その5
屋根裏から入った陽は、梁を伝いながら奥へ足を進めた。すると、下のほうから声らしきものが耳に入ってきたので、そっと天井裏に耳を当てることにした。
陽がいる天井裏の真下では、南町奉行・山村信濃守良旺が与力を集めて会議を行っている。内座之間にいる与力の中には、忍の2人が偵察を続ける村崎の姿もある。
与力が山村信濃守に報告を行う中、村崎は例の吉原の件について自らの口を開いた。
「京町1丁目の丸木屋の遊女殺しの件だが、下手人はまだ江戸市中にいると思われます。つきましては、下手人を見つけ次第捕らえる所存でございます」
その口調は、丸木屋の座敷で激高したときの様子と正反対である。もちろん、町奉行の前で丸木屋で起こったことを言うわけにはいかないだろう。なぜなら、今まで築き上げた筆頭与力の地位を解かれるのは間違いないからである。
内座之間ではその後も会議が行われたが、そこで村崎が発言することは一切なかった。地位が上の人間には従順なのに、市中で乗馬しているときに見せる町人衆への鋭い目つきは同じ人間とは思えない醜さを露呈しているように見える。
「御奉行様の前だけに、下手に口を滑らせて墓穴を掘らないようにしているな」
その夜、木兵衛はツボ師を営む小さい長屋に近い表通りにある蕎麦屋へ入った。『善治そば』の看板が掲げられたその蕎麦屋には、多くの町人衆が美味しいかけ蕎麦を食しようと連日のように賑わっている。
「村崎の奴、奉行所では丸木屋での所業は口にしないとは……。禁を破って座敷に刀を持ち込んだことといい、あの楼主と番頭もこの件に一枚噛んでいるかもしれないな」
忍として偵察を続ける木兵衛だが、村崎が遊女殺しに関わったかどうかはまだ定かでない。
そのとき、木兵衛の耳に女性らしき声が入ってきた。
「すいませんが、ご注文は?」
「あっ、そうだった! かけそばを1杯」
しばらくすると、かけ蕎麦が入った器が木兵衛が座っている席へ運ばれてきた。鰹の利いた醤油だしとネギが入った蕎麦は、江戸の庶民にとって身近な味である。
木兵衛がかけ蕎麦をすすっていると、近くに座って食べている町人連中が何やら話していることに気づいた。
「昼間、近くの通りで買った読み売りを見たけど、これを見てどう思うか?」
「浄閑寺に遊女の死体が大量に投げ込まれてるって本当なのか」
「それがどうも本当の話らしくて、若い者が遊女の死体処理のために浄閑寺を訪れているとか」
木兵衛は、町人たちの会話に聞き耳を立てている。少しでも自らの偵察につながるのであれば、他人の会話も利用するのが忍の宿命である。
その間も、町人衆の会話が止まることはない。読み売りに架かれた内容を見た町人の1人が気になることを口に出した。
「これは職人仲間から聞いた話だが、丸木屋の若い者が寅の刻の初刻に遊女の死体を外へ運びだしてるという噂があるそうだ」
「丸木屋って、遊女殺しがあったところか」
「まあ、あそこの楼主は何かと問題のある人でね。遊女の死体も、楼主に何度も折檻された挙げ句じゃないかという噂が絶えないみたいだよ」
会話を耳にした木兵衛は、おしのと2人きりで部屋にいたときのことを思い返した。
「おしのの右腕にある紫色の大きなあざ……。まさか、あれも折檻を受けたものなのか」
町人衆の会話で出てきた噂が本当なら、楼主が日常的に折檻を繰り返すことが疑われても致し方がない。
「木崎の強引な行為を断ったおしのが心配だ……」
木兵衛が不安を感じること、それはおしののこれからの行く末である。それが現実となるのは、木兵衛の目が届かない真夜中のことである。
丸木屋の内所では、楼主の久衛門が木刀でおしのの身体を何回も叩き続けている。
「おしの、これはどういうことだ!」
「久衛門様、部屋で楽しむならともかく……」
「言い訳するな! うちの上客に大きな恥をかかせやがって!」
久衛門から受けた折檻で、おしのは畳の上に倒れたままである。しかし、楼主はこれでもかとばかりに木刀で叩くことをやめようとはしない。
そんなとき、障子越しから番頭の長次郎の声が久衛門の耳に入った。
「楼主さま、例の上客を連れてまいりました」
「そうか、そのまま部屋へ入れ」
障子をゆっくり開けると、長次郎よりも先にあの男が入ってきた。その男を見た途端、おしのはひどく怯えるように顔を背けた。
「せっかく楽しもうとしていたこのわしに歯向かうとはなあ……」
おしのの前に現れたこの男こそが、筆頭与力の村崎である。村崎は不気味な笑みを浮かべながら、嫌がるおしのの顔から首筋を触ろうと右手を近づけた。
「ほれほれ、嫌な顔をしなくたっていいじゃないか。そんな顔をしてたら、遊女には似合うことはないぜ」
「い、いやあああっ!」
おしのは悲鳴を上げながら、無理やり自分の体を触ろうとする村崎を思わず解き飛ばした。これに怒った村崎はその場で刀を抜くと、起き上がろうとしたおしのをバッサリと斬りつけた。
「この女! 楼主様の前で恥をかかせやがって!」
村崎は抵抗できないおしのに自らの刀で一突きすると、久兵衛と長次郎の2人と顔を合わせた。
「この遊女、どうしましょうか」
「心配はいらないぜ。若い者を呼んで、この死体を浄閑寺へ放り投げれば済むことさ」
久兵衛は薄気味の悪い笑い声を上げながら、内所で起こった折檻と殺しをいち早くもみ消そうと長次郎に命を下した。
遊女の始末とその痕跡のもみ消しは、筆頭与力と楼主の二者の利害が互いに一致するものである。
「久兵衛のおかげで、わしもせがれに安心して後を継げることができそうだ」
「そうかそうか、これからも長いおつき合いになるからなあ。ふはははは!」
笑い声が止まらない久兵衛と村崎の2人とは裏腹に、彼らの犠牲となったおしのは若い者によって密かに外へ運び出された。若い者の1人が、内所で起こった内実をこれから口にするとは知らずに……。
ここは、鞘を作る職人が居住する長屋が集まる京橋南鞘町である。清蔵は、小さい長屋でホオノキで作られた鞘に漆を塗る作業を黙々とこなしている。
清蔵の職人としての姿勢は目を凝らして行うときの集中力にある。刀職人が作り上げる刀を傷つけないように、清蔵は鞘作りで細心の注意を払っている。
鞘には漆を塗った外出用の拵の他に、漆を施さない保管用の白鞘がある。拵に入れたままだと、武士にとって命同然の刀が錆びついてしまう。そこで、家では白鞘に刀を入れて保管するのが当たり前となっている。
「ふうっ……。少し休むとするか」
清蔵は路地へ出て一息つくと、切羽詰まった様子で走り駆ける男と偶然出会った。
「す、すまんけど、どこかかくまってもらえるところがあれば」
その男が尋常な様子でないことは、清蔵の目から見てもすぐ分かった。
「かくまってもらえるところって言っても……。それよりも、お前さんはどうしてここへ」
「お、おれは丸木屋の前で客引きをしている陣吉という者だ」
丸木屋という3文字の言葉を聞いた途端、清蔵はこれまでのことを思い返した。
「本来なら丸木屋にいるはずの男がここへくるには、何がしらの事情があるはずだが」
清蔵は、他の人に群がろうとしない一匹狼である。木兵衛とは表裏を問わず行動をともにするが、それはあくまで仕事と割り切っているに過ぎない。
けれども、助けを求める男の姿に、清蔵は黙って指をくわえることはできない。
「ここにいたら不審がられるだろうし、話はおれのところでしようか」
「あ、ありがとう」
陣吉は、自分をかくまってくれる清蔵に低姿勢で頭を下げた。清蔵が作業を行う長屋の中に入ると、そこには清蔵の鞘師としての一面が垣間見える。
「ここにあるのは鞘ですよね」
「おれは職人として鞘師の仕事をしているが、何か気になるのか」
長屋へ入るなり、鞘の完成品ばかりに目がいく陣吉に、清蔵は怪訝そうな顔で見ていた。すると、陣吉はあることを口にした。
「こういうのもなんですが、筆頭与力の村崎柴三郎から鞘を作るよう依頼されたことは?」
「そんな依頼は聞いたことがないんだが……。どうしてそういうことを?」
清蔵の返答に、陣吉はさらに言葉を続けた。
「それが……。楼主の久兵衛様からの命を受けて、おしのの死体を運び出したのだが……」
「おしのって……」
「知っているんですか?」
「おれは知らないけど、ツボ師の木兵衛がその遊女を知っているみたいだ」
裏で知りえた秘密を相手に話すわけにはいかないけど、表の立場で接点のある木兵衛のことは伝えることにした。
清蔵が気になったのは、陣吉がおしのの死体を外へ運び出したという旨の発言である。
「おしのの死体に何か傷らしきものは?」
「顔や手足は何か所も紫色に腫れ上がっていたな。それと、刀で斬られた大きな傷も」
「刀で斬ったのって、もしかして村崎なのか」
「その通りだ。久兵衛様自身も、刀で斬ったのは村崎だそうだ」
陣吉の口から出た筆頭与力の遊女殺害。清蔵は、見ず知らずの場所まで逃げてきた陣吉の気持ちに寄り添うことにした。