その1
桜の花が咲き誇る京橋南鞘町では、今日も子供たちが歓声を上げながら駆け回っている。
その一角にある小さい長屋では、鞘作りに勤しむ清蔵の姿があった。有力旗本へ納める時期が近いとあって、鞘作りから漆塗りといった一連の作業に余念がない。
「ふうっ、今日はこれで作業を終えるとするか。残り3日あれば、相手方へ納品する分を全てそろえることができるな」
長屋から外へ出た清蔵の目に映ったのは、子供たちの駆け回る姿から、たらいで洗濯する母親らしき女性といった人々の日常である。
そんな裏通りに突然やってきたのは、袖なしの着物を身に着けた1人の男である。その男は、何者かに追われているような切羽詰まった表情を見せている。
「た、助けてください……」
「一体どうしたんだ」
「とにかく助けてください! お願いします!」
男の悲痛な叫びに、清蔵は自分の長屋にその男をかくまうことにした。すると、2人組の岡っ引らしき気性の荒い男たちが裏通りに入ってくるのが清蔵の目に入った。
「くそっ! あいつめ、どこへ行きやがった!」
「この裏通りに入ったのは間違いないぜ」
2人の男は、鋭い目つきで気性の荒さをむきだしにしながら歩いている。その様子を見た長屋の住民たちは、顔を合わせないように軒下へ身を潜めた。
すると、男たちは外に出ている清蔵の姿に気づくと早足で永田の軒下で目を合わせた。
「おい! 惣吉はどこへ行った!」
「あの野郎、逃げようたってそうはいかないぞ」
荒げた声を上げる男たちを前に、清蔵はその場で言葉を返した。
「惣吉という名前なんか聞いたことないし、顔も見たことのないぞ」
清蔵の言葉を信じようとしない2人の男は、周りをキョロキョロするように辺りを見回している。
「ちっ! どこにもいないぞ」
「くそっ、まだ遠くへ行っていないはずだ! 見つけたらその場で袋叩きにしろ!」
男たちは激しい口調で言葉を吐き捨てると、南鞘町の裏通りから走り駆けるように去った。
「あの2人、どう見ても尋常な顔つきではないな。何の目的でこんなところへきたのか……」
清蔵は、男たちの姿が見えなくなるのを確認すると再び長屋の中へ入った。すると、そこに身を潜めている男から小声で言い出そうと口を開いた。
「あ、ありがとうございます……」
「い、いや……。そんなにお礼を言われるほどのことをしたわけでは……」
一匹狼で口下手な清蔵であるが、困っている者がいれば放っておけない性格の持ち主でもある。清蔵はその男を見ながら、気になったことを伝えようとしている。
「それはそうと、あの2人組の男から逃げていたみたいだが……」
すると、その男はおびえるような仕草で自ら言葉を発した。
「わ、わしは濡れ衣を着せられて追われているんだ。表通りを歩いていたら,あの2人から因縁をつけられて……」
「それじゃあ、お前の名前が惣吉ということか」
「ああ、そういうことだ」
清蔵は、惣吉のボロボロになった着物をじっと見ながら話しかけることにした。
「ところで、その格好と言うのも何だが、見た感じ元から江戸にいるものではないようだな」
その言葉を耳にした途端、惣吉は自らの身の上話を清蔵に語り始めた。
「わしは、陸奥の南部藩にて農業に勤しんでいた者だ。ところが、数年間にわたる飢饉で米がほとんど育たずに……」
惣吉は、涙を流して言葉を詰まらせながらも話を続けた。
「わしの村でも、食べ物がなくて飢え死にした者たちをこの目で見たんだ。それは、まるで地獄絵図そのものと言っても過言ではない。こんな窮状になっているにもかかわらず、藩は何もしてくれないし……」
清蔵は、険しい面持ちで語り続ける惣吉の姿をじっと見つめている。惣吉が発する言葉の数々には、自らが直視した遥かに壮絶な大飢饉の現実をそのまま物語っている。
けれども、惣吉が目にした現実はそれだけで終わったわけではない。
「わしは、田んぼも畑も捨ててこの江戸へやってきたんだ。江戸へ行けば何がしら職にありつけるのではと思ったんだ。口入屋から紹介されたのはきつい仕事ばかりだったが、手にできる銭はほんのわずかさ」
清蔵は、惣吉のそばで耳を傾けながら相手の顔立ちを間近で見ていた。
「見た感じ悪いやつには到底見えないけど……」
惣吉の外見は、お世辞にも見すぼらしくないとは言えない。
「岡っ引に追われていたのは本当なのか?」
「確かにあの男たちに追われていたけど……。わしは悪さなど一度も行っていない。にもかかわらず、わしの格好を見ただけで……」
清蔵は、惣吉の語り口から嘘偽りがないことをその場で確信した。嘘や偽りがあれば、自らの過ちを取り繕う意図が本人の口ぶりからすぐに分かる。
そんな惣吉を気にかける清蔵は、あることを伝えようと口を開いた。
「それはそうと、惣吉はこの江戸で寝起きする場所があるのか」
「それが……。そういった場所が1つもなくて……」
惣吉は、これまで仕事を提供してくれた口入屋から追い出されたので寝起きするところを求めてさまよっていた。
「それなら、しばらくこの長屋を寝起きの場所として使ってもいいぞ」
清蔵は、仕事も住処も失った無宿人に救いの手を差し伸べることにした。それは、惣吉に対する信頼があればこそのものである。




