人は確かに信用してもいいように思えた。
うん、と胸の内で頷く。心は決めた。
「宜しくお願いします」
顔を上げると、男の人は「分かった」と頷いた。それから何故か首を伸ばして、私の背後を覗き込む。
「さっきの連中も他所へ行ったらしいな。これなら邪魔されることもねえだろう。飛び降りられるかい」
「と、飛び降りる!?」
慌てて振り返った先では、足元の白色が不自然に途切れていた。その縁に這い寄ってみれば――遥か下にあの薄暗い路地が広がっている。
「な、なな、なんでぇ!?」
「手っ取り早く撒く為に上がった。少し手荒になったのは悪いと思わなくもねえが、まあ、仕方がなかったと思ってくれ」
「や、いえ、あ、ありがとう、ございます……?」
「どういたしまして。その様子じゃ、飛び降りろってのも無茶な話か。大人しくしてろよ」
言うが早いか、男の人は私を抱え上げ、躊躇いなく屋根から宙へ身を躍らせた。
「ひ、あわ――」
悲鳴が裏返る。高いところは苦手なのだ。軽やかに着地した男の人に下ろしてもらって、「大丈夫かい」と問われても、がくがくと頭を上下させることしかできない。男の人は頭を掻きながら、
「とても大丈夫にゃ見えねえが……まあ、歩いてるうちに落ち着くか。こっちだ」
通りの右手が示される。再びがくがくと頷いて、私は歩きだした。