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夜暗の忍  作者: ケンタシノリ
第4話 恋川春町の死と隠密の暗躍
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その4

 その2日後、陽と影は再び久保田藩の上屋敷へやってきた。ただし、今回はこの屋敷への潜入を目的とするものではない。


「どうやら、喜三二が出かけるところだな」

「春町のところか」


 2人の忍は、喜三二が屋敷から出てくるのを目を凝らすように見ている。偵察に当たっては、相手に気づかれないよう細心の注意を払わなければならない。


 喜三二は、火を灯した提灯を持って通りを歩いている。賑やかな町人地とは異なり、武家地では夜中になると出歩く人を見かけることがほとんどない。


「不忍池の方向だな」


 忍たちは、屋根に身を潜めるように喜三二の後を追っている。小石川春日町にある春町の屋敷は、不忍池よりもまだ先の方向である。喜三二が不忍池を通り過ぎて少し先へ行くと、大名屋敷や寺院か立ち並ぶ追分元町の通りに入った。


「左へ曲がったぞ」

「喜三二の歩くこの先に、春町の屋敷があるのか」


 喜三二の動きに合わせるように密かに追跡する2人であるが、その背後には暗闇から牙をむき出す装束姿の男が迫っている。


 忍たちは、通りを歩く喜三二が持つ提灯の動きに注意するように屋根沿いを走っている。


 そんな時、陽は後ろから迫りくる敵の存在に気づくと、振り向きざまに手裏剣を3枚続けて投じた。すぐさま背中から刀を抜くと、手裏剣が命中してよろける黒の装束姿の男を素早い動きで斬り倒した。


「わしらの後ろから狙うとは……。一体何の目的なのか」

「おれたちと同じ伊賀者ということは、まさか……」


 2人の忍は屍となった男の姿を見ながら、自分たちが隠密に狙われている現実を知ることとなった。


「これはあくまで噂だが、どうも定信の周辺で不穏な動きがあってなあ……」

「不穏な動きって?」

「定信が自分に近い人間を幕閣に据えてからというもの、幕府の意に反する者への監視の目が厳しくなったそうだ」


 陽は、黒装束の隠密の動きに関してさらに言葉を続けた。


「それに、幕府が出版統制令なるものを出していることも大いに関連がありそうだ」

「あの黒装束の真の目的って、まさか……」

「考えられるのは、定信の息のかかった幕臣の命で動いているということかな。幕府に批判的な書物を著している作者の監視とか……」

「ああ、なるほどな。春町は定信から呼び出しを受けたけど出頭しなかったからな」


 定信の疑い深い性格を考えると、監視目的で隠密を春町の屋敷に近い場所へ放ってもおかしくない。


「こんなところで油を売っているわけにはいかない。喜三二の後を追わないと」


 陽と影は、喜三二を見失わないように疾風の如く駆け抜けようとしている。遠方にわずかながら見えるのは、駿河にある小島藩の上屋敷である。


 2人の忍は、上屋敷が見える近い場所で立ち止まった喜三二の姿を見つけた。


「ここが春町の屋敷ということなのか?」

「あの2人が仲が良いのって、お互いが藩の要職についていたからということも考えられるな」

「たかが黄表紙を書いただけで呼び出しとか監視とかされるのは、春町も相当の要職に就いていたからに他ならないし」


 そんな時、喜三二が屋敷のなかへ足を踏み入れると、小さい男の子が丁寧な対応で玄関まで案内している。


「あの男の子が春町の後継ぎなのか。まだ幼い年齢であるにもかかわらず、しっかりとした口調で侍らしさを表しているとは……」

「幼くして家督を継がざるを得なかった中、何も言い訳せずに武士の本分をわきまえているからなあ」


 忍たちは周りに誰もいないことを確認すると、手前の屋敷から通りに着地するように飛び降りた。


「この屋敷か……。春町が隠居しているのは」

「喜三二がこの屋敷へ入ったのも、春町と顔を合わせるのが目的なのか」


 月が浮かび上がる暗闇に飛び上がった2人の忍は、春町のいる屋敷の屋根に移った。屋根裏へ密かに入った陽と影は、梁へ沿いながら音を立てることなく進んでいる。


「そんなに広い屋敷ではないけど……。どのあたりに春町はいるのだろうか」


 陽は屋根裏に耳を当てながら、春町のいる場所を確認している。こうした地道なことも、忍たちが相手の偵察を行うに当たって重要なことである。


 そんな時、陽の耳に聞き覚えのある声が入ってきた。


「喜三二の声か……。おそらく、ここが春町のいる部屋で間違いないみたいだな」




「倉橋様、こんな夜分に屋敷へ上がって申し訳ない」

「平沢様、いや喜三二様、わざわざきてくださってかたじけない」


 部屋へ入った喜三二の向かい側に座っている男こそが、黄表紙作者として親交の深い恋川春町である。


「まあ、隠居する前までは小島藩年寄本役・倉橋寿平だったから……。でも、喜三二様の前だったら春町と言ったほうがしっくりくると思うなあ」


 春町と喜三二の2人は、黄表紙の作者という町人文化の担い手のみならず、藩の中枢に関与するほどの重責を担っていた点で共通するものがある。すなわち、2人は武士としての本分を持ちながら、同時に書物の作者としての矜持を兼ね備えている。


 そんな春町の身なりは、いたって質素である。やつれたように見えるのは、若くして隠居せざるを得なかった本人の気持ちを表している。


「春町、顔色が悪いように見えるが……」

「そうか? そんなに体調が悪いようには感じないけど」


 通常の隠居生活とは違い、春町のそれは自らの食い扶持を捨てることから、本人に苦悩の色が出るのも無理はない。


「それならいいけど……。春町様が『鸚鵡返文武二道』を著してからずっと音沙汰がなかったので」


 春町は、これまで黄表紙の作者としてのみならず、洒落本や滑稽本への挿絵でも才能を発揮していた。それだけに、喜三二は自分と同じ『文武二道』を最後に一切作品を出さなくなった春町の様子を心配している。


 すると、春町は喜三二の前で再び口を開いた。


「わしのことを心配する前に、喜三二様のほうはどうなんだ。わしよりも前に『文武二道』を出していたそうだが」


 春町の言葉に、喜三二はなかなか口を開けようとしない。


「喜三二様、何か言い出せない理由でもあるのか?」


 喜三二は、しばらくの沈黙の後にようやく重い口を開けた。


「実はなあ……。義和殿からきつくお叱りを受けまして……」

「お叱りを受けたって、もしかしてあの作品で?」

「はい、その通りでございます。もう二度と黄表紙の作品は出さないという一筆を書いてようやく義和殿から許しをもらったわけで」


 喜三二は、苦渋の思いで断筆した現在の心境を語った。そんな相手の思いに、春町は自ら言うべきことを封印することにした。


「もう夜も深まった時分だし、そろそろ戻られたほうが……」

「春町の顔を久しぶりに見て、わしは言葉に表せないほど深く身に染みているようだ。遅い時間につき合ってくれて本当にありがとう」




「あの2人が藩の要職に就いていたとは……。定信が神経をとがらせているのは、彼らが武士でありながら黄表紙の作者として幕政批判を織り込んだということか」


 春町と喜三二の会話を密かに聞いていた陽は、そばにいる影に小声で話し始めた。


「先ほど襲ってきた隠密だが、春町の監視だけで動いているとはどうも思えない気が……」

「それって、まさか……」

「最悪の事態を想定するのを極力避けたいが……。定信の意向が働いているのであれば、春町をこの世から消す動きがあってもおかしくない」


 春町の身を案じる2人の忍だが、それが春町本人に届いているかどうかは定かでない。

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