その2
翌日、木兵衛はツボ師としての施術を終えると、いつも通りに表通りへ行くことにした。
「確か、この先に札屋なるものがあるけど……」
富札を売る場所は、表向きは幕府によって寺社の門前にある茶屋に限られていた。しかし、実際には興行を請け負う富師によって、半ば公然と江戸市中で富札が数多く売られていた。
木兵衛が足を運んだのは、京橋広小路町にある札屋である。紺色の空が広がる中、札屋の前では数人の町人連中が銭を出し合っていた。
「おやじさん、この札をくださいな」
町人衆の1人がお代を払って富札を手にすると、他の連中とともに札屋を後にした。
この様子に、木兵衛はこうつぶやいた。
「大金の夢を抱いても、札を手に入れるのは町人にとって大変なことだ」
木兵衛は札屋の前で立ち止まると、そこに並べられている富札に目を通している。
その様子に、札屋のおやじが気づかないはずがない。
「いらっしゃいませ、どの札にいたしますか」
「富札がどういうのか見ていただけでして……。ちなみにお代は?」
「札1枚お買い上げにつき金1分となりますが」
おやじの口から出た言葉に、木兵衛は富札を入手するための敷居の高さに思わず納得した。
「またここへきたときに考えておきます」
木兵衛はおやじにこう伝えると、札屋から離れることにした。
「あれだけ高いものとは……。割り札でないと手にしづらいのか」
日本橋通りに入った木兵衛は、歩きながら独り言をつぶやいている。
「あの札を個人で手に入れるのって、商売で儲けた者か、それとも……」
木兵衛が賑やかな通りを進んでいるとき、突如として悲鳴らしきものが耳に入った。
「いったい何が……」
表通りを走り駆けて行くと、『弥助屋』という屋号を掲げた木炭屋の前に町人たちが集まっていた。騒然とした野次馬の中に入った木兵衛は、屋内から聞こえる怒号に思わず耳を傾けた。
「お、お願いします……。それは商売道具……」
「はあ? おめえのその言葉、信用できねえんだよ!」
「てめえが金を返せねえからだろうが!」
店の間では、強面の男たちが大量の木炭を持ち出そうとして、ご主人の弥助と揉めているところである。男たちが着ている法被には、『加蔵一家』なる高利貸しの名前が記されている。
「ですから、今度こそ富札で当たったら必ず返しますから、それだけは……」
「やかましいわ!」
「当たったら返すからって何回も言ってるけど、全然当たった試しがないだろうが!」
加蔵一家の連中は、必死に抵抗する弥助を床の上に投げつけた。この様子に奥から出てきたのが、弥助の1人娘である。
「お父さんに何てことをするの!」
その声は、我が物顔で振る舞う加蔵一家の連中に対する怒りをにじませるものである。
そんな娘に、高利貸しの男たちは毒牙の如く手を伸ばしてきた。
「こんなところにいい娘さんがいるとは……」
「これだけいい女だったら、型に入れて吉原に高く売ることができるぜ、ふははははは!」
「きゃあああああっ! や、やめて!」
怪しげな笑みを浮かべて首筋を触ろうとする男の姿に、娘は嫌悪感を抱くように思わず声を上げた。娘の叫び声に、弥助は加蔵一家にこう懇願した。
「頼むから、娘を連れて行くのだけは……」
「なら、ここにある商売道具も台帳もおれたちがまとめて持って行くぜ」
高利貸しの男たちは、筆頭格の指示に従って木炭を次々と屋外へ運び出している。
「何だって! その台帳は商売人にとって大事な物……」
「やかましいわ!」
再三にわたって土下座で訴える弥助に、相手の男は台帳を持ちながら足で強く蹴りつけた。
「うっ、うううううううううっ……」
何もかも取られてもぬけの殻になった屋内に響いたのは、弥助の激しい嗚咽である。そんな弥助に、筆頭格の男は冷酷な口ぶりでこうつぶやいた。
「いいか、おめえの借金はまだ200両も残っているんだぜ」
「お、おい! わしの店を乗っ取ろうとするのか!」
「乗っ取るだと? 何度も借金を重ねたくせによくそんなことを言えるんだな!」
自らの手で築いた店を失うことに、弥助は軒先で必死に語気を強めた。しかし、筆頭格の男は弥助を手で突き飛ばすと、鋭い目つきでにらみつけながらこう言い切った。
「いいか、明日までに200両を持ってこい! 200両だ! さもなければ、おめえらここに住めないようにするからな!」
「ひ、ひいいいっ……」
あまりにも過酷な要求に、弥助は恐怖のあまり声を出すことができなかった。
弥助屋から出てきた高利貸し連中は、わが物顔に闊歩しながら去って行った。彼らの表情に、町人衆は自分の身に降りかかってはたまらないと顔を背けている。
富くじに負けては借金を重ねて、挙げ句の果てには店を失う……。木兵衛は、あまりにも酷な要求を迫られた弥助たちの身を案じた。
そんな木兵衛が心配していたことが現実のものとなったのは、翌日のことである。
この日、夕焼け空が広がり始めた中で木兵衛が表通りに出ると、慌ただしい様子で走り駆ける町人たちの姿があった。
「大変だ! 楓川の材木河岸に死体らしきものが……」
「松幡橋の近くで見つかったらしいぞ」
町人衆は、橋のたもとに集まって騒然としている。木兵衛も、どういう状況なのか確かめるべく橋から覗き込んだ。
「ま、まさか……」
そこで見たのは、弥助と母娘らしき3人の水死体である。河岸では、同心による検使が行われている。
「目立った外傷らしきものはございません」
「そうか……。誰かに殺されて投げ込まれたということではなさそうだな」
検使人の声は、木兵衛の耳にも入ってきた。弥助たちが身投げして命を絶ったという現実に、木兵衛はじっと目を凝らしながら見ている。
すると、木兵衛の横に見覚えのある顔の男が入り込んできた。
「おい、何を見てるんだ」
「清蔵、木炭屋の弥助が一家心中してなあ……」
木兵衛は、弥助たちが入水自殺に至った昨日の出来事を語った。それを耳にした清蔵は、高利貸しに関する新たな情報を伝えるべく口を開いた。
「あの加蔵一家、借金で首が回らなくなった人に富札を手に入れるための銭を貸しつけているらしいぞ」
「富札を買えば買うほど、借金が積み重なるのか」
「ついでに言うと、この先にある岡嵜町の玉岡寺で行う興行に関わる富師が加蔵一家との繋がりがあるという話を耳にしたが」
少なくとも、市中の札屋を通して富師と高利貸しが関係を持っていることは分かったが、木兵衛と清蔵が踏み込むのはそれだけではない。
「もしかしたら、富札の買い占め、そして横流しにあの富師が絡んでいる可能性は十分にあり得るな」