その1
暖かい陽気の中、京橋桶町の裏通りでは子供たちが歓声を上げながら走り回っている。
「早くこないと置いていくぞ」
「ちょっと待ってよ!」
あちこち駆けずり回る男の子たちの声に、井戸で水汲みをしている女の人もお冠である。
そんな中、ツボ師の木兵衛は今日も体の不調を訴える者たちへの治療に勤しんでいる。
治療を受けているのは、近所に住む桶職人の男である。その男の顔は黄色く目立っており、相当だるそうな様子である。
「はあっ、はあっ……」
「相当だるそうだな。どうやら肝の臓が相当悪いみたいだ」
木兵衛の元には、こうした重い病を抱えた人が訪れることも多い。高額なお代で町医者に頼めない住民が、最後の望みとして安いお代で治療を託すのがこのツボ師である。
「両足の足背にある大衝穴だな、ここを強く押すとするか」
木兵衛が施術を始めると、桶職人は我慢できないほどの激しい痛みに歯を食いしばっている。
「い、いててててててっ……」
「もう少しで終わるから、それまで辛抱してください」
ツボを押すことであれだけの激しい痛みが生じるのは、それだけ病が深刻である証拠といえよう。
施術を終えると、少し楽になった桶職人の男は上体を起こすことにした。
「木兵衛さんのおかげで、多少楽になりました」
「少しでも体の調子が良くなれば幸いです」
肝の臓を悪くしたら、病を完全に回復することは難しい。これから長いおつき合いになりそうである。
「まあ、くれぐれも酒を飲むようなことはしないでください」
「は、はあ……」
木兵衛のきつい言葉に、桶職人は相当落胆しているようである。大人としての嗜みである酒も、必要以上に飲むと体を壊してしまうのは明白である。
桶職人は施術代を支払う前に、木兵衛に読み売りを手渡した。
木兵衛は、そこに書かれている内容を目を凝らしながら見ている。
「これって、この前あった湯島天神の富札の当たり札の番号だけど……」
「それがねえ、表通りで歩き回る読み売りから1枚4文で買うことができるもので」
湯島天神をはじめとする寺社で興行が行われる富札は、1枚につき金2朱から1分と町人衆には手の出しにくいものである。京橋桶町のような裏通りの住人が楽しむのは、専ら『陰富』と呼ばれるものである。
この陰富だが、富札のように幕府の公許を得ているわけではない。幕府が目を光らせている以上、陰富の札を売るために菅笠をかぶった読み売り屋の格好で町中を回っていることが多い。
「で、そこの陰富の札を買ったとか……」
「それがねえ、札を買ったら見事に当たったってもんさ」
桶職人は重い病を患っているにもかかわらず、ちょっとした嬉しい出来事に口も軽そうである。
その日の夜、主なき長屋の地下にある隠し部屋では辺りをろうそくでかすかに照らされている。
そこには、いつもと同様に陽と影の姿があった。
「自分が言うのもなんだが、富札を買う者ってどういった人なのか」
「裏通りの住人がそんな富札なんか買わねえよ。おれも、そんなものには興味はないし」
ツボ押しの治療を受けた桶職人の言葉が気になった陽と、富札の2文字を聞いただけで憮然とした表情の影……。2人のやり取りは、誠実な陽と口の悪い影と対照的である。
「あの富札だって、どうせ寺の修繕という名目の金集めだろ。しかも、富札の買い占めという噂が耳に入ってきてなあ……」
「富札を買い占めって……。ただでさえ高いのに」
その様子を聞いていた元締は、忍たちの会話に口を挟んできた。
「やけに富札の話ばかりしてるけど、何があったんだ」
「いや、別に……」
「何でもねえよ」
元締の濁声に、陽と影はすっかり黙り込んでしまった。2人の忍が従うべきこと、それは元締の命に従って裏の仕事を行うことである。
そんな2人を前に、元締はその場で再び口を開いた。
「実はだな、表の仕事できた客と話をしていたときに気になることを耳にしてなあ……」
「その内容とは?」
「多分、影が言ったのと同じかもしれないが、富札の買い占めで町人連中が札を買いたくても二の足を踏んでいるということだ」
一攫千金の夢を託す富札だが、町人衆にとっておいそれと買えるものではない。それ故に、1枚の札を手に入れるために数人が銭を出し合う割り札という方法を取ることが多い。
「外れ札を含めて全て買い占めるとは限らないなあ。そうなると、当たり札だけを買い占めるのが最も旨味のある方法かと……」
「そうなると、その相手方に富札の当たり番号を漏らしている可能性があり得るぞ」
陽と影は、富札の買い占めに富師と称する世話人と結託した者がいるのではと推測した。そこには、忍として行動をともにする立場にある2人の姿がある。
そんな2人に、元締は静かに口を開いた。
「お前らがどう行動するかはわしからとやかく言わない。けれども、忍の掟を破ったらどうなるかは分かっているよな」
自らの正体が知られたら死あるのみ……。元締の静かなる言葉に、忍たちは改めて裏の仕事の厳しさを改めて思い知ることとなった。