その7
それから数日が経過したある日、2人の忍は春町の屋敷へ入るべく屋根の上にいる。
忍の男たちが再び足を踏み入れる理由、それは春町の言葉の端々を聞いてどうしても気になったからである。
「隠密がいつくるか分からないので、用心するに越したことはないぞ」
「それくらいのことはおれも分かってる。何回も同じことを言わなくても……」
陽と影は、屋根裏へ忍び込むと音を立てることなく足を進めている。そんな時、外のほうから大勢の声らしきものが耳に入ってきた。
「外から騒然とした声が……」
「まさか、春町が……」
忍たちが屋根裏から出ると、春町の屋敷前に大勢の人々が集まっているのを目にした。
陽と影は人目がつかないように屋根に隠れると、これまでの忍の姿から表の木兵衛と清蔵の姿に戻った。
「よし、誰もいないな」
他の人に気づかれないように屋敷の裏通りへ着地すると、再び小石川戸崎町の表通りへ出てきた。暗闇に包まれているにもかかわらず、春町の屋敷前には町人衆や浪人たちが大勢集まっていた。
木兵衛と清蔵は、野次馬たちの悲痛な顔つきがどういうものかすぐに感じ取った。それは、2人に対して残酷な現実を突きつけるものである。
屋敷の表門から出てきたのは、戸板に乗せられた春町の変わり果てた姿である。
「首を吊って自ら命を絶つとは……」
「な、なんてこった……。う、ううううっ……」
町人たちの嗚咽が聞こえる中、木兵衛たちは野次馬をかき分けて遺体の見える前のほうへ出てきた。春町の首には、縄で絞められた跡がくっきりと見えるのが2人の目にも入った。
しかし、木兵衛は遺体のそばに近づいて見ると春町が自殺したとは到底思えないことに気づいた。
「やっぱりそうか。首のほうに引っかき傷がいくつもあるぞ。何者かが縄で首を絞めようとしたときに、春町が必死の思いで抵抗したということは分かるな」
木兵衛は、首もとを見ただけで自殺ではないとその場で判断した。さらに、春町が自ら命を絶ったわけではないと考えるのにはもう1つ理由がある。
「顔が明らかに赤くなっている。これは鬱血で間違いなさそうだ」
自殺だったら、鬱血することなど考えられないというのが木兵衛の考えである。相手の体を知ることは、ツボ師である木兵衛にとって重要なことである。
そんなとき、遺体を確認しようとする2人組の同心が木兵衛に近づいてきた。
「おい、邪魔だ! さっさとそこをどかんかい!」
同心たちの横柄な態度に納得がいかない木兵衛であったが、ここで揉め事を起こしたくないとの思いから清蔵のいる野次馬の中へ戻ることにした。
「やっぱり、これは自殺で間違いないようです」
「これ以上調べることはなさそうだな」
2人組の同心が淡々とした口調を見せていると、春町の幼い実子が変わり果てた父親の姿に涙声で嗚咽交じりに口を開いた。
「父上、父上、頼むから目を開いて……。うっ、うっ、ううううううっ……」
涙を見せないのが武士の美学といえども、父親の突然の死は家督を継いだ跡取り息子にとって大きな悲しみであることは間違いないだろう。
その様子は、木兵衛や清蔵の目からも確認できるほどである。
「当事者だからこそ、春町を失った悲しみは尋常ではないだろうし」
手下によって夜道の中を運び出すのを見て、木兵衛たちは腕を組みながら厳しい顔つきを見せている。
「やはり、これは黒装束の隠密が一枚噛んでいるらしいな」
「隠密が春町の屋敷近くへきたのは事実だが……」
木兵衛は春町の死に関して、隠密以外が殺しに関与する可能性も考えてみた。しかし、実直な春町の性格を考えると、他人から恨みを買うというのはあり得ない。小島藩で藩政中枢に関与していた当時も、彼に関する悪い噂は皆無といっていいほどである。
「いろんな要素を考え合わせても、やはり常御用と呼ばれる徒目付が手を下したと言って間違いない。徒目付の中でも隠密活動を行うのは、常御用ぐらいしか考えられない。そもそも、自ら命を絶つと考えるなら、白装束で切腹するだろうし」
木兵衛の言葉を受けて、清蔵もすぐに言葉を返した。
「確かに、殺しを行う場合に侍の服装まで考慮することはあり得ないだろうな。白装束でないのに切腹というのも妙だ」
「その点、首吊り自殺に見せかけることは十分にあり得るということだな」
「けれども、徒目付がいるのは江戸城内だぞ。あれだけの厳重な警備ということを考えると……」
2人は常御用をどうおびき寄せるか、腕を組みながら考え込んでいる。
「けれども、徒目付の中で隠密ができるのは常御用ぐらいしかいないし……。それと、常御用は老中から直に命を受ける場合と、老中からの命を目付を経由して組頭が受け取った上で伝える場合のいずれもあり得る」
「そうなると、目付と組頭が大きく関わっているかもしれないと……」
木兵衛と清蔵は、非業の死を遂げた春町のことを無駄にするまいと風のように駆け抜けるように江戸城へ向かうことにした。