その2
木兵衛と清蔵はそれぞれの生業を終えると、待ち合わせ先の蕎麦屋『善治そば』の前で顔を合わせた。
「日本橋へ向かう表通りだし、これだけ人が多いと目撃する者がいないはずがないのだが」
「あの場所は人の気配が少ないから、いきなり狙われたのかも……」
小声でつぶやく2人の先には、菅笠を被った読み売り屋を囲むように多くの町人衆が集まっていた。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! どえらいことがまた起こったよ! 植木職人の染吉を殺した者は一体誰だって? その張本人こそが、編笠を被った侍ってもんだ! さあ、詳しいことはこれを読めば分かる! さあさあ、買った買った!」
町人たちに交じって集まった木兵衛と清蔵は、菅笠の男に銭を支払って読み売りを受け取った。
「編笠の侍か……」
「木兵衛、どうした?」
「実は、わしの施術を受けた大工職人が持っていた読み売りにも、相手を斬り殺した編笠の侍のことを記されたのがあったわけで」
清蔵は、木兵衛からの説明を聞くとすぐに返事を返した。
「その編笠を被った男と同じ人物ということか」
「そこまで断定することはできない。ただ、書かれている内容の出先が妙な感じがして……」
記事の疑念が拭いきれない木兵衛は、さらに言葉を続けようと口を開いた。
「編笠を被った男は、衝動的に殺しを行ったとは考えられない。続けて起こったのなら、おろらく誰かの命を受けている可能性は十分にあり得ることだ。読み売りに書かれているのも、そこから流した提灯記事なのでは」
木兵衛が言い終えると、清蔵はすぐに口を開いた。
「葉住屋という名前か……。読み売りを出しているところは」
「神田鍋町だな。大名屋敷がある須田町にも近いし」
装束姿となった忍たちは、記事の出先を探ろうと屋根の上を疾風の如く走り駆けている。
「葉住屋はあの場所だな」
「くれぐれも慎重にしないと」
葉住屋の屋根裏へ密かに足を進めた2人の忍は、真下から聞こえる声を天井越しから耳に入れるところである。
「特に変わったところはないな」
「ネタ元を持ち込む奴が誰なのか、しばらく待つしかない」
読み売り屋は自分からネタ探しで動く場合と、相手が直接ネタを持ち込む場合がある。陽と影が知りたいこと、それは編笠の男が登場する例の記事を読み売りに流した連中である。
そんなとき、葉住屋に1人の男がやってきた。その男は、左腰に刀を差した侍らしき風貌を見せている。
「失礼つかまつる。いつものネタを持ってきましたぞ」
「あっ、これは岩田様」
岩田という名の侍は、葉住屋の主人に自ら持ち込んだ情報を伝えようとしている。
「江戸市中で編笠の男が暴れ回っているのはご存知でしょう」
「ま、まあ……」
葉住屋の主人は、同じネタばかり持ってくる岩田を快く思っていない。けれども、読み売りの売り上げはその時のネタ次第である。
「駿東藩に仕える立場であるわしにとっても、今回の件はゆゆしき事態だと思いますが」
「それなら、今回はどのようなものでしょうか」
天井に耳を当てて聞いていた2人の忍は、その場から密かに立ち去ることにした。
「駿東藩って、確か昌平橋の先にある武家地の一角に屋敷を構えているな」
「読み売り屋にネタを持ち込むのに、なぜ自分の藩の名前を出すのか」
「あの編笠の男、もしかしたら駿東藩と何らかの繋がりがあるかも……」
濃紺色の空が広がる夜闇の中、忍たちは武家屋敷のある昌平橋の向かい側を眺めている。
ろうそくが灯されたいつもの地下部屋では、2人の忍が元締と今回の偵察についてやり取りが行われている。
「駿東藩って、まさか……」
「まさかって……。元締、駿東藩について知っているんですか」
「材木問屋を営んでいると、小大名の家臣や旗本といった者たちの声が耳に入るけど」
元締は、濁声を発するように言葉を続けた。
「これは数日前のことだが、ある藩の家臣が気になることを言い出して」
「それが駿東藩ということか」
「詳細こそ口に出さなかったが、駿東藩で妙な動きがあるらしい旨のことは確かだ」
陽と影は、装束を身に着けた格好で暗闇に包まれた中を屋根沿いに疾走している。2人の忍が目指す目的地、それは昌平橋を渡った先に存在する武家屋敷である。
「駿東藩は譜代の笠田正重が藩主だが、石高は1万石を上回る程度だな」
「編笠の男と駿東藩との間にどのような繋がりがあるのか、気になるところだ」
忍の男たちは疾風の如く走り駆けていると、ある屋敷の屋根の上で立ち止まった。その場所こそが、駿東藩主・笠田正重の江戸屋敷である。
漆黒の闇に浮かぶ2人の忍は、屋敷の屋根裏に入って偵察をすることにした。密かに屋根裏に踏み入れると、音を立てることなく足を進めている。
「下から何やら声が聞こえているぞ」
忍たちは、息を潜めるようにしながら天井裏に聞き耳を立てることにした。
そのころ、藩主の正重は大書院にて側近との謁見を行っていた。
「宗政、事はうまく進んでいるのか」
「殿、心配ご無用でございます。幕府のほうも、この件はまだ気づいていらっしゃらないようで……」
正重が上段の間から目を凝らして見ているのは、御用人の柴山宗政である。ろうそくが灯される中、正重は信任の厚い宗政の前で口を開いた。
「そうか、それならいいのだが……」
「殿、何か気になることでも?」
「いや、何でもない。とにかく、この件がうまく進むことができれば、寺社奉行の職に任じられることも……」
詰衆並の立場にある正重だが、もちろん現在の地位に甘んずるつもりはない。寺社奉行を目指すのは、勘定奉行・町奉行を含めた三奉行の中でも筆頭格だからである。
「聞く話によりますと、棄捐令が発布してからというもの、札差から借り入れができずに困窮している旗本や御家人が少なからずおられるそうで」
正重は、自らの言葉で伝える宗政をじっと見つめながら再び口を開いた。
「そうなると、口入屋のあのお方の出番になりそうだな。われわれにとっても、江戸へ参勤するための人員確保でお世話になっているわけだし」
「もしかして、例の件でということなのか」
「その通りだ。禄が少ない上に家督を継げない旗本やら、御家人やらはいくらでもいるものだ。あのお方に頼めば、例の件に関する斡旋をしてくれるからなあ。ふははははは!」
不気味な笑い声を浮かべる正重だが、その裏には鬼気迫るものがある。
「あの正重という大名、おれからしたらしゃくに触りそうな奴だな」
影は、屋根裏から耳にした正重と宗政の会話の一部始終に苦虫を噛み潰した。それに呼応するように、陽もその場で口を開いた。
「あの件の斡旋って、いったいどういう内容なんだ」
大名と重臣による大書院での発言に強い疑念を抱くようになった。2人の忍が目を向けるのは、正重とつながりのある口入屋の存在である。
「駿東藩については、まだ探りを入れる必要があるな」
忍の男たちは、駿東藩周辺の人物への偵察を継続することを確認して大名屋敷から去ることにした。




