その1
冬特有の北風が吹きすさぶ京橋桶町。夜が明けて、裏通りが薄暗い雲から降り落ちる雪に覆われる中、木兵衛はいつも通りに自分の長屋にてツボ師の施術を行っていた。
「い、いててててててっ……」
「痛いけど、しばらく辛抱してくださいね」
施術を受けているのは、齢50を過ぎた大工職人の男である。長年の大工仕事で生じた右膝の激しい痛みは、歩くことすらも厳しい状態となっている。
「このツボを押さえると、、血の巡りが良くなって痛みも和らぎますから」
「そ、そうですか……。い、いてててててて……」
木兵衛は、内膝眼と外膝眼と呼ばれるツボを強く押し続けている。激しい痛みが生じるのは、血の流れが滞るためである。血の巡りを良くしようと、木兵衛は痛みの箇所へのツボ押しを施している。
「施術が終わりました。右膝のほうはどうですか」
「いつの間にか痛みがなくなっているとは……。さっきまでの痛みが嘘のようだ」
ようやく施術を終えた大工の男は、右膝の痛みがいつの間にか治まったことに嬉しくてたまらない。
「下手なヤブ医者よりも、おいらは親身にツボ押しをしてくれる木兵衛のほうがお気に入りだぜ」
施術のお代を払った大工職人は、相変わらず調子のいい口ぶりである。そんな大工の男は、自ら手にした読み売りを木兵衛に見せながら話し始めた。
「これ見てどう思う?」
「人通りの少ない闇夜に、編笠を被った侍が金品を奪った挙げ句に刀で斬り殺した、ということか」
木兵衛は、読み売りに目を通しつつも首を傾げた表情を見せている。
「どう考えても、うますぎる話にしか見えないんだけど」
「えっ? うますぎる話しって?」
「夜中に発生した出来事だし、目撃する人もあまりいない。おそらく、編笠姿の侍とつながりのある者から流したのでは」
ツボ師としての施術を終えた木兵衛は、表通りにある蕎麦屋『善治そば』へ足を運ぶことにした。先ほどまで降っていた雪も、今はすっかりやんでいる。
「大変だ! 庭木職人の男が血まみれで倒れているぞ!」
商人らしき男の叫び声に、町人たちがあわてた様子で次々と表通りを駆け抜けている。
「まさか……」
木兵衛は雪の積もった表通りを急ぎ足で進んでいると、日本橋通南4丁目の一角に町人衆が多数集まっていることに気づいた。
野次馬をかき分けて入った木兵衛が目にしたのは、まるで地獄絵図のように殺された男の死体である。血に染まった雪は、殺され方がいかに凄惨であったかをそのまま物語っている。
あまりにも無残な光景に、周りに集まった町人衆がざわめいている。悲鳴交じりの声は、目の前にある状況が尋常でないことを示している。
現場では、同心たちが死体の検分を行っているところである。この様子に、木兵衛はその場でつぶやいた。
「あまりにも酷い殺され方だ。誰がこんなことを……」
雪中で惨殺された死体を目撃した件は、主なき長屋の地下部屋で顔を合わせた影にも伝えられた。
「本当にひどいものだ。無抵抗の者に何度も斬りつけやがって……」
影は吐き捨てるように答えると、さらに言葉を続けた。
「もうすぐ年の瀬を迎えるのに、定信のせいで物騒な世の中になったものだ」
「それって、旗本や御家人を救済する棄捐令のことか? まあ、江戸市中の町人衆には関係のないことだが」
棄捐令は、旗本や御家人に蔵米を担保に高利貸しを行っていた札差に対して、債権の放棄及び年利の引き下げを行うよう発せられたものである。旗本や御家人にとっては返済地獄から一時的に解放されたものの、新たな借り入れは棄捐令によって損害を受けた札差から断られるようになった。
「それが理由かどうか分からないけど、漆塗りの拵を納品するはずだった旗本から断りの返事が玄関で伝えられた」
「やはり、金が足りなくて困窮しているということか」
影が口にした内容に返答した陽は、続けて言葉をその場で発した。
「話を戻すけど、職人の男を惨殺したのがこういった旗本や御家人だとしたら……」
「本当にやりきれないものだぜ」
2人の忍が互いに話していると、元締が忍たちのいるろうそくに照らされた場所へやってきた。
「何を話していると思ったら、例の惨殺死体のことか」
「元締もご存知でしたか」
「先ほどやってきた客がこのことを言っていたもので」
あれだけ凄惨な遺体であるだけに、現場に集まった野次馬たちから表通りの町人衆に伝わっていることはまず間違いないだろう。
「しかし、その男を殺めた者を目にしたのは誰もいないというのが腑に落ちないなあ」
「腑に落ちないって……」
「あの死体を見た限りでは、そう時間は経っていないはずだ。遺体の周辺以外に血の痕跡は見られないし」
夕刻で町人の行き交う表通りで起こった無残な事件であるにもかかわらず、殺めた者の姿を目にした人たちがいないことに陽は強い疑問を感じざるを得ない。
この様子に、元締は2人の忍に例の言葉を掛けた。
「お前らがどう行動するかは、わしからとやかく言うつもりはない。くれぐれも、忍の掟を忘れるんじゃないぞ」
掟を破ること、それは自らの死を意味するものである。忍の男たちは、掟の意味合いを自らの胸に手を当てながら思案している。