その4
翌日、木兵衛と清蔵の予感は悪い意味で当たることとなった。表の生業を終えた2人が『善治そば』で顔を合わせた時、町人連中が続々と日本橋の方向へ駆け走る様子に気づいた。
「大変だ! 日本橋の下で侍の死体があるぞ」
町人衆が口にするその言葉を耳にすると、木兵衛たちは日本橋へ向かう表通りをすぐに駆け出した。日本橋へ行ってみると、そこには数多くの人々が野次馬のように集まっていた。
木兵衛と清蔵は、その死体を確認しようと町人たちの間を通りながら橋の上から見ることにした。
「これはひどいものだ。酷いほどに殺されて川に投げ込まれるとは……」
河岸に上げられたのは、数か所に及ぶ凄まじい刀傷が生々しい死体である。
「あれが仕事で不始末を起こした者の末路なのか……」
あの死体が、野頭屋が仕事の不始末をやらかした侍であるかどうかはまだ分からない。いずれにせよ、裏の仕事を行う立場にある2人にとって、これは他人事ではない。
「本来なら、ここで裏のことを言うのはまずいけど……」
「これだけ野次馬がいるし、別の機会に話そうか」
忍の正体を知っているのは、元締ただ1人である。元締以外の者に正体がばれたら、待っているのは死あるのみである。
「しばらくの間、野頭屋への探りを続けないといけないなあ」
「宗政と徳左衛門の接点が、そのまま駿東藩と野頭屋の接点でもあるからな」
夜闇に包まれた戌の正刻、2人の忍は前日と同様に野頭屋の屋根に身を潜めている。
「やはりきたか」
店先に宗政が現れたのと同時に現れたのは、野頭屋の主人・徳左衛門である。
昨日もそうであるが、こんな闇の中で警戒なしに引戸を開けるのは、よほど親密でなければ考えにくいことである。
「あの2人だな。前日と同じ部屋に入るようだ」
屋根裏に入った忍たちは、音を立てずに息を潜めながら奥のほうへ進むことにした。奥のほうへ入ると、2人の忍は宗政らの会話を聞こうと天井裏に耳を置いた。
「どうやら、昨日言っていたことの続きみたいだな」
真下の部屋では、宗政と徳左衛門の会話が行われている。会話内容が忍の連中に盗み聞きされていることにはまだ気づいていないようである。
「ところで、わしが昨日言っていた件はどうなりましたか」
「それなら心配しなくても、別の者を使って死の制裁を加えましたので」
「わしら2人は一蓮托生だものなあ、ふっははははは!」
ろうそくの灯に照らされながら、宗政と徳左衛門は互いに怪しげな笑みを浮かべている。
「そうなると、例の件を実行するのは?」
「心配しなくても、ここに仕事を求める旗本や御家人は少なからずいるわけですし」
「では、代わりはいるということか」
「その通りだ。札差から借りれなくなって困窮している侍がいる限り、金品を持つ者を襲い殺す仕事は途絶えることはないものだ」
徳左衛門は、不気味な顔つきで自ら手掛ける裏の仕事を相手に語っている。その姿は、相手が自分を裏知らないという自信の表れと言えよう。
「駿東藩も参勤交代でお世話になっていることだし、わしの行うことに異を唱える者などいないだろうからなあ」
脳裏に本音が見え隠れしながらも、徳左衛門は宗政と談笑を続けている。
「どうやら、あの侍を斬り殺したのは野頭屋から仕事を与えられた別の侍のようだな」
「死の制裁をうけた挙げ句に、日本橋から川に投げ落とされるとは……」
忍の男たちは、宗政と徳左衛門の会話を屋根裏で息を潜めながら聞いている。
「宗政は藩の御用人で、正重の信頼も厚いようだ。藩自体も野頭屋とのつながりが強いし」
「なるほどなあ。御用人は、藩主の意向を相手に伝える立場ということか」
宗政の意向は、藩主である正重の意向であるとともに、駿東藩の意向である。今回の件が幕府に露見されたら、領地の没収のみならず、お家の断絶にもつながりかねない。
そんな時、真下にいる宗政らの言葉が聞こえてきた。2人の忍は、偵察相手の会話を聞き逃すまいと天井裏に再び耳を当てた。
「これはほんのささやかなものでありますが、どうぞお受け取りください」
宗政が徳左衛門の前に差し出したのは、紙に包まれた金50両の小判である。徳左衛門は小判を手にしながら、これがどういう意味を為すのかすぐに思い起こした。
「もしや、これは例の仕事をやり遂げた者への報酬ということでしょうか」
「それはこちらから言わなくても、徳左衛門様には分かるはずだが」
「そうか、余計なことを言ってしまったな」
「いやいや、わしはそれくらいのことで気にしていないからなあ」
2人の忍は、宗政と徳左衛門が談笑している様子に苦虫を噛みつぶしている。
「借金で首が回らない侍を食い物にしやがって……」
「影が言いたい気持ちはよく分かるが、ここは冷静にしないと」
怒りに満ちた影をなだめた陽は、江戸市中で犠牲者が出る前に何か手を打つべきかを思案している。