その5
2人の忍は、闇の中を八丁堀に向かって風のように疾走している。忍たちの目的地、それは同心・倉崎藤之助の屋敷であることは言うまでもない。
「通りを出歩く者が誰もいないとは……。遠くに聞こえる犬の吠える声が耳に入るくらいだし」
妙な静けさが不気味さを漂わせる中、忍の男たちは冷静な様子で同心屋敷の屋根裏からそっと足を踏み入れた。
「よし、行くぞ」
足音を立てることなく屋根裏を進んでいると、真下で話し声らしきものがかすかに耳へ入ってきた。2人の忍は、話の内容を探ろうと屋根裏に耳を当てることにした。
倉崎が自分の部屋に招き入れたのは、この前と同じ旗本の男である。夜四つ時の鐘の音が鳴る時にやってくる理由、それを知るのは2人以外にいないはずだが……。
「室原殿、こんな夜分にきてくださって本当にかたじけない」
「いやいや、そんなに頭を下げなくても……」
倉崎の居室へやってきたのは、旗本の室原光政である。そこには、御家人と旗本の家格の違いが如実に現れている。
「まあ、倉崎様にはいろいろと面倒ごとを引き受けてくださっている関係もありますし」
「こちらへやってきたのも、例の件ということでしょうか」
「ああ、もちろんですとも。不肖の若侍たちがこちらでお世話になっているわけで」
お互いに正座しながら談笑する2人であるが、その途中で話を止めると天井のほうを気にする仕草を見せている。
「天井裏に何かいるかもしれないぞ」
室原はその場で刀を抜くと、警戒する目つきで天井を眺めている。倉崎も、左腰にある刀を抜こうと構えている。
そんなとき、天井裏からはねずみの走る音と鳴き声がかすかに耳へ入ってきた。
「ちっ、ねずみか」
室原は、その場で舌打ちしながら鞘の中に刀を入れた。その顔つきは、まるで獲物を狙うかのような鋭い眼光である。
「室原殿にお手数をかけることになりまして、本当に申し訳ない」
「とりあえず、この件についてはまた日を改めて話し合うということで」
2人が話し合う様子は、忍の男たちの耳にも入ってきた。
「何やら妙な感じがするんだが……。特に、あの室原という旗本が」
「屋根裏だから顔を見ることはできないが、普通に話している途中で態度が豹変するのは口ぶりからでも分かりえるからな」
陽と影は、御家人身分の倉崎の屋敷に旗本の室原がやってきたことも疑念を抱いている。
「見返りなしでここへくることはまずあり得ないだろうし」
「まあ、そうだろうな。家格が上の者が一介の同心屋敷に行くことなど考えられないからな」
2人の忍は、倉崎たちの会話を互いに確認し合うと屋敷の屋根裏から出ることにした。
翌日、ツボ師の仕事を終えた木兵衛と惣吉は、善治そばの前で待っている清蔵を見つけた。3人は店内に入って席に座ると、鰹の利いた醤油だしとネギが入ったかけそばをすすっている。
「木兵衛、惣吉のほうはどうか」
「今のところは、わしが施術しているのを見て学んでいるところですが、いずれは自らの手で施術できるようになれば」
惣吉が木兵衛から教えを乞うようになってからまだ2日。施術をする場合のツボの位置を覚えることが、惣吉の今の役割である。
「それはそうと、石川島に人足寄場がもうすぐできるみたいだが……」
「そんなにうまく行くわけないけどな。似たようなやつを何年か前にやったけど、結局断念しただろ」
人足寄場ができる話は、火付盗賊改役で庶民からの信頼が高い長谷川平蔵が関わっているとあって、江戸市中の町民たちにも伝わっているようであるが……。
「平蔵と定信の折り合いが悪いという噂がもっぱらだからなあ。まあ、有能という点では平蔵のほうが定信よりも上だと思うけど」
木兵衛と清蔵は蕎麦をすすりながら、惣吉の話に戻すことにした。
「惣吉の新しい長屋だけど、南鞘町に空いている長屋はあるのか」
「とりあえず、小さい長屋が空いているようなので」
これを聞いていた惣吉は、自分のためにしてくれる木兵衛と清蔵への感謝を忘れることはない。
「ありがとうございます! 何から何までしてくださって」
「い、いや……。おれは当たり前のことをしただけなので」
惣吉の言葉に対して、ぶっきらぼうな言い口が多い清蔵にしては珍しく謙虚な受け答えを行っている。
その時、清蔵は表通りを歩く2人組の姿が目に入った。その姿は、南鞘町の裏通りで見たのと全く同じである。
「あの岡っ引の2人、何の目的でここへきているのか」
岡っ引たちは、木兵衛たちが蕎麦屋にいることに気づいていないようである。けれども、清蔵はあの2人組の男が言った言葉を忘れることはない。
「どうした?」
「あそこにいる2人、もしかして……」
木兵衛と清蔵が確証に変わったのは、岡っ引たちの顔つきと動作である。鋭い目つきで闊歩する姿は、裏の仕事で目にしたのと同じである。
「やっぱりか……」
「まさか、あの岡っ引が?」
木兵衛は、密かに耳にした室原の元にいた若侍を預けているということを思い起こした。不肖の若侍たちが岡っ引であるかどうか、それを確かめるのが忍の役目であるのは言うまでもない。




