その2
雨の表通りを歩く木兵衛は、春町の書物が置かれているであろう書店を片っ端から回ることにした。
「定信から呼び出しを受けた春町がなぜ隠居したのか……」
最初に訪れたのは、『金々先生』を置いている鶴鱗堂である。
「どうかなさいましたか?」
「すいませんが、店主は居られますか?」
番頭の呼ぶ声に、奥から出てきたのは店主の孫兵衛である。木兵衛は、相手の店主の顔を正面に見ながら丁寧な口調で話し始めた。
「お忙しいところをお邪魔して申し訳ありません。ちょっと尋ねたいことがありますけど、よろしいですか?」
「まあ、ほんの少しの時間ならよいだろう。それで、そちらのご用件は?」
「実は、恋川春町の件ですが……。店先には『金々先生』以外に春町の書物はございますか?」
木兵衛が気になったのは、『金々先生栄華夢』以外の春町の著作が見当たらないことである。その様子に気づいたのか、店主の孫兵衛があることを口にした。
「実はいろいろと事情がありまして、春町の他の書物はやむなく他の場所で売ることに……」
「それだったら、どこで売っているかだけでも……」
「通油町に耕書堂という本屋があるけど、そこでなら春町の書物も多く扱っている。店主の蔦屋重三郎は、我々版元の中でも名の知れた存在だ」
孫兵衛の言葉を聞いた木兵衛は、次の目的地がある通油町へ行くことにした。路地を歩くと、屋号を記した屋根の看板が目に入った。
「あそこが耕書堂か……」
その本屋は、先ほどの鶴鱗堂と比べて桁違いの町人客を集めている。木兵衛は、町人衆の邪魔にならないように店先にある書物を確認しながら中を眺めた。
「店の奥に、顔立ちのいい男がいるな。あの男が重三郎なのか」
耕書堂の中に足を入れた木兵衛は、番頭の男に重三郎と顔を会わせてほしい旨を伝えた。すると、端正かつ柔和な表情の男が店の奥から現れてきた。
「いらっしゃいませ」
「すいませんが、あなたは蔦屋重三郎という名前でしょうか?」
「ああ、その通りだ。ここはお客さんも多いことだし、話があるのなら奥のほうでお願いできれば……」
木兵衛は、重三郎の案内に従うように店先から離れた部屋へ向かった。
「さあ、どうぞ」
「一介の客にこんなに気遣ってくれるとは……」
重三郎が障子を開けると、木兵衛は畳敷きの部屋の中へ足を入れることにした。木兵衛は正座すると、重三郎の前で春町の件について口を開いた。
「春町の書物はここで多く取り扱っていると鶴鱗堂の孫兵衛から聞いたのだが」
開口一番に発せられた内容に、重三郎はすぐに言葉を返した。
「その鶴鱗堂が十数年前に経営が立ち行かなくなったことがあって、その際に鶴鱗堂に代わって吉原細見の販売をわしの店で取り扱うことになりました」
吉原細見とは、吉原にある遊郭を記した定期刊行の案内書である。この取り扱いを耕書堂で行うようになってから、山東京伝や朋誠堂喜三二といった有名どころの作家と手を組んだ書物がここから出版されるようになった。
「その有名どころの作家の中に春町が入っているということだな」
「ま、まあ、そういうことで……」
木兵衛は、春町の名前を出した時の重三郎の挙動が気になっていた。
「これは、何か事情があるかもしれないな」
その場でつぶやいた木兵衛は、重三郎に再び口を開いた。
「ある人から春町が隠居されたと話を聞いたけど」
「えっ、春町が隠居?」
重三郎は、木兵衛から発した言葉に驚いているようである。けれども、それを額面通りに受け取るのは早計である。
「もしかしたら、必要以上に警戒しているのかも……」
木兵衛は、重三郎が思っているであろう現在の気持ちを考えながら、別の方法に切り替えることにした。
「それでしたら、春町が最近著した書物があればお願いしたいのですが」
重三郎は木兵衛の声に反応すると、すぐに立ち上がってから部屋の外へ出た。再び部屋へ戻った重三郎の手には、書物らしきものがあった。
「この書物は一体……」
「これは、恋川春町が最近著した書物で、題名は『鸚鵡返文武二道』というものです」
春町の近著の題名を耳にした木兵衛は、その書物をどうしても手にしたいと頭を下げた。
「まあ、わしも商売でやっていることだし、銭さえ払えばこれを売ることは可能なんだが……」
やり手の商売人である重三郎だけに、自分の店先にある書物が売れることを優先して考えるはずである。それにもかかわらず、重三郎はどうして春町の近著を売るのをためらうのか、木兵衛は首を傾げていた。
黄昏時に入って周りが暗くなる中、長屋へ戻った木兵衛はろうそくに照らされながら書物を開いた。耕書堂で手に入れた『鸚鵡返文武二道』は、『金々先生』と同じように大人たちが興じる場面が次々と描かれている。
「なるほどなあ……。重三郎がためらっていたのは、このことを指していたのか」
木兵衛が目についたのは、延喜帝の前で座っている主人公・菅秀才の姿を描いた場面である。ちなみに、菅秀才は菅原道真をもとにした人物として描いている。この作品に限らず、黄表紙と呼ばれるものには、世相や風俗を皮肉を交えて描いた作品が少なからず存在する。
「そういえば、重三郎と手を組んだ作家の中に、朋誠堂喜三二というのがいたけど……」
木兵衛は、耕書堂の店先にあった『鸚鵡返文武二道』に似た題名の書物があったことを思い出した。




