その7
夜半を過ぎて寅の刻に差し掛かったころ、夜見世を終えた丸木屋では内所に男たちが集まってきた。楼主の久兵衛と番頭の長次郎が畳の上に座っていると、障子をそっと開けてあの男が入室してきた。
「楼主様、あの客引きの始末はどうでしたか」
「はっはっは、その辺はご心配なく。元隠密の忍によって始末致しましたので」
「そうかそうか、これでわしの所業も露見されずに済みますなあ」
楼主の差し金が陣吉を斬り殺したという知らせに、筆頭与力の村崎は怪しげな笑みを浮かべている。そして、村崎は風呂敷から小判の包みを久兵衛の前に出した。
「これは今回のお代です。わしらの内密が奉行所に知られるのを未然に防げたことだし」
楼主の前に差し出した包み紙には、墨で金20両と書かれている。
「上客がこれだけお代を払ってくれるとはなあ、ふっはははは!」
「いやあ、これくらい大したものではないですよ。わしの倅も本勤並になったことだし」
「お互いに旨い汁を味わえるということだな、ふっはははは!」
「わしの屋敷へ明日くるのを楽しみにするとしようか、はっはっは!」
楼主と筆頭与力の高らかに響く笑い声は、屋根裏に忍び込んだ装束姿の2人にも耳にすることとなった。
「やはり、あの2人が繋がっていたのか。丸木屋の前で見た遊女の死体、おしのの殺し、そして陣吉の殺し……。全てが点と線で結ばれるとは……」
「これで、おれたちの殺しの本丸が固まったな」
陽と影はすでにその名前を知っている。標的となる敵が誰かということを……。
次の日、酉の刻を過ぎて次第に暗闇に包まれる中、地下の隠し部屋には陽と影、それに元締の3人が入ってきた。辺りを照らすろうそくの前で、元締は2人を前に胡坐をかきながら座っている。
忍の2人は、表と裏の双方の立場で収集した情報を元締に報告することにした。
「丸木屋で手を掛けた2件の遊女殺し、そして黒装束の刺客を使っての客引きの陣吉殺し、その全てに関わっていたのは南町奉行所筆頭与力・村崎柴三郎、丸木屋楼主・久兵衛の2人だ」
先に言った陽に続いて、影は補足しつつも口を開いた。
「それと、もう1人関わっているのが丸木屋番頭・長次郎という男だ。直接手を下していないとはいえ、本来入室できない内所に何度も出入りしていたそうだ」
2人の報告を聞いた元締は、これから行う仕事の内容を伝えようとするところである。
「殺しの標的は、村崎柴三郎、久兵衛、長次郎の3人だ」
元締は2人に殺しを託すと、着物の中から小判2枚ずつを床に置いた。
「これが今回の報酬だ」
陽と影は、床上にある2両の報酬を手でつかみ取った。無論、これに見合った仕事をするかどうかは2人の忍にかかっている。
「ちっ、おれたちの報酬ってこれだけの銭なのか」
「気持ちは分かるが、材木問屋の儲けがあって報酬が出せるわけだし……」
2人は、握りしめた小判を見ながら小声で話し出した。受け取った銭に文句を垂れる影と、彼をなだめる陽の姿はいつものことである。
「さっさと仕事を済ませないといけないな」
「言われなくても分かってる」
陽は青色の装束を、影は紺色の装束を身に着けると、頭巾で自らの頭と顔を覆い隠した。その姿は、敵に正体を晒さないようにするためである。
「丸木屋の楼主は、八丁堀の村崎の屋敷にいるそうだ」
陽から伝えられた言葉に影がうなずくと、2人は仕事先へ向かおうと屋根伝いに疾走し続けている。
そのころ、八丁堀にある村崎柴三郎の屋敷では、丸木屋の楼主・久兵衛を迎えて酒を酌み交わしているところである。
「いやあ、まさか上客の屋敷に呼ばれるとは」
「そんなことおっしゃらなくても、お互い持ちつ持たれつの関係じゃないですか」
筆頭与力・村崎柴三郎と丸木屋楼主・久兵衛は、猪口に入った酒を飲みながら談笑している。その笑みは、2人の親密さと怪しさの両面を持っているようにしか見えない。
「長次郎、酒を注いでくれないか」
「すぐに注ぎますので」
丸木屋番頭・長次郎は、同席する村崎と久兵衛の猪口に徳利で酒を注いでいた。
「これからも、丸木屋にはいろいろとお世話になることだし」
「こちらも、村崎様が上客としてきていただければ、わしらも安泰ってことさ、ふっはっはははは!」
久兵衛の笑い声につられるように、村崎も高らかに笑い声を上げようとしたその時のことである。
2人が眺めていた夜の庭園に、突如真っ白い煙が広範囲に立ち上がりました。
「うわっ、いきなり何が起こったのか」
「おいっ! これは一体……」
白い煙の中から現れたのは、青色の装束を身にまとった陽の姿である。
「南町奉行所筆頭与力・村崎柴三郎、丸木屋楼主・久兵衛、丸木屋番頭・長次郎、お命頂戴つかまつる!」
殺しの標的となる3人を前に、陽は背中に差している刀を抜いた。そんな状況の中、村崎は怒りに震えるような口ぶりを見せている。
「忍のくせに屋敷へ勝手に入りやがって……。殺せ! 狼藉者を殺せ!」
忍がくるのを待ち構えたかのように、屋敷の中から若党と呼ばれる侍や槍持が数人現れてきた。いずれも、その場で刀を抜いたり、槍を構えたりと目の前の陽と対峙している。
「覚悟!」
陽は一声を上げると、屋敷から外へ出た侍に向かって刀を振り抜いた。素早い動きで斬り裂くと、若党たちは為す術もなくその場で倒れたまま動かなくなった。
「くそっ! 忍のくせに調子に乗りやがって!」
槍持たちは、自らの槍で陽に向かって突き刺そうと試みた。しかし、敵の動きを熟知した陽には通用するはずがない。槍をかわした陽は、横から槍持たちを次々と斬り捨てていった。
そんな陽の背後からは、黒装束の男が庭園に降り立った。その男は、装束から取り出した手裏剣を次々と陽の背中に向けて投げつけた。
けれども、忍の本能を持つ陽は、振り向きざまに刀でその手裏剣を跳ね返すこととなった。
「お前か……。丸木屋から頼まれて陣吉の命を奪ったというのは」
「それがどうした!」
黒装束の男は、刀を抜いては瞬時に陽を始末しようとした。一方、陽のほうも相手の動きをかわそうと屋敷の屋根の上へ飛び上がった。
そこで会ったのは、もう1人の黒装束の男である。
「ここで死んでもらうぜ!」
その男が刀を構えると、陽も右手に持った刀で相手の出方を待っている。
月に照らされる中、陽は相手の動きを探りながら鋭い刀を斬りつける好機を見計らっている。それは、黒装束の男もまた同様である。
そこへ、もう1人の黒い装束をした男が陽の後方に飛び上がろうとしていた。
「陽、すぐ後ろに敵がいるぞ」
その言葉を聞いた陽は、振り向きざまに黒装束の男をバッサリと斬り倒した。
「まったく……。おれの一声がなかったら刀で刺されて命を落とすところだったぞ」
「ああ、ありがとうな」
陽の目の前にいるのは、行動をともにする影である。屋根の上にいる敵は、黒装束の男1人である。
「この男ばかり相手にするわけにはいかないな。真の標的はあの3人だ」
「屋敷から逃げる前に殺しを行わないと」
2人の忍は、黒装束の男を前方と後方で待ち構えている。すると、陽は敵の足が妙な動きをしていることを瞬時に気づいた。
片足を踏み出す黒装束の姿に、陽は瞬時に撒菱を屋根の端にまいた。
「うっ! いてててっ……」
撒菱を踏んで痛がる敵に、影は自らの刀で背後から続けて斬りつけた。その途端、黒装束の男は庭園へ頭から落下することとなった。
そのとき、陽と影は玄関から声らしきものが耳に入った。2人の忍は、その内容を逃すまいと玄関の真上から耳をそば立てている。
「楼主と番頭が玄関から出るみたいだぞ」
「屋敷の外へ出る前に、3人の殺しをしないと」
玄関では、村崎が久兵衛と長次郎に頭を下げているところである。
「本当に申し訳ない。あの忍どもがいきなりこの屋敷に入ってきたものだから……」
「ひとまずここから去って、ほとぼりが冷めるのを待たないと」
楼主と番頭がそそくさと表門へ向かおうとしたとき、忍の2人がそれを遮るかのように屋根から降り立った。
陽と影は、刀を横に構えながら久兵衛と長次郎を立ち塞いでいる。
「ひ、ひいいいっ……」
恐れを為した楼主と番頭に、忍たちは正面から縦横無尽に斬りまくった。敵の屍を横目に、陽と影は村崎がいる玄関の中へ足を踏み入れた。
「貴様ら! 勝手に土足で入りやがって……」
いら立ちを隠せない筆頭与力は、自ら差している鞘から刀を取り出した。
「奉行所の筆頭与力が、数々の悪行や醜態が知られたらどうなるかなあ……」
「お家断絶は間違いないだろうねえ……」
陽と影の順に口にした言葉に、村崎は怒りをぶつけようと自らの刀を振り下ろした。しかし、忍の男たちは与力の動きに動じることはない。
「村崎柴三郎、覚悟!」
陽は村崎の体を横から斬り裂くと、後方へ回った影も村崎の背中を刀で斬り下ろした。
その場で倒れたまま屍となった筆頭与力の姿に、陽はこうつぶやいた。
「お前の末路は、閻魔様のいる地獄がお似合いだぜ」
それから数日後、木兵衛は普段通りにツボ師としての仕事に勤しんでいた。
「腹が痛くて苦しい……」
「足親指の根元にある骨の出っ張りを強く押すから、しばらく我慢してくださいね」
木兵衛は、激しい腹痛で顔をゆがめる近所の桶職人に公孫と呼ばれるツボを何度も繰り返し押さえている。
「い、いててててててっ……」
「痛いのは分かるけど、あと少しの辛抱だ」
ようやく施術を終えた途端、今まで苦しかった桶職人の腹痛が嘘のように治まった。
「木兵衛、本当にありがとうな。やっぱり、お前さんのツボ師としての腕前は最高さ」
「でも、何でもかんでも食べ過ぎたらいけないぞ」
木兵衛が茶化すと、桶職人の男は威勢のいい笑い声を上げている。そんなとき、入口から腹掛け1枚の男の子がいきなり入ってきた。
「ぼうや、どうしたんだ」
「ねえねえ、聞いて! 寝小便が治ったよ!」
そこにいるのは、寝小便を治すために木兵衛の施術を受けた小さい男の子である。寝小便が治ったことに、男の子はうれしさを隠せない様子である。
そこへ、男の子の母親が慌てた様子で長屋の中へ入ってきた。
「ちょっと、着物を着ないと……」
母親と目が合った木兵衛は、男の子の寝小便が治ったことをすぐに伝えた。すると、母親はツボ師への感謝の言葉をその場で述べた。
「いろいろお世話になって、本当にありがとうございます」
「寝小便ばかりしてたぼうやも、この通り満面の笑顔だもんな」
木兵衛の言葉に、横にいる男の子も可愛げな表情を見せている。
「でも、寝る前に用を足さないと、お布団に寝小便を垂らしても知らないぞ」
「そんなこと言われなくたって、ちゃんと小便をしてから寝るもん!」
木兵衛と男の子の掛け合いぶりに、周りにいる母親と桶職人の賑やかな笑いが長屋に包まれた。