その3
寒空が広がる中、京橋桶町の裏通りは雪も解けて、子供たちの掛け声が辺りにこだましている。
「お前さんの施術のおかげで、ぎっくり腰がすっかりと良くなったよ」
「くれぐれも無理をすることのないようにしてくださいな」
施術を終えた客が長屋から路地へ出ると、木兵衛もツボ師の仕事道具をしまって外へ出ることにした。
木兵衛は、赤く染まりつつある空を見上げると、いつもの蕎麦屋へ足を運んでいた。
そんな時、左側の細い道から男の悲鳴が木兵衛の耳に入った。表通りに通ずる細い道へ踏み入れると、そこには血にまみれて倒れた鳶職人の男のすがたが目に入った。
すると、その男は意識がもうろうとする中で、必死に何かを伝えようと口を開いている。
「おい! しっかりしろ! 誰に斬られたのか」
「あ、編笠の男が……いきなり……」
覚えている限りのことを口にした鳶職人の男は、その場で息を引き取った。木兵衛は、短い生涯を終えた男の姿を見ながら自らの無念さを感じている。
翌日、鳶職人が住んでいた南槇町の長屋からはすすり泣く人々の声が聞こえていた。
「あなた、どうしてこんな姿に……。うううっ、うううううっ……」
白い布を顔に掛けられた男の変わり果てた姿に、残された同居人の女がそれに寄り添うように泣き続けている。葬儀に駆けつけた鳶職人たちも、無言のまま帰ってきた仲間を見ながら涙を流していた。
「何の罪もない人間が、こんな酷い形で人生の幕を閉じなければならないとは……」
焼香を行った木兵衛は、身近な者を失ったことへの悲しみをこの目で感じた。遺族と僧侶に一礼して長屋から出ると、先ほどの鳶職人の1人から声を掛けられた。
「木兵衛さんですか」
「もしかして、郷吉さん?」
郷吉というその男は、少し前に木兵衛の施術を受けたことがある。木兵衛も、郷吉の顔を見てすぐに立ち止まった。
「郷吉さん、鳶の仲間がこういう形で命を落としてしまうとは……。ご愁傷様です」
「お心遣いありがとうございます」
郷吉は、木兵衛の気遣いに感謝の気持ちを伝えると改めて口を開いた。
「実は、おれもあの編笠の男に危うく襲われそうに……」
「えっ? どの辺りで?」
「確か、日本橋通2丁目の角を曲がった式部小路に足を踏み入れたときに、あの男がいきなり刀を抜いてきて……」
幸いにも、この時は間一髪で身をかわして難を逃れることとなった。しかし、いきなり襲ってきた編笠男の姿は、今でも脳裏から離れることができない。
「編笠の男が誰なのかは分からないが、人通りの少ないところには立ち入らないほうがよさそうだ」
謎の殺人鬼が江戸市中に現れているとあって、これに怯える町人衆は少なくない。木兵衛は、郷吉のことを気にかけながらその場から去ることにした。
「これ以上、何ごともなければいいが……」
黄昏に入った戌の刻、忍の姿になった2人は風のように切りながら走り駆けている。駿東藩の大名屋敷へ向かうのは前回と同じだが、その目的はやや異なるのものである。
大名屋敷の屋根にたどり着いた忍たちは、駿東藩の関係者に見つからないように身を潜めている。
すると、屋敷の玄関から1人の男が出てきた。その男は、藩主・笠田正重へ謁見した御用人の柴山宗政である。
「あれが宗政か」
「提灯を持って出かけるとすれば、おそらくあの場所では……」
2人の忍は、表門から武家屋敷が立ち並ぶ通りを歩く宗政を追うことにした。
「どこまで行くつもりなんだ」
忍たちは、昌平橋を渡ってさらに歩き続ける宗政に気づかれないように相手の動きを見ている。すると、神田鍛冶町の辺りで宗政がある建物の前で立ち止まったことに2人は気づいた。
「野頭屋という名前か」
「あそこが正重の言っていた口入屋なのか」
夜の闇に包まれた時間だけに、野頭屋も他の商家と同様に木製の引戸で閉められている。そんなとき、野頭屋のご主人らしき男がその引戸を開けると、宗政を丁重に扱いながら屋内へ入れることにした。
これを見た2人の忍は、すぐさま野頭屋の屋根へ飛び移った。そこから屋根裏に密かに忍び込むと、音を立てずに奥のほうへ足を進めることにした。
「あの辺りから、声らしきものがかすかに聞こえるような……」
陽は、影がつぶやいた声を受けて忍び足で近づくことにした。その場所に耳を当てると、真下の部屋に宗政の声が聞こえてきた。
「どういう意図でここへきたのだろうか」
忍たちは、宗政と口入屋との会話を聞き逃さないように探ることにした。
そのころ、野頭屋の奥へ入った宗政は、口入屋のご主人と面と向かうように正座している。
「宗政様、こんな夜分にきてくださって本当にありがとうございます」
「徳左衛門様、そんなことは気になさらなくても……。それよりも、例の件についてお尋ねしたいのだが」
宗政が口にした言葉に、徳左衛門はそれに対する返答をためらっている。
「申し上げにくいのだが……」
「どうなされたのか?」
「実は、金品を持っていそうな男を斬り殺すという仕事を受けた御家人についてなんだが……」
徳左衛門は、事の詳細を伝えるべく再び口を開いた。
「京橋の桶町へ入る細い道で、鳶の男を斬ろうとしながら逃げられるという失態をしまして……」
「何だと……」
宗政は、徳左衛門から伝えられた言葉に声が出なかった。
野頭屋にとって、駿東藩は参勤交代などで信頼を寄せる存在である。徳左衛門は、相手の顔つきが険しくなっているのをこの目で感じていた。
「宗政様には、本当に申し訳ないというか……」
「それで、どうするつもりか」
「あんな不始末をやらかしたわけですから、当然この世から消さなければならないでしょうねえ」
徳左衛門が宗政の前で示唆したのは、不始末を起こした御家人への死の制裁である。当然ながら、その制裁を行う者がいなければ意味がない。
「うちに仕事を求める侍は少なからずいるわけですし、きちんと始末してくれれば何も言うことはないですからねえ」
「そうか……。それなら、今回の件はそちらに任せるとするか」
「駿東藩と野頭屋がこれほどまでに親密とは……」
「江戸市中で何人もの命を奪ったのも、野頭屋が大きく関わっているみたいだな」
2人の忍は、駿東藩と野頭屋との関係を示唆するとともに、不始末を起こしたとされる侍の行く末を案じていた。




