その1
夏が過ぎて、赤とんぼが飛び交う季節となった京橋桶町。裏通りを駆け回る子供たちに、たらいで洗濯をする母親が声を掛けている。
「遅くならないうちに帰らないといけないよ」
そんな喧騒を横目に、木兵衛は小さな長屋でツボ師としての仕事に勤しんでいた。
「惣吉! ツボを押すときはもっと強く!」
「もっと強くって、どうすれば……」
「今からわしが施術するから、よく見ておくんだぞ」
木兵衛は、腰の痛みで動けない鳶職人の施術を惣吉と2人で行っている。本格的な施術に、惣吉はまだ慣れた手つきとは言えない様子である。
「大腸愈のツボを強く押しますので、痛くてもしばらく辛抱してくださいね」
「いてっ、いっててててっ……」
痛みのツボを強く押さえているとあって、鳶職人の男はあまりの苦痛に顔をゆがめている。施術の基本を忠実に行う木兵衛の姿に、惣吉は自分のものにしようとその様子をじっと眺めている。
「これで施術は終わりましたけど、痛みのほうはどうでしょうか」
「あまりにも痛くて女房の手を借りなければいけなかったけど、すっかり痛みもなくなって本当によかったよ」
木兵衛の施術ぶりは、京橋界隈の職人たちに広く知れ渡っている。鳶職人の男も、木兵衛のツボ押しで全快した大工からの勧めでここへやってきた。
そんな鳶職人に対して、一緒にきた女房がきつい口調で言い出した。
「元を正せば、あんたが腰を悪くしたのは自分の不始末なんだから!」
「そんなこと言わなくても……」
鳶職人の男はお代を払うと、女房に連れられて長屋から路地のほうへ出た。先客を送り出すと、惣吉は施術の未熟さに自問自答していた。
「惣吉、どうしたんだ」
「い、いや……。ちょっと考えごとを……」
自分の思いを口にしなかった惣吉だが、木兵衛は弟子の苦悩している様子を感じ取っている。
「惣吉は、わしが行う施術を自分のものにしようとする姿勢が感じられる」
木兵衛があえて言わないのは、惣吉が熱心に仕事に打ち込む姿をこの目で見ているからである。惣吉は師匠の背中を見ながら、ツボ師の施術に磨きをかけている。
夕焼けの残る黄昏に入った頃、陽と影は主なき長屋の地下部屋に集まっていた。
「惣吉のツボ師としての腕前はどうなんだ」
「まだ未熟なところがあるが、自分もツボ師としての施術を身に着けようと熱心に励んでいる」
「そうか、いずれ暖簾分けということになりそうだな」
2人の忍が惣吉の近況について話していると、元締がろうそくに照らされた地下へやってきた。いつになく息切れする元締の姿に、忍たちは心配する面持ちで見つめている。
「元締、あまり無理しないほうが……」
「大丈夫だ、わしはまだ老いぼれて……。ゴホッ、ゴホゴホッゴホッ!」
「大丈夫じゃないだろ!」
元締は、激しい咳をする度に胸の焼けるような痛みに襲われる。その仕草は、自らの後を継いだ陽と影の目に入ってきた。
「なあ、病に冒されているのなら、布団に入って静養しておかないと命取りになりかねないぞ」
忠告ともいえる陽の言葉に、元締は2人の忍に重大な一言を口にした。
「わしがここにいるのは、残りわずかになるだろう。病に冒されたわしの体は、もう手の施しようがないということじゃ」
元締の顔色が優れないのは、体が弱っているのではと陽と影が思うのも無理はない。その間も、元締の咳き込む音が何度も忍の男たちの耳に入ってきた。
「ゴホゴホッ、ゴホッゴホッゴホッ!」
激しい咳き込みに、元締は思わず右手で口を押えた。押さえた手を口から離そうとした時、深刻な病の状況を改めて自覚することとなった。
「こんなに血が……」
手のひらについた血、それは元締が肺病に蝕まれていることを示している。
「元締、どうしたんですか?」
「ちょっと待ってくれ。すぐに戻ってくるから」
慌てた様子で階段を上る元締の姿に、2人の忍は怪訝そうな顔つきを見せている。
「今日の元締、何かおかしいぞ」
「いつもなら、わしらに面と向かって話すはずだが……」
そんな忍たちが床のほうに目をやると、ろうそくに照らされたところに赤い血が点々と続いていることに気づいた。
「もしかして、これって……」
階段へと続く血の跡に、2人の忍は元締の身を案じている。けれども、元締が置かれている状況を口にするのはためらうものがある。
「おい、元締が戻ってきたぞ」
元締が再び戻って床に座ると、忍の男たちの目前で口を開いた。
「去年、恋川春町を死に至らしめた者たちへの殺しの仕事を行ったことは知っておるな」
「もちろん、元締の命にしたがって仕事を行っているが……」
「いきなり何を言い出すんだよ」
過去の仕事のことを話す元締の姿に、2人の忍は怪訝そうに見つめている。その様子に、元締は今回の目的を説明しようと声を発した。
「それと関連するんだが、定信が出版の統制に関する町触を出したという話を耳にして……」
「定信の意向を受けて動く常御用の存在があるし、作者や版元の締めつけを今以上に厳しくするつもりだろうなあ」
元締の言う町触がどんな内容であるかは、まだ不明な点が多い。けれども、町触を出した幕府が意図する目的は、忍の男たちもすぐに感じ取っていた。
「これから探ってほしいのは、わしの本業の常連客だった土山宗次郎と親しい関係だった大田南畝についてじゃ」
「南畝って、幕臣にして万載狂歌集でおなじみの狂歌師・四方赤良のことか」
「陽、よく知っておるな」
「わしの施術を受ける人の間でも、四方赤良はよく知られているからなあ」
陽が元締と会話を交わしていると、影が横から入り込むように口を挟んできた。
「そんな名前なんか知らねえよ」
「まあまあ、落ち着け。元締が求める理由が何かは、いずれ分かるだろうから」
言葉を吐き捨てる影の姿に、陽は冷静になるよう言葉を掛けた。
「分かったよ。陽がそう言うなら……」
陽の一言を耳にした影は、感情が高ぶる気持ちを落ち着かせようとしている。
裏の仕事を行うに当たっては、互いの呼吸が合わせなければならない。なぜなら、それを怠った場合には命取りになりかねないからである。




