その5
忍たちがいつもの地下部屋へやってきたのは、夜が更けて丑の初刻になろうかという時である。
ろうそくでかすかに照らされた中、陽と影はこれまで行った偵察の一部始終を元締に対して話している。
「隠密が春町の屋敷近くに現れたというのか」
「黒装束に身を包んだ伊賀者の男ということを考えると、隠密でほぼ間違いないかと思いますが」
元締は、隠密という2文字の言葉に敏感に反応している。
「隠密が動いているということは、定信が下の者に手を回している可能性が高そうだ。陽は、春町と喜三二は藩の要職に就いていたと言っていたな」
「そうですが」
「そうなると、大目付が隠密を送り込んだと見て間違いない。大目付は大名の監視を行う関係上、それに仕える有力者にも同様に監視の対象になることが十分にあり得る」
元締は材木問屋を表の仕事として営む仕事柄、客と会話を交わすことが多い。客の中には、無役で小普請組に属している旗本や御家人が少なからず存在する。
「無役の侍って、どうせ何か不始末しでかして幕府の職をやめさせられた奴ばかりだろ」
ぶっきらぼうな言い口で吐き捨てる影の言葉に、元締は関心を寄せるように耳を傾けた。
「全てがそうとは言わないけど、大抵は影の言う通りで間違いないようだ」
元締は、2人の前でさらに言葉を続けた。
「大工仕事に勤しむ小普請組の旗本たちが小声で話しているのを耳を澄ましていたら、無役をいいことに旗本同士で余計なことをしゃべっていてなあ」
「余計なことって、まさか隠密のことじゃ……」
「そのまさかだ。その旗本たちは徒目付の情報をこっそりと話しているのをこの耳で確認している」
「それなら、あの隠密も……」
「そこまでは、わしもはっきりと分からない。ただ、徒目付が隠密として江戸市中へ放っているのはでほぼ間違いないだろう」
元締の言葉にうなずいた忍たちは、探りの範囲を広げることにした。
「徒目付が隠密を行っているとなると、当然に徒目付に命を下すものがいるはずだが」
「問題は、徒目付の番所が江戸城の本丸御殿にあることか……。武家屋敷と違って、少したりとも失敗は許されないし」
陽と影は、装束に身に包んだ姿で遠方にある江戸城の天守閣を見ている。むろん、征夷大将軍の居城であるだけに、城中には大番や小十人を多く配置して厳重な警備が敷かれている。
「まさか、本当に江戸城の本丸に忍び込むつもりなのか……」
「わしらは、伊賀で厳しくて困難な修行を乗り越えたことは忘れていないだろう。それを考えれば、江戸城に密かに入ることぐらい容易なものだ」
忍というもの、それは常に死と隣り合わせの世界である。陽が発した言葉には、忍がどういう意図を持って行動するかを自ら問いかけている。
そのころ、江戸城本丸御殿にある番所では、徒目付から組頭への報告に騒然となっていた。
「何だと! 常御用の矢烈が斬られたって本当なのか?」
「言いにくいことですが……。矢烈は昨晩偵察に出たまま戻ってこないので、不審に思って探していたら、屋根の上で命を落とした矢烈の姿が……」
徒目付は、あまりの涙声でこれ以上自らの口から発することができない。
「定信公がこのことを知ったら……」
徒目付の中でも、常御用と呼ばれる者たちは、老中からの命令により専ら隠密として活動している。この常御用にこだわるのが、幕政の実権を握る定信である。
徒目付からの報告を受けた組頭は、目付の霧村誠之助へこの件について伝えようと西の丸に足を踏み入れた。
「霧村様、失礼します」
「徒目付組頭の隈沢利兵衛か。何の用でここへきたのか」
正座してから頭を下げた隈沢を見て、霧村はすぐに言葉を切り出した。その言葉に、隈沢は重い口を開けることにした。
「定信公の命を受けて隠密を行っていた常御用の矢烈が、屋根の上で何者かに切り殺されまして……」
「屋根の上で斬られて命を落としたとは……。まさか、隠密以外の忍が……」
霧村は、厳しい表情で隈沢からの報告を聞いていた。この江戸市中で、公儀隠密以外の忍が動いているという事実に驚きを隠せない様子である。
「それで、隠密でない忍ということ以外まだ分からないんだな」
「は、はい……」
霧村にとって最も恐れているのは、自分たちの意に沿わない忍が江戸の町に存在することである。幕府に都合の悪い存在を消したいと考えているのは、霧村に限ったことではない。
「とにかく、忍らしき者を早急に探し出せ!」
「見つけたらその場で始末するということで」
「そういうことだ。わしもこの件について定信公に上申するつもりだ」
一方、2人の忍は蓮池濠近くの建物の屋根にいる。
「江戸城へ足を踏み入れるには、あの濠の中を進むしかないな」
「西桔梗門とか見ると、城中の警備がかなり厳しいことがうかがえるな」
陽と影は互いに目を合わせると、すぐさま屋根上から蓮池濠の中へ飛び込んでいった。
暗闇に月の光がわずかに照らされる中、忍たちは水中に身を隠しながら城壁へ近づきつつある。
「よし、ここから城壁へ上がるぞ」
陽は、自ら取り出した鉤縄を振り回すように城壁へ向けて投げた。瓦屋根に引っ掛けると、そのまま壁伝いに城壁の上へ登った。
「影! 早く登らないと敵に見つかるぞ」
「そんなこと言われなくたって分かってる」
陽に続いて影も登り切ると、静寂の漂う江戸城の城壁を見回している。
「いつ隠密が現れてもおかしくない。気を引き締めていかないと」




